ばあやが、死んでいた。

 ルネルが身を隠している山小屋に、五日に一度くらいは足を運び、山菜などを届けるとしばらく話し相手になってくれていた。それがぱたりと途切れ、九日が経っても婆やは現れなかった。

 ルネルは、心配になって山のふもとまで様子を見に来ていた。婆やの寝起きしていた小屋のなかである。そこで、死んでいる婆やを見つけたのだ。胸をひと突き。隠術師いんじゅつしの手によるものだろう。それくらいは、ルネルにもわかった。

 婆やは、老いてはいたが隠術師の腕までは失っていなかった。それを、ひと突きである。刺し傷はごく小さい。

 抑え難い激しい怒りが、からだを駆けめぐっている。無理矢理に抑えていたものが、また暴れだしたという感覚だった。

 罠なのかもしれない。それは感じていた。

 婆やからなにかをき出すつもりだったなら、胸をひと突きにはしない。縛りあげて拷問をし、ルネルの場所を吐かせる。連中なら、それくらいのことは平気でやるはずだ。だがたとえ拷問を受けても、婆やは決して口を割らなかっただろう。隠退しているとはいえ、熟練の隠術師とはそういうものだ。

 ルネルが出てくると、にらんでのことなのかもしれない。婆やが口を割ることはないと判断し、ルネルを挑発するための道具に使った、と考えることはできないか。

 婆やの小屋を出た。雨が、降り続けている。

 隠術師たちは、いまもルネルを見ているのか。隠術師たちのように、鋭く気配を察するすべなどは持たないが、小川沿いを少し歩いても、取り囲まれることはなかった。じっと見ている理由はないはずだった。連中はルネルを、孟王もうおうの血族を消したがっているのだ。

 アダムがはじめて婆やの小屋へとやって来たとき、東の森からアダムを追ってきた隠術師たちがいた。アダムをルネルの隠れている小屋へ向かわせ、婆やは追手を一人で始末した。そのときは、婆やの短剣を投げる技が、勝敗を決したようだった。

 そのときの隠術師たちの屍体は、山に埋めたと婆やが言っていた。つまり、このあたりで消息を絶ったと知った仲間の隠術師が、ただ単に報復に来た、ということも考えられる。

 婆やを殺した連中は、ルネルがすぐ近くに身を隠しているとは、考えていないのかもしれない。だとすれば、このまま姿を隠し続ければ、なにも起きないということも充分に考えられた。

 我を失ってはいない。状況を見定めて、あれこれと考えることはできる。それでも、躰を抑えることができなくなっていた。怒り。激情のうずが、のたうつ大蛇の蜷局とぐろのように、ルネルの胸を掻きまわしている。

 信仰とは、一体なんなのか。ルネルは、うつむいて唇を噛んだ。

 日々のささやかな平穏を得るために、原理の神々へと帰依きえしてきたのではないのか。それなのに、すべてを失った。帰る場所も一族も、大勢の臣下や民たちも。王家の血を残すため、つまりルネルのために、みなが死んでいったようなものだ。これも宿業というならば、どうすれば払えるというのか。一心に祈り続ければ、本当に払えるのか。全身の毛穴から吹き出すような怒りを、しずめられない。なんのための信仰なのか。歩きながら、ルネルは叫びだしたいような気分だった。

 婆やは、なにを思い死んでいったのか。ルネルにとって、よき理解者であろうとしてくれていた。アダムにすべてをたくし、ルネル自身が動きまわれないことからくる焦燥感を、どうにか抑えていられたのも、婆やがいたからだ。

 最後に会ったときには、炳都ペラブーハンの文官数名と、中央寺院の僧侶が一人殺された、という情報を、婆やは掴んでいた。文官の一人は孟国の兵が使う短剣で首を刺され、ほかは毒矢で、それも全員、一矢で胸を貫かれていたという。

 エフレムが、やったのではないか。そう考えると、胸が、そして全身が震えた。

 自分はまだ、甘えた妹気分のままなのだ。雨中に立ち尽くし、エフレムが雨除けの套衣とういを持って迎えに来るのを、心のどこかで待っている。ルネルは、そのことに気づいた。会いたい。だが妹としてではない。いまは一人の女として、エフレムに肩を抱いてもらいたい。

 そのためには、やはりじっとしてはいられなかった。少しだけ目立てばいい。エフレムが、きっと自分を見つけてくれるはずだ。

 婆やの小屋のそばを流れる小川伝いを、東へと向かう。婆やを殺した隠術師は、アダムが襲われたという東の森から来たに違いない。証拠はなにもないが、なにもないことこそが、隠術師の手によるものだと物語っている。

 槍だけを手に歩く。雨がまた激しくなっていた。


 遠方の空に垂れこめた黒雲が、明滅めいめつしていた。雷雲だろう。雨はやまず、泥濘ぬかるんだ土地も多かった。

 エフレムは、馬を駆けさせていた。

 炳都近くの牧場で盗んだ馬である。十数頭が鞍を乗せたまま繋がれていたが、調練に出されていたものらしく、よく走りこませてあるようだった。二、三日じっとさせていた馬は、あまり駆けなくなると聞いたことがある。

 気性の荒い、なかなかの悍馬かんばだった。飛び乗ってはじめのうちは、抑えこむだけでもずいぶんと苦労をした。赤黒く、毛艶はいい。馬体も大きく立派で、力強い。跨ってみると背幅も広く、西域のほうの馬のようにも思えた。

 ほとんどが常歩なみあしで、駆けやすそうな平地ではいくらか速歩はやあしにし、雨で泥濘んだ箇所は馬から降りて、エフレムが手綱たづないて歩く。疲れはじめたら休ませる。そうやって、二十日ほど進んだ。

 孟王城には、馬があまりいなかった。そもそも炳辣国ペラブカナハ自体に、馬が少ないのだ。エフレムも隠術師でなければ、乗る機会はなかったのかもしれない。

 思えば、さまざまな調練をこなした。子供のころ得意だったのは、師長が森に隠したひとつの石を探すというもので、目的は単純だが、多くの技術を必要とする内容だった。

 踏み分けられている草や、折れ曲がっている小枝を見て、向かった方向を読むところからはじまり、意図的につけられた足跡や偽装を見破り、目標へと近づいていく。野山の移動には躰を使うので、体力さえあればいいかというと決してそうではなく、技術の読み合いや、仕掛けた相手の狙いから次の出方を予測するなど、あらゆる状況で熟考しなければならなかった。ただ、考えこんでいるとほかの者に先を越されることになるので、動き続けなければならない。

 調練に参加する子供たちのなかには、エフレムよりも痕跡を追うのが得意な者もいた。ほとんど垂直の崖を難なく登る者も、夜の森を誰よりも速く駆け抜ける者も、一度読んだだけの文書を、言いよどむこともなくそらんじるような切れ者もいた。

 それでもエフレムは、いつも一番に石を見つけた。

 眼の前の痕跡や障害に、惑わされない。心がけていたのは、それだけだ。

 石探しの開始が告げられるのは、いつも突然だった。明け方のときもあれば、一日の調練を終えて寝静まったときだったりもした。みなが飛び起きて、我先にと森へ駆けこんで行くのを見送りながら、エフレムだけは、いつも最初に野営地のどこかにいる師長を探した。

 師長には日頃から、石探しは隠術師の総合力を測る調練だ、と聞かされていた。石を隠したのが師長だとわかっているのなら、まずは師長を読めばいい。読み切れはしないが、得られるものは必ずある。そう考えて独自にやっていたことだった。

 結局、まわり道のように思えて、それが一番の近道なのだ。隠術師とはいっても、子供の調練である。師長は素知そしらぬ顔を決めこんでいたが、石を隠したときのままの姿で、足裏の土や衣服に着いた植物のにおいなど、多くの手掛かりをあえてそのままにしていたのだ。

 目的に達するまでの痕跡を点とし、その点を線で結ぶ。エフレム以外の参加者は、一様にそうしていたようだ。そうではなく、まずは面で見ようとするべきなのだ、とエフレムは考えていた。大局を見落とせば、見えているものも眼に入らない。痕跡を点で結ぶときも、一度全体を眺めてみることを忘れなければ、大きな間違いは起こりにくいのだった。

 なぜいま、あのころのことを思い出すのか。エフレムは、束の間考えた。

 目的の達成のためには、相手や手段を選ばない。隠術師の生き方とは、つまりあの石探しと同じなのではないか。そう思った。

 どんなに優れた能力を持っていても、目的に手が届かなければ、その手に掴むことができるのは特別な石ではない。任務を与えられたとき、隠術師が掴まなければならないのは、いつでも特別な石なのである。

 しかし隠術師の存在は、路傍ろぼう石塊いしくれのようなものだ。自身は決して目立たず、光る者の影に生きて、影のままに死ぬ。

 ルネルは生きている。ギーオの情報に加え、動きまわる炳都の隠術師が、それを物語っていた。孟王城の跡地に近づくにつれ、その動きはより活発になっているようにも思えた。

 ルネルにうことは、もう二度とないだろう。流刑となり、自分はすでに死んだ人間なのだ。やるべきことをやり、影に消える。それが孟王に仕えた隠術師として、自分にできる最後の仕事だ、とエフレムは思った。

 石塊でいい。それが自分には、似合いすぎるほど似合っているではないか。

 エフレムは馬腹を蹴り、草に覆われた丘へと一気に駆けあがった。


 アダムは、背の高い草地に伏せていた躰を起こした。

 白杖で躰を支えて脚の悪い商人をよそおい、一度正面から近づいてみたが、門をくぐることは許されなかった。

 孟王城の跡地には、蕘皙国ツァキシュロの兵が駐屯しているため、侵入は困難である。狙うのはやはり、夜間しかない。

 あたりが闇に包まれるまで、アダムは丘の上から、孟王城を見ていることにした。

 壁が大きく崩れている箇所があり、修復はされていない。守るための城というよりは、単なる拠点として利用しているようだ。アダムのいる丘は城の西側を囲む恰好かっこうで、城の裏手には崖がある。城壁が崩れていても、大軍で攻めにくい立地ではあるのだ。

 一瞬、りんと耳鳴りがしたような気がした。

 蝶が一匹、薄闇に舞っている。黒揚羽くろあげは。雨あがりの夕暮れにひらひらと舞う姿は、どことなく寂しげに見える。アダムはしばらく眼をやっていたが、黒揚羽は風に吹かれるように城のほうへと流れていき、やがて見えなくなった。

 耳鳴り。天を仰いでも、さっきと同じように聞こえるものはない。あれは遠くの雷鳴だったのか。確かめるすべはなかった。

 それからすぐに暗くなり、城内のかがりに火が入ると、あたりの闇は一層深くなった。

 月の詩ウィリルイラ。気づくと、また小さく口ずさんでいた。この唄を覚えたのは、いつのことだったのか。遠い記憶。故郷の景色。それ以外にも、うたっていると思い出すものがさまざまにある。忘れてしまいたい。忘れることなどないとわかっているからこそ、そんなふうに思うのだ。

 遠く、地が震えるような雷鳴がうなり続けている。雨はやんでいた。雨音が聞こえない夜は、久しぶりである。

 なぜここまでするのか、アダムは自問した。

 わけもわからず故郷を失ったルネルが、自分と似ているような気がしたためなのか。あるいは、たびたびアダムの夢に現れる、故郷の風景に肩を落としてたたずむ妻の背と、どこかで重ねて見てしまったのか。いずれにしても、ルネルのためにやっている、という考えはどこにもない。

 理由など、どうでもいいことだ、とアダムは思った。すでに一度、やると決めたことである。投げ出すくらいなら、はじめからやっていない。あとから考えて出てくる理由に、意味があるとも思えなかった。

 城内に、動きがあった。夕餉ゆうげに合わせた、見張りの交代である。移動した兵と、新たに出てきた兵。死角はあるが、アダムにはおよその配置が読めた。

 特に中央奥の、おそらく孟王が謁見などに使っていた建物周辺に、兵が多い。そこに大事なものがある、と教えているようなものだ。蕘皙人ツァカは遊牧の民なので、拠点を守るということに関しては、いまひとつ練度が足りないのかもしれない。侵入する身としては、好都合だった。

 深夜まで雷鳴を聞きながら待ち、アダムは腰をあげた。

 城の裏手からは、夕刻あたりからずっと煙があがり続けている。厨房から出る煙で、夕餉が終われば消えるだろうと考えていたが、消える気配はなかった。

 生温なまぬるい風が吹いている。気配や痕跡を隠すので雨が降ればいいと思っていたが、ままならないものだった。いつ降りだしてもおかしくはない状態のまま、十刻(約五時間)以上が経過している。

 丘をおりて、城の横にまわった。外壁の崩れたそばに、焚火がひとつ。一応の見張りは立てているようだ。

 闇のなかをうようにして接近した。注意していても、草を掻き分ける音が漏れる。腕のいい隠術師のようにはいかない。

 見張りはいたが、立っていなかった。焚火の近くの外壁に背を預けて座り、右に首を大きく傾けて寝ている。規則正しい寝息も聞こえていた。

 眠りこけた見張りの隣に立つ。おそるおそる崩れた外壁に手を掛け、アダムは躰を持ちあげた。ぱらぱらと小石が落ちたが、見張りは目覚めなかったようだ。

 外壁をよじ登り、乗り越える。壁の内側に降り立ち、アダムは見張りに注意しながら城の周囲を見てまわった。

 暗がりの一角に、縦に大きな亀裂の入った箇所を見つけた。壁に板を立て掛けて亀裂を隠してあるだけで、見張りなどもいない。そこから城の内部へと躰を押しこむ。なかは暗く、人の気配はなかった。

 手探りで、周囲にたるが並べられていることがわかった。くらとして使われていた場所だろう。樽の中身は、酒ではないはずだ。原理神教の信徒は、酒を飲まない。代わりに複数の薬草のにおいが入り混じって、湿った蔵を満たしている。

 開いたままの蔵の戸口から、通路へ出た。

 蔵のなかよりも、むしろ薬草のにおいが強くなった。薬湯でも煮立てているのか、むせ返るような湯気が、傾いた通路にたちこめている。

 術者の手によるものなのかもしれない。だとすれば、においの出処でどころをたどればいい。

 アダムは通路の角から先の様子をうかがい、素早く移動をはじめた。

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