遣い慣れた槍ではなかった。

 腰を落として低く構えているのは、竹の棒である。槍とは長さも、重さも違う。握りも、手に馴染むとはいえない。

 黒尽くめの男は素手だった。ルネルの棒に対して、構えらしい構えもとっていない。それでいて、隙もなかった。踏みこむ機というものが、見えてこないのだ。

 対峙たいじして、どれほどになるのか。眉横を通った汗が、頬を滑っていく。

 左膝の痛みは、鈍く続いていた。またれて熱を帯びているような気もしていたが、確かめることに意味はないと思い、歩き続けた。左をかばって山道を歩いたことで、右脚も痛みが出てきている。

 湿った、少しばかり冷たい風が吹いている。周囲は、まばらな雑木林になっていた。足もとは草地で、全体的に緑は暗い色をしている。空に垂れこめた雲が、そう見せているのだ。陽光を受ければ、また違う色を見せるのだろう。

 アダムに教わった古い吊橋まで、あともう少しだった。いまルネルがいるのは丘の頂上で、ここをくだれば吊橋が見えてくるはずなのだ。

 どこかで休みたいという考えが幾度も浮かんだが、自分で自分を叱咤しったし、甘えを退けて歩いた。それでも遅々として進まず、いまはこうして一人の隠術師いんじゅつしに追いつかれていた。

 棒を構えたルネルの心気はんでいた。

 隠術師らしくない、大柄な男。布で覆われた顔の、眼を見据える。吊りあがった眼尻に、皺が見える。笑っているのか。ルネルは、かっとなりそうな自分を冷静に見つめ、抑えた。

 無造作に、男が踏み出してきた。一歩。ルネルは構えた棒の先が動きそうになるのを、なんとかこらえた。まだ、間合いの外である。

 男の両手の指先が、波打つようにゆらゆらと動きはじめる。れている、というような動きだ。眼が動いた。そう思ったときには、ルネルも踏みこんでいた。男は一瞬、ルネルを掴む素振りを見せたが、突きから横薙よこなぎに転じたルネルの棒をたくみにかわし、弾かれたように互いに離れた。立つ場所が入れ替わった恰好かっこうである。

 ルネルは、ゆっくりと息を吐き、吸った。男の息遣いも、かすかに聞こえてくる。

 丘に広がる林は静かで、遠くでく鳥の声だけがこだましている。

 じり、と男が横に動いた。足場の草地は湿っているが、泥濘ぬかるんではいない。ルネルも間合いを保つようにして、棒を構えたまま横に動いた。

 槍の前は、棒術や杖術を学んでいた。こうして棒を構えていると、幼いころのことが蘇ってくる。

 棒術は護身のためだったが、どこか物足りないと感じはじめ、先に刃のついた槍を進んで学ぶようになった。兄のようにしたったエフレムの、その技倆ぎりょうに少しでも近づきたい。そう思っていた。いまにして思えば、近づきたかったのは技倆ではなく、ものの考え方や、生きる姿勢を身をもって知ることで、エフレムそのものを知り、近づこうとしていたのかもしれない。

 槍さえあれば、これくらいの膝の痛みなど。いまは、それを思っても仕方がなかった。

 また、男の指先が動きはじめた。

 隠術師らしい鋭さだけではなく、この男はどこか粘着質な動きをする。向き合って対するだけで、なにか不快なものがこみあげてくるのだ。

 男の眼が動いた。打ちこむ。男はからだを開いて棒をかわし、ルネルの腕を掴んだ。躰が宙を舞う。投げられたのだ、と気づいたのは、地に倒れたルネルに男が覆い被さってこようとしてからだった。棒は、手を離れている。手を伸ばしたところにあった石を掴み、両肩を押さえつけようとしてくる男の側頭部に叩きつけた。男が横に転がる。低くうめきをあげたが、急所を打つことはできなかったようだ。倒れたまま、胸板を上下させている。

 男の狙いがわかった。ルネルを殺すのではなく、押し倒そうとしている。直感のようなもので、それがわかった。そのうえでなにをしようというのか、考えたくもなかった。

 腕をついて身を起こし、立ちあがろうとする。視界が揺れ、思うように動けなかった。悔しい。悔しさが、はらの底から猛烈な勢いでこみあげてくる。これが自分か。槍術を磨き、多くの命を踏み越えて生きながらえた自分の、精一杯の闘いがこんなものなのか。

 ルネルは片膝立ちの姿勢で、呼吸を整えた。次第に、意識がはっきりとしてくる。かすかに揺れ続ける視界。自分には、なにができるのか。この身さえも、守れないのか。

 アダムは、情報を持ち帰ろうと命懸けで動きまわってくれた。無関係だったにも関わらずだ。単にけた仕事をこなすだけなら、隣国へ無理矢理にでも、ルネルを連れて行くことはできたはずである。

 アダムの持ち帰った情報をもとに、ルネルはかたきちに行くつもりだった。アダムは殺生を進んでする男ではなかったし、頼もうとも思わなかった。自分自身の手で、討ち果たしたかったのだ。

 それが故国で死んでいった者たちの、とむらいにもなる。そう信じていた。しかしルネルには結局、それすらも果たせなかった。

 孟国もうこくで生きた者たちの仇は、エフレムが討った。エフレムがやったという確証はないが、ルネルはいまもそう信じている。状況は厳しく、仮に自分で討ちに行っていても、ルネルにはやり遂げられなかったに違いない。それを見透かしたかのように、エフレムの矢が放たれたのだ。

 自分には、エフレムが謀略によって流刑になるのを、止めることすらできなかった。にも関わらず、結果的にはまたしても、エフレムの矢によって身を守られたのである。ルネルは、繰り返しこみあげてくる忸怩じくじたる思いに、ただ歯噛はがみするしかなかった。

 黒尽くめの大男が、起きあがろうとしていた。両手と膝をつき、息を乱しながら笑っている。非力な女の抵抗を、よろこんでいるのか。

 そばに転がっていた竹棒を拾った。軽く手首をまわし、構える。

 これは槍だ。先端に刃のついた槍なのだ。そう思いこんだ。ぶれて二重に見えていた槍先が、立ちあがった男を捉えてひとつになる。棒が、槍に思えた瞬間だった。槍が、腕の一部に思えてくる。いや、ルネルの躰そのものが槍の一部になったようだった。

 男が、いきなり踏みこんできた。槍先をかわし、懐に飛びこんでくる。衣服を掴まれ、左右に引かれる。ルネルは躰を回転させ、右肘を男の頭に叩きこんだ。びりびりと腕がしびれたようになる。構わず、身を低くして男の脇をくぐり抜けた。

 向き直る。男が、面体を覆っていた黒衣を剥ぎ取った。息苦しくなったのか。石で打ったところから出血し、顔半分が血で赤く濡れている。男は手の甲で頬の血を拭い、低く笑った。惨忍ざんにんさが浮き出た、暗い笑みだった。

 男の狙いはわかっている。あとはこちらが捨て身になれるかどうかだ、とルネルは思った。

 負ければ躰を好きなようにされ、最後にはやはり殺されるのだろう。孟国では耳にすることがなかったが、炳辣国ペラブカナハではよくある話だった。奴隷の家系に生まれた女が、当然とばかりに男に襲われる。相手が少女でも容赦なく、翌日には広場の木に屍体が吊りさげられていたりもするらしかった。信じられないような話だが、炳都ペラブーハンの衛兵も、身分が低い女についてはまともに取り合わず、仮に男を捕らえたとしても、身分が高ければ厳しく罰したりはしない。それほどに、炳辣国では身分がものを言うのだ。奴隷の男であれば、しつけと称して殴り殺されるようなこともしばしばあるらしい。

 自分は、孟国の王女として生まれた。前世での行いがむくわれ、その身分で生まれたのだ、と原理神教の僧侶らに聞かされ続けて育った。いまとなっては、それも遠い昔の話だったような気がする。

 低く、槍を構える。祈りはしない。いまは原理の神々に、助けをう気持ちにはならなかった。

 同時に、踏み出していた。ルネルが見据えていたのは、一点だけだ。全身を槍にする。跳躍ちょうやくし、身をひるがえす男に体当たりするようにしてぶつかった。渾身こんしんの力。あとのことは、なにも考えなかった。

 血。あふれ出し、視界を赤く染めた。視界がぼやけ、意識が遠のく。暗い。宙に浮くような感覚があった。ああそうか、こんなふうに人は死ぬのか。そんなことを考えている自分が、ルネルには少し可笑おかしかった。

 名を呼ばれた気がして、眼を開いた。

 誰かいる。空が見えた。自分はどうなったのか。死にきれず、男に好きなようにもてあそばれたのか。

「気づいたか、ルネル」

 空に眼をやるルネルの顔を覗きこんできたのは、アダムだった。一瞬、エフレムと呼びかけそうになり、ルネルは思わず口をつぐんだ。

 上体だけを起こし、水の入った革袋を受け取り、ゆっくりと飲んだ。それからアダムにうながされて横になり、息を深く吸い、ゆっくりと吐くことを繰り返した。次第に意識がはっきりとしてくる。

 アダムが駆けつけたとき、ルネルは隠術師の男と折り重なるようにして、地に倒れていたのだという。どのくらい、気を失っていたのかはわからなかった。

「なにも覚えてないの、私」

「渾身の突きだったことは確かだ。あんな棒きれでできる技だとはとても思えない。気魄きはくというやつだな」

 横を見る。血まみれで倒れた男の喉元に、竹棒が突き立っていた。完全に、喉首を突き通している。死んでいることは、離れたところから見ただけでもわかった。左膝の痛みは悪化しているが、ルネルに出血はなかった。視界を染めた血は、男のものだったようだ。

 横たわるルネルの躰には、套衣とういがかけられていた。アダムが身につけていた套衣である。ルネルは、套衣に覆われた下で自分の胸元がはだけていることに、ようやく気づいた。

「すまない」

「どうして、あなたが謝るの?」

「君が、闘える女だったから無事だった。たまたまそうだったというだけで、危険にさらしたのは確かだ」

「やめて。それなら私のほうこそ、あなたを危険に晒し続けてることを謝らなきゃならない」

「男は、それでもいいんだ」

 言って、アダムは腰をあげた。周囲を気にしている。まだ、逃げ切れたわけではないのだ。

 ルネルは、はだけた衣服を掻き合わせ、起きあがった。

「無理はしないほうがいい」

「大丈夫よ。投げ飛ばされて眩暈めまいがしてたけど、もう落ち着いた」

 気軽に立ちあがって見せたが、左脚に力が入らなかった。ぐらついた躰を、アダムがあわてて支えに寄る。

「気分は?」

「平気。血の気が引いたりもしてない。脚が、言うことを聞かないだけ」

「肩を貸そう。右手に、杖をるんだ。できるか?」

「ええ」

 アダムがルネルの左側に立つ。渡された白杖を右手に持った。

「本当は、もっと休ませたいんだが」

「いいの。まだ追手がいるんでしょ?」

「隠術師の後続小隊ふた組が、山に入っているらしい」

「急ぎましょう」

「ゆっくりでいい。とにかく進もう」

 歩みは遅かった。だが一人で歩くよりも、ずっと楽だった。それは肉体だけのことではなく、気分的にもずいぶんと違っているのだろう、とルネルは思った。

 丘をくだると、川の流れが大きくなり、やがて樹間に吊橋が見えはじめた。

「なにか聞こえた」

「振り返るな。立ち止まらずに行くんだ」

「追いつかれたんじゃ?」

「まだ遠い」

 ひりつくような気配が、消し難く背後から迫っていた。アダムは遠いと言ったが、実際のところかなり近くまで来ているだろう。矢が届くほどの距離ではない、という意味で遠いと言ったのだ。

 吊橋の手前で止まり、アダムが先に立って橋の状態を確かめに行った。吊橋は細く、向こう側まではかなりの距離があった。谷は深く、どうどうと音を響かせる水は、かなり激しい流れのようだ。

 アダムは吊橋を揺すり、編みこまれたかずらつるの傷み具合などを見ているようだ。

「古くなってはいるが、渡れなくはない。補修が繰り返された跡もある。強度は充分だ」

「どの道、選んでる暇はないと思うの」

「そうだな。だが」

「脚がふるえてる、って言うんでしょ」

「声もな。私がおぶって行こう。眼を、つぶっていればいい」

 迷っている場合ではなかった。足手まといは承知のうえで、ルネルはアダムの背に身を預けた。

 吊橋に、入っていく。ルネルは、眼をきつく閉じた。

 アダムの足取りは、しっかりしたものだった。吊橋を渡ったことなどないが、ルネルはもっと揺れるものだと想像していたのだ。険阻けんそな山道や、あるいは波に揺られる船上と同じように、歩き方というものがあるのかもしれなかった。

「ルネル。悪いがおりてくれ」

 ただならぬ気配に、ルネルは眼を閉じたまま吊橋に立った。アダムの背を離れると、吊橋本来の揺れをじかに感じる。立ってはおれず、その場に座りこむ。右手に握り締めていた白杖を、アダムに返した。

ったままでいい。そのまま進むんだ」

 叫ぶように、アダムが言った。大きな声でなければ、谷底の流れに掻き消されてしまいそうだった。

「いま、どのあたりなの、吊橋の?」

「あと、もう少しだ」

「気休めはやめて。眼は開けられそうにないけど、自分の位置は知っておきたい」

「真中より、少し手前だ。後方の森に、やつらが見えはじめている」

「人数は」

「ざっと、二十人ほどだ」

「そんなに」

「耐えて、先に進んでくれ」

「あなたは?」

「なんとかする。橋は大丈夫だ、心配するな。渡りきれる」

「わかった」

 風がうなった。矢が、射られはじめている。射程に入った、ということだ。猶予ゆうよはない。

 ルネルは手探りで、吊橋を進んだ。揺れが大きく、思うように進めない。おそるおそる、薄眼を開けて先を見てみる。眼を閉じたまま左右に揺られるよりは、体勢を崩さずに済んだ。下だけは、間違っても見ないように気をつけた。

 すぐ後ろに、アダムもいる。後方を向いたまま、少しずつ移動しているのだろう。吊橋を伝って、アダムの重心が移動するのをルネルは感じていた。

 背後で、ひゅっと棒を振る音のあとに、小枝を叩くような音がした。その後は繰り返し、音が続く。断続的だったものが、間断なく聞こえはじめた。なんの音なのか。ルネルは気になりながらも、懸命に先を急いだ。

 ルネルが音の正体に気づいたのは、しばらく経ってからだった。アダムが、白杖で矢を次々に叩き落とす音。それ以外になかった。

 どうやって渡りきったのかもわからないうちに、対岸にたどり着いていた。全身がびっしょり、冷たい汗に濡れている。

 我に返り、慌てて後方に眼をやる。アダムが、吊橋を駆けて渡ってくるところだった。吊橋の真中を越えて、黒尽くめの隠術師たちがもの凄い速さで駆けてきている。

 次の瞬間、ルネルは息をんだ。

 アダムが腰を落とし、剣を鞘走さやばしらせる仕草で、白杖を抜き払った。蒼白あおじろい光が走る。抜き身の刃が、西に傾きはじめた陽光を受けてきらめいた。美しいものを見るような感覚で、ルネルはそれを見ていた。

 吊橋を支えていた葛の蔓が一斉に切れ、支えを失って千切れた橋が、向こう側へと離れながら落ちていく。

 鋭い光がアダムをかすめる。ちょっと上体をひねって、アダムはそれをかわしていた。間近まで接近していた隠術師が、橋と一緒に谷へと落ちながら、最後に投げた短剣だった。

 アダムから水を渡され、口をつけた。まだ、自分は生きているのだ。かれたように水を喉に流しこみながら、改めてルネルは思った。

「これで、追手の心配はなくなったはずだ」

 アダムが、自分の髪を束ねていた装飾布を抜き取った。ふた手に分かれるときに貸してくれと言われ、ルネルが渡したものだ。差し出された布を受け取り、ルネルはアダムをじっと見つめた。

 あとで必ず返す、と約束していたことをルネルは思い出した。

 簪呂国カザクロフトの近くまでは国境が曖昧あいまいで、しばしば盗賊などが横行しているという。橋を越えたからといってまだ安心はできないようだ。

 そこからは、またアダムの背に揺られた。道はしばらくなだらかで、吊橋よりも楽だ、とアダムは言って笑った。

 一刻(約三十分)ほど進み、陽が落ちはじめたころ、不意に唄が聞こえた。アダムがうたっているのだ。高くもなく、低くもない歌声が背を伝い、心地よく響いてくる。はじめて耳にする唄だったが、不思議なほど心にみこんでくる。まるで父の背で、子守唄を聴いているような気分だった。

「その唄は?」

「私の故郷で、うたわれていたものだ」

「孟国にも、童唄わらべうたがあった。あなたも小さいころ、覚えたのね」

「忘れてしまってもいいはずの、遠い昔だな」

「いまもあるの、あなたの故郷は?」

「いや。この唄だけが、私の故郷だ」

 唄が故郷。気障きざな言い草なはずだったが、アダムがこれまでに時折見せていた淋しげな表情が、そうは感じさせなかった。

 アダムは、どこから来て、これからどこへ行くのか。どんな旅をしてきて、どこを目指しているのか。ルネルは、なんとなくそんなことを考えていた。

「そこの木のところにある植物が見えるか?」

 野営に適した場所を探しているときに、ふとアダムが言った。

「見えるけど、それがどうしたの?」

 アダムの背から、首を伸ばす。見たことのない植物だが、これとって目立つ特徴もない、緑の葉がしげっている。これだけ深い山では珍しいものではないように、ルネルには思えた。

簪蓬かざよもぎだ。ここはもう簪呂国だぞ、ルネル」

 簪蓬。その名の通り、簪呂国南部に多いという野草である。実際に眼にするのははじめてだった。これだけ群生しているということは、国境を越えてしばらく経つはずだ。アダムの知人がいるという簪呂国の都も、ここからそう遠くないのだろう。

 あたりは薄闇に包まれはじめている。このあたりも、夜間は盗賊が出るのかもしれない。それでも、周囲にはどこか安堵あんど感が漂っているようにさえ、ルネルには思えた。

 風はほとんどなく、雨の気配もなかった。

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