五
小さな火種もひとたび燃えあがれば、容易には消し止められなくなる。
民の間で語り継がれる、いくつもの消し難い争いの歴史。そしていまなお、
争う者たちは互いに主張する。自分こそが正しいのだと。その
やりきれない気持ちを抱えたまま追手を振り切り、アダムはルネルを連れて、どうにか
簪都の中央通りには旅装の者も多く、商いはいつ訪れても盛んに行われている。砂にまみれた珍品を売っていることもよくあるので、目的もなく店先を眺めて歩くのも、アダムは好きだった。
身を寄せて、アダムに隠れるような恰好で隣を歩くルネルに、アダムは店の位置などを簡単に説明しながら通りを横切った。そのまま真直ぐ、簪都東のはずれに建つ屋敷を訪ね、まずはアダムの知人の老婆と、ルネルを引き合わせる。ルネルが街を歩きまわるのは、これからいつでもできるのだ。
老婆はシャビナ・トゥルシカという名で、簪都では知らない者はまずいない、という人物である。
とりあえず、という感じで門の横の中庭に通された。
「この子は、なんて哀しい眼をしているの。一体、なにを見てきたの?」
シャビナは、正面に立ってルネルの顔を見るなり、アダムにそう
アダムが事情を説明する間、シャビナは大きな眼でじっとルネルを見つめていた。若いころは、頻繁に男に言い寄られるほどの美人だったらしい。本人談である。
ルネルを置いてもらえないか、とアダムが切り出すと、言い終わらないうちにシャビナは両手でルネルの手をとり、
広大な屋敷のなかに通され、しばらく卓を挟んで向かい合い、シャビナとルネルだけで話しこんだ。シャビナがそれを望んだのだ。互いをよく知っておくべきだ、というのも確かだった。
ひとまず、言葉については問題なさそうだった。シャビナはこのあたりで顔の知られた商人の妻で、自身も長く商館を切り盛りしていたこともあり、周辺諸国の言語を理解し、そのいくつかは
「それがどこの寺院でも、なにを
シャビナが、使用人に出させた湯の器を
「では、シャビナさんは宗派による違いはないと?」
「祈りというものは、もっと
黙って二人のやり取りを聞きながら、シャビナの言っているのは、真理とでも呼べ得るものなのではないか、とアダムは感じていた。
神が最上のもので、だからすべてを任せて
ルネルは黙って、手もとの湯に視線を落としている。シャビナの言う、祈りというものがルネルにわかるのは、それほど遠くないのかもしれない、とアダムは思った。
話はそれでひと区切りついたようだった。いつの間にか、夕刻が近くなっている。アダムは腰をあげ、顔を
「あんた、もう帰ろうってのかい」
覚悟はしていたが、アダムが
この老婆は、よく酒を飲む。いわゆる酒豪というやつだ。両脇に酒樽を抱き、山賊の首領のような飲み方をするので、そういう意味でも簪都では有名人だった。
使用人に
用意されていた衣服に着替え、そのまま使用人に部屋へと案内される。向かったのは客間ではなく、シャビナの娘が使っていた部屋のようだった。そこでルネルが呼んでいるという。
シャビナは、ずっと昔に
ともかく、ここでならルネルは不自由なく、平穏に暮らすことができるだろう。シャビナの屋敷は広く、ルネル一人が増えたところでどうということもないはずだ。簪都には往来する旅人や商人も多い。
使用人が出ていき、ルネルと部屋に二人だけになった。西陽が射しこみ、ルネルの頬を朱に染めている。ひとつだけある椅子にルネルが座っていたので、アダムは向かいの寝台に腰をおろした。
「お礼を、しなくちゃね。と言っても、手持ちがなにもないのだけれど」
「いいんだ。報酬は、仕事を
「真相を知りたいと言った私のために、余計に危険な目にも
「気にしなくていい。私が、やりたくてやったことだ」
ルネルがちょっと肩を
「せめて、これを受け取って」
言って、そっとアダムの手に装飾布を押しつける。すっかり傷だらけになったルネルの細い指先が、アダムの掌に触れた。
「大事なものだろう?」
「いいの。過去を手もとに置いていても、
アダムは、膝のうえで布を広げてみた。草花の模様をあしらった装飾布。ルネルは髪を束ねることに使っていたが、炳辣国では首に巻いたり、腰からさげたりするものだ。
両端はそれぞれ青と紫で、中央で混ざり合うように色が入れ替わっている。見る角度で光沢の加減が変化し、きらきらと星が瞬くようにも見えた。
「やっぱり、これは受け取れない、ルネル」
「売れば、いい値がつくはずよ。そうして。お願い」
ルネルは、引きさがりそうもなかった。勝ち気さを
「どうした?」
アダムの前に、所在なさげに立ったままでいるルネルに、声を掛ける。ルネルの眼はわずかに
「ときどき、すごく
見つめ合う。光が落ちた、と思った。ルネルの涙だった。なぜ君が泣く、とアダムは言いかけたが、胸を
ルネルは、頬を伝う涙をそのままに、アダムの首にすっと腕をまわした。寝台に腰をおろしているアダムは、ルネルの胸に抱かれるような恰好だった。アダムは両手でルネルの腕に触れ、できるだけそっと力をこめて、押し留めた。
「君に、魅力がないというわけじゃない。だが、
「それがあなたじゃ、駄目なの?」
アダムは眼を閉じた。落ちてきたルネルの涙が、アダムの頬を打つ。あたたかい涙。懐かしさのようなものが、こみあげてくる。
「私には、妻がいた。故郷が焼け落ちたときに、いなくなった」
「でも、もうずっと昔の話なんでしょう?」
「そう、気が遠くなるほどの昔だ。だがそれでも、私はいまも彼女を探し続けている。君の気持ちは嬉しい。でも、私にはその資格がないんだ」
「ここを離れて、あなたには帰るところがあるの?」
ルネルは、アダムの頭を抱いたまま、涙を流し続けている。
帰るところなどなかった。自分だけに聞こえる
「おかしいと思うかもしれないが、私には、いまも妻がどこかで生きていて、助けを待って泣いているような気がしてるんだ」
「どこかで、あなたを待っているの?」
「わからない。でも、もし彼女が生きているのなら、私は会いに行かなければならない」
「強い
「男ってのは本当はずっと
「けれど、そうやって決めたことを貫き通すのは、簡単なことじゃないと思う。それは強さじゃない?」
「馬鹿なだけさ、男というのは」
道すがら求める足取り。未だに成果はないが、いつか妻に逢えたら、ルネルの装飾布を見せて話を聞かせてやりたい、とアダムは思った。
突然の訪問にも関わらず、シャビナは盛大な宴席を用意していた。
こんがりと焼き色のついた、羊の骨つき肉が円卓中央の大皿に盛られ、豆を使った料理や色鮮やかな果実や酒が、次々に運ばれてくる。
アダム以上に、ルネルははじめて見る料理とその味に、終始驚き、眼を輝かせていた。故国のことを思い出すのか、ときどき表情を
家族が増えたことがよほど嬉しかったのか、シャビナはいつも以上に酒が進んだらしい。卓に伏せ、
アダムは、飲み残しの酒瓶をひとつ掴み、屋敷の庭先に腰をおろした。尻を落ち着けるのにちょうどいい石があったのだ。
星空に細い三日月が出ている。風はなく、今夜は砂漠の砂も舞っていないようだ。
屋敷から出てくる人の気配があった。星を見ながら酒を飲むアダムの隣に、ルネルが腰をおろす。アダムが酒瓶を
「本当に、孟国はもうないんだって、ようやく少し思えるようになってきた」
ルネルの言葉に、アダムはうなずいて答えた。酒瓶を呷る。酒の残りはあとわずかだ。
「あなたは、死なないでね」
星空に眼をやったまま、ルネルが呟く。声色は、いくらか明るかった。
「約束はできないな。人は死ぬ。その時が来れば。それは明日かもしれないし、ずっと先かもしれない」
「もう。やっぱり装飾布はあなたに貸したことにして、一年に一度、返しに来てもらおうかしら」
「それは勘弁してくれ」
アダムがあげた笑い声は、夜空に吸いこまれるようにしてすぐに消えた。ルネルが、肩にかけた
「いつか、エフレムにもまた会えると思う?」
「会えるさ。互いに生きていれば」
そうね、とルネルが呟いたあと、しばらくお互いに黙っていた。穏やかな静寂だった。街の繁華な通りからは離れているので、騒がしさも伝わってはこない。
「ねえ。最後にひとつだけ、わがままを許してほしいの」
「なんのことだ?」
言い終わらないうちに、アダムの手から酒瓶を取ったルネルが、瓶に口をつけて呷った。
「うわあ、ひどい味ね」
顔をしかめてルネルが言う。
「慣れないとそういうもんだ。それより、禁酒はもういいのか?」
「よくない」
アダムが手もとに取り戻した酒瓶を再び奪い取り、ルネルがぐいと呷った。呷りながら、なぜか横眼でアダムに挑発的な視線を送ってくる。
「おいおい、大丈夫か」
「よくないし、美味しくもない」
「それでも飲むのか?」
「あなたも飲んで」
押して
「ちょっとちょっと、待ってよ、私もあとひと口欲しいんだから」
アダムが飲み干しかけた酒瓶を横から奪い、残りの酒を飲み干すと、ルネルは手の甲で乱暴に口もとを拭った。
元王女のする仕草ではないが、それがやけにルネルらしいもののように、アダムには見えた。
「この空瓶、貰ってもいい?」
面食らった気分でアダムがうなずくと、ルネルは少女のような笑顔で酒瓶を胸に抱き、
それはアダムにとって、どんな報酬の品よりも、価値のある笑顔だった。
夜明けの続唱歌 hidden @hidden
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