序章

 これはかえらぬ過去の記憶なのか。あるいは逃れられぬ未来なのか。


 砂の落ちる音を硝子がらすの瓶底で聞くように、遠く、途切れがちに届く耳鳴り。からだが宙をまわるような、不安定な感覚。

 踏みとどまろうと無意識に握り締めた手のなかで、不快に泥濘ぬかるむ感触が広がる。

 不意に砂音が遠ざかり、また近くなる。眼を開けなくてはならない。ただ無心にそう思った。


 頬を打つ水を感じ、どうにか瞼を持ちあげる。遠く聞こえていたのは、泥濘でいねいの大地を叩く、激しい雨の音であった。

 徐々に生々しく耳に届きはじめる豪雨。稲光。直後、はらの底をきあげ震わせる雷鳴がとどろく。

 汚泥おでいに抱かれるようにうずくまった青年は咳こみ、背から全身を駆けまわる痛みと、動かぬ四肢を感じた。指先ひとつ動かすこともままならない。まるで、その意識までもが泥水に溶けていくかのようであった。

 泥を踏む足音。朦朧もうろうとした弱い光の眼差しで、歩み寄る者に眼をやる。 

 雷光に、不気味な笑みで固められた面が白く浮かびあがった。青年に近づきながら、おどけた様子で笑い声をあげる。雨音を切り裂くような高い響き。青年の背に、耐え難いほどの悪寒が走った。

嗚呼ああ、愉快、愉快」

 抗おうにも、芯まで冷えきった青年の躰は動かない。どうにか首だけを動かすと、額に貼りつく髪先から汚れた水が流れ落ち、視界を遮った。

 恐怖に打ち鳴らす歯が、終わりまでの時を刻むように音を立て続けている。

「さあ、オマエの首は貰ったゾ」

 首筋に刃があてがわれる。ここまでか。青年は思わず眼を瞑った。

 これまで苦しみ、もがきながらも、どうにか生き抜いてきた。困難や痛みにも耐えてきた。日々に不満を抱えることがあっても、数少ない理解者と励まし合っては、涙を振りきって歩んできたのだ。その道の行き着く先が、こんな終わりでいいのか。いいはずがない。

 思えばいつも、守られてばかりだった。鍛え、力をつけてようやく、大切なものを守れるようになった。そのはずだったのではないか。

「どんな声でいてくれるかナ」

 あふれる涙と悔恨の念とが雨と混ざり、大地に流れ、消えていく。人の最期とは、そういったものなのかもしれない。だとすれば、これまでにどれだけの哀しみを呑みこみ、それでもなお大地は、空は、変わらずにそこにあるというのか。

 降り続く雨の向こうで、名を呼ぶ声がする。青年は、それまで意識の外にあった自分の名を思い出した。死という、暗く冷たいものに襟首を掴まれ、幻を聞いているのだろうか。もう二度と、この声を耳にすることもないのだろう。どこからか呼び続けるその声に、懐かしさと優しさの入り混じった感覚を抱いた。自分には、守りたいものがあった。確かに、あったのだ。

 幾度目かの雷鳴の怒号が全身を震わせる。

 次に眼を開いたとき、恐怖は不思議と穏やかな気持ちに包まれ、歯を鳴らす音は消えていた。

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