五
一頭の
エフレムは首に巻いていた布を取り、絞った。この雨中ではあまり意味がないようにも思えるが、顔を拭いたかったのだ。
流刑で送られるはずだった離島の近くから、これまでほとんど歩き通しである。何日経っているのかもわからなくなりそうだった。
短剣を抜き、駱駝の
削ぎ落とした腿肉を布で包んでぶらさげ、エフレムは水溜りで洗った短剣を拭って仕舞った。
陽が昇ってから移動を続け、水以外は口にしていない。雨雲のせいで早くから薄暗いが、そろそろ陽が暮れはじめるころだろう。腹を満たすことも考えておかなければならない。幸い、狩りなどの手間もなく駱駝の肉は手に入った。あとは野営場所である。先を急ぐ気持ちはあるが、ひと晩じゅう雨に打たれていると、体力が奪われ続けてしまうのだ。
しばらく行くと、
洞穴の入口付近には、雨によって水溜りが広がりはじめている。数日降り続いて水位が増せば、この洞穴も水浸しになりそうだった。使われていない理由は、つまりそういうことだとエフレムは見当をつけた。ひと晩くらいは、問題ないだろう。
洞穴の入口から少し入ったところで腰をおろした。火を
駱駝の肉は、生で食うか。そう考えていたとき、エフレムは妙な音を聞いた。指笛。長く尾を引くような吹き方で、激しい雨のなかでも、遠くまで響くやり方だ。知らない者が聞けば、変わった鳥の
外はすっかり暗くなっている。エフレムは入口のそばまで
指笛。次第に近くなっている。特徴的な吹き方で、なにかを伝えるためのものだということは想像がつくが、エフレムが聞き馴染んだ音色ではない。それでも、指笛の音に耳を立てるようにして反応してしまうのは、
暗闇を飛び交う指笛。音が短くなり、数が増えた。広く散っていた者が、呼びかけ合いながら集まってきたというところか。吹いているのは、やはり隠術師だろう。
どこの隠術師かわかれば、なにか手がかりを掴めるかもしれない。エフレムはそう思い、闇に溶けるようにゆらりと歩き出した。気配を消し、周囲と同化する。草木を揺らす風のようなものだ。
木々を縫うように、するすると闇を歩く。都合のいいことに、いまは森のすべてを雨が包んでいる。少々の物音は、雨が消してくれるはずだ。
隠術師の位置は、すぐに特定できた。道沿いの岩場の下に集まっている。エフレムは、岩壁に貼りつくようにして、先の様子を覗きこんだ。道には
裏手にまわり、濡れた岩に手をかける。エフレムの背丈の倍ほどの高さで、たやすくよじ登ることができた。六歳のころには、滝に打たれながら岩壁を
岩場の上で腹這いになり、隠術師が集まっている場所にじりじりと近づいた。岩場は道に沿うように、先のほうまで続いている。
見おろせる位置まで移動し、エフレムはわずかに頭を持ちあげた。雨のなかに、人影が八人。くぐもった声で、内容は聞き取れなかった。
所属を示すようなものを探したが、見あたらない。装備や面体の覆い方などから判別できることもあるが、闇のなかでは得られるものもたいして多くはなかった。
影が動き出した。やや腰を落とした姿勢で、六人が一定の間合いで扇状に並んで歩いている。周囲を警戒しながらの移動で、闇になにかを探しているようにも見えた。エフレムも中腰になり、岩場の上を進む。下の集団も道沿いを進んでいるので、並走するような
起伏の多い岩場を、滑るように移動する。雨が強くなってきていた。一度連中を追い抜き、待つ間に髪を掻きあげて絞った。全身が濡れている。寒くはないが、衣服がまとわりついて動きは悪い。エフレムは掌で濡れた顔を拭い、口まわりと顎の髭に触れた。雨音。そのなかで、自分の息遣いだけがやけに近く、生々しく感じられた。
なにが目的なのか。夜闇の道を進む隠術師に、目的がないわけはない。張り詰めたような気配も伝わってきていた。連中がなにかを探しているとしたら、それがルネルであるということは考えられないのか。
このあたりは、もうほとんど
自分と同じように西域の連中を追っている。それが一番あり得ることかもしれない、とエフレムは思った。白駱駝の屍骸を見つけ、この道で間違いないと先を急いでいるのではないか。
どうすべきか、エフレムは考えあぐねていた。こちらからなにか仕掛けて、連中の出方を見る、という方法もある。道沿いの岩場も、どこかで途切れるだろう。それまでに、試すかどうかを決めたほうがいい。試すとしたら、どう仕掛けるか。矢を射て数人を仕留めたところで、見えてくるものがあるとは思えなかった。それどころか、警戒されてしまえば隠術師たちの目的を知ることはできなくなる。
さらに、岩場を進んだ。進むほどに、岩場が低くなりはじめている。先は見通せないが、じきに途切れるだろう。エフレムがそう考えていた矢先、道が湾曲して岩場から離れている箇所に行きあたった。追跡を続けるなら、降りるしかない。
暗く、下の地面の様子は見てとれなかった。ここは飛び降りずに、岩壁を伝うほうがいいだろう。隠術師たちが下を通り過ぎるのを待ち、岩壁に手足をかける。登りよりも危険だった。手を離す前に、足をかける場所をしっかりと踏んで確保する。
不意に、右足を乗せた岩が崩れた。思わず声が出そうになったが、どうにか堪えた。岩が塊で落ちたのか、下のほうで意外に大きな音が響いた。地面の倒木にでも当たったようだ。エフレムは右足を浮かせたまま呼吸を整え、そのまま壁を伝って地に降り立った。
指笛が耳を
駆け寄り、草を分ける音。雨音に紛れて、無数の気配が近くに集まってきている。
エフレムの背後は岩壁である。すでに包囲されているのだろう。
片膝立ちで背中を丸め、じっと音を聞いた。草を踏む音。かなり間合いが詰められている。袋の口を絞っていくようなものだ。
「いたぞっ」
響いた低声にエフレムは瞬間、躰を
弓を構えようとしたときにはもう、眼の前を黒い影が横切っていた。
「動くな。動けば殺す」
影が、次々とエフレムの前を横切っていく。すぐには事態が呑みこめなかった。声は、エフレムからいくらか離れたところに向いている。
「拘束しろ」
エフレムと並ぶ位置の岩壁の暗がりから、見知らぬ男が引き出されてきた。後ろ手に縛られた男一人の周囲を六人の隠術師が固め、残る二人の隠術師はなにか言葉を交わしている。
集団が、移動をはじめた。そばに潜むエフレムには眼もくれず、道を引き返していく。遠ざかる気配に、エフレムは大きく息をついた。何者なのかはわからないが、隠術師たちが追っていたのは自分ではなく、あの男だったのだ。
見つかっていてもおかしくはなかった。つがえた
もう一度大きく息を吐き、また濡れた顔を拭った。髭が伸びたな、とエフレムは思った。
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