月も星も、夜闇に呑まれて姿を見せなかった。

 いくつもの小さな島が散在する海域である。

 暗礁を避けるため、いくらか沖のみちを選んではいたものの、それでもおか伝いの航海であることに違いはなかった。商船として幾度も往来を重ねた櫂船の船乗りともなれば、星のしるべに頼ることなく、沖から見てとれる陸のかたちだけでも、およその位置はわかるものだ。

 案ずることはなにもない。そのはずだった。

 夕刻にぱらぱらと降りはじめた雨は、宵にかけて突如として激しくなり、やがて雷鳴が天を震わせるまでに至った。荒れやすい海域だとは聞いていたが、ここらの海に通暁つうぎょうした船乗りですら遅れをとるほどに、急激な変化だったのだ。

 猛烈な嵐。帆は早くからおろされていたが、吹き荒れる強風で帆柱にくくりつけていた縄が切れ、裂けた帆布の端が、ばたばたと音をたてて暴れている。

 アダムは渡された縄を腰に巻きつけ、船員で一番年嵩としかさの男に手を貸していた。甲板の隅で、木板を打ちつけているのだ。

 嵐を避けようと手近な陸地を求めていたところ、思わぬ潮流に喰われて難所に入りこみ、避けきれずに岩礁にぶつかった。そのときに傷んだ船腹を、内側に板を重ねることで補強しようというのだ。船縁に近い位置で、やるべきこと自体はそれほど難しくないらしい。ただ、風雨巻く船上での作業だった。客として迎えられている自分も、ただじっと見ているわけにはいかない。そう思い、アダムはみずから船長に願い出たのである。

 二十人ほどいる船員は、それぞれが持ち場を離れられずにいる。肩の触れ合う近さでも、互いが声を張りあげていた。そうでもしなければ、風に吹き飛ばされてまともに聞こえないのだ。アダムが勧められたように、からだと船を縄で繋いでいる者はおらず、みな勇敢で、ふるえている者など一人もいない様子だった。

「この調子では」

 言いかけたアダムの言葉を、大きな揺れがさえぎった。

 船体がぐっと持ちあがり、次には船底が海面に叩きつけられた。海に放り出されそうな衝撃。耐えるため、近くのへりにしがみつく。それでも全身が強く揺さぶられた。続けざまに横波が船腹に打ちつける。船体が左右に傾くたび、白く泡立つ波が甲板を洗った。

 船底に荷を満載した商船で、吃水きっすいは浅くない。小舟に比べればそこそこの安定はあるはずだが、それがこの煽られようである。跳ねまわり手に負えぬ、悍馬かんばの背にしがみついているようなものだ。命をひと呑みにする凶暴な海が、すぐそこで口を開けて待っている。

 叱咤しったする声が飛ぶ。揺れに足をとられた若い船員が甲板で転倒していた。無理もない。激しいうねりに揉まれ、縦揺れと横揺れがめまぐるしく襲いかかってきているのだ。

「なにか言ったか、兄ちゃん」

 年嵩の男が、アダムに向かって叫ぶように言う。その間も、板を打ちつける音は続いている。飛沫を浴びながらも、男の手先は動いているようだ。

「夜明けまでこの調子では、船のほうがたないのではありませんか」

「乗ったばかりのおめえにゃ、わからねえか。こいつはこれでいい女なんだ。ちと歳老いちゃいるが、根性はある。岩にぶつかって横腹を打ちつけたってどうだ、この通りだ」

 男はやけに嬉しそうな声をあげた。暗くて表情まで見えはしないが、語尾にはこの状況をたのしんでさえいるかのような響きがあった。

 夜明けまで十二刻(約六時間)はあるだろう。男がいい女だと言う、この船を信じて保たせるしかない。そういうことだ。

 船と同じように、アダムの全身も濡れている。舳先へさきが大きく上下するたび、大量の飛沫を頭から浴びた。雨も激しく、海水とどちらが多く降りかかっているのかもわからない。叩きつける潮風が、顔に貼りついた濡れ髪を吹き飛ばすように散らす。

「強がりかと思ったが本当に酔わねえんだな。かいを握らせたときもぎ方はさまになってたし、船乗りでもねえのにたいしたもんだ」

 男が言う。幸い、激しい揺れのなかでもアダムに酔いはなかった。これまでにも大小さまざまな船に乗ったが、もともと酔わない体質らしい。酔いに苦しむ者であれば、とっくに腹のなかのすべてをぶちまけているのだろう。

 稲光。激しい閃光が切り取るように、あたりを照らし出す。その一瞬がまぶたの裏に焼きつき、白く残った。

 あまりにひどい荒れようだった。雷神イオヴィス・デイが天蓋を叩き割り、そこからとめどなく滝が落ちてきているのではないか、と思えるほどの猛烈な時化しけである。

 陸伝いに北上を続ければ、いまごろは目指す大陸にたどり着けていたはずだった。この嵐に遭わなければだ。それをいま思ってみたところで、意味はなかった。

 きしむ音。風は鳴り続け、揉まれ続ける船が喘いでいる。呼び交わす、船乗り特有の割れた濁声すら暴風に遮られ、切れ切れに耳に届く。

「舌を噛むなよ、兄ちゃん。噛み切ってどっかに落としても、一緒に探してやるのはごめんだぜ」

 男の笑い声。前歯が欠けているせいか、息が漏れるような声だった。アダムの躰を支える縄が、ぎりりと腰を締めつける。こうして船と繋いでいなければ、慣れない自分など躰ごと吹き飛ばされかねない。暗い荒海に落ちれば、まず助からないだろう。

 手もとなどほとんど見えないが、アダムが手伝っている男にはなにか見えているのか、大きな揺れをものともせず、手際よく板を打ちつけていく。瞬く間に、船の横縁の補強を終えた。

 この程度の損傷で済んでよかったのだ。岩に乗りあげ擱座かくざしていれば、この船の命運もそれまでだっただろう。

 ぶつかったあと、再び暗礁の多いあたりに近づき過ぎないよう、やっとの思いで舳先を沖に向け、陸から離れた。流されて近づいた陸は岩場が続いており、接岸できる場所が見つからなかったのだ。

 それから風に押されて再び望まぬ潮流に乗り、いまは西に大きく流されているらしい。アダムにはそれすらも定かではない。膝を柔らかくして揺れに身を任せ、転ばないようにしているのがやっとだった。

 雷霆らいてい。何度目になるのか。天が、頭の芯を痺れさせるような雄叫びをとどろかせる。白く照らされた船乗りたちが、船尾のほうを指差し、声をあげているのが見えた。

 とっさにアダムは身構えた。海に巣食う妖魔ようまか。違う。度重なる閃光に切り取られたのは、山のようにそびえ立つ高波だった。

 アダムの瞼に白く焼きついたその山は、瞬間、すべての声も音も、時さえも消し去ったように感じられた。静寂。そして次の瞬間には、咆哮ほうこうをあげる巨大な海獣のように、船をめがけて襲いかかってきた。

 海水。いや、海そのものが覆い被さろうとしている。そうとしか思えなかった。衝撃とともに船体が持ちあげられる。アダムはそれを全身で感じながら、そばの柱を抱くようにして耐えた。濁流が、全身を打つ。すぐに自分が立っているのか、流されているのかもわからなくなった。眼を開くことができない。まだ耐えられる。まだ、立っている。本当にそうか。腕。脚。まだ力がある。それがなんだというのか。柱から手を放さなかったところで、船が転覆すれば同じことだ。

 ふっと暗い底に引きこまれるような感覚に包まれた。激しい揺れに、我に返る。滝のような水流。躰を絞られるような痛み。腰に巻いた縄が、躰に食いこんでいる。轟音。波の音か、それとも天の音なのか。やはり、眼は開けられない。このまま暗い海へ、夜の底へと引きこまれるのか。息ができない。

 風が運ぶこえが、耳をくすぐった。

 暗い空が見える。星。波の音。潮のにおい。

 首を動かし、視線をめぐらせる。座りこんでいる数人の船乗りの姿を捉えたところで、視界を覆うように髭面がぬっと出てきた。そばにいた年嵩の船員が、アダムの顔を覗きこんできたのだ。それでようやく自分が、甲板で仰向けに寝そべっていることに気づいた。

 アダムは男にうなずいてみせ、手をついて上体を起こした。潮まみれの衣服が躰にまとわりつき、どうしてものろのろとした動きになってしまう。

 背、それから手足を伸ばす。躰のあちこちが痛んだ。左手首はひねったらしく、動かすと鈍い痛みが走る。右肩もどこかに打ちつけたようだ。肩を押さえながら片膝をつき、どうにか立ちあがった。

 静かに、星空が広がっていた。船の揺れは大きく、風が鳴っている。まだ海は多少荒れているが、雨はあがっていた。しのいだ。嵐は、去ったのだ。

 アダムは意識を失ったが、腰に巻きつけていた縄で命を繋ぎとめたらしい。

 また、故郷の夢を見ていた気がする。どれくらい気を失っていたのか。すでに夜明け前の気配が漂っている。

 負傷者は少なくないようだ。船の傷みも激しく、帆柱は真中あたりでへし折れ、水を掻くための櫂も充分な数が残っていないらしい。いまは船員を休ませ、ほとんど潮流に任せているとのことだった。状況はいいとはいえない。ただ、二十数名の船員は全員が生き残っていた。それだけでも僥倖ぎょうこうだといえるだろう。

 波に揺れるたび、船はぎいぎいと軋んだ。すでに老いていた船の、限界を大きく超えていることは容易に想像できた。

 ほぼ船尾からの波であったことが幸いだったようだ。高波を浴びながらも押されるように波に乗り、かなりの速度で北上したという。あの高波を真横からまともに食らっていれば、ひとたまりもなかっただろう。船もろとも全員が海に沈んでいてもおかしくはない状況で、運よく嵐を抜け出た恰好かっこうだった。

 波も風も穏やかになった。夜明け前に訪れる、束の間のなぎ。腰の縄も、もう必要のない程度の揺れへと落ち着いている。

 どこか呆然としていて、頭に浮かんでくるものはなにもない。死は、また自分を迎えには来なかった。なんとなく思ったのは、それだけだ。

 アダムは縄を解き、船縁に手をかけて海を眺めた。

 闇を切るように、横ひと筋の光が走る。東の水平線だ。

「夜明けか」

 光に眼を細め、誰ともなくアダムは呟いていた。

 黎明れいめいの空に光が滲み出すように広がり、海と空とがそれぞれの境界を認め合う。次第にあたりが色を帯び、いつの間にかすっかり明るくなっていた。

 くたびれた櫂船の舳先が、黄金に揺らめく波を断ち割るようにして進んでいる。濡れた甲板もまた、朝陽を受けて輝いていた。

 アダムはしばらく遠い波間に眼をやったまま、じっと立ち尽くしていた。

 嵐が嘘であったかのように、海原はしずまっている。空には吹き散らされた白雲の切れ端が、わずかに残っているだけだ。

 どれくらいそうしていたのか。すでに陽は高くなりはじめている。

 頭上には抜けるような、気持ちのよい初夏の蒼天が広がっていた。かなりの時をかけて北上を続けたため、秋の終わりの気配を漂わせていた精地大陸ルービンクォードとは、季節がすっかり逆転しているのだ。

 深い群青が陽光を照り返し、海面がぎらぎらと煌めく。白い波頭が幾重にも連なり、生まれては消えてゆく。人の波にもよく似ている、とアダムは思った。

 遠い波間に、飛び交う海鳥の姿も見え隠れしていた。

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