腹の太い、大きなが舞っている。

 しばらくは一匹だけだったが、陽暮れの森にぽつりととも焚火たきびに誘われたのか、いまは四、五匹がやってきて、うるさく飛び交っていた。

 集めておいた枯れ枝を適当な長さに折り、べていく。いつものように、はじめは燃えやすい精地檜せいちひのきなどの軟木を中心にし、炎が落ち着いてからは硬木のかしくぬぎを使う。思った通りの薪がいつも揃うとはかぎらないが、どうしたいのかが決まっていれば代用も選びやすい。火種が見つからない場合であっても、ほぐした樹皮の繊維や、脂を多く含む種子などを使うこともある。目的さえはっきりしていれば、あとは工夫次第なのだ。

 晴れた日が続いていたが、久しぶりにまとまった雨に降られたあとの森は、しっとりとつゆまとっていた。それでも薪に関しては、前もって乾いた木を集め、岩陰に積んで濡れないようにしておいたので問題はない。

 アダムの野営好きは、火をおこすことが好きだということでもあった。どんなに人里離れた僻地の夜でも、熾した火を見つめていると、どこかほっとするのだ。

 火が、故郷を焼いた。しかし一方では、その火に救われている。皮肉なことだが、事実だった。

 細く昇る煙と、ぱちぱちと乾いた音が、息を潜めた夜の森に吸いこまれていく。焚火の明るさが、周囲の闇をさらに濃くしているようだった。

 アダムは火の近くに突き立てた木棒を動かした。枝に絡めるようにして刺した蛇を、焦がさないように遠火で焼いている。片面が焼け、いいにおいが漂いはじめていた。

 小川が流れるそばの、草が禿げた地面を火床に決めていた。多数の衛兵が重傷を負ったという、泱街オーペムガーナの北に腰を据えることにしたのだ。街の中心からゆっくり歩いても、ここまで半刻(約十五分)とかからない近さだった。

 あたりは古い森で、ここより北に街はない。深い森を北へ抜ければ精地大陸ルービンクォードの端になり、その先には大海が広がっているはずだ。街の者も、この小川まで水汲みに来ることはあっても、さらに北へとおもむくことはほとんどないようだった。

 結局、シュルグの依頼を受けていた。やはり放っておけない。アダムの気持ちがそう動くだろうと、はじめから見越して話を進めたシュルグのやり方は気に入らなかったが、なにか手を打たないと被害が大きくなる、というのは確かなことだった。

 五日、夜の訪れとともに噂の猛獣が現れるのを待った。アダムがここで待つようになってからは、被害は出ていない。それでいて、夜になると決まって嫌な気配が漂っていた。

「シュルグの旦那も人が悪いな。おとりだなんて」

「あたしがお願いしたんです」

 さすがに十日待ってなにもなければ、留まり続けるつもりはない。そう伝えると、シュルグが女か子供の囮を用意すると言いだした。囮など、いざ猛獣が現れたときに邪魔になるだけだ。当然アダムは固く断ったが、陽暮れに合わせて野営場所に足を運ぶと、あとから黒髪の娘が勝手にやってきた。アダムが帰るように言っても、娘は焚火を挟んだ向かいに腰掛けて動こうとしなかった。

「怖くはないのか?」

「アダムさん、でしたよね。お強いと聞きました。だから大丈夫です。いえ、でもやっぱりちょっと怖いかも」

 白い歯を見せて苦笑した娘の顔が、揺らめく焚火に赤く照らされている。言葉は少し精地北部のなまりが強かったが、アダムにはすんなり聞き取れた。訛りというならシュルグもかなりのもので、アダムはそれを聞き慣れているため、いくらか真似て話すこともできるのだ。

 メルニ・ロマナと名乗った娘は、華奢きゃしゃで、陽射しの強い精地の人間にしてはやけに肌が白かった。焚火のあかりでもそれがわかるほどだ。十七、八歳といったところだろう。娘は行方不明になっている姉を案じ、みずから囮となることをシュルグに願い出たのだという。陽にけた肌と光の強い眼、といった精地でよく見る女たちの印象とは対照的で、長い黒髪と細い顎の線、切れ長の眼が印象的だった。

「姉はあの夜、熱で寝こんでいたあたしの代わりに水汲みに出て、戻りませんでした」

 メルニが、視線を焚火に落としたまま呟いた。彼女の姉は七人目、つまり現時点で最後の行方不明者ということになる。

 残酷だが、可能性は日を追うごとに低くなっていく。それは獣に襲われていなかったのだとしても、同じことがいえた。無事なら帰ってくるはずなのだ。それがわかっているからこそ、この娘も危険を顧みず、囮を買って出たに違いない。早く見つかることを願うばかりだが、アダムが気休めを言ってみたところで仕方がなかった。

 焼ける蛇肉から滴った脂が火のなかに落ち、じゅっと小気味よい音をたてた。火の粉が舞う。

 精地では古くから、蛇は水を呼ぶものと信じられている。蛇を追って湧き水を見つける、という古謡こようもあり、空に架かる虹も谷を流れる川も、みな大きな蛇だと考えられてきたらしい。

 アダムもいまは、それを信じてもいい、という気分になっていた。これから食おうとしている蛇は、昨晩から朝方まで降った大雨のあと、濡れそぼった森で捕まえたのだ。それも、わりと大きな蛇だった。蛇を好んで食うわけではないが、商館でブフカの腿肉を口にしたのを最後に、山菜と魚ばかりが続いていたので嬉しかった。我ながら単純な胃袋だ、と思わず小躍こおどりするような気分になっている自分に気づき、アダムは苦笑した。

 蛇はさっきまで縛りあげて生かしておいた。生きているうちは腐る心配がない。先に火種を用意し、それから岩に頭部を叩きつけて絶命させたあと、短剣で毒牙のある頭と内臓を除いて皮を剥いだ。芯までしっかりと火を通して焼きさえすれば、そのままかぶりつくことができる。急げば焦がして身が硬くなるので、あくまでも遠火だ。待ち遠しかった。

「姉の夫は、舟で沖に出ていったまま、ほとんど帰ってきません。子供だっているのに、長いときはひと月以上も周辺の小島を拠点にして。だから、いま姉の身に起きていることを知りもしない。どうして男の人って、あんなふうなんでしょう」

「自分の地平を見つけたら、そこを目指して歩かずにはいられない、といったところか」

「もう何年も、誰も釣ったことのない大物をあげてみせる、なんて言ってるんですよ。子供みたいに」

「無謀と思えるようなことでも、これと決めたものを追い続ける。やめてしまえば、自分が男ではなくなってしまう。お義兄さんが釣りあげたいのは、魚というより本当はそういう大物ものなんじゃないかな」

 薪を焚べる手を動かしながら答えると、メルニがアダムの顔を覗きこんできた。

「アダムさんも、そうなんですか?」

「どうだろう。私はまだ、見つけられていないような気がするよ」

 試すようにじっと向けられている切れ長の眼を見つめ返し、アダムは笑って答えた。

「でも、ずっと旅をされてるんですよね」

「漠然と、感じているものはある。多分それを探しまわってるんだ、私は。自分だけの地平というやつが、きちんと見据えられる場所。釣りにたとえるなら、釣竿を持って、波音を頼りにずっと海岸伝いを歩いているようなものかな」

「わかりません。あたしには」

 つまらなそうに言って、息を吐く。仕草のひとつひとつが、まだどこかあどけなさを残しているような気がした。

 蛇がいい具合に焼きあがった。

 蛇肉に抵抗があるらしかったので、メルニには捕らえた川魚を焼いてやった。大きな葉で包んで火のそばに埋め、蒸し焼きにしてある。ここよりもいくらか東の地域で見ることの多い焼き方だ。小魚だが、一匹目の片面でメルニの手は止まっている。姉を案じているためか、あまり食欲はないようだ。

 アダムは、棒の端を両手で持って蛇に食らいついた。熱い。慌てて口を離し、ふうふうと息を吹きかける。その様子を見ていたメルニが、かすかに笑ったようだった。

 じっくりと焼いたので、筋張った蛇の身にしては、多少は柔らかかった。口のなかを掻くような細かい小骨が多いが、ところどころ焦げた部分が香ばしく、味はいい。頬張って噛んでいると、ぷりぷりとした脂が溶けて、そこから甘味が滲み出してくるのがわかる。

 黙って半分ほど食うと、今度はった木の実の種を砕いたものを振りかける。鶏に似た蛇の味に、また違った風味の香ばしさと辛味が加わり、味わいに深みが増した。淡白ではあるが、この蛇は肥えていて旨味が豊かだ。いいものを食っていたのだろう。

 アダムは、口のまわりや指先を脂まみれにしながら、夢中で蛇を食い尽くした。

 小川で汲んだ水を火にかける。にごりはないが、まだ大雨の影響を残しているのか、流れはいくらか速いようだ。

 ときどき、風が臭った。大樹が並び、日中も陽が届かない場所は、雨のあと泥濘ぬかるんだままになっていた。おそらくそこを抜けてくる風が、よどんだにおいを運んでくるのだろう。

 この一帯は、大雨でしばしばそうなるのだという。それもここ数年で、水の溜まる場所が急激に増えたのだそうだ。確かに、昼間少し歩いただけでも、湿地のように水溜まりが広がっている箇所が少なくなかった。大小さまざまで、腰の深さまでになる場所もあるらしい。迂闊うかつに足を踏み入れないことだった。落ちこんで身動きが取れなくなるばかりでなく、土が腐れば、それ自体が毒となる場合もある。

 ぼんやりと湯を口にしていると、飛び交っていた蛾が増えていることに気づいた。嫌な感じがする。そう思ったとき、四方の樹間から流れこむように蛾の大群が舞い出てきた。風を真似て吹き出てきたようだった。メルニは小さく悲鳴をあげ、頭を抱えて縮こまっている。

 腹の太い蛾の群れ。細かい起毛に覆われたはねを動かし、焚火を中心にして渦巻くように飛ぶ。しゅうしゅうという蛾の鳴き声と風を切る音が重なり、低く唸るようにあたりに響く。

 ひと際大きな蛾。アダムの頬をかすめて左耳にさげた耳飾りを揺らし、一匹だけで火に飛びこんでいった。それは、やけにゆっくりとした動きに感じられ、蛾が焼ける直前、アダムにはなにか聞こえた気がした。謎めいたささやき。

 それ以外の蛾の群れは分散し、北の木立の間に飛びこんでいく。一瞬のことで、旋風つむじかぜを思わせる動きだった。

「いなくなりましたか?」

 メルニが恐る恐る、伏せていた頭をあげる。

 なにが起きているのか。それを考えるより前に、蛾が姿を消した木立の向こうが、にわかに慌ただしい気配を発しはじめた。木々のざわめきではない。ねずみのような鳴き声。それもかなりの数だ。

 アダムは、メルニにじっとしておくように手で促し、杖を手にして一人で木立に近づいた。臭う。腐った土のにおいが強くなっている。

 一度木立に背をつけ、呼吸を整えて灌木かんぼくの隙間から奥を覗き見た。

 声の主は鼠ではなかった。花が、うごめいているのだ。二十、いやその向こうにも見える。三十以上はいるだろうか。ぢゅうぢゅうと、溝鼠どぶねずみがわめくような高い濁声だみごえが耳にさわる。

 蠢く花の下は草で隠れて見えないが、押し合い、もつれ合いながら沼のなかを動き続けているのは見てとれた。

 これがくだんの獣なのか。しかし見あげるほどの大きさではない。せいぜい膝くらいの高さで、目撃者たちの話とは食い違う。

 不意に背後で、物音がした。

「これは」

 息を呑み、口もとを押さえたメルニが木立のそばで無防備に立っている。じっと待っていられなかったのか。伏せろ、とアダムは手で合図をしたが、異様な光景に気を取られており、見えていないようだった。

 泥水になにかを引き摺ったような音のあと、子供がすすり泣く声が聞こえてきた。泥濘の広がる木立の奥。なにかが動いたような気がした。

 蠢いていた無数の花が沈黙し、向日葵ひまわりが陽を見つめるように、ゆらり、と一斉にこちらを向いた。気づかれた。思わず、たじろぐ。森の獣の気配ではない。アダムが身構えたとき、また子供のすすり泣きが聞こえた。わめいていた花が黙ったからか、今度は、よりはっきりと子供の声だと感じられた。

 メルニが草地に分け入り、泣き声に向かって行こうとしている。アダムは舌打ちをし、地を蹴った。慌てて腕を掴んで制止する。強く引いたつもりはないが、メルニの細い腕と躰は、簡単にアダムのほうへ引き寄せられた。抱きとめたメルニはアダムの腕のなかで、未練がましく子供の声がするほうに眼をやっている。手を離せば駆けていってしまいそうだった。

 なにかおかしい。アダムは子供の声に違和感を感じた。そこにいるようで、いない。声は聞こえるが、子供の気配を感じないのだ。

 次の瞬間、草を掻き分け、木をぎ倒す音が響いた。波打つように、全身にあわが立つ。

 泥がはね、地に響くような低い唸り声とともに、黒い大きな影が揺れた。

 アダムはメルニを担ぎあげ、駆けだしていた。子供の泣き声が遠ざかっていく。肩の上でメルニが取り乱し、伸び出た小枝はアダムの頬を打ったが、どちらも構わなかった。

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