第七章  今さらなにを

 1


 脳天を鈍器で殴りつけられたような、とてつもない衝撃を受けた。目の前が真っ白になる。男の言葉の意味がしばらく理解できなかった。


 娘とは誰のことだ?


 誰の娘だ?


 ……わたし?


 何が何だか判らない。事態のあまりの急転に、思考が追い付かない。


 老人は膝をついてわたしと目線を合わせると。そのまま優しく抱きしめてきた。抵抗はできなかった。されるがままに彼の腕の中に落ち着くも、依然としてわたしは状況を理解できないでいた。

 わたしに父親はいない。物心ついた時にはすでに、母は父と別れていた。それが原因かは判らないが、母は男遊びに夢中になり、やがてわたしを捨てた。


「私は八神やがみ勇心ゆうしん。とても信じてもらえないかもしれないが、百合、君の父親だ」

「父……親?」

 父親。その単語はわたしの人生とは無縁のものだった。

「そうだ」


 名残惜しむようにゆっくりとわたしを解放すると、八神勇心は目尻に溜まった涙を拭った。そして彼はコートを脱ぎ、わたしの肩にかける。彼のコートに残った体温が、冷えた体に染み入った。


「ほら、これを着なさい。そんな格好でいったいどうしたんだ。おや、スカートも破れているじゃないか」

「いや、ちょっと待ってください。頭が追い付かない。えっと、あなたがわたしの父親?」

「ああ、その通りだ。君の母親の名は灰谷らん。違うかね?」


 懐かしい名が勇心の口から語られた。もう二度と会えないだろう、母の名が。しかし、これだけで彼の話を信じることはできない。

 それに、今の今までわたしを放っておいた父親が、わたしを訪ねてくるのだ。


 様々な疑問が頭の中で渦を巻き、わたしは混乱してしまった。わたしが落ち着くのを見計らってから、勇心はとつとつと語り始めた。


「正直に告白しよう。私と君の母の関係はいわゆる愛人関係というものだった。私には当時妻がいたし、今はその妻との間に子供がいる。私は彼女たちを愛しているが、君のことも同様に愛していた」


 そう言って、彼はポケットから財布を取り出すと、その中から一枚の写真を抜き出した。色あせた古い写真だった。それを受け取り、目を落とす。


「あっ」


 そこに写されていたのは、二人の男女と、まだ生後間もないと見える赤ん坊だった。男の方は八神勇心。そして女の方は――


「お母さん」


 母だった。若き日の母の姿がそこにはあった。赤ん坊を両手で抱き、微笑みを向けている。日付は一九九四年の四月十五日となっていた。わたしは同年の二月九日生まれなので、この写真はわたしが生まれてから二か月近く経って写されたということになる。となると、この赤ん坊というのがつまり……


「そこに写っているのが君だ」


 勇心はきっぱり言った。母との思い出が走馬灯のように浮かんでは消えた。写真にぽたぽたと雫が落ちる。気づくと、わたしは泣いていた。


「それで信じてもらえるかい。それが私と百合と並んで撮った、最初で最後の写真だ。こうして見比べてみると、やはり面影があるな」

「あなたは、本当にわたしの父親なんですか」

「そうだ。百合、という名前は私が名付けたんだ。純粋な子に育って欲しい、そう願いを込めてね」


 写真の中の女性は紛れなく母だった。そして、彼女に抱かれてすやすやと眠っている赤ん坊の顔立ちは母によく似ている。わたしとこの老人――八神勇心が親子であることを、この写真は何よりも雄弁に物語っていた。


「だったら、なんで今さらわたしのところに? ずっと放っておいたくせに」

 自分でも意識しないうちに語気が強まっていた。

「君を引き取りに来たんだ」

「どうして今さら」


 何か、とてつもない激情がこみ上げてくる予感がした。これまでの境遇を勇心のせいにしようとまでは思わないが、非難せずにはいられない。


「わたしが、わたしが今までどんなに寂しくて、辛くて……お母さんがいなくなって、あの家に引き取られて……」

 想いが上手く言葉にならない。次々とこぼれる涙で視界が埋め尽くされる。

「すまなかった」

 勇心は再びわたしを抱きしめた。それはとても優しく、暖かな抱擁だった。

「わたし、わたし……」

「もう二度と離さない」


   *


「ああ、私だ。いや、見つけたよ。そう、車を回してくれ」

 勇心は携帯電話に向かってそう指示していた。その姿を見ながら、わたしは電柱に寄り掛かる。


 あの人がわたしの父親……


 頼ることにできる人間と出会えた喜びで、わたしの胸はいっぱいになっていた。もう自分は孤独ではない。その事実が、例えようのないほどの安心感を与えてくれた。と同時に、わたしは自分が犯した罪を思い出し、戦慄する。右手の返り血はとっくに乾いてしまっている。

 光緒はどうなっただろう。死んではいないだろうが……やはり気になる。

 頼れる存在を得たことで、ある程度、心の余裕ができていた。話すべきだろう。


「どうした、そんなに震えて。寒いかい?」

「い、いえ、その……」

「うん?」

「実は――」


 そうして、わたしは先ほどの事件について告白した。いとこである光緒に襲われかけたこと、自分の身を守るためとはいえ、彼の片目を潰してしまったこと、そして、通報もせずに逃げ出し、ここまで来てしまったこと。

 これらの要点を踏まえながら、わたしは勇心と出会うまでのことを説明した。そして、灰谷家でどのような扱いを受けてきたかも、自分の羞恥心と相談しながら、これも簡潔に説明した。

 聞き終えると、彼はぎりぎりと歯を食いしばり、しわだらけの顔を真っ赤に染めた。怒っているのだ。わたし自身のことで怒ってくれる人間は彼が初めてだ。


「なるほど、辛かったね。でももう大丈夫だ。お父さんはこう見えて、けっこう偉い人間なんだよ。百合は何にも心配する必要はない。後はお父さんに任せなさい」


 そう言って、勇心は――父はわたしの頭を撫でてくれた。

 まもなくして黒塗りの大きな車がわたしたちの前にやってきた。車の知識は全くと言っていいほどないため車種は判らないが、それは一目で高級車と判る立派な車だった。偉い人間と勇心は言うが、彼はいったいどんな仕事をしているのだろう。そのことを少し不安に思った。


「さあ、乗りなさい」


 勇心に促され、彼と共に後部座席に落ち着いた。シートはふかふかで、暖房が効いていた。運転席を見ると、白髪の老人が座っている。


「お待たせいたしました、旦那様」

「早く出してくれ」

 勇心は携帯を耳に当てながら、急かすように言った。どこかに電話するらしい。

「かしこまりました」


 運転手の老人は車を動かす前に、ちらりとわたしに視線を移し、「いずみでございます」と名乗った。物腰の柔らかそうな老紳士然とした男で、わたしが会釈をすると、にっこりと微笑みを返してくれた。

 車が発進しても、勇心は携帯を耳に当てたままだった。相手が誰かは判らないが、内容はどうも灰谷家についてのようだった。会話の全容は聞き取れないが、どうやらわたしを引き取るにあたっての手続き、そして光緒の件の対応を相談しているらしい。

 もうあの家の事は思い出したくないので、わたしは深く座り直し、窓の方を見やった。

 外を流れていく景色は見慣れた街並みであるはずなのに、初めて訪れた地のような錯覚に陥った。なぜだろう、と考えて、はっとする。これまで車に乗せてもらった経験がほとんどなかったから、車の中から眺める風景というものを新鮮に感じたのだ。


「百合」

 通話を終えたようで、勇心は私の方に向き直った。

「はい、えっと……お父……さん」


 呼び方一つとってみても、気恥ずかしさがまだ拭えない。父といえども、ついさっき会ったばかりなのだ。その意味では、まだ完全に彼を信用するわけにもいかない。をまだ聞いていないからだ。わたしは上目遣いに勇心を見ながら、居住まいを正した。


「気分は大丈夫かい?」

「はい、あの、一つ訊いてもいいですか?」

「なんだい」



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