盈虚
一
雨は、断続的に降り続いていた。降りはじめると二刻(約一時間)はやまずに猛烈に降る。暑季ほどの陽射しはないが、日中はとにかく蒸し暑い。
早朝から、周辺の竹林で野鳥を捕らえ、山菜を集めたりして小屋に戻ったあと、半日ほどかけて詳しい事情を聞いた。すでに陽は暮れ、昨夜と同じような雨が降っている。風だけは弱くなっているようだ。
「あなたも、雨を浴びてきたら?」
ルネル・グゼイブ。話を聞けば、
逃げ続けの身で汚れており、しかも槍などを
「そうだな。この山菜を茹で終えたら、そうするか」
ずっと気を張っていたが、追手の気配はなかった。山の麓で老婆が食い止めた、ということなのだろうか。あれだけの殺気を放つ
茹でた山菜を竹籠にあげ、そのまま水にさらしてアダムは腰をあげた。
戸口のそばで着ているものをすべて脱ぎ、雨のなかへ出る。ルネルもここで衣服を脱ぎ、外へ出たはずだ。小屋のなかには視界を
小屋の周囲は、竹林だった。手入れなどまったくされていない。ここでの仕事を
顔に貼りついた濡れ髪を掻きあげながら上を向く。相変わらず、激しい雨だった。打ちつける雨粒は大きく、眼を開けてはいられなかった。
アダムは雨に打たれながら、眼を閉じてルネルの話を思い返していた。
敵は、西域からやって来たという。頭に朱色の布を巻いて幅広の剣を
牧草地の広がる西域には良馬も多い。駱駝だけでなく、騎馬隊もかなりの数、編成されていたようだ。駱駝部隊を迎え撃つ孟国に馬はそれほど多くなく、策尽きて籠城するも水源を絶たれ、なすすべもなく孟王城は攻め落とされた。
王家であるグゼイブ一族は、ルネル一人を残して討ち取られている。逃げ遅れた兵や民も同様に、ことごとく斬り捨てられたようだ。
ルネルを救い出したのは、代々の王家に仕えてきた
隠術師団は、ときには暗殺や謀略をも担う、影の集団である。彼らは信仰を守るために存在していた、というのがルネルの考えだった。
孟国は、
孟国の隠術師たちも、みなが原理神教の信徒だったという。進んで領外へ打って出るようなことはないが、信仰のためという大義があり、そこに孟王の
信仰のために闘う。それによって、生まれながらに与えられた宿業を払い、原理の神々へと近づけるのだ、とルネルは言った。
森でアダムに襲いかかってきたのも、おそらくは隠術師だった。そのことをルネルに話すと、孟国の隠術師ではない、と断言した。信仰に
眼を開き、闇を見つめる。深い闇だった。風に揺れた竹が
アダムは掌で雨水を受け、それで耳を洗った。耳を澄ます。竹林から、なにか聞こえそうな気がしたのだ。待ってみたが、風雨の音だけだった。
北の
しかしルネルは、真相を知らずに生き長らえても、死んでいった故国の者たちに顔向けができない、と嘆いた。声を詰まらせ、震わせながらも気丈に振る舞っていたが、ルネルの大きな眼には涙が浮かんでいた。
その涙がはじめて落ちたのは、ルネルが一人の隠術師について話しはじめたときだった。
エフレム・ヴィクノール。従者のように、常にそばに控えていた隠術師で、ルネルが物心ついたときには、すでに兄のような存在として、ごくあたりまえに隣りにいたという。隠術師たちの多くがするように面体を隠すことはなく、むしろ隠術師であるということを伏せて、ルネルの身を守っていたようだ。
三十五歳にして、岩をも射抜くほどの強弓を遣う武術の達人として、その名は
そのエフレムが、姿を消した。孟国が攻めこまれる五日前のことだった、とルネルは続けた。
亡き母の化粧道具が宝物庫にあると知ったルネルは、父王と番兵が狩りで城を出ているときに、眼を盗んで一人で宝物庫の鍵を開けたという。王からは立ち入りを禁じられていたらしい。
翌朝、近隣の詳細な地図が宝物庫からなくなっている、と番兵から報告があった。地図というのは国の重要な機密である。騒ぎが大きくなる前に、ルネルは前日、宝物庫に入ったことを正直に明かした。地図には心あたりはなかったが、王の
宝物庫の番兵を狩りに連れ出していたのは王であり、結局、仔の産まれる馬を見るために、ほんのひととき、ルネルから眼を離していたエフレムが責任を問われた。ルネルは父王に泣いてすがったが、処刑ではなく流刑としたのは恩情からだ、と一蹴されただけで、エフレムの追放は止められなかったという。
その後、西域、つまり
しばらくなにも考えなかった。ただ、全身を雨に打たせる。蒸し暑さは、いつの間にか遠のいていた。
口を開け、流れこんできた雨水で渇きを潤す。生きている。理由もなく、そう思った。
しかしルネルは、真相を知りたがっている。
不可解な点が、いくつかあった。
西域が境を越え、突如として攻めてきた動機、そして孟国を選んだ理由。孟国の防衛という点でも要人であったエフレムの追放と、それを待ってから攻めてきたような軍勢。何者かの手引きがあったとは考えられないか。
ルネルの言うように、みなが原理神教の教えに忠実だったとすれば、内応し、手引きする者がいたとは考えられない。彼らは、みずからの行為が魂に刻みこまれ、いずれ自分に返ってくると信じているからこそ、一心に信仰を続けていたはずなのだ。
地図は、本当に盗み出されたのか。ルネルの父は頑固で、
しかし実際に孟国は滅ぼされ、王は死んでいる。
地図が盗まれたのなら、盗んだのはどこの勢力なのか。攻めてきた
考え続けたが、まとまらなかった。わからないことが多すぎるのだ。
風が
小屋に入る前にもう一度、背中越しの風を聴く。やはり、耳に届いてくる
躰を拭き、アダムも套衣を羽織って火のそばに戻った。竹林で捕らえた野鳥が、遠火で焼かれており、煙とともにいいにおいが立ち昇っている。小さな鳥だが、三羽獲れていた。
アダムは竹籠にあげておいた山菜を引き寄せ、水気を切ってから短剣で適当に切り分けた。竹ひと節の長さを縦半分に割ってふたつの器にし、そこに刻んだ山菜を分けて盛る。
鳥の肉と一緒に竹筒に詰め、火床に突き刺して蒸し焼きにする、という方法もあったが、ルネルがせっかく鳥を焼いているので、流れに任せることにした。
焼きあがるのを待つ間、と思いアダムは荷袋から酒瓶を取り出した。隠れ酒場の主人から、仕事の報酬と一緒に貰った高級品だ。襲われたときに瓶を割らなくてよかった、とアダムは思った。
ルネルの眼が、鋭く射抜いてくる。
「お酒?」
「ああ。私はべつに、原理神教の信徒じゃないしな」
原理神教では、禁酒が
器に注ぎ、ちょっと掲げて見せてから、口をつけた。とろみがあって甘いが、すっきりとした飲み口だ。西の大陸の酒だろう。
ルネルはじっと冷たい視線を投げかけているが、アダムは取り合わなかった。
鳥が焼けた。
焼けた鳥の肉を削ぎ、山菜を盛った隣に落としていく。ルネルは黙ったまま、アダムの手もとを見つめていた。いくらか伏せたルネルの眼には揺れる炎が映り、艶やかな輝きを放っている。
削ぎ終えた肉に塩を振りかけて、竹の器のひとつをルネルに渡した。竹で作った
肉を口に入れる。蒸し焼きでなくとも、青竹の豊かな香りが肉汁と混ざり合い、口のなかに広がった。美味い。柔らかく焼けており、噛んだところから甘みのある肉汁が飛び出してきた。
「すごく美味しい。久しぶりに食べた気がする、こういうの」
「君の、肉の焼き方がよかったんだ。皮はちょっとだけ焦げていて、なかのほうは柔らかい。焼きすぎると火のなかに脂が落ちてしまって、ぱさついた感じになるんだ」
「城を出てから、肉か魚を焼いてばかりだった。はじめて焼いた干肉は、黒焦げにしたのよ」
「私も、鹿肉を焼きながらぼんやりしていて、片面を真黒にしたことがあるよ」
アダムが言うと、ルネルがかすかに笑ったような気がした。火明かりのなかで、はっきりとは見てとれなかった。
いつかまた、手を叩いて笑えるような日が来ればいい。アダムは、眼を伏せて寂しそうな表情のまま、小さく口を動かすルネルを見て、そう思わずにはいられなかった。
「今夜だけでも、飲まないか。なかなか、いい酒だよ」
「一度も飲んだことないの。実はこうして中身の入った瓶を見るのもはじめて。わかってて言ってるんでしょ?」
「酒が、ほんのひとときだけでも、忘れさせてくれることはある。それで、なにもかも救われるとは言えないが」
「ありがとう。気にかけてくれているのね。でも、忘れようとは思わない。仕事をしたいあなたには悪いけど、やっぱり私は真相を知り、彼らをきちんと
「そうか」
「あなたの宗教は?」
「あいにく、私に信仰はない」
アダムの答えを聞いて、ルネルが
「みなが教えに忠実でないから、
「そうかな」
小枝を使って火床を掻き混ぜ、いくつか薪を足す。食べ終えた竹の器も、アダムは火のなかに放りこんだ。
微妙な話題だった。信じるものは、信じる者が自分で決めればいい、とアダムは思っていた。他人がとやかく言って、なにか大きく変わるものでもない。ただ、これだけが絶対だと固執することは、危ういことだった。正義を掲げた刃で責めるうちに、知らぬ間に自身が斬られ、身を滅ぼすこともある。固執というのは、そういうものだ。
「ここよりずっと西方の、
アダムは、旅先の話をすることにした。ルネルはまだ若く、孟国の外をほとんど知らない。これから視野が広がれば、おのずと見えてくるものもあるかもしれない、とアダムは思った。
「吊床って?」
「木立や柱に布の両端を結び、地から浮かせたまま寝転がって使う、寝具さ」
「ふうん。祈るよりも、寝る場所が大事なのね」
「そうじゃない。彼らは朝から晩まで、精霊に捧げるさまざまな儀式を執り行う。早朝の笛にはじまり、歌や踊りが続く。狩りの前には無事を、獲物を得て戻れば感謝を、また歌や踊りで捧げる。つまり一日中、精霊に祈り続けているわけだ。そして一日の終わりに休む吊床は、精霊の
「でも、自分たちで作った布なんでしょ?」
ルネルが、苦笑するように頬を歪めた。
「彼らは、赤子のころから吊床の布で寝る。死ぬまでずっと、同じ布を直しながら使うんだ。破れても縫い合わせることを繰り返してね。そして死者は、生涯使い続けたその布に包まれ、吊床の掛けられていた場所に埋められる」
「間違ってる。それじゃ弔ったことにはならない」
「私は、そうは思わなかった」
「
「と、原理神教の僧侶は説く。それは、私も聞いて知ってるよ」
言って、アダムは酒の器を
「森深く入りこんでしまった私は、ひと晩、彼らの族長の家に屋根を借りた。族長は、一人息子をまだ小さなころに亡くし、家のなかの地面に埋めていた。息子の吊床を掛けていた場所にな。老いた族長は、息子が家のなかにいる、そう思うと家族は気持ちが安らぎ、自分は息子に会いたいときに、夢で会うことができる、と教えてくれた。もうほとんど見えていない眼に涙は浮かべていたが、笑顔は誇らしげだったよ」
二杯目の酒を呷る。やはり甘い酒だ。一人で飲むには、甘すぎる。とアダムは思った。
「彼らは彼らで、現実を受けとめて、
「それは」
「一度、信徒ではなくなったつもりで世界を眺めてみたら、違ったものの見方もできるようになるんじゃないかな、ルネル。世界は、絶えず変化し続けている。ひとつのことが絶対に正しいなんてことはないんだ、と私は思ってるよ。さっき君が言ったように、吊床は人の手で作られた布かもしれない。だけど彼らは信じている。君が原理の神々を信じるのと同じように」
「でも、原理神教は違う。大昔から受け継がれてきた、正しい信仰よ」
「同じさ。彼らの布を、たかが布だと君は
ルネルはなにか言い返そうとしたが、唇を噛み、そのままうつむいた。
アダムは酒瓶に蓋を叩きこんで、腰をあげた。
「明日の朝、もう一度だけ
「私は行かない。答えは変わらない」
「それならそれでいい。今日はもう休むんだ」
「どうしてなの」
「なにが?」
「どうして、放っておいてくれないの」
ルネルが思いつめた顔をあげ、アダムの眼を覗きこんできた。光の強い、強い意志を宿した眼だ。
「さあな」
「報酬は前金で貰ったんでしょう。放っておけばいい」
「それはできない。請けた仕事はやる。それに、死者を弔わなければ悪霊や怨霊になる、と言ったのは君だ」
「その話、信じてないんでしょ」
「人が、心のよりどころとして信じていることは尊重する。もし吊床が盗まれたと聞けば、危険でも森に探しに行く。私にとっては、吊床も原理神教も同じことだ」
戸惑ったような表情で、ルネルが見つめ続けている。女や子供のひたむきな眼はなんとなく苦手で、アダムは背を向けた。
「とにかく、答えは明日の朝だ。おやすみ」
アダムは戸口のそばに移動して腰をおろし、套衣で躰を包みこんで床板に横たわった。
すぐに、眠りが訪れてくる。ルネルの答えは、一択だろう。
眠りに落ちながら、アダムは再び南に戻ることをもう決めていた。
眼を閉じる。雨音が大きくなり、やがて遠くなっていった。
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