信じがたい話ではあった。

 だが、嘘をつく理由などどこにもない。これまでに聞いた、複数の目撃者の話とも辻褄つじつまが合うものだった。

 おおまかな話を聞き終え、シュルグは目頭を指で押さえて息を吐いた。

 このところ、眼が疲れやすい。小さな文字が並んでいると、帳簿をつけるにもやたらと時を要するのだ。六十を前にして、老いを感じずにはいられなかった。同年代で、すでに死んだ者も少なくはない。

「で、おまえさんは単なるけものではない、と考えておるんだな、アダム」

「心当たりはあります」

 卓の並ぶ商館の広間である。石造りの壁際の火明かりが、じりじりと音をたてて燃えていた。

 出入口付近には、明朝より動かす水桶みずおけが並んでいる。シュルグは夕刻近くから、運搬を任せる数名の水売りごとに、桶を振り分ける作業をしていた。

 幸い、このところ水には不自由していない。陽照り続きで心配していると、数日のうちにまとまった雨が降る、という状態が続いていた。

 大雨が降ると水の調達には困らないが、にごった水をそのまま売り歩くことは許していなかった。必ず、濁水に木炭を放りこんで煮沸しゃふつし、縫目の細かい布を重ねてす。木炭を入れるのは、そのまま煮立てて濾すよりも水が澄むためだ。この泱街オーペムガーナになにか決まりがあるわけではないが、そのひと手間にこだわる。それでシュルグのあつかう水は、ほかの水売りのものよりも街の者に支持されてきた。その証拠にこの十年で、個人で水売りをやっていた者が何人も、シュルグの下で働くようになっている。

 振り分け作業を終えたころ、アダムが商館に姿を見せた。駆けこんできたわりには取り乱した様子もなく、淡々と経緯を話した。

「三十ほどの群れで動いていたのは、こいつです。大きさは、そこらの鉢植え程度かな」

 揺れるあかりのなかで、アダムが木板に描いてみせた絵を指差す。なんでも器用にこなす男だとは思っていたが、絵も描くとは知らなかった。筆運びはなかなか手慣れたものだ。

 描かれているのは上が花で、そこから広がる葉や蔓の下に小動物の手足のようなものが見えている、奇妙な姿のものだった。

「これは?」

「フロスマヌドゥカ。妖魔ようまです」

「妖魔だと」

 得体の知れない獣を、妖魔であると安易に決めつけるべきではない。少なくともこの精地大陸ルービンクォードでは、赤狼や狒々ひひわになどの猛獣に比べれば、人が生きていて妖魔に遭遇することなどきわめて稀である。噂はあっても、よくよく調べてみれば珍しい鳥獣だった、という話ならいくらでもあるのだ。

 それでも、あらゆる土地を歩いてきたアダムが、断言していることだった。

 卓を囲む席に着いているロマナ姉妹の妹は、ひどく疲れた顔をしてうつむいている。もともと病弱な娘だ。休むように言ったが、話を聞いておきたい、とだけ言って向かいの椅子に座っていた。

 彼女の姉がなにに襲われたのか、見当はつかない。アダムの描いた絵を見ても、シュルグに心当たりなどなかった。やはり、妖魔なのか。

「この頭部にある花の部分が、です」

 アダムが、絵を示しながら言う。シュルグは顎に手をやって髭を撫でた。なにか考えるときの癖だ。自覚していても、ついやってしまう。

「花が妖魔なら、その花の下にある手足はなんだ?」

「フロスマヌドゥカはねずみ栗鼠りすなどの頭を苗床なえどことし、そこで発芽するようです。つまり花以外は、もともと森に生きる鼠かそれに類するもの。鼠が種を口にしたためにそうなるのかはわかりませんが、頭部で花が開くころには全身に根が走り、おそらく思考は奪われている」

「思考が、あるのか」

はえなどを捕らえて食う植物のように、フロスマヌドゥカもつるの先をえさに見立て、狩りをします。それも受け身ではなく、かなり積極的に」

 花の姿をした妖魔。狩りをし、それで人も喰うというのか。

 じっと絵を見ていると、商館に詰めている男が気を利かせて湯を運んできた。アダムとメルニに勧め、シュルグも口をつける。

 夜の商館に、ほかに交易商人が商談をする姿などはない。ここを使うのは内海を走り、船で荷を運ぶ商人が大半である。陸路で街に入る隊商などの宿も兼ねてはいるが、丘を越える南の街道は狭く、利用する者は限られている。今日も中船が五隻ほど錨泊しているので、部屋に入ってからだを休めている者は数多くいるはずだった。

 シュルグは、いつの間にかこの商館の主のような存在になっていた。妻子は持たず、三匹の猫以外に家族と呼べる者もいないが、下で働く者は多くなり、やることの幅も広がっている。巧妙に立ちまわり場所を得た策士だ、と揶揄やゆする者もいるが、ただ利を生むことに鼻を利かせるうちに、自然とそういう立場になった、とシュルグは思っていた。

 それに、まだ自分のしていることに満足しているわけではない。知らないことは多くあり、そこには必ず利を生むなにかがある。肝要なのは、見極める眼を鋭く保ち、先の先まで見越して動くことである。よわいは重ねたが、その情熱は失っていない。

 湯の器を卓に置き、息を吐く。気づけばもう夜更けになっていた。

「それにしてもおまえさん、やけに詳しいな」

「ずっと前に、別の土地で遭遇したことがあります。群れではなかったし、花のかたちなど外見の差異はあれど、躰が鼠で頭部に花が開いている、という点でほぼ同じものだった。それに、妖魔のことを調べる知人しりびとから得た知識も、多少は蓄えてあるので」

 アダムの端正な顔立ちが、灯りに揺れている。

 普段は茫洋ぼうようとした眼をしているが、ときどきはっとするほど鋭い光を放つ。底に哀しみを抑えこんだような眼。一体なにを見てきたらこういう眼になるのか、と思う。わざわざいたことはないが、年齢はよくわからなかった。物腰はいつも落ち着いているが、白い歯を見せて笑うと屈託のない少年のような印象を受けることもあった。そして好奇心に眼を輝かせる子供に見えたかと思うと、次の瞬間にはまた、すべてを見透かす古老の賢者のようにも見える。

 不思議な男だった。のんびりと陽気に構えているようで、心には底の知れない深い色をたたえている。柔らかさと鋭さを合わせ持ち、胸の内に隠れたどこかが、たまらなく淋しい。それがなぜか男も女も惹きつけるに違いない、とシュルグは思っていた。

 この街にも、アダムを慕っている者は少なくない。シュルグも、その一人に数えられるのかもしれなかった。

 泱街が窮していたところに、アダムは現れた。思わず、干瓶ほしがめに朝露だ、とシュルグは膝を打った。陽照り続きの夜、渇きを訴えて訪ねてきた獣たちに、残りわずかな水をすべて分け与えてしまい、明日からどうしたものかと途方に暮れていたが、夜が明けると外に出しておいた水瓶が朝露で満たされていた、という精地に伝わる寓話である。

「しかしな、目撃者の話にあったのは、見あげるほどの大きさのものだったはずだろう」

 シュルグが疑問を口にすると、アダムが、絵になにか描き加えながら続ける。

「肥大化することもあるようです。私が以前見たものも大きくはありませんでしたが、食うものによっては」

「街の男衆や、おまえさんたちが目撃したほどに?」

「聞いた話ではフロスマヌドゥカは沼地を好むようなので、餌にありつく機会には恵まれない。だから大きくなることも少ない。しかし、もし食うものに困らなければ、どうでしょうか」

「人喰いの妖魔か」

 シュルグがうなるように呟くと、アダムがわずかにうなずいた。

「姿は見えずとも、黒い小山が動いたようでした。三十の群れの主、といったところでしょう」

「あたしは、子供の泣き声を聞きました」

 黙っていたメルニが、口を開いた。

「確かに、聞いたんだな?」

「聞き間違いじゃありません、シュルグさん。逃げ出さずにいれば、救えたかもしれないのに」

 メルニは切れ長の眼をシュルグに向けて答えた。抑えてはいるが、言葉にはかすかにアダムを批難するような響きがあった。アダムはそちらを見ようともせず、まだ筆を細かく動かしている。

「それこそが行方不明の原因ですよ、シュルグの旦那」

 アダムが手を止め、卓に置いた木板を押して寄越した。妖魔の花から伸びた蔓の先に、人間の子供のかたちが描き加えられている。

「食ったものの姿を蔓の先で再現して、次の獲物を効率的に誘う。それがフロスマヌドゥカの狩りです」

「なるほどな。それで、子供の泣き声か」

 半年ほど前、森の近くで遊んでいた子供が帰らなかったことがあった、とシュルグは思い出した。たまたま喰った人の子で味を覚え、その姿を真似たということなのか。

 狡猾こうかつともいえる狩りの手法だ。シュルグも、森で子供の泣き声がすれば、あまり深く考えずに確かめに行くだろう。

 衛兵や腕自慢の若い男たちが一人も喰われずに戻っているところをみると、無事では済まないが、力ずくで逃げ出すことはできるのかもしれない。

 女や子供ではどうだろうか。妖魔が大きければ力ずくというわけにはいかないのかもしれない。それに、仮に罠かもしれないと感じていても、女の心はどこかで母であろうとするものなのではないか。まだ子のいない小娘のメルニでさえ、子供の泣き声を少しも疑っていなかった様子なのだ。アダムが場から引きがさなければ、彼女も妖魔に喰われていた、という可能性は高かった。

 アダムの挙げる特徴を整理し、どうやって退治するか、という話に移った。

 その妖魔は、みついた土地の養分を吸い、次第に腐らせるのだという。この数年で、泱街周辺に沼地が急激に数を増やしているのは、妖魔のせいなのかもしれない。やはり、どうあっても退治しなければならないのだ、とシュルグは改めて思った。

「群れを取り囲んで矢を一斉に射かける。剣は無理でも、弓を遣えるという者はまだ街にいると思う。腕に覚えがあれば老人も加われるし、商船に乗って街に来ている連中も声をかければ、おまえさんに手を貸すはずだ」

「まず、取り囲むというのが難しい。姿を見せるのは夜闇で、昼間はおそらく沼のそばの岩場にでも隠れているでしょう。警戒されれば、沼の主ははじめから姿を現さない。露払いを務める従者のように、三十の群れも気配に敏感です。こちらが人数にたのむのは無理でしょうね」

 しかし泥濘でいねいに足を踏み入れたところで、喰われるのを待つしかないのだ。近づけないのなら、槍を投げるか、弓に頼るくらいしかないのではないか。

「人数を減らして、火矢はどうだ。深く刺さらなくても、頭の花が燃えるかもしれんぞ」

 狩人をやっている者が気まぐれで作った、やじりに仕掛けをし、油を染みこませた矢がある。火を着けてから放つのだ。闇ではこちらの場所を教えるようなものだが、有効なのではないか。

「妖魔が沼の泥にまみれていれば、効果は薄いでしょう。沼地を利用すれば、小さな火はすぐに消されてしまう。フロスマヌドゥカが狩りに使う蔓は、手足のように動かせるはずです。まずはそれを封じないことには」

「岩場に隠れていると言ったな。だったら油をぶちまけて、そこを火攻めにするというのは?」

「火というのは、どうしても賭けの要素が強い。巣穴の深さはわかりませんし、穴の奥深くで息を潜めていたり、どこかに通じている穴であれば、逃げられて仕留められないことも考えられます。姿を見ないまま、退治できたと決めることもできない。いま仕留められなければ、しばらく経って、また狡猾さを増して人を襲うことになる。それに周囲は森で、もし火攻めの大きな炎が燃え広がれば、騒ぎは大きくなるばかりだ」

「私は水をあつかう商人だぞ、アダム」

「飲水のね」

 一蹴された。あくまで、街の飲水だ。アダムの言う通りだった。油を使って燃え広がった炎を消すとなると、一度にもっと大量の水が必要になる。港街とはいえ、海辺と北の森とは離れている。あのあたりを流れている川も小さなもので、とても大火の火消しに使えるような水量ではなかった。

 理想だけでなく、最悪の状況も想定したうえで、冷静に考えなければならない。シュルグは気がくあまり、前のめりになって考えが浅くなっている、ということに気づかされた。

 ただ追い払うのであれば、火攻めや煙を流しこむという方法も使えるかもしれない。だが、目的はそうではない。妖魔の退治なのだ。腕を組みしばらく考えたが、シュルグにはそれ以上の策が思いつかず、あとはアダムに、街の資材などについていくつか質問をされ、知っていることを答えるばかりとなった。

 話は、深更におよんだ。商館には波音が聞こえるだけで、街は完全に寝静まっている。

 戸板はおろしてあるが、やはり少しばかり夜気で冷えている。メルニの肩には、アダムの套衣がかけられていた。

「人手を借りたい。早いほうがいいでしょう。できれば明朝から」

「大丈夫だ。ほかにも必要なものがあれば教えてくれ、街の長にも要請してみよう」

 人でもなんでも用意しよう。このままでは商売どころか、街の行く末にも関わってくる、とシュルグは思った。

 それからアダムに言われたものをいくつか書き留め、明日のことを詰めて今夜はシュルグも商館に泊まることにした。どうせ独り身で、帰りを待つ者もいない。好きに出入りしている猫がいるだけだ。

 別れて空いていた部屋に入り、寝台に横になる。

 雨が降っているようだ。小雨でも、すでに広がっている水溜まりは枯れずに残るだろう。だとすればアダムの予測通り、明日の夜も妖魔は現れるのだろうか。

 眼を閉じたが、すぐには眠れそうもなかった。行方不明者やその家族の嘆き。商売の行末。さまざまなことが、取りとめもなく胸に去来する。

 気づくと、朝になっていた。いつの間にか眠ったようだ。

 シュルグは商館で軽い朝餉あさげを摂り、すぐに街の長の屋敷へ向かった。

 アダムの求めを伝えると、長は思っていたよりもすんなりと聞き入れた。一番渋るだろうと思えた、蔵で乾かしてある造船用の木板も四十枚、使うことが許された。

 衛兵の詰所を覗いてみたが、行方不明者は増えていなかった。昨日アダムたちが聞いた泣き声は、やはり妖魔が真似たものだった、ということか。だとすれば、やはり歩み寄ろうとしたメルニは、まんまと罠にかかっていたということになる。ともかく、被害が増えていないことは救いだった。

 霧のような小雨は、昨夜から降り続いている。シュルグはその足で人を集めてまわり、昼前にはアダムの指定した森の一角に板などを運び終えた。

「動けるのは十八人いる。頼まれたものはすべて揃えたぞ、アダム」

 アダムは川のそばに座り、枯れた蔓を集めて縄をっていたようだ。顔をあげ、笑顔を見せる。やはり少年のような笑みだった。

 シュルグが連れてきた若者のうち、二人が横を向いている。アダムが投げかけた笑顔に戸惑う素振りからして、街道で衛兵の真似事をしていた二人だろう、と見当をつけた。

 見ない顔だといってアダムに絡んだのは間違いだったが、この若者二人も街を守ろうと動き、それだけでどこか強くなったような気分になっていたのだろう。気持ちが大きくなるのは、実際は小さいということの証でもあるが、シュルグはこういう若者らしい若者が嫌いではなかった。力を認めて相応しい仕事さえ与えてやれば、意外なほど懸命にそれに取り組むだろう。ついそんな眼で人を測ってしまう。どんな状況でも商人として生きる、シュルグの悪い癖だった。

 北に広がる沼に移動し、そこからはアダムの指示に従い、手分けして進めた。

 妖魔が姿を見せたという沼地。ぎ倒された草木や、沼からなにかを引き摺りだしたような跡が、黒い泥土でいどに生々しく残っている。いまはその気配はない。昼間はどこかに潜んでおり、現れるのはやはり夜闇なのだろう。

 アダムの話では、沼に面した岩場に見える洞穴に潜んでいるのではないか、とのことだった。泥は、その洞穴の内部まで流れこんでいる。縦に走る亀裂のような穴は狭く、深さはわからない。こちらから踏みこむのは、どう考えても危険だった。

 このあたりは道があるわけでもなく、シュルグはほとんど訪れたことがない場所である。そばを小川が流れているので、そこに足を運ぶ者はいるだろう。みながみな、水売りからあがなうわけではないのだ。おとりを買って出たあの娘、メルニの姉も、そこの小川に水汲みに出て帰らなかったという話だ。

 沼に背丈ほどの棒を突き立ててみる。見た目は濡れた黒土の地面だが、棒の半分以上が、ずぶずぶと呑みこまれる深さだった。知らずに踏み違えば、すぐに身動きがとれなくなるだろう。

 ここも陽照りが続けば干あがるのだろうが、大雨のあとの森は数日に渡り、あちこちがこんな具合だった。シュルグも以前、西側の森で荷車の車輪を片方、落としてしまったことがある。そのときは、積荷を陸側に寄せ、人手と馬でいてようやく引きあげたのだった。

 数人の男たちで、周辺の木の幹に木棒を固定していく。幹から枝が一本、増えたような恰好だ。その枝の先端には油を染みこませた布を巻きつけてある。沼をぐるりと囲むように、十二箇所に設置した。

 いつの間にか雨があがり、雲間から陽が射しはじめていた。風が吹くと、沼から腐臭が漂う。鼻をつまみたくなる嫌なにおいだった。

 作業中、シュルグの下で働いている者がやってきては、そのつど報告や相談を受けた。

 水の調達をしている者や売り歩いている者、漁師や屠畜とちく生業なりわいにしている者、酒の仕入れの担当商人。値の動きを調べさせている者。最近、北のほうで進めている砂金の採掘については内密に、作業の輪から離れて報告を受けた。

 シュルグの頭のなかには次の商いのことがあり、それには元手がかなり必要だった。すでに蔵の半分近くを満たす量の砂金が出ているが、採掘の件は街の長にも知らせてはいない。いまのところはだ。充分な量を蓄えたのち報告するか、穴を埋めるかすればいい。いま構想している商いは街にとっても役立つことで、長をはじめ、誰も損はしない。労力をかけるだけ、いくらかシュルグの懐に入ってくるものがあっても、なにもおかしくはないはずだ。

 どれも順調に進んでいる。泱街の酒場におろす品だけは動きが悪いが、妖魔さえ片づけばまた夜の街にも活気が戻るだろう。

 アダムの指示で十枚ひと組の束にした木板は、沼の淵に生える精地檜せいちひのきの高い位置にくくりつけていく。木の先を沼と反対側に曲げるように引っ張り、垂らした縄を地に打ちつけた杭で固定する。沼に足を踏み入れるわけではないが、板束を縄で吊りあげるのはやはり大変な作業で、そこだけは全員で四箇所を順にやった。そこからさらに手分けして仕掛けを施していく。

 アダムによれば、これも賭けではある。充分な用意を進めているが、うまくいくかどうかは五分と五分。妖魔がこちらの意図した通りに動くとは限らないからだ。

 シュルグが不思議に思ったのは、仕掛けに手を加えながらアダムが用意するように言った火矢だった。昨晩話したときには、火矢は効果が期待できないということだったはずだ。

 途中で一度休憩をとり、西陽が射しはじめたころにはすべての作業が終わった。

 全員で商館に戻り、作業を手伝った者には酒が振る舞われた。シュルグとアダムだけは、水である。

「本当に、連中を残さなくていいのか、アダム」

「警戒されれば、姿を見せない。それでは意味がありません」

「しかし」

「用意はしました。妖魔を誘い出すには、昨日と同じ状況であるべきでしょう。彼女は?」

「言われた通り、呼んであるが」

 メルニ・ロマナ。精地大陸ルービンクォードでは珍しい、色白な娘だった。幼いころから病弱で、いつも姉の影に隠れていたような印象がシュルグにはある。

 アダムがメルニと向き合った。眼を合わせ、互いに小さくうなずいている。

 毅然きぜんとした表情で、そこには姉の後ろで小さくなっている妹の面影は、もうなかった。

 妖魔を誘い出す。聞いたこともない話だが、うまくいくのだろうか。シュルグは不安だったが、口には出さなかった。ここまでくれば、成功を祈るしかない。

 遠く、潮騒が心に打ち寄せるように、いつまでも音をたてていた。

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