二
降り続けた雨があがり、ますます蒸し暑さが増していた。
気温の高い暑季のほうが、まだ過ごしやすかった。暑季の陽射しは確かに厳しいが、木陰に入れば涼むことはできる。こう蒸し暑いと、建物のなかでじっとしていても汗が流れ落ちてくるのだ。
陽は、中天を少しばかり越えたところである。
「
アダムは、
孟国領内の豪族はそれなりの数があり、戸を叩いてすでに六軒目の屋敷である。正確な情報を得るために、ひとまず十軒は訪ねるつもりだったが、ルネルの父である死んだ孟王の評判はどこに行っても一定しており、もうこれ以上、新しい話は出てきそうもなかった。かなり厳しい人物だったということは、間違いないようである。
「王家の有力者としては、孟王の弟君がおられたとか」
「ああ。孟王が炳獅子なら、弟君はその牙だな。弟君は剣術が達者で果敢だったが、先走るところがあった。すぐに剣の柄に手がいくようなところがあってな。孟王は、そういう弟君の性格を上手く利用していたようなところはあったと思う」
「というと?」
「豪族を集めて意見を述べさせるような場では、弟君はいつも孟王の後ろに立って控えていた。座を見渡せる位置で剣を
言って、男は器に注がれた水に手を伸ばした。四十代後半のようだが、丸顔で
この屋敷には、身のまわりの世話をする侍女を四、五人は置いているようだ。
「
「それはもう。頼れる王だった。頑固な親父という感じでね。ああいう人物が、王になるべきなんだ。戦で死んだなんて、私にはまだ信じられんよ」
「都からなにか言ってくる、というのは、たとえばどんなことでしたか?」
「中央に納める品の質や、銭ならばその額をどうのこうの。あとは、孟国周辺で耕作をしている作物の種類なんかを指示してきたりしていたかな。正直なところ、豪族たちに考えを
「都からの言葉は、絶対ではないということですね。しかし
「孟王は、だからこそ引かなかったんだよ、アダムさん。属国のようなあつかいは、あくまでも
「いい土地です。森を歩くだけでも、肥えた土のにおいがわかります。東の山脈から注ぎこむ河川の支流が無数にあって、雨季が耕地を
「争いごとばかりの人の世も、雨が洗ってくれればいいんだがね」
男は力なく笑って言い、手を振った。話が途切れたので、侍女を呼んで汗を拭かせるようだ。話すうちに汗が滲み、男の褐色の肌は輝いていた。
アダムも軽く汗を拭き、水を飲み干して腰をあげた。王が不在の状況で、
「これで失礼しますが、最後にひとつだけ。話を聞くかぎり、都の
「寺院の多い都を中心として、原理神教が信仰されている。孟国もそれを
「難しいところですね。逆に辺境でなければ、領地を召し上げられて、本当の属国とされていたのかもしれません」
「まあ、確かに悪いことばかりじゃなかった。後ろ盾が大きければ、孟国を攻めようと考える愚か者も現れなかった。これまではな」
急な訪問の非礼を
そのまま集落のはずれまで歩くと、小川に行きあたった。アダムは小さな橋を渡って続く街道ではなく、小川を上流に伝って歩いた。
しばらく、緩やかな斜面を進む。木々はあまり多くないが、背が高い。深く進めば
ただ歩くだけでも、汗が吹き出てくる。ちょっとした丘をひとつ登ると、水を浴びたようになっていた。
七軒目の豪族を訪ねる気力は、湧いてこなかった。馬でも使うのならまた別だが、そうだとしても徒労感に似たものが色濃くある。
小川で喉を潤し、濡らした布で
小さな丘だが、遠くに広がる原野がいくらか見渡せる。静かな場所だった。アダムは、汲んだ水だけを手に倒木に腰を落ち着け、ひと休みすることにした。
山小屋で荷物を拾い、北の
なぜ、そうしたのか。あくまでも荷物の移送が仕事だと割り切り、ルネルを連れて強引に越境することも、できないことではなかった。
真相。それを知らなければ、死んでいった故国の民に顔向けができない、とルネルは言った。アダムを真直ぐに見つめる眼が、焚火に照らされ燃えるような光を放っていた。その燃える眼のなかに、見えるものがあった。炎に包まれる故郷。赤い丘。自分が抱えているものに似ていたのだ、とアダムは思った。
ルネルは、説き伏せて山小屋に残してきた。大人しく待っているとは思えなかったが、真相を知りたければ戻るのを待っているように、と説得したのだ。
山をおりると、老婆のあばら家から細く煙があがっているのが眼に入った。小屋の壁を直した跡があるが、それ以外に変わった様子は見あたらず、入口のほうにまわると、戸の向こうから声がかかった。
追手を引き受けた老婆は、生きていた。信じられなかった。だが、確かに生きていたのである。アダムは、ルネルが老婆の無事を信じて疑っていなかったことを思い出し、思わず訊いていた。
小屋に残したルネルのことを老婆に任せ、立ち去ろうとしたところ、袋が飛んできた。追手を引き受けて貰ったときに、アダムが老婆に置いていった銭袋だった。投げ返されたのだ。
静かだ。遠く離れたところで猿の騒ぐ声が聞こえる。それが、かえって静けさを際立たせていた。
空には、蓋をするように厚い雲が流れ続けている。また、いくらもしないうちに雨が降るだろう。雨季に入ったばかりなのだ。
なぜ孟国が攻められたのか。ルネルが知りたがっているのは、その理由だった。
ルネルはまず、熱心に原理神教を信仰してきたはずの孟国の、一体なにがこのような事態を招いたのか、と考えているようだった。信仰のありようがどこかで間違っていた、あるいは向き合う姿勢が足りなかったために、滅びを招いたのではないか、という思いを抱いているのである。
アダムからすれば、なにをどれだけ信仰していようと、攻めようとする者は現れるものだと思えたが、ルネルにとっては、そうではなかった。信徒として真直ぐに生きてきたからこそ、信仰のありようとはまったく別の理由を欲しがっているようにも、アダムには思えた。ルネルからすれば、宗教と切り離して考えることはできず、それでもどこかで、これは
アダムの突然の訪問を、豪族たちは戸惑った様子で迎えたが、話をすることはできた。
アダムが訪ねた豪族たちは、みな孟王、つまりルネルの父の死を惜しんでいた。豪族たちには信頼されていたようだ。ちょっと厳しすぎた、という声はあったものの、いまのところ、強い反発の声は聞いていない。
すべてに
豪族たちは、孟王城が攻められることを事前に掴めていたら、ともに闘えたはずだった、と口惜しそうに言った。さらに、訪ねた七人の豪族のうち五人は、いまでも王家と王城が残っていれば、協力は惜しまなかっただろう、と続けた。その豪族たちは実際、孟王城が攻めこまれたときにそれぞれで挙兵しており、それでいて力にはなれなかったのだ。彼らが駆けつける暇もないほどに、
孟国と、攻めこんできた西域の
豪族たちから聞いた話によれば、陥落した孟王城には、いまも
確かに炳都の動きは鈍重だが、炳都から孟王城は
ともかく、アダムが最初から気になっていた周辺地域の豪族の離反や、国同士の問題という点では、なにも掴めなかった。西域には勇猛で荒々しい者が多いとはいえ、孟国の治めた炳北地域とは長年、何事もなかったのだ。
水を飲み、息をつく。
東の山並みに、霧がかかっている。山際から湧き出るように立ちこめる濃い霧で、遠く連なる
なにか、自分に見えていないものがあるのだ。霧の向こうには間違いなく、山が隠れている。それでも、いまは見えてこない。霧を除く方法はないものか、とアダムは思った。
ルネルが、もうひとつ気にかけていたことがあった。ルネルにとって兄のような存在であった隠術師、エフレム・ヴィクノールの
ルネルが立ち入った宝物庫から消えた地図。その
エフレム追放の五日後、孟王城は襲撃されている。王女に仕えた優秀な隠術師が、流刑の報復として故国を売るような真似をするだろうか。
エフレムは北部の離島に送られたという話だが、送り届ける任に就いていた六人の兵は戻っていない。それも城の襲撃によって、うやむやになっていた。
考えても、わからないことばかりだった。
やはり、いまは動いてみるしかない。動くことで、少なからず見えてくるものはあるはずだ。
ルネルの使者として話をするために、豪族たちにはルネルが生きていることを伝えざるを得なかった。身を隠すのは山小屋とは言わず、どこかの集落とだけ話してある。もしそこから漏れるようなら、豪族に内通者がいると考えることができる。そうやって、使えるものを使ってみるしかない。
アダムは腰をあげ、白杖を手にまた歩きはじめた。
集落で、なにか食うものを手に入れよう。そう思い立ってからは、なにが手に入るのか、ということに考えを奪われた。
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