三
花を見ていた。
深い赤色をした花びらが、中央の黄色い芯のような部分を
繰り返されるその光景を、じっと見ていた。城の中庭に咲いていた花で、名はわからなかった。
ルネルは眼を開いた。見ていたのは、幼いころの何気ない風景だった。四、五歳くらいだろう。雨あがりの中庭に出て立ち尽くし、ただ赤い花を見ていた。いつも見ていたというわけではない。ルネル自身、ずっと忘れていたことだ。なぜ、いまになってそれを思い出すのか。
それ以上は、考えることをやめた。
このところ、ルネルはその初歩すらも満足にできていなかった。火の前に腰をおろして脚を組み、手指を組み、眼を閉じる。しばらくは、取り留めのないことが去来する。そこまでは、変わったことではない。よほどの高僧でもなければ、そういうものなのだ。
エフレム・ヴィクノール。やはりどうしても、頭を離れなかった。姿勢だけは聖御の作法に
エフレムが無事かどうかと考えて、答えが出るわけではない。なにもわかりはしないのだ。それを追いやるために、無理に別のことを考えようとして、幼い日の赤い花のことなどを思い出したのかもしれない。
エフレムは、優秀な
そのエフレムが流刑となったのは自分のせいだ、とルネルは
西域の
流刑となる少し前、エフレムは蛇に噛まれた、と言っていた。少しくらい毒があったほうが刺激があっていい、などと冗談を言って笑っていた。そんな男が、孤島に送られたからといって簡単に死んだりするわけがない。
そこまで考えて、ルネルは唇を噛んだ。
エフレムはきっと、
孟国は滅びた。しかしエフレムが、孟王や王家に対する恨みを抱き、深い憎しみとなれば、いずれ原理神教の教えに背くことになるだろう。宿業を抱えたまま生きれば、死しても魂は救われない。それが原理神教の教えだ。
エフレムに対して、それだけのことをしたのだ、とルネルは思った。聖御の姿勢は崩していない。それでもやはり、心は風雨のなかにあった。
戸が叩かれる音で、とっさに槍を
「
「ルネル様。いかがですか、ご気分は?」
「変わらない。変わってはいけないのだとも思う」
言うと、老婆が顔の
隠術師の師長は、ルネルを中心とした孟国の復興を望んでいた。孟王として担がれたルネル自身はすでに望みを持っていなかったが、師長は状況は変えられると信じていたのだ。少なくとも、岩山に身を寄せていたときには、そうだった。
その岩山も襲撃を受け、散り散りになって追われながら師長が目指すように言ったのが、婆やの小屋だった。ルネルは、幼いころに会ったことがあるようだったが、覚えていなかった。婆やの隠居小屋を訪れたことは、一度もない。
「あいにく山菜しかありませんでな。登りながら罠を仕掛けてきたので、そのうちなにか獲れるといいのですが」
「いいのよ、婆や。無理しないで」
床におろされた竹籠には、茸や木の実などを中心に、
ルネルの心配をよそに、婆やは小屋に転がっていた大鍋を拾いあげ、湯を沸かしはじめた。もともと山菜採りに使われていた小屋で、古くなってはいるが大抵のものは揃っているようだ。
ルネルは、婆やにエフレムのことを
「礼の、荷運びの男。杖を置いて行ったのですな」
訊くより先に、アダムの話になった。婆やが眼をやる奥の壁に、アダムが持っていた白杖が立て掛けてある。
「ええ。必ず戻る、という意味だとか」
「ほう」
それだけ言うと、婆やはもう杖に興味を失ったようだった。
「本当なら、私がルネル様を
「ごめんなさい」
「孟王は、簡単に謝ってはなりませんぞ、ルネル様。この婆やとて、お気持ちは痛いほどわかるのです。真相を知らなければならぬ、というお気持ちは」
手を動かしながら呟くような婆やの口調にも、やはり口惜しさが滲んでいた。現役を
なぜ、西域が攻めこんできたのか。
王家には、父祖から受け継がれてきたそれなりの
ずっと、気になっていることがあった。
かたちとしては
違和感はあったが、それは確実なことではなかった。都は遠い。調べ歩く隠術師も限られていたし、連日の移動で、掴める情報もわずかなものだったのだ。なにより、原理神教の信仰のあり方に照らし合わせて突き詰めていくと、どうしても途中で説明がつかなくなる。信徒がそんな選択をするわけがない、と結局はどんな仮説も説得力に欠けることになるのだ。炳都も、なにかしら動いたはずで、情報を掴めなかっただけなのだ、と考えるのが自然だった。
孟国も炳都も、原理神教の信仰とともにある。確かなのは、それだけである。
「婆やは、アダムさんのことをどう思った?」
「さて、どうですかな。腕は立つ。技倆があるのは、眼や、なんでもない
「なぜ、流れ者の彼が選ばれたのかは知ってるの、婆やは?」
「隠術師であれば、任せずともルネル様を守ります。しかし、それゆえに逃げ切る前に命を落とす者が続出することは予測できました。隠術師とあらば、物資の調達で単独行動しているときにも狙われましたろう。孟国を攻める以上、こちらの動きには眼を光らせていたはず。そこで
「師長が。そうだったの」
「こんなときこそ、我らのような隠居の者が動ければよかったのですが、簪呂国への道は険しく、老いぼれどもには、とてもお守りできるとは思えませんでな。結果として、一応の備えが
「アダムさんは、森で襲われて追われていたとか。その追手は、婆やが引き受けてくれたのよね」
「老いても短剣の投げ方を忘れはしません。小屋の壁の四方にも日頃から仕掛けが施してありましてな。駆けまわるような立ち合いはもうできませんが、老いたぶんだけ工夫する智恵も持っております」
「追手は、どこかの隠術師だったの?」
「ええ。しかし所属を示すものはなにも。面体を覆う布を剥ぎ取ると、
「
「一概にそうとも言えません。西域の
「アダムさんに、手掛かりを持ち帰ってもらうしかない、ということね」
おそらくアダムは、戻ってくるだろう。白杖がここにあるからではなく、そういう男なのだとルネルは明確な理由もなく思っていた。それでも杖を置いていったのは、少しでも安心をさせるためだったのか。
本当は、ルネルが自分で調べてまわりたかった。小屋にいても考えるばかりで、じっとしていることが耐えられなくなってくる。命が惜しいとは思わなかった。だが、投げ出すことはできない。死ななくてもいい者たちが、ルネルを生かすために大勢死んでいった。それを思うと、
「山菜を茹でるまでに、まだしばらくかかります」
言って、ルネルの心の動揺を見透かしたかのように、婆やが脚を組みはじめた。ルネルもあとに続く。
いま自分にできることは、本当になにもないのか。なんのために、王女として生き、孟王として守られたというのか。胸に
壱式静。心の虚しさや動揺を止め、静寂な境地に至る。そんな日が、いつかまた自分にも来るのだろうか。
また、赤い花を見ていた。
忘れていたことがあった、とルネルは気づいた。雫の滴る花を見ながら、待っていたのだ。背後から肩にかけられる、雨除けの
不意に思い出し、思いがけず涙があふれてきた。
それでも眼は開かなかった。音もなく涙が流れていく。それだけを、ルネルははっきりと感じていた。
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