灰燼

 聞いていた話に、間違いはなかった。

 炳東へいとうの海辺に住む旧友、ギーオのもとには、実に細かな情報が集まってくるようだった。炳辣国ペラブカナハの各地には、ギーオが育てた者たちがいるのだ。

 だが、それだけではない。ギーオは集まった情報を吟味し、擦り合わせる。そこから、隠れて見えていなかった事柄まで拾いあげるのだ。はじめは噂話のようにあやふやなものでしかなかった情報が、そうやって確かな情報へと変わっていく。

 必ず複数の見聞を合わせて考えるようにし、単独の情報には、いかなる判断もくださないのだという。わからないことは、わからないものとして置いておく。無理にこじつけてわかった気になるよりも、そのほうがいいのだ、とギーオは言っていた。

 エフレムがまず確かめることになったのは、この通路の存在だった。入口は森のなかにあった。腹這いにならなければ入れない、蛇のねぐらのような狭い穴から、岩だらけの洞窟へと続き、いまは石の積まれた地下道へと差し掛かっていた。

 壁伝いに、するすると進んだ。暗闇だが、わずかに風の通りがある。隠術師いんじゅつしとして生きてきたエフレムには、それがわかれば充分だった。夜眼も利く。地下道に入ってからは歩きやすくなり、およその状況を見てとることもできていた。

 東の森から、すで六刻(約三時間)ほど西へ進み続けている。そろそろ、頃合いだと思えた。

 それから半刻(約十五分)ほど進むと、開けた場所に出た。暗さは相変わらずだが、足音の響き具合からして、せいぜい寒村の小さな寺院ほどの広さの空間だろう。それも、ギーオの情報と合っていた。

 北側の壁を探る。積まれた四角い石のなかに、様子の違うものを求めた。ざらついた石壁を撫でながら、端から端へと往復する。下の列から二段ずつ撫で、六往復したところで表面の滑らかな石を見つけた。

 石の左側に両手を掛け、右へと押す。ずず、とわずかずつだが動きはじめた。エフレムは、石が動かなくなるまで、そのまま押し続けた。

 石が止まるころには、壁のなかへと続く通路が口を開けていた。動かした石壁は、隠し扉になっていたのだ。目印を知らなければ、到底見つけることはできなかっただろう。エフレムは地を蹴り、腰の高さに開いた通路に駆けあがった。

 ギーオは、この地下道に石を運んだ元坑夫の老人を知っていた。以前、その老人から枝分かれするように、構造に通暁つうぎょうする者を洗い出したことがあったようだ。

 通路の先も、迷路のように入り組んでいた。かび臭さとえたにおいが充満している。建造されて以来、おそらく使われたことは一度もないだろう。

 右、左、扉。頭に刻みこんだ順路で進む。さらに一刻ほど歩き続け、ようやく目指していた場所までたどり着いた。

 行き止まりの石壁に梯子はしごがある。見あげてみるが暗く、どれくらいの高さかは確認できない。あれこれ考えるよりも先に、エフレムは梯子に取りついた。丸太を組んだ頑丈な梯子である。傷んではいるが、ひどく朽ちたりはしていないようだ。

 足場となる梯子のを踏むたび、ほとんど無意識に数を足していた。隠術師の習性のようなものだ。登り終えて六十四段。格の間隔と合わせることで、およその高さがわかる。たとえ闇のなかでも、それを知っておくかどうかで、いざというときの身の処し方や退路の選択にも幅ができるのである。

 天上を塞ぐ戸板に手を掛ける。横に滑らせるように動かすと、隙間から砂が流れ落ちた。身構えるような気持ちでいたが、水は出てこなかった。代わりに、かすかな光が漏れ出してくる。板をどけ、顔だけを出す。薄闇のなかに、周囲を丸く取り囲む石壁が見えた。ギーオの情報通り、枯井戸の底に出たようだ。

 エフレムは井戸の底に腰をおろして、光の射しこむほうを見あげた。井戸の上部には雨除けに屋根が設けてあるようだったが、夕刻であることだけは確認できた。雨は降っていない。ここまでは、すべてエフレムの予定した通り進んでいる、ということになる。

 炳都ペラブーハン。すでにその深部まで侵入していた。

 攻城戦の備えとして、炳王へいおうが離脱するために建造された、という抜け道を使った。内部の順路だけでなく、その存在自体もギーオに教わったことである。炳都の東の森、つまり抜け道の出口からさかのぼってきたのだ。エフレムがいま潜んでいるのは、炳王府の裏庭にある、枯井戸のはずである。

 孟王城にも、同じような王の抜け道があった。王族と隠術師の上層部しか知らされていなかったが、襲撃を受けたときに実際に使われたのかどうか、知りようはなかった。

 地下の暗闇から、薄い光に眼を慣らすため、しばらくじっとしていた。どちらにしても、動き出すのは夜がいいだろう。さらにいえばよい聖御せいぎょの最中が望ましいが、それは状況次第だった。

 闇を待ちながら、頭のなかで状況を整理した。何度も繰り返したことだが、ほかにすることもない。

 炳都の地形や、主要な建物の位置関係はわかっている。孟王が、炳都の寺院へ参詣さんけいする場合や、炳王との会食に招かれたときなどには、大抵は娘のルネルを連れてきていたものだ。日頃からルネルのそばに控えていたエフレムも、同行することが常となっていた。

 薬店などを覗きながら都のなかを歩いたこともあれば、弓術の指南という名目で、個人的に兵舎などに招かれたこともある。弓術に関しては、それなりに名も知られているだろう。それは炳都において、エフレムの顔が割れている、ということでもあった。

 すぐに陽が暮れた。雨季は雲が垂れこめていることがほとんどで、暗くなるのも早いのだ。周囲に人の動く気配はない。もともとこの裏庭を訪れる者は、ほとんどいないのかもしれない。

 首巻きの布を使って、エフレムは頭部から顔を覆った。炳都の隠術師のやり方を真似る。布の素材こそ違うが、まず気づかれることはないはずだ。夜闇が味方する。隠術師とは本来、そういうものだった。王女ルネルの従者として、常に姿をさらすようにしていた自分のほうが、隠術師としては異質だったのだ、とエフレムは改めて思った。

 枯井戸の壁に手足を掛け、するすると這い登る。壁面の石積みに指が掛けられるので、エフレムにとっては造作もないことだった。急事で実際に王が抜け道を使うときは、上から縄梯子でも落とすことになっているのだろう。

 登りきって裏庭へ出ると、姿勢を低くして、すぐにそばの建物の外壁に背をつけた。気配や物音に意識を集中させる。雨の前のにおいと、生温なまぬるい風を感じた。

 建物と建物の間を縫うようにして、音を立てずに駆けた。前方に、見覚えのある兵舎が見える。弓術の指南で出入りした場所だ。その隣にあるのは、備法殿びほうでんと呼ばれる建物だった。炳都の兵や隠術師があつかう、火器や毒薬などが備蓄されている倉のようなところだ。

 警備は当然ながら厳重なものだった。一瞬見ただけでも、通りに眼をやっている守兵が五、六人は確認できた。巡回している者も合わせれば、ここだけで十人以上にはなるだろう。すでに門前のかがりに火が入れられているので、かえって周囲の闇は濃く、近づかなければ見つかる心配はなさそうだった。

 隠術師も、どこかに配置されているのだろう。姿を真似ているので、目立たなければいい。

 エフレムは備法殿を横目に、さらに中央の役所の連なる区画へと向かった。

 なだらかな斜面に広い道があり、道の両側に平屋がのきを連ねている。いわば炳都の中枢である。炳辣国の政事まつりごとが、ここに集まるさまざまな思惑のなかで決められているのだ。

 斜面の一番上、その右側がエフレムの目指す建物だった。あかりはついていない。道を挟んで反対側の建物の裏手にまわり、積まれた木箱の陰に身を潜めて、しばらく待った。ここからなら、出入りする者の姿を確認できる。

 風が抜けていった。遠く虫の音が響く、静かな夜である。

 ここに自分が来なければ、静かなまま終わったのだろう。辺境の城が落ちたところで、ここではほとんど、なにもなかったことになっているに違いない。考えてみれば、人の世とはそういうものだ、とエフレムは思った。大雨で氾濫した大河が、流木や舟や人家、そして人をみこみ、流れ去る。あらゆるものが、そういった流れのなかで、やがて消えていくのだ。

 炳辣国では、人の海に紛れて見えなくなるものが多くある、という言葉を不意に思い出した。言ったのは父で、エフレムが、まだ隠術師の修練に出されて間もない、幼いころだった。

 人の海に紛れこもうとするもの。それを見るために、隠術師がいるのではないか。幼いエフレムはそんなことを思い、心のなかでは静かに、父に反発していたものだった。ありふれた、淡い青さの滲む思い出だ。

 門前で揺れる篝火に眼をやった。動きがあるとすれば、斜面のさらに上、中央の寺院へと続く門だろう。

 これからエフレムが会おうとしている男が、すでに一日の執務を終え、自分の館に帰っているという可能性も、ないわけではなかった。ただ、聖御せいぎょというものがある。誰が決めたのかは知らないが、この炳都は、原理神教げんりしんきょうの中心地とされているのだ。孟国と同様か、あるいはそれ以上に、みなが熱心な原理神教の信徒であるはずだ。だとすればここは、日没に合わせて執務を一旦休み、寺院に行っていると考えるのが自然なのである。

 エフレムは、このところまともに聖御を行っていなかった。幼いころから身にみていることなので、一日のうちに何度か、壱式静いっしきせいのみの簡易な姿勢はとるのだが、弐式にしき参式さんしきとじっくり座して行える状況ではなかった。

 ただ、本当に状況のせいだけなのか、という思いはある。

 みなが信徒であった孟王城は襲撃を受けて落ちた。それ以前にエフレム自身も、流刑となった。それでも僧侶たちは、これは宿業で、原理の神々と向き合う姿勢がどこか誤っていた、といった意味のことを説いて聞かせるのだろう。

 信仰が、なにをもたらすのか。嫌でもそう感じずにはいられなかった。

 四刻(約二時間)ほど経ったころ、近づいてくる話し声があった。

 若い男。声に芯があり、文官らしくないような印象を受けた。それに言葉を返しているのは、低くこもった声の男だ。かすれた声のあとに軽く咳払いをし、なにか諭すようなものの言い方をしている。姿ははっきりと見えないが、こちらはそれなりによわいを重ねた文官の男だ、ということは想像できる。

 エフレムは、暗がりからわずかに顔を出し、歩いてくる二人の姿を確認した。篝のある門を抜け、細身の若い男が先に立って、建物の戸を開けている。後ろの、でっぷりと肥えた男。建物に入る間際のほんの一瞬だったが、容貌ようぼうの確認はできた。

 若い男は、礼の言葉を伝えて帰っていった。間もなく、建物のなかに灯りがともる。

 エフレムは一度、大きく息をついた。顔を覆った布越しに、雨のにおいがしている。降り出せばひと晩、また大雨だろう。

 通りを横切り、エフレムは建物に入った。

 奥の部屋。白髪の男はこちらにからだを向けてはいるが、卓に置かれた書簡に眼を落としていて、エフレムには気づいていなかった。

 すっと歩み寄る。

「声を出すな」

 低く言った。男が、弾かれたように顔をあげる。声をあげそうになった男の襟首を掴み、卓にじ伏せた。そのまま後ろ手を取り、うめく男の眼の前に、短剣を突き立てて見せた。

「一体、なんのつもりだ」

「文官長。あんたにきたいことがあってな」

「貴様、隠術師だな。どこの所属だ。ただで済むと思うな」

 エフレムは男の横腹を、短剣の柄で突いた。男が躰をふたつに折るように曲げ、苦悶の声を漏らす。

「二度は言わん。訊いたことだけに答えろ。簡潔にな」

 少し締めあげただけで、男はすぐに口を割った。

 ギーオの集めた情報を頼りに、エフレムが予想していた文官が二名。ほかにも一人、寺院関係者で思わぬ名も挙がった。それからもう一人、予想もしていなかった術者の名が出てきた。

「訊かれたことには、答えた。殺すな、殺さないでくれ」

「保身のために、すぐに口を割る。それで生きられるとは、あんたも、甘い男だな」

 言い終わらないうちに、エフレムの握っていた短剣は、男の首に深く刺さっていた。叫ぼうとしているようだが、血が喉を塞いでいるらしく、ごぼごぼと鳴っただけだった。そのまま男は膝を折り、床に倒れた。

 床に血が広がっていく。短剣は引き抜かず、そのままにしておくことにした。もともと、エフレムを流刑地へ移送する、孟国の兵がいていた短剣である。おあつらえ向きだ、とエフレムは思ったのだった。

 外に出たが、静かな夜のままだった。騒ぎに気づいている者はいない。役所の建物をまわる。名を聞き出した文官のうち、二人の居場所を確認した。いずれも聖御を終えて、戻ってきたところだった。

 おもだった文官の顔は、ある程度知っている。孟王に伴われて、会合の席に居合わせることも少なくなかったためだ。

 いくつか小石を拾い、道を挟んで向かい側の建物の屋根に登る。人通りはない。

 戸板に向けて、エフレムは小石を投げた。ひとつ。反応がないので、もうひとつ。戸が開き、様子をうかがうように出てきた人影に向けて弓矢を放つ。一矢で胸を抜いた。人影は棒のように倒れ、それきり動かなくなった。もう一人も、同じようにやった。

 孟王城の襲撃に関わった者を始末する。逡巡しゅんじゅんも、あるいは感慨のようなものも湧いてはこなかった。ひどく淡々としている。それが肚の底にある、冷たい怒りのようなものからくるものだと気づいて、エフレムは自嘲気味に低く笑った。

 中央寺院のほうへ向かう。篝の置かれた門は通らず、役所の屋根伝いから塀へと跳び、暗がりへと降り立った。

 夜闇のなかでも、荘厳な寺院だった。すべての原理神教の信徒が、畏敬いけいの念を抱かずにはいられないだろう。それだけの歴史もある建物であることは確かだ。

 しかし、やはりエフレムの心は動かなかった。やるべきことをやる。いま胸にあるのはそれだけだ。信仰心を失ったのかどうか、ということについては、またあとで考えればいい。生きて出られたならばだ。

 死ぬかもしれない。それでもよかった。どのみち流刑地で朽ちる身だったのだ。孟国の隠術師として生きた。生きてきた道を、歩き通す。かつて仕えた孟王のためでも、妹のように接してきたルネルのためでもない。

 裏口から、寺院の内部に潜入した。通路を進めば正面にまわれるはずだが、大勢の僧侶たちとやり合うつもりはない。エフレムは棚に手を掛け、柱の入り組んだ上方を目指して登っていった。はりから梁へと渡り、明かり取りから寺院の屋根の上に出た。

 そこからは中庭が一望できた。庭の中央に大きな池があり、池を囲うように回廊がある。篝火の並ぶ回廊には雨除けの屋根がめぐらせてあるので死角になるが、奥へと続く通路のあたりは、エフレムのところからも見通しがよかった。

 原理神教の教えに沿えば、信徒が僧侶に危害を加えるなどまさに言語道断で、万死に値する大罪である。やはり、自分はどこかがこわれたのだ。毒を塗りこめた矢を見つめ、エフレムは思った。

 遠く、背に騒ぎを聞く。役所のほうで始末した、文官の屍体が発見されたのだろう。それにも構わなかった。

 聖御を終え、僧侶たちが右手の建物から出てきた。二十人以上が、手を胸の前で組み、整然と列を成して回廊を歩いている。

 エフレムは、列のなかほどで取り囲まれている一人の僧に意識を集中させた。原理神教の僧階において、大僧正に次ぐ高僧である。細身で、ひと際長身だった。 

 エフレムの心気は澄んでいた。澄み渡っている、といってもいいほどだ。怒りも憎しみも、いまこの瞬間にはなにも感じていない。

 弓に矢をつがえる。直前まで、構えはしない。僧侶の列が角を曲がるまで、エフレムは自分の呼吸を数えた。

 六つを数えたとき、庫裡くりに向かう高僧の背に、矢が吸いこまれていった。

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