二
ルネルが身を隠している山小屋に、五日に一度くらいは足を運び、山菜などを届けるとしばらく話し相手になってくれていた。それがぱたりと途切れ、九日が経っても婆やは現れなかった。
ルネルは、心配になって山の
婆やは、老いてはいたが隠術師の腕までは失っていなかった。それを、ひと突きである。刺し傷はごく小さい。
抑え難い激しい怒りが、
罠なのかもしれない。それは感じていた。
婆やからなにかを
ルネルが出てくると、
婆やの小屋を出た。雨が、降り続けている。
隠術師たちは、いまもルネルを見ているのか。隠術師たちのように、鋭く気配を察するすべなどは持たないが、小川沿いを少し歩いても、取り囲まれることはなかった。じっと見ている理由はないはずだった。連中はルネルを、
アダムがはじめて婆やの小屋へとやって来たとき、東の森からアダムを追ってきた隠術師たちがいた。アダムをルネルの隠れている小屋へ向かわせ、婆やは追手を一人で始末した。そのときは、婆やの短剣を投げる技が、勝敗を決したようだった。
そのときの隠術師たちの屍体は、山に埋めたと婆やが言っていた。つまり、このあたりで消息を絶ったと知った仲間の隠術師が、ただ単に報復に来た、ということも考えられる。
婆やを殺した連中は、ルネルがすぐ近くに身を隠しているとは、考えていないのかもしれない。だとすれば、このまま姿を隠し続ければ、なにも起きないということも充分に考えられた。
我を失ってはいない。状況を見定めて、あれこれと考えることはできる。それでも、躰を抑えることができなくなっていた。怒り。激情の
信仰とは、一体なんなのか。ルネルは、うつむいて唇を噛んだ。
日々のささやかな平穏を得るために、原理の神々へと
婆やは、なにを思い死んでいったのか。ルネルにとって、よき理解者であろうとしてくれていた。アダムにすべてを
最後に会ったときには、
エフレムが、やったのではないか。そう考えると、胸が、そして全身が震えた。
自分はまだ、甘えた妹気分のままなのだ。雨中に立ち尽くし、エフレムが雨除けの
そのためには、やはりじっとしてはいられなかった。少しだけ目立てばいい。エフレムが、きっと自分を見つけてくれるはずだ。
婆やの小屋のそばを流れる小川伝いを、東へと向かう。婆やを殺した隠術師は、アダムが襲われたという東の森から来たに違いない。証拠はなにもないが、なにもないことこそが、隠術師の手によるものだと物語っている。
槍だけを手に歩く。雨がまた激しくなっていた。
遠方の空に垂れこめた黒雲が、
エフレムは、馬を駆けさせていた。
炳都近くの牧場で盗んだ馬である。十数頭が鞍を乗せたまま繋がれていたが、調練に出されていたものらしく、よく走りこませてあるようだった。二、三日じっとさせていた馬は、あまり駆けなくなると聞いたことがある。
気性の荒い、なかなかの
ほとんどが
孟王城には、馬があまりいなかった。そもそも
思えば、さまざまな調練をこなした。子供のころ得意だったのは、師長が森に隠したひとつの石を探すというもので、目的は単純だが、多くの技術を必要とする内容だった。
踏み分けられている草や、折れ曲がっている小枝を見て、向かった方向を読むところからはじまり、意図的につけられた足跡や偽装を見破り、目標へと近づいていく。野山の移動には躰を使うので、体力さえあればいいかというと決してそうではなく、技術の読み合いや、仕掛けた相手の狙いから次の出方を予測するなど、あらゆる状況で熟考しなければならなかった。ただ、考えこんでいるとほかの者に先を越されることになるので、動き続けなければならない。
調練に参加する子供たちのなかには、エフレムよりも痕跡を追うのが得意な者もいた。ほとんど垂直の崖を難なく登る者も、夜の森を誰よりも速く駆け抜ける者も、一度読んだだけの文書を、言い
それでもエフレムは、いつも一番に石を見つけた。
眼の前の痕跡や障害に、惑わされない。心がけていたのは、それだけだ。
石探しの開始が告げられるのは、いつも突然だった。明け方のときもあれば、一日の調練を終えて寝静まったときだったりもした。みなが飛び起きて、我先にと森へ駆けこんで行くのを見送りながら、エフレムだけは、いつも最初に野営地のどこかにいる師長を探した。
師長には日頃から、石探しは隠術師の総合力を測る調練だ、と聞かされていた。石を隠したのが師長だとわかっているのなら、まずは師長を読めばいい。読み切れはしないが、得られるものは必ずある。そう考えて独自にやっていたことだった。
結局、まわり道のように思えて、それが一番の近道なのだ。隠術師とはいっても、子供の調練である。師長は
目的に達するまでの痕跡を点とし、その点を線で結ぶ。エフレム以外の参加者は、一様にそうしていたようだ。そうではなく、まずは面で見ようとするべきなのだ、とエフレムは考えていた。大局を見落とせば、見えているものも眼に入らない。痕跡を点で結ぶときも、一度全体を眺めてみることを忘れなければ、大きな間違いは起こりにくいのだった。
なぜいま、あのころのことを思い出すのか。エフレムは、束の間考えた。
目的の達成のためには、相手や手段を選ばない。隠術師の生き方とは、つまりあの石探しと同じなのではないか。そう思った。
どんなに優れた能力を持っていても、目的に手が届かなければ、その手に掴むことができるのは特別な石ではない。任務を与えられたとき、隠術師が掴まなければならないのは、いつでも特別な石なのである。
しかし隠術師の存在は、
ルネルは生きている。ギーオの情報に加え、動きまわる炳都の隠術師が、それを物語っていた。孟王城の跡地に近づくにつれ、その動きはより活発になっているようにも思えた。
ルネルに
石塊でいい。それが自分には、似合いすぎるほど似合っているではないか。
エフレムは馬腹を蹴り、草に覆われた丘へと一気に駆けあがった。
アダムは、背の高い草地に伏せていた躰を起こした。
白杖で躰を支えて脚の悪い商人を
孟王城の跡地には、
あたりが闇に包まれるまで、アダムは丘の上から、孟王城を見ていることにした。
壁が大きく崩れている箇所があり、修復はされていない。守るための城というよりは、単なる拠点として利用しているようだ。アダムのいる丘は城の西側を囲む
一瞬、りんと耳鳴りがしたような気がした。
蝶が一匹、薄闇に舞っている。
耳鳴り。天を仰いでも、さっきと同じように聞こえるものはない。あれは遠くの雷鳴だったのか。確かめるすべはなかった。
それからすぐに暗くなり、城内の
遠く、地が震えるような雷鳴が
なぜここまでするのか、アダムは自問した。
わけもわからず故郷を失ったルネルが、自分と似ているような気がしたためなのか。あるいは、たびたびアダムの夢に現れる、故郷の風景に肩を落としてたたずむ妻の背と、どこかで重ねて見てしまったのか。いずれにしても、ルネルのためにやっている、という考えはどこにもない。
理由など、どうでもいいことだ、とアダムは思った。すでに一度、やると決めたことである。投げ出すくらいなら、はじめからやっていない。あとから考えて出てくる理由に、意味があるとも思えなかった。
城内に、動きがあった。
特に中央奥の、おそらく孟王が謁見などに使っていた建物周辺に、兵が多い。そこに大事なものがある、と教えているようなものだ。
深夜まで雷鳴を聞きながら待ち、アダムは腰をあげた。
城の裏手からは、夕刻あたりからずっと煙があがり続けている。厨房から出る煙で、夕餉が終われば消えるだろうと考えていたが、消える気配はなかった。
丘をおりて、城の横にまわった。外壁の崩れたそばに、焚火がひとつ。一応の見張りは立てているようだ。
闇のなかを
見張りはいたが、立っていなかった。焚火の近くの外壁に背を預けて座り、右に首を大きく傾けて寝ている。規則正しい寝息も聞こえていた。
眠りこけた見張りの隣に立つ。おそるおそる崩れた外壁に手を掛け、アダムは躰を持ちあげた。ぱらぱらと小石が落ちたが、見張りは目覚めなかったようだ。
外壁をよじ登り、乗り越える。壁の内側に降り立ち、アダムは見張りに注意しながら城の周囲を見てまわった。
暗がりの一角に、縦に大きな亀裂の入った箇所を見つけた。壁に板を立て掛けて亀裂を隠してあるだけで、見張りなどもいない。そこから城の内部へと躰を押しこむ。なかは暗く、人の気配はなかった。
手探りで、周囲に
開いたままの蔵の戸口から、通路へ出た。
蔵のなかよりも、むしろ薬草のにおいが強くなった。薬湯でも煮立てているのか、むせ返るような湯気が、傾いた通路にたちこめている。
術者の手によるものなのかもしれない。だとすれば、においの
アダムは通路の角から先の様子をうかがい、素早く移動をはじめた。
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