往来

 大きな虎だった。

 炳東虎へいとうこと呼ばれる、炳辣国ペラブカナハの東に棲息する虎である。竹で組まれた檻に、窮屈そうに押しこまれている。じっと伏せているが、眼は開いているようだ。時折、耳が動く。それは、アダムのところからも見えた。

 壁の崩れかけた、木組みの小屋をぐるりと見まわす。

 小径こみちからはずれて暗い森をしばらく歩き、この場所に連れてこられた。かび臭く、生活の気配はない。古い農具の置かれた、廃墟のような小屋である。隅に小さな卓があり、床には素焼きの燭台しょくだいが転がっている。卓に置かれているのは、薬草袋のようだ。外で焚火たきびが揺れ動いているため、崩れた壁の隙間から入りこんでくる火明かりを頼りに、アダムは小屋の様子をどうにか把握することができた。

 雨は、いくらか小降りになっている。戸口から見える焚火の場所には、小さな屋根があるようだった。もともと、ごみなどを燃やす場所だったのだろう。

 濡れたまま顔に貼りついた髪の先から、雫が落ちる。いまは、耐えるしかなかった。アダムは後ろ手に縄で縛られ、この小屋に放りこまれているのだった。

 しばらく床に転がっていたが、ひじを使って身を起こし、胡座あぐらをかいて座ることはできた。ここまで背を小突かれながら自分の足で歩かされたので、足はそのままで縛られてはいない。その気になれば立ちあがることもできるが、大人しくしていた。

 小屋の壁には拳ほどの大きさの穴もいくつかあるが、からだが通るほどの隙間はない。外の様子がかすかに見える程度だ。壁の上のほうに、風を入れるための穴が見える。高さはないが、そこも人が通れる大きさではなさそうだった。

 戸口の外には、面体を隠した男が二人立っている。連中は八人組で、あとの六人は焚火のそばで、肉を焼いて食おうとしているようだ。肉の焼けるにおいが、アダムのところまで漂ってきていた。

 手首に食いこむ縄が緩まないか、試みる。当然といえば当然だが、結び方は心得ているようだ。余地はなかった。

 ルネルを竹林の山小屋に残し、炳北へいほく周辺の集落で孟国もうこくのことを調べはじめ、十五日が経っていた。

 アダムは、あえてルネルの使者だと名乗り、孟王城周辺の豪族を訪ね歩いた。孟国の襲撃について嗅ぎまわる余所者よそものとして、自分が目立つ存在となることがわかっていたからである。豪族たちにルネルが生きていると伝える。そうすることで、暗躍あんやくする者をあぶり出せるかもしれない、と考えてのことだった。

 しかし、ルネルの生存を知っても、豪族たちのなかから内通の気配を見せる者が現れることはなかった。

 さまざまな話を聞くうちに、豪族たちがそれぞれに孟王を慕っていたのだ、ということもわかってきた。厳しい王で、ときには反発を買うようなこともあったらしいが、その後の対処に遺漏いろうがなく、豪族たちをまとめていた手腕は確かなものだったようだ。結局、豪族たちの口から糸口となるような話は出てこなかった。

 それでもアダムは、孟国の襲撃を手引きした者がいるはずだ、と見ていた。とはいえ手掛かりらしいものはなにもない。また別の手を考えるしかなかった。

 それからは豪族たちの屋敷を密かに訪ね歩くことをやめ、無造作に集落を渡り歩いて調べることにした。宿の主人や商人だけでなく、隠れ酒場などもまわった。ルネルの使者だということは伏せておいたが、充分に目立つ動きだったはずだ。姿をさらし、動くものを待つ。手もとに使える札がない以上、できることは限られていた。

 三日が過ぎたころ、何者かに尾行つけられはじめた。ようやく、動きがあったのだ。アダムは逃げまどうふりをして、滞在していた集落を抜け出し、その後も追われて、雨中の森で連中に拘束された。それは、アダムの予測していたことでもあった。だからこそ、白杖も荷袋も、はじめからルネルの潜んでいる山小屋に置いてきたのだ。

 八人組の隠術師いんじゅつし。荷物移送の仕事をけ、はじめて山小屋へと向かうときに、月夜の森でアダムを襲った隠術師と同じ一派のようだ。やはり、この一派が孟国の襲撃に関わっていると見て、ほぼ間違いないだろう。八人のうち、少なくとも二人は手練てだれだ。

 板戸もない戸口から、黒い影がぬっと入ってきた。

「喋る気になったか?」

 黒尽くめの男が、くぐもった声で言う。アダムを見つめ、しばらくして息を吐いた。アダムは、ただ黙っていた。

「言葉が通じることはわかっている。だが、炳辣人ペラバではないな。余所者が、どうして孟国のことを嗅ぎまわる」

 ただの使い走りであるという姿勢は崩していない。だがアダムは、連中に尾行られはじめてから訪れた各所で、ルネルの使者であることを何度か口にしておいた。つまりはえさである。豪族たちには効き目がなかったが、今度は垂れた糸に餌をくくりつけただけで、食らいついてきた。

「言え。知っているはずだ、ルネル・グゼイブの居場所を」

「知らない」

 言って、アダムは横を向いた。

「ルネルの使者だそうじゃないか。飼い馴らされた犬は、主人のもとに帰るものだ」

「そう思うなら、なぜ私を拘束した。わざわざ姿を晒すこともなかったのでは?」

「我々には、時がない。何日も歩きまわるおまえを待つのは、無駄というものだ。呼び止めて優しく質問すれば、きっと答えてくれると思ったのさ」

「あんたらに、指示を出しているのは誰だ。直接話がしたい」

 アダムが言い終わらないうちに、足が飛んできた。男の爪先がアダムの鳩尾みぞおちに食いこみ、アダムは思わずうめいて躰を折った。床に横たわる。なにも口にしていないので、こみあげてくるのは液体だけだった。

「勘違いするな。質問するのはおまえじゃない」

 男がアダムの髪を掴み、躰を引き起こされた。

「横になるのはまだ早いぞ。必ず、おまえの口を割らせてみせる。なに、方法はいくらでもあるさ」

 面体は隠してあるが、男は笑ったようだった。かすかな火明かりのなかで、男の冷たい眼が瞬間、光って見えた。

 不意に、外で虎が低くうなった。壁の隙間に眼をやる。虎のそばに屈む人影が見える。あの虎は、なんのために生け捕りにしてあるのか。アダムはしばし考えた。

 一人が駆けてきて、戸口から声をかけた。肉が焼けたようだ。アダムの髪を掴んでいた男の手が離れ、左肩のあたりを蹴って押された。アダムはそのまま、床に躰を倒した。

「腹が減っているだろう。おまえも食いたければ、さっさと喋ることだな」

 言い残し、男は戸口を出て、焚火のほうに歩いていった。

 喋れば、すぐに殺すつもりだろう。隠術師とはそういうものだ。痕跡を残さず、任務を遂行する。ただこの八人組は、以前アダムを森で襲った隠術師たちよりも、いくらか若い印象だった。時がないと言いながら、腹を満たすことを優先しているし、なにより、口数が多い。しかしそれは、ルネルの居場所を吐かせてから殺すという前提で、あえてやっていることなのかもしれない、ともアダムは思った。

 六人が焚火のまわりで、肉を食いはじめていた。戸口に立っている二人は、見張りを続けている。

 連中が、ルネルを狙っていることは確かだ。つまり、孟王城を襲撃した西域、蕘皙国ツァキシュロとなんらかのかたちで通じている、ということだ。

 炳辣国の隠術師が、辺境の小国である孟国を売る。隠術師が単独でやったことだとは考えにくい。おそらく、隠術師たちは何者かの指示を受けて動いている。どこの所属なのか。それを確かめなければ、こうして拘束された意味はない。

 しかし、このまま尋問を受け続けることも得策ではなかった。機を見ていつでも逃げ出せるようにしておかなければ、命の保証はないのだ。

 アダムは肘を使い、再び起きて胡座をかいた。蹴られた腹に、鈍い痛みが残っている。

 しばらくして見張りが交代し、肉を食い終えた男が戻ってきた。

「さて、続けるか。言っておくが、黙っていてもなにもいいことはないぞ。ここにはおまえ一人きりだ。助けはない」

「わかりきったことを言うんだな」

「ほんの親切心さ」

 いきなり、頬を張られた。アダムは口を閉じたまま、男を睨みつけた。

「言え。時間の無駄だ」

 棒で肩を突かれ、背を打たれた。力任せの打ち方ではない。執拗しつようにいたぶるために加減をしてあるのだ。

「どうせ金で雇われた余所者だろう。そんなに路銀が欲しければくれてやる」

 横たわったアダムの眼の前で布袋が開かれる。袋には、銀の粒が詰まっていた。

「いくら積まれても、喋るつもりはない」

「強情なやつだ。なんのための意地だ。頭の悪さだけは認めてやってもいいぞ」

 腹への蹴り。アダムは、膝を胸に引き寄せて耐えた。背を丸めていると、今度は背中を棒で打たれた。

 なぜ、自分はこんなことをしているのか。アダムはふと考えた。言えば、楽になる。いつわりの場所でもいい。そこに行けばルネルが見つかる、と言ってやればいいのだ。簡単なことだ。だが、アダムは言わないと決めていた。それは自分で決めたことなのだ。命を落としても、守らなければならないものがある。それが、男というものではないのか。

 決めたことをやる。それだけだ、とアダムは思った。

 下唇を噛む。口のなかに、血の味が広がっていた。頬を張られたときに、切れたのだろう。男がなにか言っているが、アダムの耳には遠い声だった。

 突然、水を浴びせかけられた。気を失っていたようだ。頭の芯が、痺れたようになっている。

「さあ言え。ルネル・グゼイブはどこだ」

 外で、大きな音がした。雷ではない。咆哮ほうこう。人の叫びがそれに重なる。弾かれたように男が立ちあがり、戸口に立っていた二人が、口々になにか言った。早口で、アダムには聞きとれなかった。

「あの馬鹿どもが」

 吐き捨てて、男が小屋を飛び出していった。

 一度、長く尾を引く嫌な叫び声が響き、再び咆哮が聞こえた。虎が、雄叫びをあげているのだ、とアダムは気づいた。竹の檻が破れたのか。小屋の外は騒然としている。

 アダムは、呻きながらどうにか躰を起こして床に座った。大きく息をつく。背と腹が痛んだが、意を決して立ちあがった。眼の前が、暗くなった。躰が揺れる。倒れそうになったが、踏みとどまった。もう一度、大きく息をついた。

 手首は縛られたままだが、足は動かせる。アダムは、戸口ではなく、部屋の隅に歩み寄った。

 卓の上。後ろ手で探って薬草袋を掴み、袋の口が絞ってあることを確かめた。息を整える。駆けられるか。自分に問いかけるように呟いていた。

 戸口に近づき、外の様子をうかがう。血がにおっていた。焚火を挟んで、隠術師が虎と向かい合っている。檻でうずくまっていたときよりも、虎はかなり大きく見えた。立っている隠術師は二人だけだ。二人以外の隠術師はたおれ、臓物をぶちまけている。見ただけで死んでいることがわかった。

 アダムは姿勢を低くし、じわりと地をうような動きでゆっくりと外へ出た。背と腹が痛む。膝を折りそうになるが、ひたすら耐えた。虎は夜眼が利くが、それは狩りのためのもので、動きの目立たないものはあまり見えないのだ。擦るように足を前に出す。痛めつけられた躰にはきつい動作だが、大きく動けば、虎に気づかれる可能性が高まる。

 壁伝いを進み、小屋の角を曲がると、歩みを早めた。気づかれていない。隠術師たちも、虎に気を取られていた。虎は不利となれば森に逃げるに違いない。アダムが逃げ出したことはそのうち知れるだろう。いまはできるだけ遠くへ、離れることだった。

 腰の高さで折れた木を見つけ、鋭利な破断面に擦りつけて手首の縄を切ると、ようやく手が自由になった。縄の痕が残る手首をさすり、また歩きはじめる。

 いまアダムの手にあるのは、隠術師の薬草袋だけである。それでも、それだけではないものが得られたはずだ、とアダムは考えていた。

 増水した川岸に出た。集落の灯りなども見えず、星も出ていないので方角が掴みにくいが、川伝いを上流に向かうことにした。闇雲に森のなかを歩いていれば、同じところをまわってしまうこともある。北を目指したいところだが、いまはとにかく、確実に距離を伸ばすことだ。

 闇に包まれた森に、小雨が降り続いている。足跡を消すほどに降ればいい、とアダムは思った。

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