原野に、煙が立ち昇っていた。

 焚火の煙ではない。エフレム・ヴィクノールは、灌木かんぼくのまばらな岩場に身を潜めた。

 しばらくすると、馬蹄ばていに似た音が響きはじめた。速歩はやあし。それもかなりの数だ。

 間もなく、土煙と地響きが岩場のすぐ下を駆け抜けた。少し待って、エフレムは伏せていた頭をあげた。

 頭に巻いた朱色の布が眼を引く、蕘皙国ツァキシュロ白駱駝らくだ部隊である。去っていくのは、連中が占拠し、駐屯しているはずの孟王もうおう城の跡地から、西域へと戻る方角だった。炳辣国ペラブカナハのほぼ中部地域を、我が物顔で駆けているというわけだ。

 駱駝部隊が遠ざかると、あたりは何事もなかったかのように再び静かになった。

 雨は五日間降り続けたが、昨日の明け方からは一度も降っていない。空を覆ったままの雲は厚く、それでいて陽の気配は強く、岩肌もすっかり乾いていた。原野も土煙が舞うほどには乾いているが、むせ返るような蒸し暑さは、相変わらずである。

 エフレムは、炳北へいほくからあえて西域へと近づくような道を選んで南下を続けていた。

 炳北の離島に送られる道中で、エフレムを護送していた孟国もうこくの兵は倒れた。川で獲れた貝を食ったせいだろう。縛られたまま水以外は与えられず、貝を口にしなかったのはエフレムだけだったのだ。

 縄抜けができないわけではなかった。どうでもいいような気分で大人しく護送されていたが、不意にそれも馬鹿らしくなり、腹をくだして苦しむ無様な兵を横眼に立ち去った。兵の装備から、長剣と短剣をひと振りずつと、あまり質はよくないが弓矢を手に入れてある。

 どこへ向かうかと考えながら適当に歩き、近くの集落のそばを移動していた行商の男から、孟国が襲撃されたことを聞いた。エフレムが流刑となって城を出され、何日も経たないうちの襲撃だったらしい。行商の男は、エフレムを原理神教げんりしんきょうの寺院をまわる巡礼者かなにかと思っているようだった。

 岩場を越えると、また森になった。炳辣国は森が多い。そのため、鳥獣もよく見かけた。茂みには毒蛇が隠れていることも少なくない。慣れているが、歩き方にはそれなりに注意が必要だった。

 駱駝が駆けていったところは、森のなかの小径こみちだった。ここは荷馬車が駆けられるくらいの幅がある。乾いた土にいくつかのわだちも残っていた。轍は深く、荷を満載していたことがわかる。兵糧を運ぶための兵站へいたん線として使われているのだろう。ようやく、西域の連中が移動に使っている道のひとつを、見つけることができたということだった。

 この道を、西へ向かうか、それとも東の孟王城側へ向かうか。エフレムは駱駝のひづめの跡を眼で追いながら、しばし考えた。

 ここはやはり西域に近づいて、連中の動向を掴むべきだろう。孟王城の場所はわかりきっているのだ。西域に近づく途中で、休止している少人数の隊を見つけることが望ましいが、探しまわるための馬はなかった。

 駱駝部隊の駆けたあとを追うかたちで、西へと足を向ける。かんに頼るしかない。いまは、ほかにできることを思いつかなかった。

 エフレムは、孟国の隠術師いんじゅつしだった。物心つくころには森を駆け、岸壁をい登り、馬術や武術を叩きこまれた。それをエフレムが望んだわけではない。炳辣国ペラブカナハでは、生まれたときに進むべき道を示されるのである。原理神教の教義に従って生きるとは、そういうことだった。

 もっとも、からだを鍛えることは嫌いではなかった。師長からは天稟てんぴんがあると評され、王女ルネルの従者のような立場になった。どれほどの歳月をそうやって生きてきたのか。いつの間にか、三十五歳になっていた。

 双魚そうぎょの月の初旬に、城の宝物庫から地図が盗まれるという騒ぎがあった。孟国の水源や、山中の間道までが克明こくめいに記された地図である。盗みが誰の手によるものなのか、エフレムには見当もつかなかった。

 あの日、番兵は孟王に誘われて持ち場を離れ、狩りに出掛けていた。急なことで、代わりは立てなかったという。その隙に、ルネルが立ち入りを禁じられていたはずの宝物庫に入っている。ルネルは保管されている母の形見を見ようとしただけだったようだが、その翌朝、宝物庫から地図が消えていることがわかったのだ。

 番兵が持ち場を離れ、翌日の巡回で地図のことに気づくまでの間に、何者かが侵入したということになる。

 結局、王に誘われて狩りをたのしんだ番兵は一切のせめを負わず、宝物庫の扉を開いたルネルから眼を離していた、という理由で、エフレムが責任の追及をされることになった。

 尋問を受けたが、答えられることはたいしてなかった。ルネルが宝物庫の鍵を持ち出していたころ、エフレムはうまやに立ち寄り、馬の世話をする者と一緒に仔の産まれそうな馬の様子を見ていた。最初の仔が産まれてすぐに死んだので、ずっと気になっていた馬だった。

 罪状が言い渡された。理不尽な死だ、と思った。面白くもない人生だと思っていたが、結末すらも笑えないものなのか。いや、これこそ笑えることなのではないか。エフレムは、どこか他人のことを見るような気分で、そんなことばかりを考えていた。

 引き出されて首をねられるものと思っていたが、流刑であった。拘束され、炳北の離島に捨てられる。つまりは追放である。不思議に恨みすらも湧いてはこなかった。隠術師の首ひとつ刎ねられない孟王だったのか、とかすかな失望の念を抱いたくらいである。

 城が落ちたと聞いても、孟王が死んだと聞いても、心は動かなかった。つまらないことをするやつがいる、と思っただけだ。流刑となったことで、忠誠心のようなものはすっかり失せていた。いまにして思えば、もともと持っていなかったのではないか、という気がするほど、呆気あっけないものだった。

 ただ一人、ルネルのことだけはいまも気になっていた。

 王女と従者の立場ではあったが、不忠だとは思いながらも、どこか妹のように可愛がっていた。ルネルも、エフレムのことを兄のようにしたっていたように思う。城が落ちてすでに四か月ほどが経過しているが、どうにかしていまも生きているのではないか、とエフレムは考えていた。

 情報を集めたかったが、集落などに入りこんでいる者も含め、孟国の隠術師たちとは一切の接触を断っていた。流刑となった自分など、王家に絶対の忠誠を誓う隠術師たちからすれば、逆賊も同然なのだ。面体を隠さず王女の従者として過ごした歳月は長く、エフレムという名と顔は、豪族たちや周辺の集落にも、ある程度知られている。人がいるところは、なるべく避けて歩いていた。行くところはない。ただ、ルネルが生きているなら助けてやりたい。いまエフレムを動かしているのは、そのことだけだった。

 ルネルがどこにいるのかということを、エフレムは歩きながら考え続けた。眼だけは、駱駝の蹄を追い続けている。ときどき泥濘ぬかるんだ地面があり、足をとられた。

 生きているとすれば、やはり逃げおおせてどこかに隠れているか、あるいは蕘皙国ツァキシュロの連中に囚われているかのどちらか、ということになるだろう。

 孟王が討たれたということは、王のそばに置かれる隠術師の主力は、襲撃時には城にあったはずである。とすると、ルネルは襲撃を逃れ、抜け道を使って離脱できたのではないか。孟国の隠術師にとって、孟王に次いで最優先とすべき、次代を担う王家の血である。おそらくは師長あたりが配下に退路の死守を命じ、ルネルを離脱させた。流れとしては、そんなところだろう。

 孟王城には、いまも西域の軍が駐屯しているはずである。一度離脱したとすれば、城にルネルはいない。そう考えるのが自然である。

 離脱後は、どこへ向かったのか。炳都ペラブーハンを目指し南下する、というのが一番ありそうなことだ。都は人も多い。紛れこめば、身を隠すことは難しくないのだ。

 連中の狙いは、どこにあるのか。離脱後に捕らえられ、ルネルがすでに死んでいる、ということも考えられる。孟王は討たれているのだ。連中の狙いがわかれば、ルネルを生かしておくのかどうかということも、ある程度は判断できるはずだ。利用するために生かしておくというのであれば、どこにいると考えるのが妥当なのか。

 襲撃したのが蕘皙国ならば、宝物庫から消えた地図を握っているのも、やはりやつらだろう。いまさら地図などどうでもいいが、地図があるところに連中の首謀者もいる、という可能性は高い。

 首謀者を討つ。自分の命ひとつ捨てたところで、できるのはその程度のことだろう。そうすることで、ルネルを救うことになれば、それでいい。

 ルネルは生きている。とにかく、エフレムはそう思っておくことにした。確かなことがわかるまでは、生きているほうに賭けるべきだ。

 道の真中を歩くことはせず、なるべくそばの木々の間を歩いた。道が直線となっているところでは、意外に遠くから発見されてしまう。先に捕捉されてしまうのは、どう考えても避けたほうがいい。

 前方で、朽ちた倒木にとまっていた鳥が飛び立つ。わずかに割れた雲間から、陽が射していた。全身を、むっとするような地気に包まれているようで、ただ歩いているだけでも息苦しく感じられる。

 小川を飛び越えたところで、木が不自然に揺れた。

 わさわさと音をたて、枝が大きくしなっている。鳴き声。火猛猿かもうえんと呼ばれる、細身の猿だ。木を揺すりながら、激しく鳴きわめいている。威嚇いかくをしているのか。人に馴れて寺院に住み着いているようなものもいるが、それは一部の群れに限ってのことだった。

 エフレムは立ち止まらず、一定の足運びで進んだ。

 離れた位置で威嚇をしているということは、下手に刺激をせず、敵ではないことを教えるつもりで通り過ぎればいい。こちらを怖がっているのだ。ただ通り過ぎる人間に、猿のほうからわざわざ襲ってくるようなことはほとんどない。

 火猛猿をやり過ごすと、開けた場所に出た。いくらか幅のある川の流れが横たわっている。

 駱駝の蹄跡は前方の流れを渡渉としょうしたあと、そのまま西へと続いているようだ。エフレムは、歩いて渡る場所を探した。またいつ降るとも知れない雨が、連中の痕跡を流す前に追いつきたいところだが、こちらは徒歩である。慌てたところで仕方がなかった。

 流れはそれほど急ではないが、大雨のあとで茶色くにごっている。ここらは辺境よりも木々の伐採が進み、土壌が流出しやすくなっているせいもあるだろう。ちょっとした雨でも、すぐに川が土色になるのだ。多少、喉が渇いてきてはいるが、一度沸かさなければ飲めそうもない。エフレムは、諦めて先を急ぐことにした。

 倒れた木が、川のなかほどまで橋の代わりをしている場所を見つけ、それを利用して川を渡る。足場の途切れた位置から跳び、向こう岸に降り立った。

 小径のそばに戻り、川岸から再び西へ続いている駱駝の蹄を追う。このあたりの濡れた土には、くっきりと跡が残っている。途中で二手の分かれ道があったが、迷わずに済んだ。丘は避けて、平地ばかりを選んでいるようだ。周囲は、再び背の高い木々に囲まれた森林が広がっている。

 ふと、駱駝のものではない足跡が現れていることに、エフレムは気づいた。そっと歩み寄り、顔を近づける。

 肉球。炳東虎へいとうこのものだ。かなり大きいが、肉球に横幅がないので雌だろう。もっと横幅のある肉球であれば、およそ雄だと見当がつく。名の通り炳東へいとうに多い虎だが、西域寄りのこのあたりにも棲息しているということが、エフレムには少しばかり意外だった。

 途中から炳東虎の歩幅が広くなった。駆けたようだ。足跡の縁が明瞭で、力強く地を蹴っていることが見てとれる。若いということだ。老いた虎ならば、老練な隠術師のように周囲に溶けこみ、じっと獲物を待つものだ。土に残る足跡は、駱駝の蹄跡と交錯しながら、同じ方向へと向かっていた。

 暑い時季の炳東虎は、陽の高いうちにはあまり出歩かない。陽が傾きはじめてから動き出すことが多かった。まだ陽が暮れるには早いが、遭遇したくはない。息を殺し、しばらく周辺の気配を探った。

 かすかに肌をひりつかせるものがある。緊張感。木の幹に、爪を研いだ痕が刻まれている。指で爪痕に触れると、木肌はかすかに湿っていた。それほど遠くに行ってはいないだろう。

 隠術師は、あらゆるものを利用し、状況を読む。ときには引き抜いた草の根や、落ちていた鱗一枚で、瞬時に状況を判断したりもするのだ。知識だけが多ければいいというものでもない。決めたら、迷わないことだ。

 そしてなにより、みずからの痕跡をほとんど残さずに目的を遂げる。それができてはじめて、隠術師といえるのだ。

 いずれにしても、この森に虎がいるということは間違いない。エフレムは念のため、弓に矢をつがえていつでも放てるように備えて歩いた。

 湖に出た。湖上には枝葉が伸び広がり、その隙間から、幾筋もの光が柱のように水面に落ちている。

 ほとりの木の根元に、うずくまる毛の玉のようなものが見えた。炳東虎。足跡の主ではない。眠っているのはまだ子供だ。小さいが、虎の柄はくっきりと出ている。

 エフレムは、離れた木の陰から様子をうかがった。虎の仔が寝ているということは、近くに親がいるということになる。親の姿が確認できれば、道筋をどうとるかが決められる。

 待った。そばのえぐれた切り株に溜まった雨水が、腐臭を放っている。小さな羽虫も飛び交っていた。

 そのまましばらく待ったが、判断できるようなことはなにも起きなかった。エフレムはゆっくりと立ちあがり、慎重な足取りで歩きはじめた。いつまでもじっとしているわけにもいかない。雨も降りそうな気配である。

 湖からそれるように、左に曲がった道に入った。道幅はある。やはり、兵糧などを積みこんだ輜重しちょうくには手頃な道だろう。起伏も少なく、土も泥濘んでいない。もともと、馬車が通るための道なのかもしれなかった。

 土に残る駱駝の蹄跡が、途切れた。広場のような草地である。踏み跡は確認できるが激しく入り乱れており、エフレムにも方向が読めなかった。揉め事でもあったのか、と思うほどに踏み荒らされているのだ。

 広場の先は、北寄りの道が二本、西へ向かう道が二本。それから、南寄りのものが一本ある。南寄りは獣道のようなもので、荷車などが通れるほどの幅はない。そちらへ向かった可能性は低い。駱駝部隊が進むとすれば、北か、西か。

 西域へ向かっているのだから西だ、とは言い切れないとエフレムは考えていた。連中はここまで、平坦な道を選んで進んできている。そして西の道の先には、小高い丘が見えているのだ。道幅は、北寄りの二本のうち、北西に向かっているものが広い。丘を迂回する道なのかもしれない。

 ぽつぽつと、頬を濡らすものが落ちてきた。雨が降りはじめているのだ。雨季は一度降りはじめると、半端ではない。駱駝の蹄跡も、流れてしまうだろう。ここで道を選び損ねれば、この先で確認できる痕跡はないと思っていたほうがいいだろう。

 賭けた。西ではなく、北寄りの幅広い道を行く。

 まだそれほどひどい降り方ではないが、生い茂る木々の葉がばらばらと打ち鳴らされ、森はすでに雨に包まれているようだった。

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