小さな火種もひとたび燃えあがれば、容易には消し止められなくなる。

 民の間で語り継がれる、いくつもの消し難い争いの歴史。そしていまなお、終熄しゅうそくを迎えることのないまま応報を繰り返し、大地を焼き続ける戦火のうちの多くは、信仰に根ざした対立を火種とするものだった。信仰のために死ぬ。そういう者も、あとを絶たない。

 争う者たちは互いに主張する。自分こそが正しいのだと。その狭量きょうりょうさと、異質なものに対する不寛容ふかんようさが、争いを招く。敬虔けいけんな信徒が、絶対と信じる信仰のため、排斥はいせきを目的として他宗派を徹底的に否定し、ついには武力をもって攻撃するのだ。神の名のもとでは、それすらも正当化されるというのか。

 炳辣国ペラブカナハでも、それと似たようなことが起きた。

 やりきれない気持ちを抱えたまま追手を振り切り、アダムはルネルを連れて、どうにか簪呂国カザクロフトにまでたどり着いていた。

 簪都カザク・バーグスは、砂塵の国とも呼ばれている。高原や山々には緑も多いが、都の周辺に砂地が広がっているためだ。東珱大陸オルテウム中珱ちゅうよう地方に位置し、このあたりでは、乾いた風に巻きあげられた砂が空を覆い、陽射しをさえぎるような状態になることも、しばしばあった。 

 簪都の中央通りには旅装の者も多く、商いはいつ訪れても盛んに行われている。砂にまみれた珍品を売っていることもよくあるので、目的もなく店先を眺めて歩くのも、アダムは好きだった。

 身を寄せて、アダムに隠れるような恰好で隣を歩くルネルに、アダムは店の位置などを簡単に説明しながら通りを横切った。そのまま真直ぐ、簪都東のはずれに建つ屋敷を訪ね、まずはアダムの知人の老婆と、ルネルを引き合わせる。ルネルが街を歩きまわるのは、これからいつでもできるのだ。

 老婆はシャビナ・トゥルシカという名で、簪都では知らない者はまずいない、という人物である。

 おとないを入れ、しばらくして戸口に出てきたシャビナを見て、ルネルは一瞬たじろいだようだった。シャビナはそこらの男と比べてもかなりの長身で、背はすっかり曲がってしまっているが、それでもこちらを見おろす恰好なのだった。初対面では、みな驚くのだ。

 とりあえず、という感じで門の横の中庭に通された。

「この子は、なんて哀しい眼をしているの。一体、なにを見てきたの?」

 シャビナは、正面に立ってルネルの顔を見るなり、アダムにそういてきた。

 アダムが事情を説明する間、シャビナは大きな眼でじっとルネルを見つめていた。若いころは、頻繁に男に言い寄られるほどの美人だったらしい。本人談である。

 ルネルを置いてもらえないか、とアダムが切り出すと、言い終わらないうちにシャビナは両手でルネルの手をとり、しわだらけの顔の皺を一層深くして、満面の笑みでルネルを迎え入れた。

 広大な屋敷のなかに通され、しばらく卓を挟んで向かい合い、シャビナとルネルだけで話しこんだ。シャビナがそれを望んだのだ。互いをよく知っておくべきだ、というのも確かだった。

 ひとまず、言葉については問題なさそうだった。シャビナはこのあたりで顔の知られた商人の妻で、自身も長く商館を切り盛りしていたこともあり、周辺諸国の言語を理解し、そのいくつかは流暢りゅうちょうに喋ることもできる。ルネルの話す炳辣国の言葉も、流暢とまではいかないが、意思の疎通になんら支障はなかった。

「それがどこの寺院でも、なにを崇拝すうはいしていても、まつられるものは変わらないと、あたしは思うのよ。信仰する人が抱く、畏敬いけいの念というものもね」

 シャビナが、使用人に出させた湯の器をてのひらで包みながらルネルに言った。話は、それぞれの土地の信仰の話に移っている。

「では、シャビナさんは宗派による違いはないと?」

「祈りというものは、もっととうといものなのよ。いいえ、それを尊いと感じる心こそが、尊いというのかしらね。あたしもこの歳になってようやく、そんなふうに思えるようになった」

 黙って二人のやり取りを聞きながら、シャビナの言っているのは、真理とでも呼べ得るものなのではないか、とアダムは感じていた。

 神が最上のもので、だからすべてを任せてうやまうべきだ、ということではないのだ。民が心に宿す畏敬の念とともに、ただ信仰というものがある。それによって、生きることに希望を抱くことができる。平穏を願うことができる。シャビナは、それこそが尊い純粋な祈りの姿で、立ち返るべき本来の信仰のあり方ではないか、とルネルに向けて投げかけているようだった。

 ルネルは黙って、手もとの湯に視線を落としている。シャビナの言う、祈りというものがルネルにわかるのは、それほど遠くないのかもしれない、とアダムは思った。

 話はそれでひと区切りついたようだった。いつの間にか、夕刻が近くなっている。アダムは腰をあげ、顔をほころばせたままのシャビナに礼を述べた。

「あんた、もう帰ろうってのかい」

 覚悟はしていたが、アダムが辞去じきょする素振そぶりを見せた途端、シャビナに引き止められた。

 この老婆は、よく酒を飲む。いわゆる酒豪というやつだ。両脇に酒樽を抱き、山賊の首領のような飲み方をするので、そういう意味でも簪都では有名人だった。

 使用人に夕餉ゆうげの支度を指示すると、シャビナも一緒に奥へと引っこんだ。入れ替わりに別の使用人が来て、湯がある場所へと案内された。ルネルが先に湯を使い、そのあとにアダムも汗を流した。

 用意されていた衣服に着替え、そのまま使用人に部屋へと案内される。向かったのは客間ではなく、シャビナの娘が使っていた部屋のようだった。そこでルネルが呼んでいるという。

 シャビナは、ずっと昔に流行はやり病で娘を亡くしている。ルネルを見て、娘が帰ってきたような気持ちになっているのかもしれなかった。

 ともかく、ここでならルネルは不自由なく、平穏に暮らすことができるだろう。シャビナの屋敷は広く、ルネル一人が増えたところでどうということもないはずだ。簪都には往来する旅人や商人も多い。余所者よそものとしてルネルが目立つこともないだろう。

 使用人が出ていき、ルネルと部屋に二人だけになった。西陽が射しこみ、ルネルの頬を朱に染めている。ひとつだけある椅子にルネルが座っていたので、アダムは向かいの寝台に腰をおろした。

「お礼を、しなくちゃね。と言っても、手持ちがなにもないのだけれど」

「いいんだ。報酬は、仕事をけたときに前もって貰ってある」

「真相を知りたいと言った私のために、余計に危険な目にもったでしょ。そのあとも、命懸けで助けてくれた。孟国もうこくのみんなを解き放ってくれたのも、こうしてシャビナさんにお世話になれるのも、みんなあなたのおかげよ」

「気にしなくていい。私が、やりたくてやったことだ」

 ルネルがちょっと肩をすくめ、それからなにか思いついたように、洗い髪を束ねていた装飾布を抜き取った。さっと折り畳み、アダムのそばへ来る。

「せめて、これを受け取って」

 言って、そっとアダムの手に装飾布を押しつける。すっかり傷だらけになったルネルの細い指先が、アダムの掌に触れた。

「大事なものだろう?」

「いいの。過去を手もとに置いていても、なぐさめにはならない。見るたびに、いろいろと思い出しちゃうし」

 アダムは、膝のうえで布を広げてみた。草花の模様をあしらった装飾布。ルネルは髪を束ねることに使っていたが、炳辣国では首に巻いたり、腰からさげたりするものだ。

 両端はそれぞれ青と紫で、中央で混ざり合うように色が入れ替わっている。見る角度で光沢の加減が変化し、きらきらと星が瞬くようにも見えた。

「やっぱり、これは受け取れない、ルネル」

「売れば、いい値がつくはずよ。そうして。お願い」

 ルネルは、引きさがりそうもなかった。勝ち気さをたたえた眼に、強い光が宿っている。わかった、とだけ言ってうなずき、アダムは装飾布を仕舞しまった。

「どうした?」

 アダムの前に、所在なさげに立ったままでいるルネルに、声を掛ける。ルネルの眼はわずかにうるみ、穏やかな色になっている。

「ときどき、すごくさびしそうな眼をするのよ、あなた。見ているほうが、つらくなるくらい」

 見つめ合う。光が落ちた、と思った。ルネルの涙だった。なぜ君が泣く、とアダムは言いかけたが、胸をかれたように言葉は出てこなかった。

 ルネルは、頬を伝う涙をそのままに、アダムの首にすっと腕をまわした。寝台に腰をおろしているアダムは、ルネルの胸に抱かれるような恰好だった。アダムは両手でルネルの腕に触れ、できるだけそっと力をこめて、押し留めた。

「君に、魅力がないというわけじゃない。だが、相応ふさわしい相手のために、自分を大切にするんだ」

「それがあなたじゃ、駄目なの?」

 アダムは眼を閉じた。落ちてきたルネルの涙が、アダムの頬を打つ。あたたかい涙。懐かしさのようなものが、こみあげてくる。

「私には、妻がいた。故郷が焼け落ちたときに、いなくなった」

「でも、もうずっと昔の話なんでしょう?」

「そう、気が遠くなるほどの昔だ。だがそれでも、私はいまも彼女を探し続けている。君の気持ちは嬉しい。でも、私にはその資格がないんだ」

「ここを離れて、あなたには帰るところがあるの?」

 ルネルは、アダムの頭を抱いたまま、涙を流し続けている。

 帰るところなどなかった。自分だけに聞こえるこえに導かれながら蒼星そうせいをめぐる旅。それが自分の人生だ、とアダムは思い定めて生きてきた。

「おかしいと思うかもしれないが、私には、いまも妻がどこかで生きていて、助けを待って泣いているような気がしてるんだ」

「どこかで、あなたを待っているの?」

「わからない。でも、もし彼女が生きているのなら、私は会いに行かなければならない」

「強いからだと心を持った人だ、とばかり思ってた。あなたは、確かに強い。でも、どうしようもなく弱いところもあるのね」

「男ってのは本当はずっともろく弱い。だからこそ、強くありたいと思うし、意地も張る」

「けれど、そうやって決めたことを貫き通すのは、簡単なことじゃないと思う。それは強さじゃない?」

「馬鹿なだけさ、男というのは」

 道すがら求める足取り。未だに成果はないが、いつか妻に逢えたら、ルネルの装飾布を見せて話を聞かせてやりたい、とアダムは思った。

 突然の訪問にも関わらず、シャビナは盛大な宴席を用意していた。

 こんがりと焼き色のついた、羊の骨つき肉が円卓中央の大皿に盛られ、豆を使った料理や色鮮やかな果実や酒が、次々に運ばれてくる。

 アダム以上に、ルネルははじめて見る料理とその味に、終始驚き、眼を輝かせていた。故国のことを思い出すのか、ときどき表情をくもらせるが、シャビナがすかさず簪呂国の話題を振る。酒を浴びるように飲んでいるシャビナは当然のごとく酔っ払っているが、禁酒を守るルネルには一度も酒をすすめようとはせず、気の利いた冗談も交えながら、やたらと饒舌じょうぜつだった。

 家族が増えたことがよほど嬉しかったのか、シャビナはいつも以上に酒が進んだらしい。卓に伏せ、いびきをかいて眠りはじめた。そこで、宴席はお開きとなった。

 アダムは、飲み残しの酒瓶をひとつ掴み、屋敷の庭先に腰をおろした。尻を落ち着けるのにちょうどいい石があったのだ。

 星空に細い三日月が出ている。風はなく、今夜は砂漠の砂も舞っていないようだ。

 屋敷から出てくる人の気配があった。星を見ながら酒を飲むアダムの隣に、ルネルが腰をおろす。アダムが酒瓶をあおりながら横眼で見ると、ルネルはにこりと笑って見せた。髪を束ねあげていないルネルは、印象がまったく違って見えた。大きな眼も深い輝きを帯びていて、ふっときこまれそうになる。星の光の下では、なおさらだった。

「本当に、孟国はもうないんだって、ようやく少し思えるようになってきた」

 ルネルの言葉に、アダムはうなずいて答えた。酒瓶を呷る。酒の残りはあとわずかだ。

「あなたは、死なないでね」

 星空に眼をやったまま、ルネルが呟く。声色は、いくらか明るかった。

 煌々こうこうたる星辰せいしんの営み。人は出逢い、そして別れる。意味もなく、そんなことを考えていた。ルネルも、似たようなことを思ったのかもしれない。

「約束はできないな。人は死ぬ。その時が来れば。それは明日かもしれないし、ずっと先かもしれない」

「もう。やっぱり装飾布はあなたに貸したことにして、一年に一度、返しに来てもらおうかしら」

「それは勘弁してくれ」

 アダムがあげた笑い声は、夜空に吸いこまれるようにしてすぐに消えた。ルネルが、肩にかけた套衣とういを掻き合わせ、身を寄せてくる。夜気で、薄い月明かりの庭は少しばかり冷えてきていた。

「いつか、エフレムにもまた会えると思う?」

「会えるさ。互いに生きていれば」

 そうね、とルネルが呟いたあと、しばらくお互いに黙っていた。穏やかな静寂だった。街の繁華な通りからは離れているので、騒がしさも伝わってはこない。

「ねえ。最後にひとつだけ、わがままを許してほしいの」

「なんのことだ?」

 言い終わらないうちに、アダムの手から酒瓶を取ったルネルが、瓶に口をつけて呷った。 

「うわあ、ひどい味ね」

 顔をしかめてルネルが言う。

「慣れないとそういうもんだ。それより、禁酒はもういいのか?」

「よくない」

 アダムが手もとに取り戻した酒瓶を再び奪い取り、ルネルがぐいと呷った。呷りながら、なぜか横眼でアダムに挑発的な視線を送ってくる。

「おいおい、大丈夫か」

「よくないし、美味しくもない」

「それでも飲むのか?」

「あなたも飲んで」

 押して寄越よこされた酒瓶を取り、アダムも呷る。

「ちょっとちょっと、待ってよ、私もあとひと口欲しいんだから」

 アダムが飲み干しかけた酒瓶を横から奪い、残りの酒を飲み干すと、ルネルは手の甲で乱暴に口もとを拭った。

 元王女のする仕草ではないが、それがやけにルネルらしいもののように、アダムには見えた。

「この空瓶、貰ってもいい?」

 面食らった気分でアダムがうなずくと、ルネルは少女のような笑顔で酒瓶を胸に抱き、屈託くったくなく笑った。

 それはアダムにとって、どんな報酬の品よりも、価値のある笑顔だった。

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