二
その木陰に入ることは叶わぬと知りながら、民はなぜ苗木を植えるのか。
遠く、戦に荒れた北方の古都を横切るときだったか。
小さな苗木も、長い歳月を経て大樹へと育てば、たとえば照りつける陽射しを避ける木陰を作るようになる。しかし、そのときそこで休むことができるのは、その苗を植えた者ではない。
そこには、祈りがあるのではないか。守り、育てていくことで、後世に伝えていく。あるいは残ってほしい、と願う。自分が生きた証、というほどの明確さはなくとも、ささやかな祈りが、そこにあるはずだ。
苗木は、のちの世に生まれてくる誰かのため、植えられるものなのだ。
アダムはしばし、眼を閉じた。
出立の朝。胸のすくような秋晴れで、いくらか風が出ている。
アダムは小川のそばで続けた野営の跡を片付け、沼の跡に植えた苗木を見ていた。かたわらに、
メルニの姉は、すでに立って歩けるまでに回復したという。外に出ることはしていないが、気力は失っておらず、何日もしないうちに元通りになるだろう。
アダムは荷を担ぎあげ、
しばらく行き、街はずれに差しかかる手前で足を止めた。
「私に、なにか用か」
木の陰に、身を隠す者がいる。姿は見えないが、アダムは構わず呼びかけた。
沈黙のあと、なにかが小径に放り出された。大きな葉に包まれた、
「なんのつもりだ」
放られた兎の肉にちらりと眼をやる。このあたりの
アダムは荷袋をおろして地に置き、腰に手をあてて息を吐いた。姿を見せるまで待ってやる、と伝えたつもりだ。
「あの夜、妖魔の沼に石を投じたのは、おまえだな。それに、ひとつ残っていた仕掛けの縄も切った」
アダムが言うと、少し間を置いて、木の向こうから丸刈り頭の少年が顔を覗かせた。言いあてられて、これ以上隠れている意味がない、とでも思ったのだろう。
はじめはアダムも特に疑いもせず、メルニが石を投じ、縄を切ったものと思っていた。だが、あとで訊くとメルニではなかったのだ。考えてみれば、メルニのあの
「
笑いかけたアダムを、少年の切れ長の眼が射抜くように見た。どこかで見た眼。すぐにわかった。
「その杖」
隠れていた木の横に立つようにして姿を見せた少年が、アダムの手にある白杖を指差した。
「見たんだな、妖魔を
妖魔フロスマヌドゥカ。アダムが、その
「兄ちゃん、魔法を使うのか」
「あれが魔法なものか。そんな便利なものが、私にも使えるといいんだがな」
「でもその杖は、あのとき」
「杖は、ただ杖さ」
アダムは少年の言葉を
滑らかでいくらか光沢のある白杖は、一見するとどこにでもあるような棒切れだが、頭の部分が柄になっており、それを抜けば刃が現れる。
剣身は、冷たく蒼白い光を
だから、よほどのことがないかぎり抜くことはしない。普段は自身でも、これは杖なのだと思い定めていた。
妖魔には、普通の剣や矢が通らないことも少なくない。いまにして思えば、あのときアダムの耳元に触れた蛾は、蒼剣ブラウフォロウを持つアダムに、妖魔の始末を頼みたかったのかもしれない。正常な、森の営みを取り戻すために。
少年が、地に落ちたままの兎肉を黙って指差したので、アダムはうなずいて拾いあげた。縛りあげてある脚のところの結び目が甘い。少年が自分で獲った兎なのだろう。血抜きはしっかりしてあるようだ。
「この兎肉は、有難く貰っておく。これからは、海に出ている親父の代わりに、おまえが母さんを守ってやれよ」
言うと、少年が小さく驚きの声を漏らした。構わず、アダムは荷袋を肩に担ぎあげ、背を向けて歩きだした。
メルニの姉の子。名乗りはしなかったが、切れ長の眼がメルニともよく似ていた。この少年があのとき、街道で衛兵の真似事をする若者二人に訴えていたのは、行方不明になった母のことだったのだろう。
手にした兎肉は、銭の袋よりも重みがあるような気がした。母が生きて帰ったことについての、少年なりの返礼なのだろう、とアダムは思った。
北門から入って街なかを通り抜け、東側の港へ向かった。
朝陽を背に、いくつもの船影が揺れている。
船溜まりの商船のひとつに近づく。
シュルグによる簡単な紹介のあと、しばらく船長と航路や日程などについて話しこんだ。
目指すは海を隔てた北の大陸、
「アダムの船賃は話してあった通りだ、船長」
シュルグが言った。アダムは妖魔退治の報酬として、北の大陸へ渡る商船への同乗を求め、シュルグが馴染みの船に都合をつけていたのである。
最終的な点検が済めば、間もなく出港である。朝の
一旦船長と別れ、シュルグと二人になった。港の端に並んで立ち、それぞれ朝陽に輝く海に眼をやる。
「変わらず見聞の旅というわけか、アダム」
低く笑い、隣で唸るように呟いたシュルグの声が、不思議と胸に沁み入ってきた。それは、アダムが内心で自問していることと、重なっていたためかもしれなかった。
「やはり精地は
「また、呼ばれたのだな」
ならば仕方ない、という響きだった。シュルグは知り合ったころから、アダムが風音などに耳を傾けていることに気づいていた。精地といわれるだけあって、アダムの耳に届く聲について、肯定的に受け入れられる者も、少なくないのかもしれない。
「北西に向かうと言っていたな」
「大陸に渡れば、陸路が続きます。どこかでまた船に頼ることもあるでしょう。目指すのは、さらにずっと遠くです」
「これを、受け取ってもらえるか」
わずかなためらいの表情を見せたあと、シュルグが懐から小さな布袋をつまみ出した。袋の口を広げて返し、振るようにして掌に出した中身をアダムに見せる。
「これは?」
「知っての通り、私には子がおらん。好きで商いに生きてきたのだから、悔いてはおらんがな」
シュルグは言葉を切り、掌に出したものを慎重な仕草で袋に戻した。見せられたのは、なにかの種だ。
「ずっと昔、北西に旅立った親戚がいる。私の
アダムは黙って聞いていた。シュルグが鼻の頭を指先で掻く。照れ隠しの少年が見せる仕草のようだった。
「これは、作物と花の種だ」
シュルグが向き直り、アダムの眼を見てにこりと笑った。皺が深くなり、
「祖父さんの弟は、旅に子を連れて行ったらしい。雲を掴むような話だが、おまえさんがもし、その男の血を継ぐ者に会うことがあったなら、この種を渡してもらいたい」
「人探しはしない」
「わかってる。探し出してほしいわけじゃない。なに、荷物にはなるまいよ。荷袋の隅で邪魔になるようなら、どこか土の肥えたところで捨てても構わん」
言いながら、シュルグは掌に乗せた袋を眼の高さまで掲げた。朝陽を受けて、小さな袋が輝いて見える。祈り。輝きのなかに、それが見えたような気がした。
人が生きる。そのそばには、いつも祈りが寄り添っているものなのかもしれない。自身、あるいは他者の祈り。どこか哀しさや淋しさの色をして、いつもそばに寄り添っている。ここにも、それがあった。
受け取っていた。
小袋を懐に仕舞い、再び並んで海を見る。またこうして二人で話をすることがあるだろうか。シュルグも、似たようなことを考えたのかもしれない。再会のたびに、歳を重ねていた。これまでに機会としては何度もあった別れ際に、一度も持ち出さなかった種。それを今日は、アダムに
「確かに受け取った。捨てたりはしない。けど、必ず渡すなどと、口だけの約束はしないよ、シュルグの旦那」
言うと、シュルグは海を見つめたまま、眼尻の皺を深くしてうなずいた。アダムが受け取った。それだけで満足だ、とでもいうような顔をしていた。
水売りの仕事があるらしく、シュルグとはそこで別れた。男の別れに、飾る言葉はいらない。シュルグも、ただ肩越しに手を振りながら去っていった。
アダムはそばの小さな砂浜におりて、船が出るまでの間、浜に打ち寄せる朝陽に沿って歩くことにした。荷袋は、すでに預けて船に積みこんであり、手には白杖だけがあった。
泱街の港が面しているのは東に広がる内海で、遠く向かいの陸地が見える。そこも精地である。アダムの乗る商船は、北から大海に出るのだ。
砂浜に、鈍く光るものがあった。古びた金貨。拾いあげてみると、いまでは使われていない大昔のものだった。波と歳月が、ここに運んだのだろう。指先で弄び、親指で弾いて宙に飛ばし、掌で受けた。
出航前の点検が終わった気配があり、アダムは砂浜を歩いて戻りはじめた。
浜から船溜まりにあがる段差の手前で、不意に呼び止められた。振り向くと、朝焼けの波打ち際を駆けるメルニの姿が眼に飛びこんできた。
息を乱しながら駆け寄ろうとするメルニを、アダムは手で制した。
「アダムさん、あたし」
「頼む。それ以上、言わないでくれ」
「でも」
メルニの涙ぐんだ眼が、横からの朝陽を映して潤んでいる。波音。潮風がメルニの眼にしみたのだ、とアダムは自分に言い聞かせた。
「口づけは、月夜の夢のままにしておこう」
言ったアダムの言葉を振り払うように、メルニが胸に飛びこんでくる。抱きとめた。腕のなかで、華奢で頼りない躰を震わせ、声を漏らして泣きじゃくっている。砂の上に、二人の重なる影と、手を離れた白杖が転がっていた。
アダムはメルニの背を流れる黒髪を撫で、髪に鼻先を
「ここを離れがたくなってしまう。行かなければ。
アダムは聲、と言ったが、港から船員がアダムを呼ぶ声と重なった。メルニはそちらと受け取っただろう。
泣き声。出会えば、別れる。嫌というほど繰り返してきたことだ。
仰ぎ見た天には、つがいらしき二羽の水鳥が、わめくように啼きながら飛び交っていた。
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