二
風が出ている。南西からの風で、雲の流れも速い。
陽射しは雲間から照りつけているものの、夏を飛び越え、どこか秋の気配にも似た爽やかさがあった。
アダムは作業の手を休め、小屋の軒下にある
ひと息つき、それから濡らした布で顔を拭った。ほんのわずかな間に、汗はほとんど引いている。木陰は涼しく感じられるほどで、連日の蒸し暑さも忘れてしまいそうな過ごしやすさである。
アダムが、
名もない寒村で寂れた印象は拭えないが、過ごしてみると必ずしも活気がないとはいいきれないところがある。広場で人の流れを眺めていると、子供の数は少なくないし、皿などの焼き物を作る
数か月前にあったという、
そういった気配は、道行く人々の眼や、街自体が放つ、ある種のにおいのようなもので、なんとなく感じ取ることができる。たとえば、政事や宗教がらみの覇権をめぐる暗闘が盛んな街などでは、やはりどこかに鼻を
ひと際、強い風が駆け抜ける。頭上に伸び出た枝葉が、ざわざわと大きな音をたてた。
背伸びをしながら、壁に立てかけた白杖に眼をやる。
あらゆる土地を歩き、越境を重ね、これまでずっと旅を続けてきた。この白杖だけを手に、アダムは故郷の地を離れたのだ。もともと望んで出た旅ではなく、留まる場所もまたなかった。ある程度は気ままに流れ歩いているとはいえ、気楽な旅ばかりというわけにはいかない。どこに行っても戦火の
故郷の地で暮らしていたのは、もうどれくらい前のことなのか。
胸の奥底に深く刻みこまれ、忘れようもないことがある。指先の仕草まで
それとは裏腹に、記憶をたどっても霧のかかったように思い出せないこともある。焼け落ちる街から拾いあげられるようにして、なぜ自分だけが助かったのか。この手を引いたのは、誰だったのか。どれだけ考えても、浮かんでくるものはない。いずれにしても過ぎ去った遠い昔のことで、思い出したところでどうすることもできない。それだけは確かだった。
アダムは、軒下の
緑皮に赤い
アダムは、波打つように風に揺れる青々とした草地を眺めながら、林檎をふたつ平らげた。酸味が強いが
籠を胸に抱えた若い村民が、アダムのほうをちょっと気にした様子で通り過ぎていく。
アダムはなるべくその土地の言葉を覚え、進んで話すようにしていた。はじめは身振り手振りで伝えるしかなかったことが、言葉を真似ることで少しずつ伝えられるようになってくる。名のわからないものは、地面に絵を描いて
この村に立ち寄ったのははじめてだが、交易の盛んな炳都にはしばらく
左耳にさげた青い羽の耳飾りが、風に揺れ続けている。作業の邪魔になるので、肩にかかる長さの髪は後ろで軽く束ねていた。
やがて、いま吹いている南西の風が大雨を連れてくる。そうすると気温もさがり、ずっと過ごしやすくなる。牧の老爺はそう言っていた。そして、雨季がこの地の土壌を肥えさせるのだ。その予兆ともいえるのか、今日は明け方から不思議に思えるほど涼やかだった。
暑季の陽射しはアダムにとって、
軋む木箱の上で手脚を伸ばし、作業に戻ることにした。
アダムにこの作業を頼んだ牧の老爺は、できれば人の背丈ほどの深さくらい穴を掘ってほしい、と言った。深ければより長く使えるので助かるのだという。
ある深さまでは石もそれほど埋まってはいなかった。途中からは拳ほどの石もごろごろと出はじめ、伸びた木の根を切りながら掘り進む必要があったものの、すでにかなり深い穴になっている。あまり長身ではないアダムが穴の底に立てば、肩の高さまでは隠れる。陽が落ちるまで続ければ、充分な深さになるだろう。
休憩を挟みながら九刻(約四時間半)ほど掘り続け、穴から
牧の老爺に声をかけ、報酬を受け取ることにした。
どれどれとアダムの掘った穴を覗き見て、老爺が声をあげた。あたりが薄暗くなってきて底のほうは見えないが、穴は大人の男二人が連なっても手が届かないほどの深さまで達していた。水が出たらそこでやめようと考え、夢中で穴の底から石や土を放り出し、最後は近くの大きな樹に結んでおいた縄を使ってよじ登った。結局のところ水は出なかったが、ほとんど井戸のような深さになっている。
雨季にもそこそこは耐えられるよう、穴の壁面は板で押し固めてある。あとは牛が落ちこまないように、囲いを設けて雨除けの屋根でも備えつけてやれば、申し分のない仕上がりになるだろう。その作業は頼む宛があるらしく、アダムの仕事はここまでだった。
穴は牛の糞便を始末するためのもので、落ち葉などと一緒にして、順に埋め重ねるという。そうするとやがて土も肥えるので、作物を育てている者に求められると、なにかと交換する、というかたちで分けてやるのだそうだ。
深さこそないが、アダムが掘ったものと同じような穴がいくつか並んでいる。肥えた土が運び出されると、入れ替わりに
牛は、糞の使い道もひとつではなかった。肥料だけでなく、乾かせば燃料にもなる。蓄えておけば薪がなくても火を
一見すると貧しいこの村でも、村人がそれぞれに工夫をし、常に物を作って動かしているおかげで、質素ながらもみなが飢えることなく暮らしていられるのかもしれなかった。
顔の
老爺が報酬の追加を言いだしたが、アダムは笑って断った。もともとの報酬より貰いたくてやったわけではないのだ。
報酬は銭ではない。僻地の村にあるのは、宝飾品や珍しい石、薬草などの植物、あるいは獣の毛皮などである。老爺から受け取った布の小袋には、水晶の粒が詰まっていた。また別の地に持ちこめば、その価値も変わってくるだろう。
すでに暗くなりはじめている。アダムは束ねた髪を解き、そばの小川で爪の間に詰まった土を丁寧に流した。それから濡らした布で躰を拭うと、白杖を手に酒場に向かった。
通された席に着き、卓に届いた麦酒を
市の並ぶ通りの路地の奥、外観ではそれとわからないような、狭い酒場である。幅はないが奥行きがあるため、二十人くらいは一度に座れるだろう。入口のそばに棚台があり、その奥は厨房になっている。壁には、炳都でよく眼にするような、綺麗な装飾が施された布が飾られていた。
炳辣国で広く信仰されている
原理神教の信徒ではない者が集まるこの手の店は、隠れ酒場と呼ばれている。陽が暮れてそれほど経たないが、すでに揺れる
店の娘が、芋と豆を煮た料理と、魚を焼いたものをアダムの卓に置いた。
「ありがとう」
アダムが
芋の料理には
木の
飲みくだしたあともぴりぴりとした辛味が残っている。濃いめの味つけとともに、麦酒によく合っていた。ただし、芋はもう少し冷めてから口に入れたほうがよさそうだ。ひとまず匙の先で、大きめの芋の塊を割っておくことにする。
魚は近くの小川で獲ったもののようだ。腹を除き、
普段は野営ばかりなので、手のこんだものを出しそうな店があると、たまには寄ってみることにしていた。煮こみ料理も壺窯焼きも、野営ではなかなか口にできるものではない。
それに炳辣国の料理は、特に香辛料の選び方が絶妙だとアダムは思っていた。ひとつの料理に使うのはせいぜい二、三種の香辛料だというが、それが簡単には真似できないのである。
店の娘が常連客らしい二人組に訊かれ、盗まれた首飾りの話をはじめていた。
祖母の形見で、夜はいつも身に着けて仕事をしていたが、朝にははずしており、掃除を終えて食材を仕入れに出た昼間に盗まれた。許せない。炳都から来ている衛兵に訴えたが、隠れ酒場で起きたことだといって取り合ってもらえなかった。そんな内容だった。よくある話だ。明るく
改めて見ると娘はそうそう出会わないような美人だった。
アダムが料理を食べ終えたころ、不意に悲鳴と入り混じって怒鳴り声が響いた。一番奥の卓に座っていた男が立ちあがり、詰め寄った店の娘を
棚台の向こうの厨房に立つ店主を見た。店主の男もアダムの眼を見つめ返し、
アダムは酒坏を干し、白杖を持って席を立った。
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