気づくと、口ずさんでいた。

 月の詩ウィリルイラと呼ばれる、古びた童唄のようなものである。故郷でうたわれていたもので、アダムは道中の退屈しのぎに声を出すこともあれば、腰をおろして景色を眺めながら、呟くように詩をなぞることもあった。

 新たな土地におもむいたとき、われてうたうこともある。それは、その地に根づく鄙唄ひなうた童唄わらべうた以外に触れる機会のない、いわゆる辺境の村落においてより多く、アダムが酒場や集落の広場で声をあげると、不思議と人が集まりはじめ、みながじっと耳を傾けるのだった。

 薄暮の原野に、草が鳴っている。

 横たわる川を渡渉としょうするために、滄港ソニフテモールから乗ってきた馬車を降り、そこからは荷を担いで歩いた。荷車で揺られ続けて尻も痛くなっていたので、そろそろ降りて歩こうかと考えていたところだった。

 歩きはじめて三日経ち、嵐の船上で痛めた左手首のれは、もうほとんど治まっている。

 いまアダムの歩いている炳辣国ペラブカナハは、肥沃ひよくな土地である。にも関わらず、歩いていても食うものはほとんど手に入っていなかった。苦味のある野草が少々。水はある。あとは昼に行き会った交易商人らしき男から、精地せいちの地方原産である岩塩と交換して得た酒。それくらいのものだ。酒肴しゅこうになりそうなものすらない。こんな日もある、とアダムは思った。

 いよいよ陽が暮れてきたので、適当な岩の近くに荷をおろした。雨の気配はなく、前方の丘と近くの岩場以外は見渡すかぎりの原野で、どこに座ろうが大差はない。

 丘の斜面で薪を集め、火をおこした。肉を焼くわけでもないので、小さな焚火で充分だ。地平が夕陽で滲み、ひと息つくころにはすっかり暗くなっていた。

 酒を取り出し、大きな岩を背にして腰かける。しっかりと栓のされた瓶に入っているのは西域の麦酒で、このあたりでは珍しいものだった。栓を抜き、酒瓶に口をつけようとして、ふと耳に届く音に気づいた。

 水の音。すぐ近くに川は流れていないようだったが、確かに小さく流れが聞こえる。支流があるのかもしれない。飲みかけた酒瓶に栓を叩きこみ、アダムは腰をあげて、音のするほうへ歩いていった。

 背にしていた大岩をぐるりと迂回し、裏手にまわる。そこは少しばかり入り組んだ岩場になっていた。大岩の真裏あたりまで進むと、倒れかかった岩と岩が支え合う恰好で、門のようになっている場所があった。門の奥には洞窟があり、水の音はそちらからかすかに響いているようだ。

 月明かりに、眼が慣れてきた。

 天然の岩門をくぐる。不思議に明るい。そう思って見あげると、洞窟の天井にはきらめく星空が広がっていた。星だけでなく、雲も流れている。

 束の間、星を見つめたまま立ち尽くす。

 天井ではなかった。ありふれた洞窟だと思って立ち入ったがそこに天井はなく、見あげた先には、取り囲む岩壁に丸く切り取られるようにして、夜空が広がっているのだった。アダムは、自分が口を開けたままだったことに気づいた。

 自然にできたもののようだが、星をたのしむために穴の空けられた、大きな丸天井のようだった。おかげで、手灯てあかりがなくても眼が慣れさえすれば、手で壁を伝うこともない。月はまだ低い位置にあり、見えるのは星ばかりである。

 岩門から数歩、足を進める。そこから先は、水場が広がっていた。

 星空の洞窟。そんな名が似合う場所で見つけたのは、湧き水でできた小さな泉だった。丘側にあたる奥の岩間から、地下水が滾々こんこんと湧き出ているようだ。まるで壁がうごめいているかのようにも見えたが、奥の壁一面に滲み出る流れがあり、それがかすかな夜の光を照り返しているのだった。

 周囲には大昔に崩れ落ちたと見える岩がいくつも転がり、瑞々みずみずしいこけに覆われている。どこか神秘的で、古い森を抜ける風のようなにおいに満ちていた。

 ちょろちょろと心地よい流れに耳を傾けながら、しばらくあたりを眺めていると、水の流れ出ている壁の上方に、黒い塊があることに気づいた。

 大きな鳥の巣である。水に入らなければ近づくことはできないが、卵があれば食えるかもしれない。幸い、位置はそれほど高くない。壁近くの水の深さはわからないが、試しに覗いてみようという気になった。腹が減っているのだ。

 水に手を入れてみる。アダムは、再び予想を裏切られた。水ではない。湯だ。

 アダムはふと思い立ち、きびすを返して足早に岩門を出た。

 大岩を迂回し、焚火に戻る。亀裂の入った薪の先に木屑きくずを挟んで、焚火からさっと火を移し、焚火には土をかけて消した。荷と一緒に、集めておいた薪を抱えこみ、また岩門へと向かう。野営場所を変えるのだ。決めてからは、自分でも可笑おかしくなるほどに速やかだった。

 岩門の前に荷をおろし、そこに改めて設けた火床に、先ほど火を移して持ってきた薪をそのまま突き刺した。すぐに火が入り、炎をあげはじめる。

 手頃な薪を二、三本加え、火勢が安定するのを見届けると、アダムは衣服を脱ぎ捨てた。

 水面に夜空の揺らめく泉。飛びこむ。それまでの静寂を押し退けるように、水の音が響き渡った。

 ぬるま湯だが、気持ちのいい清水の温泉だった。水で薄まっているのかもしれないが、温泉特有の鼻をくにおいはない。水の色までは判別できないが、地下から湧き出る水は濾過ろかされており、煮沸せずに飲むこともできる場合がほとんどである。色を見るまでもなく、それくらい澄んでいるということは見当がつく。

 頭の先まで水中に潜り、勢いよく水面に出る。上を向き、顔に貼りついた髪を両手で掻きあげて後ろに流し、ふうっ、と息を吐く。たったそれだけでも、旅の疲れが癒えるようだった。からだから湯の滴る音は、空洞の響きで満たされ、かえってあたりの静けさを際立たせていた。

 ひとしきり湯を愉しみ、思い出して奥の壁に眼をやった。

 鳥の巣。ひと抱えほどもある大きなものだが、親鳥の気配はなく、ひなの声もしない。巣立ったあとの空巣の場合もある。それならそれで仕方ない。そう思い、アダムは壁へと近づいていった。

 足場を探りながら歩いてみたが、泉に極端に深い場所はなく、水深はおよそ膝上くらいのものだった。底には柔らかい砂が溜まっており、歩くと舞いあがって水を少々にごらせる。

 岩肌からの緩やかな流れは右手の岩壁の下を抜けて地中へと消えているらしく、雨でも降らないかぎり、溜まっている水の量が増える様子はなかった。

 濡れた壁に取りついた。滑らないよう、慎重に足場を測る。巣は頭の上方だ。手を伸ばしても届かない。棒で突けば巣ごと落ちてしまうかもしれないので、やろうとは思わなかった。そこに営みがあるのなら、できるかぎりはそっとしておきたいのだ。

 手をかけるくぼみはあった。腫れが治まって間もない左手首にはあまり負担をかけたくはないが、いずれにせよこういった壁を登るには、手よりも足を置く場所が重要だ、とアダムは考えていた。躰を支えるのは、地を歩くのと同様に、足のほうがいい。

 手の届く高さまでは、どの順路で足をかけるか、窪みを撫でて確かめた。適当に登れるほど、足場は多くない。順路を決めていき、その先は目視で見当をつけた。どうにか行けそうだ。

 最初に足をかける岩棚はあった。水面と、ほぼ同じ高さだ。右足で踏み、躰を壁に密着させるようにして泉からあがった。

 指を揃えてかぎのようにした右手が、耳の横あたりの窪みにしっかりとかかった。少し力を加えて引いてみて、微動だにしないことを確かめる。この窪みは、あとで足場に使うつもりだ。滑りやすさはあるが、広さや強度は充分だった。

 左足をあげ、膝の高さにある出っ張りに乗せる。狭いので、親指の爪先でしっかりと踏みこんだ。そうすることで、足首が自由になる。躰の向きが変えやすく、次の一手を得やすくなるのだ。

 左手をかける場所を探す。伸ばした指先に、掴めそうな箇所が触れた。左足の爪先に体重をかけ、躰をぐっと持ちあげる。左手で先ほど触れた箇所を掴む。足場を離れた右の足を乗せる場所。やはり狭いが、親指は乗っていた。

 右、左。躰は壁に密着し、登るときは離れる。同じように繰り返して、いあがった。あくまでも手は躰を支えるだけで、登るのは足の力だ。それを意識しておかないと、手で掴むばかりではすぐに疲れてしまうのである。

 右足が、登りはじめに手をかけた窪みに乗った。右腕は伸ばした状態で、頭上の岩縁を掴んでいる。安定していた。自由になっている左手をぶらぶらと振る。無意識に手首をかばっているらしく、左腕が疲れやすい。

 ひと息ついて、続きに挑む。少しずつ近づいている巣は、やや左斜め上といったところだ。

 新たに左手をかける場所が見つからなかった。腰の近くに、左足をかけられそうな出っ張りはある。迷わなかった。

 左手を、右手と同じ窪みにかける。ぐい、と体重をかけ、躰をしならせる。反動を利用して伸びあがり、さらに上の窪みに左手をかけた。同時に、左足をあげて出っ張りを踏む。左手の窪みに溜まっていた水があふれ、腕を伝って流れ落ちる。あまり時間はかけられない。かといって慎重さを欠くわけにもいかない。

 一度、大きく息を吸った。一気に攻める。そう決めた。

 上に伸ばした左手の指に瞬間的に力をこめ、全身を引きあげる。同時に、右足でわずかな足場を蹴った。全身が持ちあがった瞬間、右手を壁の上方へ移す。溝に指がかかる。滑りかけたが、蹴りあげて別の窪みにかかった右足を突っ張り、なんとか耐えた。全身が、強張っている。全裸でやることではない。ふとそんなことを思い、笑みがこぼれた。

 横を見ると、巣はすでに肩の高さにあった。

 覗きこみ、心がおどった。巣には、拳ほどもある殻の白い卵が五つあったのだ。

 古いものではない。巣の端に、抜けてからそれほど経たない、大きな羽根が引っかかっている。どうやら炳辣国ペラブカナハで大鳥と呼ばれているものが親鳥らしい。大きな爪でねずみなどを捕らえて食う、気性の荒い猛禽もうきんだ。留守でよかった、とアダムは思った。

 大鳥の卵は、炳辣国の都では高値で取引される食材である。左手を伸ばし、卵を掴む。ひとつだけ、失敬することにした。

 卵を抱くようにして泉に飛び降りると、すぐに焚火のそばへ戻った。

 荷のなかから小さな鍋を取り出し、湧き出たばかりの温泉をむ。削った岩塩をひとつまみ加え、火にかけた。

 ぶくぶくと泡立つようにして湯が沸いたところに、唯一手に入れていた野草を投じる。はじめに根のあたりを入れ、ひと呼吸待ってから葉先までを入れる。焚火の明るさだけではほとんどわからないが、深い緑がぱっと明るく色づいたはずだ。ひと手間だが、これだけでも少しは野草のえぐ味が抜けるのである。

 野草を取り出して湯を捨て、今度は空のまま鍋を火にかける。水気が飛んだところに、脂を多く含んだ木の実の種子を入れる。種は鍋のなかで小さくぜて跳ねまわり、少し経つと脂が滲み出してきて、小さく音をたてはじめた。

 そこに軽く絞って水分を切った野草を、適当に千切って放りこんでいく。投げこむたびに、じゅうっ、と小気味のいい音が響いた。木枝を使って掻きまわし、頃合いを見計らって大鳥の卵を割り入れる。そこからはもう、棒で混ぜることはしない。大きな黄身が炎を照り返し、つややかな玉石のように輝いている。

 透明だった白身が白く固まりはじめた。黄身までしっかりと火が通るのを待って、精地せいちの岩塩と、魚の骨をあぶり焼いて磨り潰し、粉状にしておいたものを適当に振りかけ、焚火から鍋をおろした。

 独りの夜には慣れていた。こういった愉しみ方も、いくらか知っているつもりだ。

 アダムは改めて温泉に浸かり、水際に置いた鍋を引き寄せた。

 においは悪くない。つまんで、口に入れた。大鳥の卵は濃厚で、おや、と思うような甘みがある。それが苦味のある野草と合わさって、絶妙に味覚を刺激した。精地の岩塩も、卵の旨味を引き出しているような気がする。最後は野草をつまんで鍋に残る卵を拭い取り、口に放りこむ。あっという間に、食ってしまった。

 息を吐き、頭上を見あげる。雲が晴れ、散りばめた星が月を呼んでいた。

 改めて、酒瓶の栓を抜いた。口をつけ、ぐっとあおる。

 喉がける、ごつい酒だった。強烈なうえに無骨で、一片の愛想もない。だがそれでよかった。あとから甘さの滲み出るような酒は、一人きりで飲むものではない、とアダムは思っていた。そういう酒はかえって、甘さのない現実に引き止めるようなところがあるのだ。誰かと卓を囲んでいるのなら、そういう酒も悪くはないだろう。

 溺れるほど飲むことはほとんどなかった。酔いには弱くないつもりだが、量を重ねようとは思わない。ほんの少しだけ、人生というものを忘れていられる瞬間があればいいのだ。

 背負ってしまったものがある。昏酔するまで浴びたところで、自分の生き方がなにかしら変わるわけではない。どれだけ酔ったとしても、覚めれば現実が待っている。それはつまり、酒を浴びて忘れたら忘れた分だけ、結局は目覚めたときにはらのどこかをえぐられる、ということだった。 

 また、口ずさんでいた。

 うたうことは、好きだった。どんなものでもいい。うたっている間は、ほかのことを忘れていられる。それも理由のひとつかもしれなかった。酒に限ったことではなく、原野を馬で疾駆しっくすることや、絵を描くこともそうだ。一人であることさえも、忘れていられる。

 月の詩ウィリルイラ。夜の美しさと、人の哀しさが幾重にも織りこまれている。

 うたうと、決まって故郷を思い出す。平穏な日々。ともに過ごした彼女のことも。

 あのころ故郷では、祝言をあげるような習慣はなかったので、妻と呼べるのかはわからない。だが彼女とは紛れもなく、そんな間柄だった。

 繰り返し夢に見る、故郷の情景。柔らかな光と、彼女がうたう月の詩ウィリルイラ。未だに、ふと風の音のなかにその歌声を聴いた気がして、振り返るようなことがある。

 そして、焼け落ちた故郷の夢。わざわいの種火。その火をともしたのは、彼女なのかもしれなかった。

 あの日を境に、彼女は姿を消した。故郷とともに炎に呑まれたのだ。しかし、生きている。生きて、どこかで自分を待っているのではないか。なんの根拠もないが、アダムはそう感じていた。

 幾度目かの精地大陸ルービンクォードに、これはと思うような手がかりはなかった。無理もない。彼女がアダムの前から消えたのは、もうずっと遠い昔のことなのだった。

 泉の水面みなもに月が揺れている。下弦の月。時の移ろいは、止まらない。歩き続ければ、いつか出逢える日が来るのだろうか。

 呷る麦酒は、アダムを内側から容赦なく灼くように沁みていった。

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