やむを得ず、見張りを二人打ち倒した。

 兵たちはみな屈強そうな引き締まったからだをしているが、案外それは生きる環境によるところが大きく、訓練によるものではないのかもしれない。蕘皙国ツァキシュロご自慢の駱駝らくだ部隊ではあるが、居眠りしている者もいるあたり、軍規はそれほど厳しくないようにも思えた。

 倒した兵は、引き摺って目立たない場所に寝かせてある。顎先を打ち、気を失っているだけだ。

 孟王もうおう城の跡地に侵入したアダムは、城内階下にある厨房の前にまで達していた。薬湯のようなにおいは、より一層強烈になっている。

 蕘皙国の東部におもむき、若き酋長ザルフィからアダムが聞いたのは、炳都ペラブーハンに出入りしている術師がここにいる、ということだった。蕘皙国でも、孟王城の襲撃を決める酋長たちの重要な会合に、見知らぬ術師の姿があったという。ザルフィは、それらの術師が同一の人物なのかはわからないと言ったが、アダムには確信めいたものがあった。

 炳都と蕘皙国は、やはりなんらかのかたちで通じている。馬の売り買いだけではないなにかが、裏側にあるはずだ。アダムは、そう考えていた。

 厨房の戸の隙間から、かすかにあかりが漏れている。においは、兵のための薬湯なのか、それともなにかの儀式によるものなのか。意を決し、アダムは厨房の戸に手を掛けた。

 料理で両手が塞がっていても出入りできるように、厨房の戸は押しても引いても開くようになっている。アダムは肩で押すようにして、隙間から様子をうかがおうとした。わずかに押し開いた戸口へと、濃い湯気がもうもうと流れ出てくるばかりで、内部の様子は見てとれない。ただ、暗い厨房の奥では火がおこされているらしく、白いもやの向こうに火明かりだけは確認できた。

 アダムは首巻きの布で口もとを覆い、踏みこんだ。濃厚な、薬湯のにおい。複雑に混ざり合い、薬草の種類まで嗅ぎ分けることはできないが、全体として酸味が強いような感じだった。

 もう一歩進む。息が詰まるほどの、むっとした蒸気に包まれ、アダムは突然、躰が重くなるようなだるさに襲われた。それとほぼ同時に肌があわ立ち、背に悪寒が走る。全身を濡らすほどの蒸し暑さとは裏腹に、ひやりと嫌な寒さが床をっているような気もした。

 なにかがおかしい。後頭部が重くなり、次には冷や汗が流れはじめた。これは毒草の蒸気なのか。眠気や、手足のしびれは感じない。しかし奥に進むたび、腹のなかから酸っぱい液体があがってくるような不快感が強くなるのである。

「おい、誰だ。ここには誰も入るなときつく言ったはずだぞ」

 立ちこめる湯気の向こうから、怒声が飛んできた。アダムは、黙っていた。というより、気怠さに耐えることで精一杯だった。

「まったく、駱駝に跨って暴れるだけの無能どもめ。俺の邪魔をするなというのがわからんのか。そんなに死霊の腕に抱かれたいのか、え?」

 苛立いらだった様子でぶつぶつと呟きながら、湯気を掻き分けるようにして男が出てきた。暗い厨房で火を背にしているので、男の表情は見えないが、アダムを見てはっと息を呑み、一瞬立ちすくんだことだけはわかった。

「なんだあ、誰だおまえっ」

きたいことがあって来た」

 なんとかそれだけを言い、アダムは耐えていた。ひどく気分が悪い。

 いきなり叫ぶように声をあげた男が、卓上のものを掴んで投げつけてきた。アダムはそれすらもかわせなかった。浴びせかけられたのは、なにかの粉のようだ。男は取り乱し、卓上の物を床に落としながら、そのまま厨房の奥へと逃げこんでいく。

 あとを追う。一歩一歩が、やたらに重かった。男の向かった先で、酒瓶の割れるような音がする。厨房の奥では、盛大に燃えあがる炎に、大鍋がかけられていた。炎のそばでも、暑さより先に嫌な寒さが肌を刺してくる。

 こえ。急に、耳元で聞こえた。雑踏のようなざわめきだった。なにを言っているのかは聞き取れない。響きから、なげきだけが伝わってくる。

 汗が、首筋を伝う。なかほどまで進んだところで、歯が鳴りはじめた。蒸し暑いが、躰の芯がたまらなく寒いのだ。

 歩けなくなった。アダムの躰に、無数のてのひらが押しあてられている感覚があった。衣服を抜けて肌に直接触れる、冷たい掌の感触である。躰を見ても、火明かりに照らされた衣服があるだけだ。それでも、全身のいたるところに、十や二十の手が触れていることが、アダムにははっきりと感じられた。

 男を追わなければ。懸命に躰を動かすが、足が動かない。手首を、なにかが掴んでいる。眼をやるが、アダムを掴むものなどない。掴まれているという感覚だけが、はっきりとあるのだ。

 薬湯の湯気が見せるまやかしなのか。しかし、気のせいだと思うには、あまりに明瞭な感覚だった。

 火のそばに並べられた大きな壺から、白い腕が伸びてくるのが見えた。首筋に、ひやりと冷たいものが触れる。あれは腕ではなく、白い靄だ。アダムは、自分に言い聞かせた。

 膝を折る。やはり、これはなにかがおかしい。蒼白あおじろい閃光が、横ぎに走った。アダムは片膝立ちで白杖の柄に手を掛け、抜き放っていた。とっさのことで、ほとんど無意識だった。

 不意に、白い靄が晴れた。蒼剣そうけんブラウフォロウの剣身が鈍く光を放ち、蒼く燃えているように揺らめいていた。

 暗闇に舐めまわされたような気分だった。ぐったりとした全身が、濡れている。アダムはこみあげるものを押さえきれず、床に嘔吐おうとした。それで、ずいぶんと気分は楽になった。

 呼吸を整える。白い靄とともに、アダムに触れる手は、すべて消えていた。やはり、まやかしだったのだ、とアダムは思った。

 靄が晴れたことで、炎に照らされた厨房のなかが一望できた。

 周囲には、両手をまわしても届かないほどの大きな壺が、整然と並んでいる。それも、広い城の厨房を埋め尽くすほどの、異様な数の壺だった。木蓋は置かれていないが、液体で満たされた壺の中身がなんなのかまでは、わからない。

 立ちあがり、蒼剣をさやに納めた。アダムにとってそれは、白杖に戻した、という感覚のほうが強かった。

 男は、厨房の裏口から逃げていた。戸が半開きになっている。アダムも外へと出た。

 すぐそばに城壁があり、狭い裏庭のような場所になっている。意外に明るい。月が出ていた。雨季の炳辣国ペラブカナハでは、珍しいことだ。

 上か下か。正面のこけむした高い壁には、よじ登ったような形跡はない。城壁を乗り越えても、壁の向こうは城の裏手で、がけになっているはずだった。

 上へと続く外階段の途中に、なにか落ちている。拾いあげてみると、掌に隠れる程度の、小さな布袋だった。形のあるものは入っていないが、逆さにして振るとわずかに粉末がこぼれ落ちた。アダムが投げつけられた粉と、おそらく同じものだろう。

 ともかく、アダムも階段を上へと向かうことにした。

 厨房で、おかしな感覚に襲われたのは、粉を浴びせかけられたからだったのか。そこまで考えて、また肌が粟立った。アダムは、男の使った術に心あたりがある。そのことに気づいたのだ。

 このまま逃がすわけにはいかない、とアダムは思った。もし思い違いでなかったなら、あの男は孟王城で命を落とした人々の死を、もてあそんでいることになる。

 急いだ。階段は、一段飛ばしで駆けあがった。

 三階、四階と、外階段からの出入口は崩れており、入れなかった。続く五階は、扉に鍵がかかっている。さすがに呼吸を乱し、アダムは閉ざされた扉の前で、少し息を整えた。

 男がこの扉を入って鍵をかけたのだとしたら、どこから入ればいいのか。考えながら、まずは六階を見ることにした。六階には扉はなく、そのまま屋上へと向かう階段が続いているようだ。迷っている暇はない。アダムは屋上へと駆けあがった。

 物音が響く。屋上の隅の城塔入口に、月に照らされた人影を認め、アダムは駆け寄った。

「こっちへ来るな。嘘だ、そんな」

 城塔のなかへと入るための木戸が、開かなかったようだ。男は戸を背にして尻を落とし、なにかわめいている。

「あんたの術は破ったよ、霊術師れいじゅつし

 アダムが言うと、男は一度躰をびくりと震わせ、眼を見開いた。

「馬鹿な、あれを抜けてこられるわけがないんだ」

 言いながら、男が懐に手を入れるのをアダムは見逃さなかった。白杖で打つ。あっと声をあげ、打たれた手の甲を押さえた男の懐から、粉の入った小袋がいくつかこぼれ落ちた。

「同じ手を続けて使うなんて、底の浅い真似はするなよ」

「俺は」

「さて。策は尽きたようだし、今度こそゆっくり話をしようか」

 言ったアダムの眼をじっと見つめながら、ゆっくりと立ちあがった男が、重々しくうなずく。そう思った次の瞬間、男が身をひるがえした。アダムは逃げようとした男の腕を取り、背のほうに締めあげてやった。暴れる。アダムは男が頭に巻いていた布をむしり取り、後ろ手に縛ろうとしたが、そうするまでもなく、男はすぐに音をあげた。

「悪かった。頼むから縛るのはやめてくれ。なんでも答える。なんでもだ」

「少しでもおかしな真似をしたら、手首がじ切れるほどに縛りあげる。そのあとの保証はない。いいか?」

「わかった。わかったから」

 男は酷く怯えた様子だが、それでも不敵な眼の光を失っていなかった。油断はできない。

 城塔の壁に背をつける恰好で男を座らせ、アダムはようやくひとつ大きく息をついた。

「あ、あんた何者なんだ。一体なんで、この城に、その、俺のことをどこで」

「黙るんだ。訊くのは私だ」

 向かい合いながら、この男は確かに、霊術師と呼ばれても否定をしなかった、とアダムは思った。

 ふと、手首に残る違和感に眼をやる。月明かりに照らされたアダムの手首に、誰かがきつく掴んだ手の跡が、青痣あおあざのようになって残っていた。

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