三
やむを得ず、見張りを二人打ち倒した。
兵たちはみな屈強そうな引き締まった
倒した兵は、引き摺って目立たない場所に寝かせてある。顎先を打ち、気を失っているだけだ。
蕘皙国の東部に
炳都と蕘皙国は、やはりなんらかのかたちで通じている。馬の売り買いだけではないなにかが、裏側にあるはずだ。アダムは、そう考えていた。
厨房の戸の隙間から、かすかに
料理で両手が塞がっていても出入りできるように、厨房の戸は押しても引いても開くようになっている。アダムは肩で押すようにして、隙間から様子をうかがおうとした。わずかに押し開いた戸口へと、濃い湯気がもうもうと流れ出てくるばかりで、内部の様子は見てとれない。ただ、暗い厨房の奥では火が
アダムは首巻きの布で口もとを覆い、踏みこんだ。濃厚な、薬湯のにおい。複雑に混ざり合い、薬草の種類まで嗅ぎ分けることはできないが、全体として酸味が強いような感じだった。
もう一歩進む。息が詰まるほどの、むっとした蒸気に包まれ、アダムは突然、躰が重くなるような
なにかがおかしい。後頭部が重くなり、次には冷や汗が流れはじめた。これは毒草の蒸気なのか。眠気や、手足の
「おい、誰だ。ここには誰も入るなときつく言ったはずだぞ」
立ちこめる湯気の向こうから、怒声が飛んできた。アダムは、黙っていた。というより、気怠さに耐えることで精一杯だった。
「まったく、駱駝に跨って暴れるだけの無能どもめ。俺の邪魔をするなというのがわからんのか。そんなに死霊の腕に抱かれたいのか、え?」
「なんだあ、誰だおまえっ」
「
なんとかそれだけを言い、アダムは耐えていた。
いきなり叫ぶように声をあげた男が、卓上のものを掴んで投げつけてきた。アダムはそれすらもかわせなかった。浴びせかけられたのは、なにかの粉のようだ。男は取り乱し、卓上の物を床に落としながら、そのまま厨房の奥へと逃げこんでいく。
あとを追う。一歩一歩が、やたらに重かった。男の向かった先で、酒瓶の割れるような音がする。厨房の奥では、盛大に燃えあがる炎に、大鍋がかけられていた。炎のそばでも、暑さより先に嫌な寒さが肌を刺してくる。
汗が、首筋を伝う。なかほどまで進んだところで、歯が鳴りはじめた。蒸し暑いが、躰の芯がたまらなく寒いのだ。
歩けなくなった。アダムの躰に、無数の
男を追わなければ。懸命に躰を動かすが、足が動かない。手首を、なにかが掴んでいる。眼をやるが、アダムを掴むものなどない。掴まれているという感覚だけが、はっきりとあるのだ。
薬湯の湯気が見せるまやかしなのか。しかし、気のせいだと思うには、あまりに明瞭な感覚だった。
火のそばに並べられた大きな壺から、白い腕が伸びてくるのが見えた。首筋に、ひやりと冷たいものが触れる。あれは腕ではなく、白い靄だ。アダムは、自分に言い聞かせた。
膝を折る。やはり、これはなにかがおかしい。
不意に、白い靄が晴れた。
暗闇に舐めまわされたような気分だった。ぐったりとした全身が、濡れている。アダムはこみあげるものを押さえきれず、床に
呼吸を整える。白い靄とともに、アダムに触れる手は、すべて消えていた。やはり、まやかしだったのだ、とアダムは思った。
靄が晴れたことで、炎に照らされた厨房のなかが一望できた。
周囲には、両手をまわしても届かないほどの大きな壺が、整然と並んでいる。それも、広い城の厨房を埋め尽くすほどの、異様な数の壺だった。木蓋は置かれていないが、液体で満たされた壺の中身がなんなのかまでは、わからない。
立ちあがり、蒼剣を
男は、厨房の裏口から逃げていた。戸が半開きになっている。アダムも外へと出た。
すぐそばに城壁があり、狭い裏庭のような場所になっている。意外に明るい。月が出ていた。雨季の
上か下か。正面の
上へと続く外階段の途中に、なにか落ちている。拾いあげてみると、掌に隠れる程度の、小さな布袋だった。形のあるものは入っていないが、逆さにして振るとわずかに粉末がこぼれ落ちた。アダムが投げつけられた粉と、おそらく同じものだろう。
ともかく、アダムも階段を上へと向かうことにした。
厨房で、おかしな感覚に襲われたのは、粉を浴びせかけられたからだったのか。そこまで考えて、また肌が粟立った。アダムは、男の使った術に心あたりがある。そのことに気づいたのだ。
このまま逃がすわけにはいかない、とアダムは思った。もし思い違いでなかったなら、あの男は孟王城で命を落とした人々の死を、
急いだ。階段は、一段飛ばしで駆けあがった。
三階、四階と、外階段からの出入口は崩れており、入れなかった。続く五階は、扉に鍵がかかっている。さすがに呼吸を乱し、アダムは閉ざされた扉の前で、少し息を整えた。
男がこの扉を入って鍵をかけたのだとしたら、どこから入ればいいのか。考えながら、まずは六階を見ることにした。六階には扉はなく、そのまま屋上へと向かう階段が続いているようだ。迷っている暇はない。アダムは屋上へと駆けあがった。
物音が響く。屋上の隅の城塔入口に、月に照らされた人影を認め、アダムは駆け寄った。
「こっちへ来るな。嘘だ、そんな」
城塔のなかへと入るための木戸が、開かなかったようだ。男は戸を背にして尻を落とし、なにかわめいている。
「あんたの術は破ったよ、
アダムが言うと、男は一度躰をびくりと震わせ、眼を見開いた。
「馬鹿な、あれを抜けてこられるわけがないんだ」
言いながら、男が懐に手を入れるのをアダムは見逃さなかった。白杖で打つ。あっと声をあげ、打たれた手の甲を押さえた男の懐から、粉の入った小袋がいくつかこぼれ落ちた。
「同じ手を続けて使うなんて、底の浅い真似はするなよ」
「俺は」
「さて。策は尽きたようだし、今度こそゆっくり話をしようか」
言ったアダムの眼をじっと見つめながら、ゆっくりと立ちあがった男が、重々しくうなずく。そう思った次の瞬間、男が身を
「悪かった。頼むから縛るのはやめてくれ。なんでも答える。なんでもだ」
「少しでもおかしな真似をしたら、手首が
「わかった。わかったから」
男は酷く怯えた様子だが、それでも不敵な眼の光を失っていなかった。油断はできない。
城塔の壁に背をつける恰好で男を座らせ、アダムはようやくひとつ大きく息をついた。
「あ、あんた何者なんだ。一体なんで、この城に、その、俺のことをどこで」
「黙るんだ。訊くのは私だ」
向かい合いながら、この男は確かに、霊術師と呼ばれても否定をしなかった、とアダムは思った。
ふと、手首に残る違和感に眼をやる。月明かりに照らされたアダムの手首に、誰かがきつく掴んだ手の跡が、
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