祈誓

 軽率だった。

 待ち続けることにんでいて、冷静な判断ができなくなっていたのかもしれない。

 息があがり、ルネルの鼓動は胸が破れそうなほど激しくなっていた。

 黒尽くめの連中に追われている。五、六人の隠術師いんじゅつし。いや、実際にはもっといるのかもしれない。

 右足で地を踏むたび、脚を伝って腰の近くまで、痛みが走った。雑木林を駆けて、足首を痛めた。地に張り出していた樹の根に足を取られ、おかしな方向にひねったのだ。

 どこまで、追ってくるのか。土を蹴る音、草を分ける音。自分の立てる物音以外は聞こえない。振り返っても、隠術師の姿は捉えられない。そのくせ、肌をひりひりと刺してくるような気配だけが、ルネルの背を覆っていた。

 痛みをこらえて走る。そうやって、どうにか駆けられたのもここまでだった。

 急に、地面がなくなったような気がした。

 声をあげる間もなく、背で急斜面を滑り落ちていた。雨に濡れた土が泥濘ぬかるみ、掴まるところもない。それでも、両手を広げて地を掴もうとする。だが、泥濘でいねいはルネルの指の間をずるずると抜け、からだを支えて止まることはできなかった。そのまま、背を預ける恰好で滑り落ちていく。

 落ちる先に、地から突き出た岩が見えた。ルネルは思わずきつく眼をつぶったが、叫びたくなるような恐怖はより強くなった。眼を開け。眼を逸らすな。ルネルは、自分にそれだけを言い聞かせた。

 岩が、すぐそこまで迫っている。避けられない。

 気づいたとき、ルネルは両手と両膝を岩に触れさせた状態で、静止していた。どうなったのか、ほとんど記憶になかった。おそらく足裏から岩にぶつかる瞬間、膝を曲げて衝撃を殺し、そのまま前のほうへと倒れたのだろう。

 痛みは感じない。ただ、頭の芯が痺れたようになっていて、しばらく同じ姿勢のまま動けなかった。

 背後に気を取られるあまり、前方への注意をおこたっていた。気をつけていれば、そこに斜面があることはわかったはずだった。

 いま見つかれば、間違いなく殺されるだろう。本当に馬鹿だ。ルネルは、心のなかで自分をののしった。

 自分の感情を抑えきれず、軽率に歩きまわった。少し目立てばエフレムが見つけてくれるなどと、楽観的に捉えてもいた。自分のために、どれだけの命が奪われたのか。そのことを、どこかで一瞬でも忘れてはいなかったか。

 もっと早くに、死んでおくべきだったのだ。おめおめと生き延びた。多くの犠牲、おびただしい数のしかばねを踏み越えて、今日まで生きてしまった。

 もう、いい。このまま死ねばいい。泥にまみれて死ぬ。多くの者に守られながら、なにもできなかった自分に相応しい、最低な最期だ。ルネルは泥濘みに横たわり、小雨の落ちてくる空を見あげて、そんなことを思った。

 ほとんど霧のような小雨が、ぴちぴちと頬にあたる。右頬には泥が貼りついていて、雨は感じなかった。拭う気力もせていた。吐く息が熱く感じられるようになってきた。躰が冷えているのだろう。やがて、すべてが冷えて終わる。

 駆けて向かおうとしていた先には、竹林が見えていた。山小屋まで、もう少しだったのだ、とルネルは思った。

 結局、死んだ者たちには、なにひとつとして、してやれていない。

 生きたのか。自分はこれで、生きたと言えるのか。頬が震えている。眼尻から、熱いものが耳のほうへと伝い、流れ落ちた。こんな涙を、流す資格があるのか。

 先ほどまでなかった痛みを、掌や背、足などに感じはじめた。痛みを感じるということは、まだ生きているということだ。

 勝手に終わらせることなどできない。ルネルは呟いたが、唇が動いただけで声にはならなかった。

 ルネルはやっとの思いで躰を起こした。

 呼吸を整えながら、両耳にさげた真鍮しんちゅうの耳飾りを取り外す。どちらも泥にまみれている。

 岩をうようにして動きはじめた。こんなところで、寝ていていいわけがない。この命は、数え切れない命の犠牲のうえに、いまある。すでに自分のものであって、自分のものではないのだ。

 左膝が痛む。滑り落ちたとき、岩のどこかでぶつけたらしい。ひどくはないが、血も出ていた。

 いくらか平らな岩の上で、なんとか立ちあがった。濡れたこけで、滑りやすくなっている。注意して、そろそろと岩場を抜ける。

 また、泥濘みになった。

 どうしても足跡は残る。ルネルは途中まで泥濘みを歩いて樹の根にたどり着くと、その行き先に向かって持っていた耳飾りを放り投げた。追う者が見れば、樹の根を足場にして、林のほうへ入って行ったように見えるはずだ。次に、泥濘みに残してきた自分の足跡に足を合わせながら、後ろ向きに元の場所へと戻った。岩場から、足跡の残らない別の道をとるのだ。

 隠術師は、どこまで追ってくるのか。思ったが、ルネルには次第にどうでもよくなっていった。

 行けるところまで、行く。歩けるところまでは、逃げてみせる。槍はどこかに落として失くしてしまった。だが、闘う心まで落としたとは思いたくない。

 失くすわけにはいかない、とルネルはもう一度強く思った。

 痛み。下唇を噛む。頬から、泥の乾いた部分だけが剥がれ落ちていくのがわかった。


 アダムは焦っていた。

 ふもとの小屋に住んでいた老婆は、殺されていた。炳都ペラブーハンの隠術師の手によるものだろう。

 小屋のなかには足跡以外、激しく争った形跡はなかった。長年、孟王もうおうに仕えた隠術師だったというあの老婆を、実に手際よく始末している。それはつまり、よほどの手練てだれが出てきていると考えたほうがよさそうだ。

 雨に流されたらしく、老婆の小屋の出入口周辺に足跡は残ってはいなかったが、小屋の裏手へと続く、新しい足跡がいくつもあった。

 アダムは右手の親指と小指を広げ、手首を返しながら足跡の幅を素早く測った。

 少なくとも、八人。ひとまわり小さな足跡がルネルのものであると考えれば、おそらく七人の隠術師がルネルを追っている。ルネル以外の歩幅は一定。追う側の歩調が乱れていないということは、ルネルを追い詰めているということに、確信を持っていたからなのか。

 広がっていた足跡は次第に一点に集中して折重なりながら、下草を踏み固めて山へと分け入っている。土に残る足跡は、縁がはっきりとしていた。折れた灌木かんぼくの枝も、断面が乾かず汁がにじんで湿っている。

 雨が流してしまうものは多い。だが、断続的な雨が、逆に教えてくれるものもあった。残っている痕跡は、どれも新しいものだ。

 嫌な予感があった。

 アダムは山の中腹で迂回うかいし、これまで通った南からではなく、西から岩場を登った。小さな崖のようになっている岩場さえ登れば、距離はずっと短くて済む。それから、竹藪たけやぶを通ってルネルの隠れていた山小屋へとたどり着いた。

 アダムは注意深く、山小屋の周囲を見てまわった。

 ルネルの姿はなかった。争った形跡もない。小屋のなかに踏み荒らした様子もなく、ルネルの槍も見あたらなかった。アダムは深く呼吸をし、まずは気持ちを落ち着かせようとした。

 汗が、吹き出してくる。麓からほとんどひと息に、ここまで登ってきたのだ。小屋のなかをぐるりと見まわし、肩で息をしながらアダムは考え続けた。

 ルネルは出歩き、まだここに戻っていない。この山小屋の南から山の麓までの間に、ルネルがいる。そしてそれを追う、隠術師がいる。アダムは手もとにある情報から、そう見当をつけた。

 アダムは小屋を飛び出し、南の道をくだった。しばらく竹藪が続く。風にしなって打ち合う無数の竹の音が、いまはうとましかった。気配を消してしまうのだ。

 ルネルは、槍を持ち出していた。山をおりたことで、老婆の死は否応いやおうなく知っただろう。ルネルの性格を考えれば、唯一のよりどころとなっていた老婆が殺されたことで、それ以上じっとしていられるはずはなかった。アダムがはじめて山小屋を訪ねたとき、ルネルは槍を構え、おくすることなくアダムに向かってきたのだ。

 ルネルの槍先には、正対したアダムが思わずたじろぐような気魄きはくがこめられていた。アダムがそれを軽くあしらってみせたのは、みずからの腕を過信し、はじめから敵意をき出しにするような気持ちは、一度どこかでくじかれていたほうがいいという、とっさの判断だった。武器を向けるばかりが優位を生むわけではない。状況によっては対話することも、逃げることも、手段としてあるのだ。

 確かにあの槍は、相当に遣える。ルネルが王女でなければ、孟王城の兵を束ねるような存在にさえ、なっていたのかもしれない。だが、いまルネルが対しているのは隠術師、それもおそらく複数である。槍一本でルネルが勝つ見こみは、正直なところなかった。

 連中と立ち合うには、ルネルの槍はどこか真直ぐすぎた。どれだけ技倆ぎりょうがあっても、ルネルには実戦の経験もほとんどない。

 間に合え。無事でいろ。自分に言い聞かせるようにしながら、アダムは冷静さを失わないように駆けた。竹の小枝が、次々にアダムの頬を叩く。眼だけは突かないように、注意していた。

 泥濘みを避け、岩から岩へ跳ぶ。幸い、雨は降っていない。しかしそれが、ルネルにとっても幸いしているのかは、わからなかった。夜闇のように、雨が覆い隠すものもあるのだ。物音。気配。アダムは駆けながら、わずかでも感覚を刺してくるものがないか、意識を集中させていた。

 赤紫色の花を、眼の端に捉えた気がした。炳辣国ペラブカナハで見るらんの一種だと思ったが、アダムはすぐに思い直した。開花の時季ではない。

 斜面を、横に駆けた。花。やはり違った。

「ルネル」

 アダムは近づきながら、斜面に伏せた恰好のルネルに、小さく呼びかけた。返答はない。泥まみれで、膝からは出血しているようだ。白い肩に触れるが、はっとするほど冷たかった。アダムは、ルネルの首筋に指先をあて、耳を口もとに近づけた。血は通い、かすかに息はしている。

 アダムが蘭と見間違えたのは、ルネルの髪を束ねている、赤紫色の装飾布だった。ルネルの束ねあげた髪から爪先にいたるまでの全身が、泥濘んだ泥と乾いた土で幾重にも覆われたようになっている。

 ここまで必死で駆けてきたのだろう。骨が折れている様子はないが、膝以外もルネルの躰は擦り傷だらけだった。

 不意に、悔しさのような感情がこみあげてきた。なぜ、ルネルがこんな目に遭わなければならないのか。王家の血が、国が、信仰が、どれほどのものだというのか。

 気を失ったままのルネルを抱き起こし、背負った。ルネルには酷だが、ここで手当している余裕はない。

 追手の気配は麓から吹きあげる風のように、疑いようもなく背後に迫っている。

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