五
月が高く昇っている。
静かな夜だった。時折、城の敷地のどこかから、
孟王の従臣が内応したことでエフレムは謀略にかかり、死罪こそ
そして間もなく、エフレムが不在となった孟王城を、西域の駱駝部隊が襲撃した。
炳都はこの襲撃に表面上は一切の関与をせず、侵攻についても黙認を決めこんでいる。ただしそれには条件がひとつあり、それは周辺豪族の一斉
城が落ちたあとも、孟王に仕えた隠術師たちと、炳都の隠術師たちが入り乱れての暗闘があったようだ。襲撃を生き延びた次代の孟王ルネル・グゼイブも、その暗闘で幾度も命を狙われながら、北辺の山小屋に流れ着いた。
ルネルは、まだ生きている。しかし、もうこの地を踏むことはできないだろう。血が流れすぎた。そして、その仕上げとしてルネルの血が流れることを連中は望み、眼を光らせてもいるのだ。
アダムが
「それにしても、あんたの狙いはなんだ、プルノ。なぜ、こうもあっさり口を割る?」
「俺はよう、
「目的というのは、まさか」
「そうだ、屍体だ。未練を残して死んだ、大量のな」
プルノが、左頬の刃傷を歪めながら、いやらしい笑みを浮かべた。月明かりのなかで、眼と歯だけが白く、不気味に濡れた光を放っているように見える。
「旦那も知っての通り、
孟王城が滅びれば、戦死者の屍体がまとまって手に入る機会が得られる。それがプルノの動機とするところだった。
「そのためだけに、相談役の術師として炳王に近づいたのか」
「俺は長年、偉人たちが
「壺の並ぶ厨房で、私の腕を掴んだのは、なんだ?」
アダムの言葉を聞いて、プルノがまたにやりと笑った。
「あれは、
「あの壺の中身が、すべて屍体だと」
「そりゃあもう、察しのいい旦那のご想像通りさ。あそこを通り抜けて来るやつがいるとは、俺は未だに信じられんがね」
薬湯の蒸気に包まれた厨房に並んでいた異様な数の大壺。その縁まで注がれていた薬液に漬けられていたのは、孟王城で死んでいった大勢の人間たちだったのか。
これを狂気の術と呼ばずしてなんと呼ぶのか。耳を疑うような話を聞きながら、アダムは
「私には、そんな術をあんたが使うなんて、にわかには信じられないな」
「信じる必要はねえよ。その腕を掴まれた感覚が、すべてさ」
アダムの腕には、確かにきつく掴まれた跡が
「
アダムが言うと、プルノが低く笑った。
「言うまでもないと思ってたが、霊召術を使う俺は、原理神教の信徒じゃない。俺には
プルノの傷が、また
「これはよ、昔の傷だ、子供のときのな。若旦那に短剣で斬りつけられたときのもんだ」
アダムの視線を見透かしたように、プルノが言った。
「若旦那?」
「俺は、
遠くを見つめるようなプルノの眼が、不意に暗い光を放った。
「おふくろは鞭で打たれても、腹を蹴られても、不満ひとつ漏らさなかった。原理神教のいう、宿業というやつを信じていたんだ。ひでえ目に
縛られ、拘束されるのをプルノが極端に嫌ったのは、そういうことか、とアダムは思った。
自由への渇望。プルノの眼は、屈することを知らず、不敵な眼をして隙をうかがう、檻に入れられた虎や狼にも似ていた。檻のなかで、たとえ食うものに困らないとしても、それだけでは生きていけない。生きているともいえない。そういう意志を失わずに、もがいた時期が確かにあったのだろう。
「俺は打たれるのが嫌で、いつも逃げ出すことばかり考えてたよ。ある晩、逃げ出そうとしたところを捕まった。にやついた若旦那が棒で打ったのは俺ではなく、おふくろだった。打たれ続けて、おふくろは動かなくなった。俺は呆然としていて、死んだんだと、しばらくしてわかったよ。おふくろは、熱心な原理神教の信徒だった。大旦那や若旦那も同じく、信徒だった。こんなことは、原理の神々というやつらの名のもとでは、べつに珍しくもなんともねえのさ」
プルノが、ひとつ大きく息をついた。眼は、相変わらず遠くを見たままだ。物言いは、自虐的というのともどこか違った。
プルノが続ける。
「原理神教では、人は生まれながらに宿業を背負っていて、
暗く、沈んだ声だった。自分は後者だった、とプルノは言っているのだ。さっきまでの遠くを見ていた眼ではなく、不敵なものを宿しながら、いまはアダムを
「原理神教や、東方で流行ってる
「それでなぜ、霊召術を?」
「逃亡先で東西の書を読み漁るうちに、霊術師というものに興味を持った。はじめは、
「因果というものは存在しないと?」
「罪を犯せば、いつかは罰を受ける。逆に、神に祈り、恵まれない者に慈悲を与えたのでいつかは救われる。みんな、そう思いたいだけなのさ。自分が
「私にも信じる神はいないが、同意しかねるな。信仰を日々の支えにしながら
「疑問を持たないことを、愚かだと言っているのさ、俺は。炳都の上層部が信仰を強く推すのも同じことだ。結局のところ、自分たちにとって都合がいいからにすぎねえ。中央から腐敗が進んで、信仰は民を縛るために捻じ曲げられていると言ってもいい。孟王は、それを
狭量になればなるほど、信仰というものは排他的になっていく傾向にあるものだった。長く信仰されてきた原理神教も、中央の権力が強固になるあまり、末端から新たな派閥に分かれて分裂していくというような段階になっていたのかもしれない。
それも、ひとつの争いの火種だったのだ、とアダムは思った。大きく燃え広がらなかったのは、ただの結果にすぎない。
「俺はよう、旦那。この国が、原理神教が嫌いだ。だから俺はここで、信仰に縛られたまま死んでいった民に、新たな生を与えてやっているんだよ」
「死者を弄んだとは、少しも思わないんだな、プルノ」
「くどいな。いかなる行為も、ただの行為なんだ。魂は永遠のものだ。そして、善にも悪にもならない」
「その考えが、
「ただ、真理だ。真理を知らぬ魂に、俺は教えてやるだけさ」
強い憎しみや
それでいいのか。原理神教を信仰しながら死んだ者たちに対してすべきなのは、その教えに則した
死者の願いは確かめようもなかった。死者を
「嘘だろおい、やめろ、近づくな。こっちへ来るなっ」
唐突に、プルノが叫びはじめた。アダムは近づいてなどいない。プルノの眼は、アダムの背後に向けられている。
足もとをひやりとした風が抜け、突然、強烈な耳鳴りがした。左耳にさげた羽の耳飾りが、激しく揺れている。
「やめろっ、やめてくれ」
叫んだプルノの口に、なにか白い
プルノが、苦悶の表情で眼と口を開いたまま、低く絞り出すような叫びをあげた。長く尾を引く嫌な声が途切れると、全身を
プルノには、なにが見えたのか。
アダムは近づき、プルノの両肩を掴んで揺すった。覗きこむが視線は合わない。プルノは眼を見開いたまま、唇をわずかに動かしている。違う、違う、違う。耳を近づけると、それだけを繰り返し呟いていることがわかった。
プルノの体内に、なにかが入った。今度こそ、蒼剣で斬ってやるべきなのか。
次の瞬間、月に照らし出されたプルノの形相が一変した。叫び、大声でわめきながら、手首を縛っていた布を引き破ると、アダムの肩に掴みかかってきた。
狂気を宿した眼。
体当たり。理性がないのか、攻撃は直線的なものばかりだった。アダムは躰を開き、体当たりをかわす。すれ違いざま、足を飛ばしてプルノの足もとをすくった。プルノは派手に転んだが、跳ね起きたままの勢いで、また向かってくる。アダムはかわしながらプルノの手首を引き、そのまま壁に叩きつけるように押しやった。壁に背を打ちつけたプルノが、瞬間息を詰まらせる。
一歩飛び
まだ向かってくるのか。そう思って身構えたとき、アダムの横を鋭い風が抜けた。光が、闇を切り裂いたような気さえした。
プルノが、壁に背を擦りつけながら座りこむ。ひと呼吸置いて、プルノの胸に矢が一本突き立っていることに、アダムは気づいた。
とっさに、城の西側の丘を振り返る。アダムが夕刻まで潜んでいた場所。闇に浮かぶような月下の丘に、ひとつの影が見えた。
それはほんの一瞬で、すぐに人影は丘の向こうに見えなくなった。
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