三
エフレムは、西域の
炳東の海を見るのも、ずいぶんと久しぶりのことである。雨は降り続いているが、さして気にもならなかった。それよりも、そろそろ海が見えるのではないかと、遠く雨の向こうにばかり眼をやっていた。
東に向かう間に、
向かっているのは、漁労で暮らす部族の集落だった。
結局、駱駝部隊は見失っていた。大雨が、追うための痕跡を流してしまったのである。見当をつけて追跡することも不可能ではなかったが、そのまま
濡れた草地をしばらく行くと、丘とも呼べないほどの起伏があり、ふたつ越えたところで海岸線が見えた。波音までは聞こえない。それでも、懐かしさのようなものがエフレムの胸を揺さぶった。
遠く、海面が
担いでいるものを落としそうになり、エフレムは自分がしばらく立ち尽くしていたことに気づいた。気を取り直し、また歩きはじめる。
右肩に担いでいるのは、矢で射て捕らえた小鹿の肉である。一頭だけで森のはずれにいたので、群れからはぐれたのだろう。おまえと俺は似たようなものだ。弓を引き絞りながら、エフレムはそう呟いていた。次の瞬間には、眉間に矢の突き立った小鹿が倒れていた。小鹿はその場で解体して、必要な分だけを
海へと注ぐ川辺に沿うように、質素な木組みの小屋が並んでいる。上流の一番上が村長の屋敷で、下流へ行くほど身分の低い者の小屋になっているのだ。暮らしているのは少数民族だが、ここでも原理神教が信仰されており、身分の低い家の生まれの者は、身分が低いまま一生を終える。その逆もまた
生まれながらに、人生が決められている。それは前世でのみずからの行いが決めたことで、すなわち現世での生き方が、来世の人生を決めるのだ、と説かれていた。原理神教の
これまでに、反発する思いを抱かなかったわけではない。だが、エフレムの父も母も原理神教の信徒で、
竹で組まれた簡素な門を通ると、そこがもう集落だった。
雨はまばらな降り方だが、道に人の姿は少ない。腰ぐらいの高さの土壁の向こうから、小さな子供が顔だけを出してエフレムのことをじっと見ている。
あまりに久しぶりで、知った顔に会えるかどうか、正直なところ自信がなくなってきていた。最後に会ったのは、エフレムが二十三歳のころだったはずだ。十数年の間に、人も集落の様子も変化している。当然のことだった。
川辺のほうに、煙の柱が見えた。宛もないので、人が集まっていそうだという理由だけで、エフレムはそちらに足を向けた。
古い小屋の並ぶ路地をくだる。前から来たずぶ濡れの野良犬が、わずかに肉のついた骨を口に咥えながら駆け抜けていく。思わず道を譲ったエフレムには、眼をくれようともしなかった。
細い路地を縫うようにして、下流へ向かう。歩きながら、煙の
煙に近づくにつれて、女の姿をまったく見なくなった。そしてさまざまな香の混じった煙のにおい。それで、エフレムには煙の正体を判断することができた。葬儀である。死者を、
路地を抜け、川辺へ出た。思った通り、沐浴場のそばの火葬場から、煙が立ち昇っていた。
川の上流から下流にかけて、大きな船が四、五隻は並べられそうな幅を火葬場が占めている。そしてその広い敷地のほとんどが、積まれた大量の薪に占領されていた。よくある川辺の風景だ。色鮮やかな布が巻かれた竹の棺台(担架)に乗せられ、
火葬場の近くに、やはり女たちの姿はない。嘆き悲しむ声が痛切すぎるために、それが神聖な儀式の妨げになるとして、葬儀には女の参列が許されていないのだ。
穴のなかに積みあげられた薪の上に、赤い布で包まれた遺体が置かれている。遺体の上にも、重そうな薪が重なっていた。焼きはじめたばかりのようだ。
煙の近くで執り行われている葬儀の喪主は、中央に立つ白い衣服の痩せた男だろう。その男のそばに、エフレムは昔の面影を残したままの友、ギーオの姿を認めた。声をかけたいところだが、終わるまで待つしかない。ギーオの手には竹の棒が握られており、ひと通りの葬儀が済んだあとも火の番をする様子だった。
エフレムは小雨を浴びながら、火葬場へと続く階段に腰掛けて待った。
精製
五刻(約二時間半)ほど待つ間に、並んでいた遺体も順に火葬にまわされていった。先に火葬を終えた場所に水が撒かれはじめたところで、ギーオがようやく腰をあげた。
「よう、仕事は済んだか?」
疲れた表情で階段をあがってきたギーオに、エフレムは気軽に声をかけた。
「なんだよおい。いつからそこにいたんだ、エフレム」
「五刻ほどだ。待っていた」
「まったく気づかなかったぞ。柄にもなく、よほど行儀よく待ってたんだろうな、おまえ」
ギーオがそう言って顔を
案内されて、火葬場よりもさらに下流の、小さな木組み小屋へと
狭く質素で、寝起きするだけの場所に見える。ここがギーオの住まいだった。板敷きの床の中央には火床が切ってあり、腰をおろすとすぐに、鍋がかけられた。
「手土産に、鹿肉を持ってきた。森で獲ったんだ」
「
白い
「一矢で仕留めたのか、駆けまわる白斑鹿を。弓術の腕は相変わらずだな、エフレム」
「相変わらずなものか」
「ほう、
「洗練されすぎて、つまらん。狙いを外すことが、まるでないんでな」
「軽口のほうも、相変わらずなようだ。友よ、ゆっくりしていけ」
そう言って、ギーオは歯を見せて笑った。
「有難い。だが、そういうわけにもいかん」
「というと」
「ここへは、おまえに
「まあ、そんなところだろうとは思ったがな」
エフレムがこの旧友を訪ねたのには理由があった。
炳西から炳東へ。何日も歩くばかりに要することになったが、わけもわからず駱駝部隊や隠術師を追うなどして、闇雲に歩きまわるより、まずは情勢を知ることだと考えたのだ。
孟国のこと、孟王城を落とした
昔からどこか憂鬱そうな眼をした男だったが、その眼は世のなかのことをよく見ていた。この村と孟国は遠く離れているが、エフレムが流刑となったことまで、正確に知っていたのだ。
ギーオの、村での身分は末端の末端といっていいほどに低い。だが、村で孤児を見つけては食い物を分けてやるなどし、困ったことがあればできるかぎりの面倒を見てやる、ということを長年続けてきた。エフレムが最後に会ったときも、ギーオを慕う者は驚くほど大勢いたものだった。ギーオは、十四、五歳のころから現在までの二十年あまり、それを続けてきたのである。いまではすっかり大人になっている者も、少なくないだろう。
彼らはたとえ村を離れても、ギーオを慕い続けているに違いない。そしてときどき各地の情報を故郷に持ち帰り、近況とともに話すのだ。
ギーオはそうやって得た情報を照らし合わせて
エフレムは、ギーオの売る情報を信用していた。孟国の正式な隠術師となってからも、その情報を
ギーオが、煮立つ鹿肉がすっかり隠れるほどに、鍋に香草を盛りあげた。無造作に壺から掴んで入れたが、独特なにおいを放つものや辛味のある草、刺激の強い
鍋の上で山のようになっていた香草は、次第に鍋のなかに吸いこまれるようにしてしぼんでいき、煮汁を赤黒い色へと変えた。
鹿肉が、椀に盛られる。エフレムは椀を受け取り、息を吹きかけて
炳都の情報を詳しく聞いているときに、ギーオが突然口を閉ざした。
「どうした?」
「いや」
「言いたいことがあるなら言えよ、ギーオ」
神妙な表情で、ギーオが椀を置いた。エフレムほどには、食っていない。椀はまだ、半分ほどしか減っていなかった。
「実はな、俺は迷っていた」
「なにを」
「おまえが流刑になったという噂を耳にしたとき、俺は流刑地へ救いに行こうかと思っていた。どこかで舟を手に入れてな」
「馬鹿な」
「本当だ。だが、ここを離れるわけにはいかなかった。火葬場の仕事だけじゃなく、やっと歩きだしたような子供の面倒も見ていたしな」
「その気になれば、助けは必要なかったさ」
「俺もそう思った。生きることを放り出してしまうようなおまえが、その気になるかどうか、心配はしたがな」
「それで」
「おまえが生きているなら、いずれここへ俺を訪ねて来るだろう、と思った。孟国のことを訊きに来るはずだってな」
「なにが言いたいんだ、ギーオ?」
言うと、ギーオが言葉を詰まらせてうつむいた。下唇を噛んでいる。しばらくして伏せた眼をあげ、エフレムをじっと見た。
「悪いことは言わん。
「なんだって?」
「この地を離れるんだ。おまえには自由が似合う。それを手にする力もあるはずだ、エフレム」
意外なほど、切実な響きがこもった言葉だった。
「なあ、エフレム。おまえも知っての通り、俺は炳辣国で最下層の人生を送ってる。だが、それを悲しんではいないんだ。原理神教が説くような、宿業だからという理由じゃない。俺は、ここで生きてるんだ。自分自身がいつ食えなくなって死ぬとも知れないなかで、孤児を拾っては、一人前に育ててる。育ててるつもりだ。俺はそれでいいんだよ」
だけどおまえは違う。そう言って、ギーオがひと粒だけ涙をこぼした。エフレムは驚き、しばし言葉を失った。
孟国が滅び、主従の誓いは絶たれた。そうなのかもしれない。だが、絶たれたらあとのことはもうどうでもいいのか、という自問するような思いが、どうしても拭えなかった。
孟王や王家に対する忠誠心のようなものは、流刑となったときに失せている。それは確かだった。
それでも、やらなければならないことがある。隠術師として生きてきた。それが自分のすべてだったのではないか。そのなかで、つまらぬ謀略があった。
それは、隠術師として厳しい鍛錬を重ねて生きてきた三十年を、
「国も信仰も捨てて、自由に生きるんだ、エフレム。俺は、おまえにそうしてほしい」
ギーオが向き直り、もう一度言った。もう泣いてはいない。
「頼む、ギーオ。知っていることを、すべて教えてくれ」
「エフレム」
「おまえの気持ちはわかった。正直言って驚いたが、おまえのような友を持てて、俺は嬉しい。だけどな、ここで放り出せば俺はこの先ずっと、死にながら生きてるようなもんだ。だから教えてくれ。どうするかは、それから決める」
沈黙。ギーオが、腕を組んでうつむいた。
「生きることを投げ出すような真似はしないと、約束してくれるか」
「なにかやるにしても、それは俺が生きるためにすることだ。それは、約束する」
エフレムの言葉を聞いたギーオが、硬い表情のままかすかにうなずいた。
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