降り続けた雨があがり、ますます蒸し暑さが増していた。

 気温の高い暑季のほうが、まだ過ごしやすかった。暑季の陽射しは確かに厳しいが、木陰に入れば涼むことはできる。こう蒸し暑いと、建物のなかでじっとしていても汗が流れ落ちてくるのだ。

 陽は、中天を少しばかり越えたところである。

孟王もうおうは、とにかく厳格なお方だったな。たとえば都からなにか言ってきても、それが少しでも理の通らない話だと判断すると、決して首を縦には振らない。交渉をして譲歩するようなことも、記憶にはないな。私らだったら、立場が悪くなると考えて譲るようなことでもな。気性が荒いというのではないが、炳獅子へいじしのような雄々しさと、なんというか、静かな迫力のようなものがあったよ」

 アダムは、炳辣国ペラブカナハ北辺の、地方豪族のもとを訪ね歩いていた。

 孟国領内の豪族はそれなりの数があり、戸を叩いてすでに六軒目の屋敷である。正確な情報を得るために、ひとまず十軒は訪ねるつもりだったが、ルネルの父である死んだ孟王の評判はどこに行っても一定しており、もうこれ以上、新しい話は出てきそうもなかった。かなり厳しい人物だったということは、間違いないようである。

「王家の有力者としては、孟王の弟君がおられたとか」

「ああ。孟王が炳獅子なら、弟君はその牙だな。弟君は剣術が達者で果敢だったが、先走るところがあった。すぐに剣の柄に手がいくようなところがあってな。孟王は、そういう弟君の性格を上手く利用していたようなところはあったと思う」

「というと?」

「豪族を集めて意見を述べさせるような場では、弟君はいつも孟王の後ろに立って控えていた。座を見渡せる位置で剣をいてな。まあ、実際に抜くようなことはなかったが、つまらない意見を封じさせるには、充分すぎる存在だったよ」

 言って、男は器に注がれた水に手を伸ばした。四十代後半のようだが、丸顔で恰幅かっぷくがよく、一豪族の当主としては若く見えた。炳辣人ペラバらしい褐色の肌に大きな鼻をしており、顔半分は黒髭に覆われ、ひと際眼を引く濃い眉は、左右がほとんど繋がったように生えている。

 この屋敷には、身のまわりの世話をする侍女を四、五人は置いているようだ。炳北へいほく一帯を束ねていた孟国が滅びたとはいえ、暮らしぶりはいまも悪くはなさそうだった。

しい人でしたか、あなたにとって孟王という人物は」

「それはもう。頼れる王だった。頑固な親父という感じでね。ああいう人物が、王になるべきなんだ。戦で死んだなんて、私にはまだ信じられんよ」

「都からなにか言ってくる、というのは、たとえばどんなことでしたか?」

「中央に納める品の質や、銭ならばその額をどうのこうの。あとは、孟国周辺で耕作をしている作物の種類なんかを指示してきたりしていたかな。正直なところ、豪族たちに考えをくまでもなく、退けていたことも少なくなかったはずだ。だから私なんかが知っているのは、ほんの一部の話だと思うよ」

「都からの言葉は、絶対ではないということですね。しかし原理神教げんりしんきょうでは、身分というものを重んじるはずでは?」

「孟王は、だからこそ引かなかったんだよ、アダムさん。属国のようなあつかいは、あくまでも炳都ペラブーハン側の姿勢であって、王としての身分は同じだ、と考えていたわけだ。孟王が治める炳北一帯が、都から分け与えられた領地というわけでもないしな」

「いい土地です。森を歩くだけでも、肥えた土のにおいがわかります。東の山脈から注ぎこむ河川の支流が無数にあって、雨季が耕地をうるおしもする」

「争いごとばかりの人の世も、雨が洗ってくれればいいんだがね」

 男は力なく笑って言い、手を振った。話が途切れたので、侍女を呼んで汗を拭かせるようだ。話すうちに汗が滲み、男の褐色の肌は輝いていた。

 アダムも軽く汗を拭き、水を飲み干して腰をあげた。王が不在の状況で、余所者よそものの長居は迷惑だろう。この集落にも無用な憶測を招きかねない。

「これで失礼しますが、最後にひとつだけ。話を聞くかぎり、都の庇護ひご下にあらずとも、孟国は独力で充分にやっていけていた。にも関わらず、孟王が炳都に対して地方領主のような立場となった理由は、ご存知ですか?」

「寺院の多い都を中心として、原理神教が信仰されている。孟国もそれをり立てていこうということで、先代の孟王が決められたことだ、と聞いている。辺境だからということを理由に軽く用いられるとは、思わなかったのだろう」

「難しいところですね。逆に辺境でなければ、領地を召し上げられて、本当の属国とされていたのかもしれません」

「まあ、確かに悪いことばかりじゃなかった。後ろ盾が大きければ、孟国を攻めようと考える愚か者も現れなかった。これまではな」

 急な訪問の非礼をび、アダムは屋敷を辞去した。

 そのまま集落のはずれまで歩くと、小川に行きあたった。アダムは小さな橋を渡って続く街道ではなく、小川を上流に伝って歩いた。

 しばらく、緩やかな斜面を進む。木々はあまり多くないが、背が高い。深く進めば白斑鹿びゃくはんろく火猛猿かもうえんあたりの獣の姿も見られるだろう。

 ただ歩くだけでも、汗が吹き出てくる。ちょっとした丘をひとつ登ると、水を浴びたようになっていた。

 七軒目の豪族を訪ねる気力は、湧いてこなかった。馬でも使うのならまた別だが、そうだとしても徒労感に似たものが色濃くある。

 小川で喉を潤し、濡らした布でからだを拭いた。飛びこむには小さすぎる流れである。泳いでいるのも小指ほどの小魚で、腹の足しにはなりそうもない。

 小さな丘だが、遠くに広がる原野がいくらか見渡せる。静かな場所だった。アダムは、汲んだ水だけを手に倒木に腰を落ち着け、ひと休みすることにした。

 山小屋で荷物を拾い、北の簪呂国カザクロフトに運ぶ仕事のはずだった。しかし、アダムは炳北の山小屋からきびすを返し、再び南へと戻ることを選んでいた。

 なぜ、そうしたのか。あくまでも荷物の移送が仕事だと割り切り、ルネルを連れて強引に越境することも、できないことではなかった。

 真相。それを知らなければ、死んでいった故国の民に顔向けができない、とルネルは言った。アダムを真直ぐに見つめる眼が、焚火に照らされ燃えるような光を放っていた。その燃える眼のなかに、見えるものがあった。炎に包まれる故郷。赤い丘。自分が抱えているものに似ていたのだ、とアダムは思った。

 ルネルは、説き伏せて山小屋に残してきた。大人しく待っているとは思えなかったが、真相を知りたければ戻るのを待っているように、と説得したのだ。

 山をおりると、老婆のあばら家から細く煙があがっているのが眼に入った。小屋の壁を直した跡があるが、それ以外に変わった様子は見あたらず、入口のほうにまわると、戸の向こうから声がかかった。

 追手を引き受けた老婆は、生きていた。信じられなかった。だが、確かに生きていたのである。アダムは、ルネルが老婆の無事を信じて疑っていなかったことを思い出し、思わず訊いていた。

 隠退いんたいした、孟国の隠術師いんじゅつしだった。老婆は昔の話だと言って苦そうに笑ったが、健在なのは、山菜採りで歩きまわる健脚だけではなかったのである。老婆だけではなく、アダムが仕事をけた雑貨商の老人も、若いころは隠術師だったのだ、と聞かされた。老いた自分たちにできることは限られているが、若き孟王、つまりルネルの力になりたかった、ということだった。

 小屋に残したルネルのことを老婆に任せ、立ち去ろうとしたところ、袋が飛んできた。追手を引き受けて貰ったときに、アダムが老婆に置いていった銭袋だった。投げ返されたのだ。

 静かだ。遠く離れたところで猿の騒ぐ声が聞こえる。それが、かえって静けさを際立たせていた。

 空には、蓋をするように厚い雲が流れ続けている。また、いくらもしないうちに雨が降るだろう。雨季に入ったばかりなのだ。

 なぜ孟国が攻められたのか。ルネルが知りたがっているのは、その理由だった。

 ルネルはまず、熱心に原理神教を信仰してきたはずの孟国の、一体なにがこのような事態を招いたのか、と考えているようだった。信仰のありようがどこかで間違っていた、あるいは向き合う姿勢が足りなかったために、滅びを招いたのではないか、という思いを抱いているのである。

 アダムからすれば、なにをどれだけ信仰していようと、攻めようとする者は現れるものだと思えたが、ルネルにとっては、そうではなかった。信徒として真直ぐに生きてきたからこそ、信仰のありようとはまったく別の理由を欲しがっているようにも、アダムには思えた。ルネルからすれば、宗教と切り離して考えることはできず、それでもどこかで、これは原理げんりの神々が与えた罰ではない、自分たちの信仰は正しかったのだと思いたい、ということのかもしれない。

 アダムの突然の訪問を、豪族たちは戸惑った様子で迎えたが、話をすることはできた。しょうじ入れられたのは、アダムがルネルの使者として、グゼイブ王家の紋が入った小さな土鈴どれいを持っていたからである。ルネルが耳飾りとして身に着けていたものだった。

 アダムが訪ねた豪族たちは、みな孟王、つまりルネルの父の死を惜しんでいた。豪族たちには信頼されていたようだ。ちょっと厳しすぎた、という声はあったものの、いまのところ、強い反発の声は聞いていない。

 すべてに通暁つうぎょうしているような豪族はいなかったが、それぞれの話を照らし合わせていくと、孟国の内情はルネルから聞いていたものと一致していた。

 豪族たちは、孟王城が攻められることを事前に掴めていたら、ともに闘えたはずだった、と口惜しそうに言った。さらに、訪ねた七人の豪族のうち五人は、いまでも王家と王城が残っていれば、協力は惜しまなかっただろう、と続けた。その豪族たちは実際、孟王城が攻めこまれたときにそれぞれで挙兵しており、それでいて力にはなれなかったのだ。彼らが駆けつける暇もないほどに、呆気あっけなく城は落ちている。

 孟国と、攻めこんできた西域の蕘皙国ツァキシュロとは、うらみを抱くような間柄ではなかった。蕘皙国では古くからの牧畜が受け継がれ、孟国では農耕が中心に行われていた。両国間には荒涼とした砂漠が広がっているため、互いに商売をすることもなく、これまでほとんど接触らしい接触もなかったという。そこに、突如として攻め入ってきたきっかけのようなものは、やはり見えてこない。

 豪族たちから聞いた話によれば、陥落した孟王城には、いまも蕘皙国ツァキシュロの軍が駐屯しており、誰も近寄れないらしい。いまのところ、都からの使者が月に一、二度来るだけで、身動きがとれないのだ、と怒りをあらわにしていた。

 確かに炳都の動きは鈍重だが、炳都から孟王城は常歩なみあしの馬で、ひと月ほどはかかる距離である。辺境に対するあつかいというものは、案外こんなものなのかもしれなかった。

 ともかく、アダムが最初から気になっていた周辺地域の豪族の離反や、国同士の問題という点では、なにも掴めなかった。西域には勇猛で荒々しい者が多いとはいえ、孟国の治めた炳北地域とは長年、何事もなかったのだ。

 水を飲み、息をつく。

 東の山並みに、霧がかかっている。山際から湧き出るように立ちこめる濃い霧で、遠く連なる難霆山脈ニクスニデュムの頂を隠していた。

 なにか、自分に見えていないものがあるのだ。霧の向こうには間違いなく、山が隠れている。それでも、いまは見えてこない。霧を除く方法はないものか、とアダムは思った。

 ルネルが、もうひとつ気にかけていたことがあった。ルネルにとって兄のような存在であった隠術師、エフレム・ヴィクノールの行方ゆくえである。

 ルネルが立ち入った宝物庫から消えた地図。そのせめを負うかたちで、流刑となったエフレム。

 エフレム追放の五日後、孟王城は襲撃されている。王女に仕えた優秀な隠術師が、流刑の報復として故国を売るような真似をするだろうか。

 エフレムは北部の離島に送られたという話だが、送り届ける任に就いていた六人の兵は戻っていない。それも城の襲撃によって、うやむやになっていた。

 考えても、わからないことばかりだった。

 やはり、いまは動いてみるしかない。動くことで、少なからず見えてくるものはあるはずだ。

 ルネルの使者として話をするために、豪族たちにはルネルが生きていることを伝えざるを得なかった。身を隠すのは山小屋とは言わず、どこかの集落とだけ話してある。もしそこから漏れるようなら、豪族に内通者がいると考えることができる。そうやって、使えるものを使ってみるしかない。

 アダムは腰をあげ、白杖を手にまた歩きはじめた。生温なまぬるい風を受けながら、丘へと登った道を引き返す。

 集落で、なにか食うものを手に入れよう。そう思い立ってからは、なにが手に入るのか、ということに考えを奪われた。

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