その木陰に入ることは叶わぬと知りながら、民はなぜ苗木を植えるのか。

 遠く、戦に荒れた北方の古都を横切るときだったか。瓦礫がれきだらけの街の広場で、そんな言葉を耳にしたことがある。細かな記憶は曖昧あいまいだが、生きのびた民衆に訴えかけられていたその言葉を、アダムは鮮明に覚えていた。

 小さな苗木も、長い歳月を経て大樹へと育てば、たとえば照りつける陽射しを避ける木陰を作るようになる。しかし、そのときそこで休むことができるのは、その苗を植えた者ではない。

 そこには、祈りがあるのではないか。守り、育てていくことで、後世に伝えていく。あるいは残ってほしい、と願う。自分が生きた証、というほどの明確さはなくとも、ささやかな祈りが、そこにあるはずだ。

 苗木は、のちの世に生まれてくる誰かのため、植えられるものなのだ。

 アダムはしばし、眼を閉じた。妖魔ようまに喰われた者の魂魄こんぱくが、ここに縛られることのないように。それもまた、祈りだった。

 出立の朝。胸のすくような秋晴れで、いくらか風が出ている。

 アダムは小川のそばで続けた野営の跡を片付け、沼の跡に植えた苗木を見ていた。かたわらに、精地せいちの文字でアダムの名が刻まれた板が立っている。メルニがアダムの短剣を使って刻んだものだ。どこか気恥ずかしいような気もするが、引き抜こうとは思わなかった。それを立てたメルニの、やけに嬉しそうな笑顔が眼に焼きついている。

 メルニの姉は、すでに立って歩けるまでに回復したという。外に出ることはしていないが、気力は失っておらず、何日もしないうちに元通りになるだろう。

 アダムは荷を担ぎあげ、泱街オーペムガーナへ続く森の小径こみちを歩きだした。

 しばらく行き、街はずれに差しかかる手前で足を止めた。

「私に、なにか用か」

 木の陰に、身を隠す者がいる。姿は見えないが、アダムは構わず呼びかけた。

 沈黙のあと、なにかが小径に放り出された。大きな葉に包まれた、兎肉うさぎにくである。葉の端から縛られた兎の脚が覗いていたので、すぐにそれとわかった。

「なんのつもりだ」

 くが、答えはない。かすかに身動みじろぎする気配があった。落ち着きのない、わらべのものだ。

 放られた兎の肉にちらりと眼をやる。このあたりのあきないで見られる、葉を使った包み方だ。しかしあがなったものではないのか、どこか不慣れで、ぎこちない包みである。

 アダムは荷袋をおろして地に置き、腰に手をあてて息を吐いた。姿を見せるまで待ってやる、と伝えたつもりだ。

「あの夜、妖魔の沼に石を投じたのは、おまえだな。それに、ひとつ残っていた仕掛けの縄も切った」

 アダムが言うと、少し間を置いて、木の向こうから丸刈り頭の少年が顔を覗かせた。言いあてられて、これ以上隠れている意味がない、とでも思ったのだろう。

 はじめはアダムも特に疑いもせず、メルニが石を投じ、縄を切ったものと思っていた。だが、あとで訊くとメルニではなかったのだ。考えてみれば、メルニのあの華奢きゃしゃな腕では続けざまに石を放ることはできないし、縄を切る刃物の類も持ってはいなかったのである。

勇敢ゆうかんだな。危ないところだったが、おかげで助かったよ」

 笑いかけたアダムを、少年の切れ長の眼が射抜くように見た。どこかで見た眼。すぐにわかった。

「その杖」

 隠れていた木の横に立つようにして姿を見せた少年が、アダムの手にある白杖を指差した。

「見たんだな、妖魔をたおすところを」

 妖魔フロスマヌドゥカ。アダムが、そのからだを斬った。妖魔は大量のに覆われ、最後は地に呑まれるように消滅したのだった。

「兄ちゃん、魔法を使うのか」

「あれが魔法なものか。そんな便利なものが、私にも使えるといいんだがな」

「でもその杖は、あのとき」

「杖は、ただ杖さ」

 アダムは少年の言葉をさえぎり、笑って答えた。

 滑らかでいくらか光沢のある白杖は、一見するとどこにでもあるような棒切れだが、頭の部分が柄になっており、それを抜けば刃が現れる。

 蒼剣そうけんブラウフォロウ。故郷の長老樹に奉じられていたもので、その名で呼ばれていた。

 隠具いんぐに数えられる仕込み杖などと呼ばれるものとは、根本的に違った。仕込み杖が、暗殺目的や護身用として刃を隠し、普段は杖をよそおって使用されるのに対し、蒼剣ブラウフォロウはもともと、杖を模したものではないのだ。見た目が白い棒切れなので、アダムが勝手に杖にして歩いている。それだけのことだった。

 剣身は、冷たく蒼白い光をたたええている。大河のように深い流れが感じられ、底の知れない光だ、とアダムは思っていた。刃こぼれひとつない剣身を見つめていると、不意に惹きこまれるような感覚に陥る。そこに危ういものを感じずにはいられなかった。そしてなにより、斬れすぎた。風をぐような手応えで、岩のような外殻を持つ妖魔を両断していたこともあったのだ。

 だから、よほどのことがないかぎり抜くことはしない。普段は自身でも、これは杖なのだと思い定めていた。

 妖魔には、普通の剣や矢が通らないことも少なくない。いまにして思えば、あのときアダムの耳元に触れた蛾は、蒼剣ブラウフォロウを持つアダムに、妖魔の始末を頼みたかったのかもしれない。正常な、森の営みを取り戻すために。

 少年が、地に落ちたままの兎肉を黙って指差したので、アダムはうなずいて拾いあげた。縛りあげてある脚のところの結び目が甘い。少年が自分で獲った兎なのだろう。血抜きはしっかりしてあるようだ。 

「この兎肉は、有難く貰っておく。これからは、海に出ている親父の代わりに、おまえが母さんを守ってやれよ」

 言うと、少年が小さく驚きの声を漏らした。構わず、アダムは荷袋を肩に担ぎあげ、背を向けて歩きだした。

 メルニの姉の子。名乗りはしなかったが、切れ長の眼がメルニともよく似ていた。この少年があのとき、街道で衛兵の真似事をする若者二人に訴えていたのは、行方不明になった母のことだったのだろう。

 手にした兎肉は、銭の袋よりも重みがあるような気がした。母が生きて帰ったことについての、少年なりの返礼なのだろう、とアダムは思った。

 北門から入って街なかを通り抜け、東側の港へ向かった。

 朝陽を背に、いくつもの船影が揺れている。

 船溜まりの商船のひとつに近づく。もやい綱の近くで、体格のいい船長らしき男と話していたシュルグが、アダムに気づいて手招きをした。

 シュルグによる簡単な紹介のあと、しばらく船長と航路や日程などについて話しこんだ。

 目指すは海を隔てた北の大陸、炳辣国ペラブカナハ。この泱街オーペムガーナの港を離れ、点在する島々を伝うようにして、数回の水と食料の補給を受けながら北西へと向かうという。アダムたちが話している間も、船員たちは慌ただしく、船上と岸を行き来して動きまわっていた。規律は、かなりしっかりしているようだ。

「アダムの船賃は話してあった通りだ、船長」

 シュルグが言った。アダムは妖魔退治の報酬として、北の大陸へ渡る商船への同乗を求め、シュルグが馴染みの船に都合をつけていたのである。

 最終的な点検が済めば、間もなく出港である。朝のなぎで、海は穏やかだった。

 一旦船長と別れ、シュルグと二人になった。港の端に並んで立ち、それぞれ朝陽に輝く海に眼をやる。

「変わらず見聞の旅というわけか、アダム」

 低く笑い、隣で唸るように呟いたシュルグの声が、不思議と胸に沁み入ってきた。それは、アダムが内心で自問していることと、重なっていたためかもしれなかった。

「やはり精地はこえがよく聞こえます」

「また、呼ばれたのだな」

 ならば仕方ない、という響きだった。シュルグは知り合ったころから、アダムが風音などに耳を傾けていることに気づいていた。精地といわれるだけあって、アダムの耳に届く聲について、肯定的に受け入れられる者も、少なくないのかもしれない。

 精地大陸ルービンクォード。大精霊ルービンオーテが、この大地を創りだしたという。それゆえ、古くからこの地で生きてきた者たちは大地に敬意を払い、土地の所有者ではなく、土地の一部として生きているのだった。

「北西に向かうと言っていたな」

「大陸に渡れば、陸路が続きます。どこかでまた船に頼ることもあるでしょう。目指すのは、さらにずっと遠くです」

「これを、受け取ってもらえるか」

 わずかなためらいの表情を見せたあと、シュルグが懐から小さな布袋をつまみ出した。袋の口を広げて返し、振るようにして掌に出した中身をアダムに見せる。

「これは?」

「知っての通り、私には子がおらん。好きで商いに生きてきたのだから、悔いてはおらんがな」

 シュルグは言葉を切り、掌に出したものを慎重な仕草で袋に戻した。見せられたのは、なにかの種だ。

「ずっと昔、北西に旅立った親戚がいる。私の祖父じいさんの弟で、私は顔も見たことはないが。屈強な男だったそうだ」

 アダムは黙って聞いていた。シュルグが鼻の頭を指先で掻く。照れ隠しの少年が見せる仕草のようだった。

「これは、作物と花の種だ」

 シュルグが向き直り、アダムの眼を見てにこりと笑った。皺が深くなり、ほころんだ顔に人懐こさが覗く。

「祖父さんの弟は、旅に子を連れて行ったらしい。雲を掴むような話だが、おまえさんがもし、その男の血を継ぐ者に会うことがあったなら、この種を渡してもらいたい」

「人探しはしない」

「わかってる。探し出してほしいわけじゃない。なに、荷物にはなるまいよ。荷袋の隅で邪魔になるようなら、どこか土の肥えたところで捨てても構わん」

 言いながら、シュルグは掌に乗せた袋を眼の高さまで掲げた。朝陽を受けて、小さな袋が輝いて見える。祈り。輝きのなかに、それが見えたような気がした。

 人が生きる。そのそばには、いつも祈りが寄り添っているものなのかもしれない。自身、あるいは他者の祈り。どこか哀しさや淋しさの色をして、いつもそばに寄り添っている。ここにも、それがあった。

 受け取っていた。

 小袋を懐に仕舞い、再び並んで海を見る。またこうして二人で話をすることがあるだろうか。シュルグも、似たようなことを考えたのかもしれない。再会のたびに、歳を重ねていた。これまでに機会としては何度もあった別れ際に、一度も持ち出さなかった種。それを今日は、アダムにたくそうという気になったのだ。

「確かに受け取った。捨てたりはしない。けど、必ず渡すなどと、口だけの約束はしないよ、シュルグの旦那」

 言うと、シュルグは海を見つめたまま、眼尻の皺を深くしてうなずいた。アダムが受け取った。それだけで満足だ、とでもいうような顔をしていた。

 水売りの仕事があるらしく、シュルグとはそこで別れた。男の別れに、飾る言葉はいらない。シュルグも、ただ肩越しに手を振りながら去っていった。

 アダムはそばの小さな砂浜におりて、船が出るまでの間、浜に打ち寄せる朝陽に沿って歩くことにした。荷袋は、すでに預けて船に積みこんであり、手には白杖だけがあった。

 泱街の港が面しているのは東に広がる内海で、遠く向かいの陸地が見える。そこも精地である。アダムの乗る商船は、北から大海に出るのだ。

 砂浜に、鈍く光るものがあった。古びた金貨。拾いあげてみると、いまでは使われていない大昔のものだった。波と歳月が、ここに運んだのだろう。指先で弄び、親指で弾いて宙に飛ばし、掌で受けた。

 出航前の点検が終わった気配があり、アダムは砂浜を歩いて戻りはじめた。

 浜から船溜まりにあがる段差の手前で、不意に呼び止められた。振り向くと、朝焼けの波打ち際を駆けるメルニの姿が眼に飛びこんできた。

 息を乱しながら駆け寄ろうとするメルニを、アダムは手で制した。

「アダムさん、あたし」

「頼む。それ以上、言わないでくれ」

「でも」

 メルニの涙ぐんだ眼が、横からの朝陽を映して潤んでいる。波音。潮風がメルニの眼にしみたのだ、とアダムは自分に言い聞かせた。

「口づけは、月夜の夢のままにしておこう」

 言ったアダムの言葉を振り払うように、メルニが胸に飛びこんでくる。抱きとめた。腕のなかで、華奢で頼りない躰を震わせ、声を漏らして泣きじゃくっている。砂の上に、二人の重なる影と、手を離れた白杖が転がっていた。

 アダムはメルニの背を流れる黒髪を撫で、髪に鼻先をうずめた。陽溜まりのにおい。哀しくなるほどにあたたかな、穏やかな陽溜まりだった。そのまま、わずかな間だけじっとしていた。

「ここを離れがたくなってしまう。行かなければ。こえが、呼んでいる」

 アダムは聲、と言ったが、港から船員がアダムを呼ぶ声と重なった。メルニはそちらと受け取っただろう。

 泣き声。出会えば、別れる。嫌というほど繰り返してきたことだ。

 仰ぎ見た天には、つがいらしき二羽の水鳥が、わめくように啼きながら飛び交っていた。

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