三
釣れた。
ルネルの装飾布を借り、それを使って髪を束ねていたのが効いたのだろう。装飾布の赤紫色が森のなかを動けば目立つ。アダムが身を低くして斜面を横に駆けると、樹間に見えはじめた黒い影も追ってきた。
アダムは駆けながら、足場を確かめた。山の斜面は枯木が幾重にも横たわり、岩肌は
どちらを選ぶべきなのか。
木々を縫うようにして、七人の
連中は短剣と、おそらく小型の弓を携行しているに違いない。見通しのよい場所が、必ずしも適しているとは言いきれなかった。狙いはルネルを始末することで、捕らえることではない。遠くからでも、
隠術師たちは、明らかに数を
続けざまに、矢が射かけられてきた。アダムは斜面を転がりながらそれをかわし、大木の幹の裏にまわって素早く身を隠した。肩で大きく息をする。矢が届く距離に入ったということだ。背の向こう側で、大木に矢が突き立つ音が聞こえた。
こういった難所の移動を、隠術師とは張り合えない。連中は幼いころから、血を吐き、死者も出るほどの厳しい調練を重ねているのだ。だが、それだけではない。隠術師というのは、そもそも異能者の集まりといってもよかった。
調練で得られるのは忍耐力や技術であり、身軽さや耳のよさ、夜眼が利くといったような、生まれ持ったものがなければ務まらないのだ。務まらなければ、調練で死ぬ。影に生きるとは、そういうものなのだろう。
身体的な特徴は親から子へと受け継がれる場合が少なくない。
追手との距離は次第に縮まってきている。周囲に眼をやるが、やはり近くに開けた場所は見あたらない。ここに選択の余地はない、とアダムは判断した。
アダムは足もとの石を拾い、横へ大きく投げた。枝を折りながら下草のなかに落ちた石は枯木に当たり、一帯に音を響かせた。一斉に、そこをめがけて矢が射られる。簡単に音の誘いに乗るということは、アダムが隠れている場所を特定できていないのか。
動けるのか。こうしている間にも、間合いは詰められていく。どこかで、動かなければならない。じっとしていれば、このまま囲まれて終わりだ。
射られていた矢が不意にやんだ。張り詰めた空気が、山全体を包んでいるかのようだった。
アダムは、自分の呼吸を数えた。ひとつ、ふたつ。三つ数えたとき、飛び出していた。静寂を斬るように指笛が響き渡り、いくつもの矢が、
周囲の緑が少なくなり、足場が安定してくる。岩場である。アダムはそのまま駆け、両岸に茶色い岩が転がる川辺へ出た。
水量は豊富で、小渓谷とも呼べるような起伏に富んだ岩場が、川に沿ってずっと続いている。少し前まで、かなり増水していたのだろう。上流から流されてきた木や大量の枝などが、巻きこまれるようにして流れのなかに留まっている。
アダムは川沿いに素早く移動し、岩場に身を隠した。追ってきた連中は、アダムがどこに潜んでいるか判断に迷うはずだ。
川を渡る風が、アダムの背に吹きつける。全身の汗が、すっと冷える。
ルネルの装飾布は、いまもアダムの髪を後ろで束ねている。いま一度、指先で結びを確かめた。この布に
できるだけ、隠術師をこちらに引きつけておきたかった。片づけてしまえば話は早いが、いまのところ矢の届く距離以上に間合いを詰めてはきていない。いずれにせよ、こうして引きつけている間はルネルは無事なのだ、と信じるほかはなかった。
ルネルはどこまで進んだだろうか。別れた場所から丘をひとつ越えれば古い吊橋があり、その先をひたすら北へと向かえば
枝葉を掻き分ける音。それから、小川に連中がおりてきた気配があった。浅い箇所があるらしく、流れのなかにも入っているようだ。ざぶざぶと
死角を縫う。アダムが川を渡ったとは考えないだろう。そうなれば、上流と下流の二手に分かれるはずだ。
黒尽くめの姿が、積みあがった岩の隙間から確認できた。降り立った場所に一人を残し、流れの中央に一人が立ち、上流と下流を見通す恰好である。下流に向かっている背が三人。姿は確認できないが、アダムのいる上流側には、二人が向かってきているということになる。
息を殺した。隠術師はみな
かなり近づいてきた。かすかな気配は一人分。もう一人は、どこかで立ち止まっているのか。あと数歩で、アダムの隠れている岩の横を通る。
アダムは親指で小石を弾き飛ばし、離れた岩に当てた。ぴしり、と小さな音が鳴る。すぐそばの隠術師は、それを聞き逃さなかった。背を向けた黒尽くめの男にアダムは素早く跳びつき、首に腕をまわした。男は顎を引いて防ごうとしたが、それよりもアダムの腕が食いこむのが速かった。大柄な男だったが、体重をかけて男を後ろに引き倒し、そのまま落とした。死んではいない。男が抜きかけていた短剣が、岩の上に落ちて音を立てる。
眼を覚ましても動けないよう、男の足首の
「出てこい。そこの岩場にいるのはわかっている」
地方
「矢で射られるとわかっていて、のこのこと出ていく馬鹿はいない」
「男だと。待て、どういうことだ?」
「どういうことだとは、ずいぶん勝手な言い草じゃないか。いきなり追い立てられて、事情を訊きたいのは私のほうだ」
連中は、やはりルネルだと思って、ここまでアダムを追ってきたようだ。声色に浮き出た動揺が隠しきれていない。
「姿を見せろ、おい。そこの岩場なのはわかっているんだ」
「いやだね。私には、なんの得もない」
すっと近づいてくる気配があった。囲もうとしている。足音は一定で淡々としており、訓練を積んだ者の足運びである。
完全に囲まれる前に、アダムは岩場から
アダムが投げたのは、先ほど絞め落とした男が落とした短剣だった。狙った男にはかわされたが、その後ろに立っていた男の鎖骨の下あたりに突き立った。
矢。アダムは手にした白杖をめまぐるしく振り動かし、巻きこむようにして矢を弾き落とした。打ち漏らした鋭い一矢が、アダムの眼の横をかすめていく。全身が、かっと熱くなった。次の瞬間には、自分を狙う弓矢に向けて、跳躍していた。
白杖の先で弓を
投げた短剣が突き立った男が、掴みかかってくる。口もとには、泡立った血があふれてきていた。胸のなかが破れたのだろう。短剣はアダムがはじめに思ったよりも下に刺さっていたようだ。アダムは右肘を使って男の顎を打ち、左の拳で眉横の急所を打った。口から血を吹いた男が横に吹っ飛ぶ。
眼の端で、白い光を捉えた。次々に増える。矢は適切でないと判断したのだろう。
立っているのは五人。間合いを取りながら、左右に分かれていく。
炳都の隠術師のやり方は、前に森で襲われたときに見ていた。左の二人はアダムの視界の外側に行こうと、じりじりと横に移動している。斬りかかる気配。それが濃厚な右の二人は誘い役だろう。正面の男。両手に軽く短剣を構えているが、そこにいないかのように気配を消している。跳躍に向いた小柄な体格だ。
アダムはさっと腰の短剣を抜いた。この瞬間を逃せば、連中の策に
右。殺気を剥き出しにして斬りこんでくる誘い役の二人に、アダムは柄頭を掴んだ白杖を大きく振り、鞘だけを勢いよく飛ばした。鞘が二人の男を横薙ぎに打つ。アダムはそのまま
ここだ。アダムは後ろに倒れこみながら、逆手に執った右手の短剣を、勢いよく下から振りあげて放った。びゅっと空を切り裂き、確かな手応えがあった。アダムの頭上から、黒い人影が地に落ちる。正面の、気配を消して立っていた男だった。
蒼剣の鞘を当てた右側の二人が、一瞬の
蒼剣を執る左手に力が入るが、斬れなかった。やはり、この剣は斬れすぎる。太刀打ちできない
一瞬の迷いを衝いて、蒼剣で短剣を斬り飛ばされた左の二人が、アダムの背後と横から組みついてきた。右からは体勢を立て直した二人が迫ってくる。
蒼剣を手から離し、アダムは左の男二人の襟首を、それぞれ左右の手で掴んだ。両手首をまわしながらぐっと身を屈め、相手の下をくぐるような恰好で一気に躰を寄せる。男二人の躰を宙に踊らせるように投げ飛ばしていた。向かってくる相手の力を利用する。そうすることで、投げることもなく投げた、という感じになる。
眼の前の岩の上に落ちていた二本の短剣の柄を拾った。蒼剣で斬り払った二本で、柄から出た刃の根本だけをわずかに残し、その先は折れてなくなっている。アダムはそれを、両手に構えた。ともに逆手である。
気合いとともに、右から短剣が襲ってきた。折れた短剣の刃の根でそれを受け、弾く。一瞬、火花が散った。白い光が輝きながら、川へ飛ぶ。相手の短剣を弾き飛ばしていた。続けざまに突き出されてきた左の拳を腕で受けて後方へ流す。それは抜けの技のひとつで、体勢を崩した男が足をもつれさせ、岩場から転げ落ちた。左。右。息をする間もなく、攻撃が来る。
残りは三人。
測り合い。右の男が、腰にさげた弓に手をやった。踏みこんだ。構えようとする弓に折れた短剣を叩きつけ、弾く。返す拳で男の顎を打った瞬間、息が詰まった。左の男の拳がアダムの
すぐには息が吸えなかった。視界が一瞬、暗くなる。戻っても、本当に一瞬のことだったのかはわからなかった。アダムは落ち着いてゆっくりと息を吐き、肺のなかを一度空にした。そうやって、ようやくまともに息が吸えるようになる。
顎を打った男は棒のように倒れたが、あと二人残っている。まだだ。まだ膝を折るわけにはいかない。
全身が、汗に濡れている。立っている二人の隠術師も、すぐには動けないようで苦しそうだった。川の流れだけが、やけに大きく聞こえている。
手を引け。ルネルはもう、炳辣国には戻らない。炳都は、好きにやればいい。それを伝えたところで、隠術師たちは立ち去らないだろう。アダムを打ち倒して訊問し、ルネルの行方を追う。任務を帯びた隠術師というのは、そういうものだ。利害などは関係ない。ただ任務があるだけなのだ。
台座のような岩の上だった。いつの間にか、雲間からかすかに陽が射してきている。
アダムは両手を膝につき、立ちあがった。いきなり、一人が殴りかかってきた。頬に一発貰ったが、アダムの膝が相手の男の下腹に綺麗に入った。うずくまりかけた男の肩を押し、上向きになった顎を拳で打った。男が、膝から崩れ落ちる。
あと一人。素手だった。拳闘の試合のように、きちんとした構えでアダムと向き合っている。小柄だが、
アダムも、両手に持っていた先の折れた短剣を捨て、拳を握り締めた。
息遣いを読む。自分のものと、対する相手のもの。互いの眼を見据えて、測り合う。相手が息を吐ききったところが、打ちこむ機になる。浜に打ち寄せる波にじっと眼をやるようなものだ。余計なことはなにも考えなかった。
男が先に動いた。右手の拳。アダムは左手を前に出してそれを受け流し、やや外側から右の拳を打つ。男は左の脇を締めて顔の横に腕を引き寄せ、アダムの拳を受けた。互いに跳んで離れ、再び間合いを取る。
アダムは、一度のやり取りで男の癖をひとつ読んでいた。右を打つ前に、わずかに左を打つ仕草をしてみせる。しかし、本当に危険なのは誘いに使っている左だろう、と見当をつけた。
男が左足を前に出した。踏みこむ姿勢。肩を大きく左右に揺らし、誘ってみせている。
アダムは逆に、小さく構えた。次の拳は横ではなく、縦に使う。脇を締め、動きを小さくして内側へ内側へと入れば、縦の拳は活かせる。攻撃自体が相手の動きを巧みに
同時に、踏みこんでいた。
男の右の拳。アダムは首を右に倒してかわし、拳を打ちこむ要領で内側から腕を伸ばし、左手の指先で男の眼を払った。
岩の上に、男が仰向けに倒れた。胸板が激しく上下しており、すぐには起きあがってこれないだろう。
「殺せ」
両手両足を投げ出したまま、男がそれだけ言った。川音に
「意味はない」
答えたアダムも、息があがっていた。膝に両手をついて、しばらく呼吸を整えていた。岩の上に点々と血の染みが落ちる。右耳から、血が出ていた。男の拳がかすめたためだろう。左の拳が打ち出されてきたときに、頬を打った風は確かに凄まじいものだった。あれをまともに食らっていたら、倒れていたのは自分のほうだっただろう、とアダムは思った。
「あんたに、教えてやろう」
空を見つめたまま、苦しそうに男が言った。面体を覆っているため表情は見てとれないが、それほど若くもない声だった。どこか
「なんだ」
「あんたがそこの岩場で、最初に絞め落とした男がいただろう」
「隠術師にしては、大柄なやつだったな。待て、姿が見えない」
「あの男は、山のほうへ戻った。あんたと俺が殴り合っている間にな」
「まさか」
「あんたが、殺しておかなかったからだ」
血の気が引いていた。アダムが
「なぜ、私にそれを教える?」
「すっかり枯れたようになっていた全身の血が燃えた、とでもいうのかな。あんたが何者かは知らんが、俺たち七人を相手に、見事な闘いぶりだった。隠術師として、使い捨てられて死ぬ。この国で、俺はそういうつまらぬ生を送るのだろう、とずっと思っていた」
「いまは?」
「生きてみるのも、面白い。上手く言い表せないが、そんなふうに思う。そう思いながら死んでいけるのは、いい死に方だ。多分な」
「それならもう一度生きてみるといい。捨て
「殺さないのか?」
「何度も言わせるな。私はもう行く」
「さっきは不意を衝いて絞め落とせたのかもしれんが、あの男は俺たちの組のなかでは一番の腕だ。それに好色ときてる。急いだほうがいい。山には後続の小隊もふた組、到着するころだ」
アダムは自分の短剣と蒼剣を拾いあげ、それぞれ鞘に収めるとすぐに歩きはじめた。背後で男が呻き声をあげていたが、構いはしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます