五
横から叩きつけるような、ひどい風雨だった。
昼を過ぎたあたりから
ここに使われていない古い小屋があることは教えられていた。もとはこのあたりで山菜などを採る者が建てた物置らしく、あちこち傷んではいたが、戸板を閉めればどうにか風雨は凌げる。雨漏りが二箇所あったが、それも気にするほどの落ち方ではなかった。
脱いだ
板敷きの小屋の中央には火床が切ってあった。この雨のなか、燃やすものを探しに出るのも馬鹿げていたため、隅に転がっていた
一尾だけの干魚である。あとは口にできるものがなにもない。焦がさないように一度魚を動かし、火のあたる部分を変えると、ルネルは仰向けにごろりと寝転んだ。
若い娘が、と父王の叱る声が聞こえたような気がして、思わず聞き耳をたてる。しばらくじっとしていたが、耳に届くのは激しい雨音ばかりだった。
王女だったころのルネルは、こうして一人で火を熾すこともできなかった。岩山で、ともに過ごした民たちのやり方を見るうちに、棒術や槍術と同じで、火を熾すこともあるところまでは技術だ、とわかった。
それからは身につけるために繰り返しやった。そのうち、自分のやり方が見つかる。基本の型に、自分のやり方を擦り合わせてひとつにする。そうやって覚えたことは躰に染みつき、そう簡単には忘れないのだ。槍と同じで、火を熾すことにも慣れるのは早かった、とルネルは思っていた。
慣れないこともあった。人の死である。
岩山の裾に広がる森に、食糧を調達しに出ていた民が、戻るときに
ルネルは、かつて父王に仕えていた
一頭だけいた馬は、隠術師の師長が伝令を飛ばすために使っており、自分の足で駆ける以外になかった。民とともに声を掛け合って走り続けたが、追手が振り切れず、落伍する者が相次いだ。振り返っている余裕はなかった。敵は白い
結局、森の付近で新手に遭遇したときには、ルネルと若い隠術師が一人、脇腹と
岩山から逃げる自分の背後で、四十人以上が死んだのだ。
なんのための
次の瞬間には、若い隠術師に担ぎあげられていた。揺られながら、景色が飛ぶように流れていく。師長。新手の前に一人残ったままの師長の背中が、小さくなり、やがて見えなくなった。
陽が落ち、いつの間にかまた夜が明けた。ルネルの言葉に耳を貸そうとせず、ルネルの躰を肩に担いだまま駆け続けた若い隠術師は、森を抜け、原野をしばらく行くと、突然膝を折った。
地に放り出されたルネルは驚いたが、すぐに
そこからは、一人で歩き続けた。追手は、一人残った師長が捨て身で片付けたのか。誰もあとを追っては来なかった。
なぜ、死ななければならなかったのか。みなが
こんなとき、父ならばなんと言うのか。そして、エフレムがそばにいてくれたならば。
起きあがり、干魚を刺した棒に手を伸ばす。もう充分に焼けていることは、においで判断できる。動かすと滲み出た脂が火に落ち、じゅっと音をあげた。
魚に息を吹きかけ、かぶりつこうとした瞬間、小屋の外に気配を感じた。
戸板から眼を逸らさず、火から離れた位置にそっと干魚を戻し、壁に立てかけた槍を
雨音で、すぐそばに近づくまで気づけなかった。外は完全に闇に包まれているだろう。人か、
槍は、兵の遣う長柄に手を加えたもので、重さも強度も工夫を重ね、いまではほとんどルネルの躰の一部になっている。ひと突きで、狙った場所を通すことさえできる。これだけは、手放さなかった。
追手なのか。腰を落として槍を構え、戸の向こうの気配を探る。
このあたりに集落はなく、盗賊が出るような場所ではない。そもそも盗るような物がないのだ。やはり獣か。この雨のなか、魚のにおいもそれほど遠くまで届くとは思えない。雨が降るより前に、獲物を探していた獣かもしれない。
戸が叩かれた。
「すまないが、屋根を貸してはもらえないか」
男の声だった。戸口には棒が立ててあり、外からは開かない。しかし頑丈な造りだとも思えなかった。
「かすかに火明かりが見えた。先客がいるようなので、こうして戸を叩いている。返事をしてもらえないだろうか」
戸板の向こうで、雨音に紛れた声は低くこもって聞こえたが、ルネルはあることに気づいた。
どの道、蹴破られれば戸は役に立たない。返事をせず、片手で槍をいつでも突き出せるように握り直して、戸の棒をはずした。狭い戸口である。入ってきた男がおかしな真似をすれば、槍でひと突きだ。息を呑み、両手で槍を構える。
じっと
「ありがたい。いやあ、ひどい雨だな」
そう言って屈託のない笑みを見せた男の口もとに、白い歯が眩しく覗く。惹きこまれるような笑顔だ。年齢はよくわからないが、その笑みは少年のような純真さを漂わせていた。
川からあがってきたばかりのようにずぶ濡れの男は、戸の外に頭だけ突き出す恰好で、濡れた髪を絞りはじめた。ルネルにはちらりと眼をくれただけで、背を向けたのだ。構えた槍にも気づいたはずだが、たじろいだ様子もない。それがルネルの気に
「槍か。遣えるようだな」
衣服の裾を絞りながら、こちらも見ずに男は言った。身構えもせず、挑発しているのかとも思えたが、男の背は隙だらけで武器らしいものも持っていないように見える。短剣くらいは腰にあるのだろうが、あとは白杖と、荷袋が戸口の脇に置かれているだけだ。
「何者なの。このあたりには、誰も住んでいないはずよ」
「これは失礼した。突然押し入っておきながら名乗りもせず」
男は乱れた髪を掻きあげ、こちらに向き直った。顔の半分が部屋の火に照らされて、赤く闇に揺れるように見える。まだ髪の先や衣服からは水がしたたり続けていた。ルネルは、男の左耳からぶらさがったものに、ちらと眼をやった。羽の耳飾りのようだ。
「私は、アダム・シデンス。山で迷ったうえに、この雨ですっかり参っていた」
名乗った男は、また歯を見せて笑った。火明かりだけで眼の色まではわからないが、異国の者だということはなんとなくわかった。どこがどうとは言い表せないが、炳辣国の男の雰囲気とは、どこかが違う。ただ、言葉は
「この山で、なにを?」
「旅人でね。
「嘘が下手ね。ここには、あなたの仕事なんてない」
「そうかな」
「じゃあ、この小屋でなにをするつもりなの」
「言えない。依頼主に他言は無用、と念を押されてるんだ」
やはり西域の者ではない。喋っていると、それはわかった。だが、連中に雇われて自分を殺しに来たのではないのか、とルネルは思った。しかし、それにしては悠長だった。はじめから殺すつもりなら、このやり取りにもまるで意味はないのだ。
ルネルは黙ったまま、槍先をアダムと名乗った男の喉元に向けた。アダムが、ちょっと肩を
「たいした内容じゃない。荷物移送の依頼だ。つまりこの小屋にある大事な荷物を、別のところへ運ぶ、というわけさ」
「なにかの間違いじゃない。見ての通り、この物置にあるのは、山菜採りの古道具だけよ」
「そうか。じゃあ、私は仕事場を聞き間違えたのかな」
「雨宿りに選んだ小屋も、間違いだったんじゃない?」
言って、ルネルは槍を両手で構え直した。相変わらず、アダムに動じた様子はない。
「まあ待て。私は
「それはいいことを聞いた。あんたを槍で突いたあとでも、兎は食べられる」
アダムが低く声をあげて笑った。
瞬間、すべてが静止したような気がした。雨音さえも、聞こえない。どれくらいそうしていたのか、火床で炎が揺れ、じりっと音を立てて二人の影を揺らした。それではじめて、止まっていたものが動き出したように感じられた。
槍先はアダムの躰をかすめた。そのはずだった。ところが、いまその槍はアダムの手にあり、先端はルネルの首筋にそえられている。なにが起きたのか、まるでわからなかった。
「私は剣のほうが得意なんだがな。あまり自分の腕を過信すると早死にするぞ」
落ち着いたままの口調で、アダムが言った。ルネルができたのは、ただ睨みつけることだけだった。
「さて、火にあたらせてもらうとするか」
アダムは無造作に槍を床に放り、ずかずかと火のそばへ行った。套衣を脱ぎ、広げてあるルネルの套衣の横に並べると、残りの着ているものをすべて脱ぎはじめた。アダムの裸を照らすのは焚火の灯りだけだが、ルネルは戸惑って眼を逸らした。
「おかしな男ね」
アダムはまるで気にした様子もなく、脱いだものを入口のそばで絞り、また火のそばへ戻って床に広げていった。ルネルは、雨足が強くなる前だったので套衣を脱ぐだけで済んでいたが、アダムはすべて濡れてしまっているようだ。濡れて重くなった衣服を着こんだまま、どうやって自分の槍をかわすことができたのか、ルネルは何度も首を傾げた。
アダムは全裸でうろうろと小屋にあるものを荒らし、そこから手頃な長さの棒を二本持ってくると、短剣で切り分けた兎肉に刺し、火床に突き立てた。雨のなかですでに血は抜いてあったらしく、少々荒っぽいが手際はよかった。
「座らないのか」
「私を、殺さないの?」
ルネルの眼をじっと見たあと、アダムは鼻で笑った。
「言ったろ。ここへは、仕事をしに来た。それだけだよ」
嘘を言っているようには思えなかった。仕事を請けたというのは多分、本当なのだろう。アダムの歳はやはりよくわからなかった。笑うとどこか幼くも見えるし、黙っていると死んだ叔父と同じくらいのようにも見える。口調は、穏やかだった。
兎肉が焼けはじめた。獣肉は好きだった。祖父は獣肉が苦手で、母はどちらでもなかったが、父は魚よりも獣肉が好きだった。そう考えると自分はやはり、孟王であった父に似ているのかもしれない。
「干魚は、一枚だけか」
「どうして?」
「兎の半分と、魚の半分を交換というのは、どうかな」
「兎はここの屋根を貸す代わりでしょ。分ける魚なんてない」
「なんだ、つれないな」
ルネルは答えずに横を向いた。
雨は変わらず激しく降っている。雨季の雨は二刻(約一時間)もすればやむことが多いが、落ち着く気配はまるでなかった。
しばらくして、兎が焼きあがった。小さな兎だが、焼けた肉は香ばしく、たまらないにおいを漂わせている。
口を利かず黙っていたが、ルネルは
「木の実や種を砕いて
「ふうん。旅の前は、猟師でもやってたの?」
「いや」
焼けた兎の刺さった棒を、ひとつ手渡された。かぶりついて食べるよう、仕草で促される。
息を吹きかけ、かぶりつく。兎肉はどうしても多少の硬さがあるが、振りかけられたものがほのかに香り、獣肉のにおいは薄れているようだ。わずかに塩も振ってあったらしく、噛み続けていると、脂の甘味が滲み出してくる。それが、全身に染みこんでいくようだった。久しぶりに口にしたが、いままでに食べた兎とは違う、眼が覚めるような味わいだ。ルネルは夢中でかぶりつき、気づくと口から溜息がこぼれていた。
「ずっと、旅をしてる」
しばらく食べ進めてから、アダムが口を開いた。
「いろいろ試すうちに、うまいやり方を見つけるんだ。どうやって食うか、捕まえ方にしてもそうだ。まあでも、やってることは猟師みたいなものかな。魚なんかがまとまって獲れたら、近くの集落に売りに行ったり、別のものと交換してもらったりもするよ」
「生まれは
「いや」
「流暢な炳辣国の言葉を喋るから、このあたりなのかと思ったけど」
「しばらく
「耳がいいのね。まったく違和感がないもの」
それきり話が途絶えた。互いにしばらく黙ったまま、兎肉を食べ進める。アダムは、ルネルが仕方なく分けてやった干魚に食らいつき、残った骨だけを口から吹いて、火のなかに飛ばしている。器用なものだ。鮮やかで、不思議と品のあるやり方にすら見えてしまうのだった。
ルネルも食べ終わり、兎の骨を火に投げ入れた。
アダムが火床に割れた板切れを足し、燃えさしで
「明日の朝、仕事をはじめようと思う。この雨が、少しはましになっているといいんだがな」
言いながら、アダムが鍋を火にかけた。外で雨を受けて水を満たした、小さな鍋だった。
「わからない人ね。ここには、あなたの言う荷物なんてないじゃない」
「あるさ」
不意に、アダムの眼がルネルを射抜くように見た。端正な顔立ちが、火明かりに揺れている。
「確かに、この物置にはなにもない。君以外にはな」
「それって」
「
「どういうこと?」
「この仕事を依頼した雑貨商の老人は、危険が伴うことを見越したうえで、荷物の移送を望んだ。人を介して紹介されたが、地元の人間を使いたくない理由でもあったのかもな。この小屋へたどり着くまでの目印と、他言無用の念押し。この手の依頼で、荷物の中身を知らされないことは少なくない。移送の仕事は運ぶことが目的で、中身を知る必要はないからだ。確かにここに来るまで、手厳しい襲撃を受けたよ。なんらかの目的を持った連中だったと思う。そこでもし、私になにか問題が起こったとしても、荷物の移送をする以上の情報は出てこない。それが、あえて荷物という符牒を使った理由だろう」
「私を、どこかへ連れて行くっていうの?」
「北だ。それも越境をして、
「私は、行かない」
ルネルは、少し考えてからそう言った。
「そういうわけにはいかない。報酬は前金で受け取ってる。もう、手もとには残ってないけどな。気絶させてでも連れて行くよ」
「行けないのよ」
叫ぶように、言っていた。言って、ルネルは自分の声の大きさに驚いた。
雨音。遠くで、雷が鳴っている。強風が吹くと小屋が揺れ、それに合わせて雨漏りの水滴が連なって落ちてくる音がした。
「そうか」
いくらかの沈黙のあと、ルネルから眼を逸らしてアダムが言った。
アダムが火から鍋をおろし、器に湯を注ぐ。器から湯気が立ち昇り、焚火の煙と混ざり合っては消えていく。
いつの間にか、アダムの髪先からしたたっていた雫は止まっていた。
「なにも、
「訊かれたくないこともあるだろう。そうだな、名前くらいは教えてもらえるか」
「ルネルよ」
「悪いが、私も退けないんだ、ルネル」
孟王でもなく、王女でもなく、ルネル様でもない。ただ名を呼ばれたのが、ずいぶんと久しぶりだという気がした。その名で呼ぶのは父か叔父、そしてルネルが幼いころからそばに控えていた隠術師、エフレム。
兄のように慕っていた。エフレムが姿を消してから、どれほどの歳月が流れたのか。いろいろなことがありすぎて、遠い昔のことのような気がする。いまもどこかで、生きているのか。生きているのなら、なぜ自分のそばに駆けつけてくれないのか。
「退けないのは、一度請けた仕事だから?」
「この山の麓の小屋で、老婦人に助けられた。追手を引き受けて、自分たちにとって大切な荷物だから頼む、と私に言った」
「婆やが」
「裏切ることはできない」
「どこか似ているのかもしれない、私たち。そんな気がする」
ルネルは言いながら、アダムに対して気を許しはじめている自分に気づき、かすかな戸惑いを覚えていた。
風が小屋を揺らす。雨は、やはり朝まで降りやみそうもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます