四
遣い慣れた槍ではなかった。
腰を落として低く構えているのは、竹の棒である。槍とは長さも、重さも違う。握りも、手に馴染むとはいえない。
黒尽くめの男は素手だった。ルネルの棒に対して、構えらしい構えもとっていない。それでいて、隙もなかった。踏みこむ機というものが、見えてこないのだ。
左膝の痛みは、鈍く続いていた。また
湿った、少しばかり冷たい風が吹いている。周囲は、まばらな雑木林になっていた。足もとは草地で、全体的に緑は暗い色をしている。空に垂れこめた雲が、そう見せているのだ。陽光を受ければ、また違う色を見せるのだろう。
アダムに教わった古い吊橋まで、あともう少しだった。いまルネルがいるのは丘の頂上で、ここをくだれば吊橋が見えてくるはずなのだ。
どこかで休みたいという考えが幾度も浮かんだが、自分で自分を
棒を構えたルネルの心気は
隠術師らしくない、大柄な男。布で覆われた顔の、眼を見据える。吊りあがった眼尻に、皺が見える。笑っているのか。ルネルは、かっとなりそうな自分を冷静に見つめ、抑えた。
無造作に、男が踏み出してきた。一歩。ルネルは構えた棒の先が動きそうになるのを、なんとかこらえた。まだ、間合いの外である。
男の両手の指先が、波打つようにゆらゆらと動きはじめる。
ルネルは、ゆっくりと息を吐き、吸った。男の息遣いも、かすかに聞こえてくる。
丘に広がる林は静かで、遠くで
じり、と男が横に動いた。足場の草地は湿っているが、
槍の前は、棒術や杖術を学んでいた。こうして棒を構えていると、幼いころのことが蘇ってくる。
棒術は護身のためだったが、どこか物足りないと感じはじめ、先に刃のついた槍を進んで学ぶようになった。兄のように
槍さえあれば、これくらいの膝の痛みなど。いまは、それを思っても仕方がなかった。
また、男の指先が動きはじめた。
隠術師らしい鋭さだけではなく、この男はどこか粘着質な動きをする。向き合って対するだけで、なにか不快なものがこみあげてくるのだ。
男の眼が動いた。打ちこむ。男は
男の狙いがわかった。ルネルを殺すのではなく、押し倒そうとしている。直感のようなもので、それがわかった。そのうえでなにをしようというのか、考えたくもなかった。
腕をついて身を起こし、立ちあがろうとする。視界が揺れ、思うように動けなかった。悔しい。悔しさが、
ルネルは片膝立ちの姿勢で、呼吸を整えた。次第に、意識がはっきりとしてくる。かすかに揺れ続ける視界。自分には、なにができるのか。この身さえも、守れないのか。
アダムは、情報を持ち帰ろうと命懸けで動きまわってくれた。無関係だったにも関わらずだ。単に
アダムの持ち帰った情報をもとに、ルネルは
それが故国で死んでいった者たちの、
自分には、エフレムが謀略によって流刑になるのを、止めることすらできなかった。にも関わらず、結果的にはまたしても、エフレムの矢によって身を守られたのである。ルネルは、繰り返しこみあげてくる
黒尽くめの大男が、起きあがろうとしていた。両手と膝をつき、息を乱しながら笑っている。非力な女の抵抗を、
そばに転がっていた竹棒を拾った。軽く手首をまわし、構える。
これは槍だ。先端に刃のついた槍なのだ。そう思いこんだ。ぶれて二重に見えていた槍先が、立ちあがった男を捉えてひとつになる。棒が、槍に思えた瞬間だった。槍が、腕の一部に思えてくる。いや、ルネルの躰そのものが槍の一部になったようだった。
男が、いきなり踏みこんできた。槍先をかわし、懐に飛びこんでくる。衣服を掴まれ、左右に引かれる。ルネルは躰を回転させ、右肘を男の頭に叩きこんだ。びりびりと腕が
向き直る。男が、面体を覆っていた黒衣を剥ぎ取った。息苦しくなったのか。石で打ったところから出血し、顔半分が血で赤く濡れている。男は手の甲で頬の血を拭い、低く笑った。
男の狙いはわかっている。あとはこちらが捨て身になれるかどうかだ、とルネルは思った。
負ければ躰を好きなようにされ、最後にはやはり殺されるのだろう。孟国では耳にすることがなかったが、
自分は、孟国の王女として生まれた。前世での行いが
低く、槍を構える。祈りはしない。いまは原理の神々に、助けを
同時に、踏み出していた。ルネルが見据えていたのは、一点だけだ。全身を槍にする。
血。あふれ出し、視界を赤く染めた。視界がぼやけ、意識が遠のく。暗い。宙に浮くような感覚があった。ああそうか、こんなふうに人は死ぬのか。そんなことを考えている自分が、ルネルには少し
名を呼ばれた気がして、眼を開いた。
誰かいる。空が見えた。自分はどうなったのか。死にきれず、男に好きなように
「気づいたか、ルネル」
空に眼をやるルネルの顔を覗きこんできたのは、アダムだった。一瞬、エフレムと呼びかけそうになり、ルネルは思わず口を
上体だけを起こし、水の入った革袋を受け取り、ゆっくりと飲んだ。それからアダムに
アダムが駆けつけたとき、ルネルは隠術師の男と折り重なるようにして、地に倒れていたのだという。どのくらい、気を失っていたのかはわからなかった。
「なにも覚えてないの、私」
「渾身の突きだったことは確かだ。あんな棒きれでできる技だとはとても思えない。
横を見る。血まみれで倒れた男の喉元に、竹棒が突き立っていた。完全に、喉首を突き通している。死んでいることは、離れたところから見ただけでもわかった。左膝の痛みは悪化しているが、ルネルに出血はなかった。視界を染めた血は、男のものだったようだ。
横たわるルネルの躰には、
「すまない」
「どうして、あなたが謝るの?」
「君が、闘える女だったから無事だった。たまたまそうだったというだけで、危険に
「やめて。それなら私のほうこそ、あなたを危険に晒し続けてることを謝らなきゃならない」
「男は、それでもいいんだ」
言って、アダムは腰をあげた。周囲を気にしている。まだ、逃げ切れたわけではないのだ。
ルネルは、はだけた衣服を掻き合わせ、起きあがった。
「無理はしないほうがいい」
「大丈夫よ。投げ飛ばされて
気軽に立ちあがって見せたが、左脚に力が入らなかった。ぐらついた躰を、アダムが
「気分は?」
「平気。血の気が引いたりもしてない。脚が、言うことを聞かないだけ」
「肩を貸そう。右手に、杖を
「ええ」
アダムがルネルの左側に立つ。渡された白杖を右手に持った。
「本当は、もっと休ませたいんだが」
「いいの。まだ追手がいるんでしょ?」
「隠術師の後続小隊ふた組が、山に入っているらしい」
「急ぎましょう」
「ゆっくりでいい。とにかく進もう」
歩みは遅かった。だが一人で歩くよりも、ずっと楽だった。それは肉体だけのことではなく、気分的にもずいぶんと違っているのだろう、とルネルは思った。
丘をくだると、川の流れが大きくなり、やがて樹間に吊橋が見えはじめた。
「なにか聞こえた」
「振り返るな。立ち止まらずに行くんだ」
「追いつかれたんじゃ?」
「まだ遠い」
ひりつくような気配が、消し難く背後から迫っていた。アダムは遠いと言ったが、実際のところかなり近くまで来ているだろう。矢が届くほどの距離ではない、という意味で遠いと言ったのだ。
吊橋の手前で止まり、アダムが先に立って橋の状態を確かめに行った。吊橋は細く、向こう側まではかなりの距離があった。谷は深く、どうどうと音を響かせる水は、かなり激しい流れのようだ。
アダムは吊橋を揺すり、編みこまれた
「古くなってはいるが、渡れなくはない。補修が繰り返された跡もある。強度は充分だ」
「どの道、選んでる暇はないと思うの」
「そうだな。だが」
「脚が
「声もな。私がおぶって行こう。眼を、
迷っている場合ではなかった。足手まといは承知のうえで、ルネルはアダムの背に身を預けた。
吊橋に、入っていく。ルネルは、眼をきつく閉じた。
アダムの足取りは、しっかりしたものだった。吊橋を渡ったことなどないが、ルネルはもっと揺れるものだと想像していたのだ。
「ルネル。悪いがおりてくれ」
ただならぬ気配に、ルネルは眼を閉じたまま吊橋に立った。アダムの背を離れると、吊橋本来の揺れを
「
叫ぶように、アダムが言った。大きな声でなければ、谷底の流れに掻き消されてしまいそうだった。
「いま、どのあたりなの、吊橋の?」
「あと、もう少しだ」
「気休めはやめて。眼は開けられそうにないけど、自分の位置は知っておきたい」
「真中より、少し手前だ。後方の森に、やつらが見えはじめている」
「人数は」
「ざっと、二十人ほどだ」
「そんなに」
「耐えて、先に進んでくれ」
「あなたは?」
「なんとかする。橋は大丈夫だ、心配するな。渡りきれる」
「わかった」
風が
ルネルは手探りで、吊橋を進んだ。揺れが大きく、思うように進めない。おそるおそる、薄眼を開けて先を見てみる。眼を閉じたまま左右に揺られるよりは、体勢を崩さずに済んだ。下だけは、間違っても見ないように気をつけた。
すぐ後ろに、アダムもいる。後方を向いたまま、少しずつ移動しているのだろう。吊橋を伝って、アダムの重心が移動するのをルネルは感じていた。
背後で、ひゅっと棒を振る音のあとに、小枝を叩くような音がした。その後は繰り返し、音が続く。断続的だったものが、間断なく聞こえはじめた。なんの音なのか。ルネルは気になりながらも、懸命に先を急いだ。
ルネルが音の正体に気づいたのは、しばらく経ってからだった。アダムが、白杖で矢を次々に叩き落とす音。それ以外になかった。
どうやって渡りきったのかもわからないうちに、対岸にたどり着いていた。全身がびっしょり、冷たい汗に濡れている。
我に返り、慌てて後方に眼をやる。アダムが、吊橋を駆けて渡ってくるところだった。吊橋の真中を越えて、黒尽くめの隠術師たちがもの凄い速さで駆けてきている。
次の瞬間、ルネルは息を
アダムが腰を落とし、剣を
吊橋を支えていた葛の蔓が一斉に切れ、支えを失って千切れた橋が、向こう側へと離れながら落ちていく。
鋭い光がアダムをかすめる。ちょっと上体を
アダムから水を渡され、口をつけた。まだ、自分は生きているのだ。
「これで、追手の心配はなくなったはずだ」
アダムが、自分の髪を束ねていた装飾布を抜き取った。ふた手に分かれるときに貸してくれと言われ、ルネルが渡したものだ。差し出された布を受け取り、ルネルはアダムをじっと見つめた。
あとで必ず返す、と約束していたことをルネルは思い出した。
そこからは、またアダムの背に揺られた。道はしばらくなだらかで、吊橋よりも楽だ、とアダムは言って笑った。
一刻(約三十分)ほど進み、陽が落ちはじめたころ、不意に唄が聞こえた。アダムがうたっているのだ。高くもなく、低くもない歌声が背を伝い、心地よく響いてくる。はじめて耳にする唄だったが、不思議なほど心に
「その唄は?」
「私の故郷で、うたわれていたものだ」
「孟国にも、
「忘れてしまってもいいはずの、遠い昔だな」
「いまもあるの、あなたの故郷は?」
「いや。この唄だけが、私の故郷だ」
唄が故郷。
アダムは、どこから来て、これからどこへ行くのか。どんな旅をしてきて、どこを目指しているのか。ルネルは、なんとなくそんなことを考えていた。
「そこの木のところにある植物が見えるか?」
野営に適した場所を探しているときに、ふとアダムが言った。
「見えるけど、それがどうしたの?」
アダムの背から、首を伸ばす。見たことのない植物だが、これとって目立つ特徴もない、緑の葉が
「
簪蓬。その名の通り、簪呂国南部に多いという野草である。実際に眼にするのははじめてだった。これだけ群生しているということは、国境を越えてしばらく経つはずだ。アダムの知人がいるという簪呂国の都も、ここからそう遠くないのだろう。
あたりは薄闇に包まれはじめている。このあたりも、夜間は盗賊が出るのかもしれない。それでも、周囲にはどこか
風はほとんどなく、雨の気配もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます