暁月
一
月を、そっと
夜空に手を広げた枝葉が風に吹かれ、その向こうに
アダム・シデンスは、小さな集落の西で野営をしていた。
北西へと向けた旅の途次である。宿を求めることもあるが、野営が好きだった。雨露を
村で手に入れた川魚を短剣で切り開き、腹を除いて
空腹が満たされると、ほどなく
「静かだな」
ぽつりと呟いたアダムの声は、森に吸いこまれるように消えた。
周囲は広葉樹を中心とした森林になっている。
静けさを際立たせるように、
火床を棒で突いて掻くと、黒く焼けた薪が崩れ、ぱっと赤色が明るくなった。そこに集めておいた
あとは寝るだけだった。
アダムは
どこまで歩くのか。答えのない問いを、虚空に投げてみる。仰ぐ水面に波紋が広がるはずもなかった。アダムはふっと息を吐き、眼を閉じた。
貝殻を耳にあてるような気持ちで、木々の
そのまま月の海に抱かれていると、いくらも経たないうちにうとうととしはじめた。
まぶしい、陽に透けた黄緑の若葉。あたりは穏やかな風に揺れる木漏れ日に包まれている。
柔らかな土。赤や黄、紫の色鮮やかな花々。懐かしい景色に、小鳥のさえずりと、澄んだ歌声が心地いい。歌に導かれて歩く。ぼんやりと見えた白い背に向けて名を呼ぶが、声にならない。それならばと近づいて肩に手を置こうとしたが、そうする前に歌は途絶えた。伸ばしかけた手を引く。
うつむく女の、どこか
故郷の空が見える。これは夢だ。アダムにはそれがはっきりとわかった。行き着く先も、わかっている。それでも、いますぐこの夢から覚めたい、とは思わなかった。
鐘が、遠くで打ち鳴らされている。ただごとではない。記憶の情景が、夜に
はっと眼を開いた。
鐘の音は、夢から目覚めても鳴り続けていた。焚火はまだ火を残している。それほど長くは眠っていないということだ。にもかかわらず、闇は浅い。
アダムは跳ね起き、焚火に水をかけるとすぐに駆けだした。鳴り響く鐘の音が、次第に近づいてくる。
村はずれの
駆け寄る。人垣の向こうに、村の
横に三軒連ねたような屋敷で、左側の蔵から真中の建物の屋根に燃え移っているようだ。蔵のほうは、すでにほとんどが炎に包まれており、少々の水で消し止められる状態ではなかった。
村は騒然としていた。方々で声が飛び交い、駆けまわる火消し衆と一緒になって、若い男たちが
アダムは周囲に眼をやった。村長の姿は見あたらない。処理に追われ、駆けまわっているのだろうか。
大きな音。地響きが足に伝わってくる。屋根の一部が崩れ落ちたのだ。火の粉が勢いよく舞いあがり、屋敷がめきめきと不快な音をたてて炎を吐く。
人の輪からはずれた場所で膝を折り、
「無事ですか。村長はどこに?」
アダムが近づいて声をかけると、村長の娘は屋敷を見つめたまま、かすかに首を振った。いや、躰が
村長の娘といっても、長との血縁はないようだった。
先代の村長は妻帯した翌年に夫人と娘を残して死んでおり、いまの長は、先代村長の夫人を助けるかたちで屋敷に入ったらしい。川魚を
長とは少し話しただけだが、物腰が柔らかく、人のよさそうな初老の男だった。頼るものもなく、村の長を務める苦労は並大抵のことではないだろう。穏やかな応対の笑顔に隠された、諦めにも似た深い疲れの気配が印象に残っている。
遠くからはわからなかったが、娘のすぐそばに若い男が一人横たわっていた。
不安げな表情で娘のそばに立つ幼子は親指をくわえ、黙ったまま両親の様子を交互に見つめていた。
「村長と、赤子が屋敷のなかに残っている」
娘の代わりに、近くで火消し衆に指示を出していた躰の大きな男が言う。
「長は、そこの子息を娘夫婦に任せ、寝かせていた孫娘を助け出すために、一人で居室へと向かったそうだ。先に出てきた三人はどうにか無事だが、長はまだ出てこない。さっきあそこの屋根が落ちたのが、どうも気がかりだ」
男が太い指で差した屋根は、アダムも崩れるところを見た左奥のあたりだった。正面の戸口から真直ぐ進んだ突きあたりが執務室で、その左隣が居室になっていたはずだ。一度立ち入っただけだが、広さに迷うような造りではなかった。
建物の裏手にも人はまわしてあるようだが、落ちた屋根からも炎があがり、どうにもならないようだ。
「どうしよう。あたし、
突然、村長の娘が口を開いた。アダムが片膝をついて娘と眼の高さを合わせると、娘はそばに立つ息子を抱き寄せて、
育ての親である村長と、娘の間にはずっと確執があったという。娘は、母が義父に助けられたことを知りながらも、はじめから立場を乗っ取るつもりで来ただとか、血が繋がっていない他人なのだから、孫になれなれしく接するなだとか、村長につらくあたっていたようだ。村長は、いつも黙ってそれを聞いていたという。
孤独だっただろう。それでも、娘夫婦とその
義父に謝りたい。娘は泣きじゃくりながら、嗚咽と一緒に何度もそう口にした。
遅いのだ。どうして人は、いつも失ってからでなければ気づけないのか。闇が赤く揺らめき、屋敷は容赦なく燃えていく。気が
木組みの屋敷である。風の
空っぽになった桶を放り、顔を見合わせては力なく首を振る男の姿が見えた。諦めの色は、火消しに
村の誰もが、黙したまま立ち尽くしていた。最後まで駆けまわっていた火消しの男も、ついに空桶をぶらさげて立ち止まる。
泣き叫びそうになる声を抑えるように口もとに手をやり、低い嗚咽を漏らす村長の娘。アダムは、その姿を苦い思いで見つめた。
息が詰まる光景だった。村全体を、張り詰めた死の気配が包みこんでいる。
踏み出していた。アダムは地に並ぶ桶を掴み、
「おい、あんた。なにしようってんだっ」
アダムの動きに気づき、声をあげて制止する火消しの腕をすり抜け、地を蹴った。開け放たれ、煙を吐く戸口に飛びこむ。
すぐに熱が躰を包んだ。姿勢を低くし、煙でやられないように濡れた布で口もとを押さえる。
外で見たかぎり、火の手は左の蔵からこちらの屋根へと広がっていた。真中の通路は、やはりまだ完全に炎に巻かれているわけではない。煙も白かった。このあたりは燃えはじめてそれほど経っていないということだ。時が経てば煙は次第に黒く、重くなる。煙の持つ毒が濃くなり、重くのしかかってくるのだ。
左側の部屋にはすでに火が入り、壁際に積まれた書物などが燃えはじめている。皮肉にもそれが
煙の壁と押し合っているようだった。煙が眼にしみ、短いはずの距離がやけに長く感じられる。それに、ひどく息苦しかった。
執務室。煙の向こうにかろうじて戸が見えた。逃げ遅れているとすれば、そこを左に折れたところだ。
頭上で、ばちばちと
執務室の左隣、居室だ。煙の向こうの戸は開いているが、崩れ落ちて組み重なる木片が燃え、
ばりばりと柱が縦に裂ける、悲鳴のような音が聞こえた。居室の奥が、赤く揺れているのが見える。泣き声。かすかだが、確かに聞こえた。アダムも声をあげる。何度か繰り返すと、今度は男の声が返ってきた。
周囲の柱はまだしっかりしている。それを確かめてから、アダムは行く手を阻む檻を蹴破った。木片が飛び散り、火の粉が舞う。落ちて斜めに突き立った大きな柱を
床や壁だけでなく、四方のいたるところが燃えている。床に、布に包まれた赤子の姿があった。手足が動いている。力強い泣き声が、今度ははっきりと耳に届いた。その向こうには、村長が頭をこちらに向け、うつ伏せで倒れている。
まだ、完全に煙に包まれてはいなかった。屋根が崩れ落ちたために、そこから抜けたのかもしれない。部屋の奥半分は焼け落ちて、
誰も死なせない。アダムは瞬きも忘れたように、無心に赤子を懐へ抱きこみ、首にかけていた布で覆った。布はもうあまり冷たくはないが、まだ充分に水を含んでいる。衣服を緩め、腹のあたりに仕舞うように赤子を抱き入れた。これで両手が使える。
村長。右脚の膝下が挟まれている。落ちた屋根の下敷きになったのか。火の手は迫っている。大きな焚火に、脚を突っこんでいるようなものだ。腕を掴むと、村長は首を激しく振った。
アダムは声をあげた。諦めるな。絶対に、諦めるな。それは、自分に言っているのかもしれなかった。
木片を拾いあげ、村長の脚が挟まれている隙間に挿しこむ。力の加わる箇所を確かめ、木片の端に体重を乗せる。瓦礫が、わずかだが持ちあがった。
煙。舞いあがった火の粉がちらつく。獲物を狙う蛇の舌のように、闇のなかに
叫びとも、呻きともとれない声があがる。
力を緩める。脚は完全に抜けていない。もう一度だ。脇に手を入れる。もういい、行け。頼む。その子を頼む。村長の声が痛切な響きを強める。
黙れ。絶対に諦めない。諦めるのは、死ぬことと同じだ。命を捨てるな。なぜか目頭が熱くなるのを感じ、アダムはぐっとこらえた。
腰を入れ、もう一度引く。腕の力ではない。肩と背を使って、村長を後ろに放り投げるような気持ちで、引く。村長が叫ぶ。構わなかった。このまま躰を焼かれるよりはましだ。これで駄目なら、膝から下を切り落とすしかない。うねるように視界が
体勢を崩しながらも、瓦礫から村長の躰をどうにか引き抜いていた。乱れた息を整える間もない。熱と痛みに喘いでいる村長に、アダムは自分の濡れた套衣を脱いで被せ、荷物のように肩に担ぎあげた。
居室を出て、再び大きな柱を潜ったとき、背後で大きな音がした。追い風のように熱風が吹き抜ける。居室の屋根がすべて落ちたのかもしれない。それがどういうことか、立ち止まって考えている暇はない。アダムには、自分の激しい息遣いだけが、やけにはっきりと聞こえていた。
執務室の前を右手に。そこからは真直ぐ行けばいい。行く手が、白く、黒く
荒い息遣いが聞こえる。自分のものではなく、喉の奥で、牙を
炉のようになった部屋を横切る。窯で
降りかかる火の粉の気配を感じ、頭上に眼をやる。そこには異様な光景が広がっていた。火の粉ではない。火の粒。いや、それも違う。おびただしい数の、
歩け。一歩でも、先の地を踏め。
ときどき、なにをしているのかわからなくなった。肩が重い。なぜだと思い、村長を担いでいることを思い出す。
視界が白く、色を失っていく。煙の向こうに、出口が見えたような気がした。
木漏れ日。懐かしい歌が聞こえ、うつむく女の涙が見える。また、いつもの夢だ。それでも、アダムは歩みを止めなかった。まだ、歩ける。立っている。歩いているはずだ。
夢のなかで、記憶の森がざわざわと不吉な音をたてる。木漏れ日は吹き払ったように消え失せ、別の光景が広がる。言いようのない恐怖。胸が締めつけられる感覚が蘇る。
故郷の空が燃えている。闇に浮かびあがる、赤い丘。山の端が
もうもうと立ち昇る煙。火の粉と黒い煤が風に舞う。
強い風。輝く白い肌。誰だ。ぼやけて口もとしか見えない。その腕に抱かれて宙に揺られながら、燃える故郷を眼下に見ている。取り囲む炎のなかから、命を拾われた。自分だけが、なぜ。
何度も見た光景だった。断片的に繰り返し、幾度も見る故郷の夢。どれだけもがいても変わることのない結末は、アダムが抱えた過去をなぞるものでしかなかった。
夢。これは夢の続きだ。それを感じながらも、アダムの意識はそのなかに溶けていくようだった。
全身が濡れている。呼び交わす声。水を浴びたのだ、ということだけがなんとなくわかった。
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