第14話
九月に入り、朝晩は少しばかり過ごしやすくなってきた。
それでも日中の暑さは勢いが衰えていない中、佐倉書店は康樹にとって非常に過ごしやすいと言えた。
紙の匂い、独特のひんやりした空気。
明るすぎない照明と、柱時計が秒針を刻む音。そして、相変わらず閑古鳥の鳴く店内。
「はあ。おいしいですー」
藍子はソファスペースでくつろぎ、とろけた顔でほうじ茶プリンを頬張っている。
うっとり目を閉じて堪能する様子は、この世で一番幸せと言わんばかりだ。
本日の彼女のブラウスは、以前に見たヨモギ色とは微妙に色合いが異なっている。
今着ているのは、どちらかと言うとワサビ色。何とも言えないセンスにも慣れてきた今日この頃だった。
康樹は、約束した通り佐倉書店に通うようになっていた。
一週間に一度くらいのペースだが、そこそこ書店についても分かってきた。
まず、ほとんど来客がない。
康樹が見たことないだけで、固定客はいるらしいが。
それでも赤字経営で、藍子の祖父が遺した貯金が少しずつ目減りしているらしい。
それでいいのかと問いたい相手は、スプーン片手にのほほんと笑っている。
「やっぱり宗吉さんが作るスイーツは最高ですね。このプリンも甘すぎず、ほうじ茶の芳ばしさと滑らかな食感がたまりません」
確かにほうじ茶プリンは絶品だが、宗吉の手作りだと思うと素直に称賛しづらい。彼とは未だに犬猿の仲だ。
「でも、コーヒーとほうじ茶プリンって」
けちの付けようがないプリンだったので、無理やり文句をひねり出してみる。
言った端から、どうでもいいことを口にしてしまったと後悔した。現に、コーヒーとの相性も抜群にいいのだから。
宗吉も、うるさそうに耳を掻いた。
「細かいクソガキじゃのう。これは店で出す予定だからいいんじゃよ」
「店?」
首を傾げる康樹に答えたのは藍子だった。
「信五さんが神父さんなのは、以前にお話しましたよね。宗吉さんは、居酒屋さんを経営なさってるんです。ちなみに辰造さんは自転車屋さんですよ」
「藍ちゃん、ちなみには寂しい」
今日も作務衣姿の辰造が、扱いの悪さにガックリと肩を落とした。
なるほど、これで一つ謎が解けた。いつも宗吉が持ってくる手土産は、居酒屋で出すスイーツの試作品なのだろう。
毎日のように佐倉書店に入り浸っている老人について、また一つ新たな知識が増えた。特に知りたくもなかったが。
「居酒屋でこのクオリティ必要ですか?」
専門店でも出せそうな完成度の高さは、康樹がイメージする居酒屋スイーツとはかけ離れている。酒好きで甘味好きな母辺りが知れば大喜びしそうだ。
藍子は康樹の疑問など聞いていないかのように、ふにゃふにゃと頬を緩めていた。
「祖父が存命の頃は、よく遊びに行きました。子どもだったのでお酒は飲めませんでしたが、宗吉さんの熱々のだし巻きでご飯を食べるのが大好きで。それと、ほぐした梅肉と焼き鯖のまぜご飯で作ったおにぎりも」
「藍ちゃんは何でもおいしそうに食べてくれるから、作り甲斐もあるってもんじゃよ」
彼女の食べる姿は、世界から戦争がなくなるのではないかと思えるほど平和な絵面だ。
康樹がとっくに平らげたプリンを心から大切そうに味わっていて、まだ半分くらいしか食べ進めていない。
プリンは合計六個あったので、全員が食べてもあと一つ余っている。
だが、行く先など一つしかないだろう。
「ほれ、藍ちゃん。これも夕ごはんのあとに食べるといい」
宗吉が差し出すプリンに目を瞬かせると、藍子はその場にいる面子を見回した。
最後にその目が、康樹の上で留まる。
「でも、康樹君だって食べたいのでは……」
唯一の年下ということで気にしているのだろうが、いらぬ気遣いだ。
「俺は元々、そんなに甘いものが得意じゃないんですよ」
「ですがこのプリンはまろやかな味わいがしっかりしているにもかかわらず甘さもくどくなく、とても食べやすいですし……」
「言い回しがグルメリポーターみたいになってますけど」
なぜそこで食い下がるのか。
黙って格好付けさせてくれないところからも、藍子の男性に慣れていない野暮ったさがにじみ出ている。
康樹は深々と息をつくと、プリンをさらに彼女へと押しやった。
「藍子さんに食べてほしいって言ってるんですよ、こっちは。プリンだっておいしく食べてくれる人の方がいいに決まってますから」
藍子の頬が、一気に薔薇色に染まっていく。眼鏡の分厚いレンズ越しにも眩しいほど、キラキラ瞳が輝いていた。
「ありがとうございます、康樹君! プリンの気持ちを思いやれるなんて、とっても素晴らしい感性ですね!」
「何度も言いますけど近いし、藍子さんの感性こそ独特すぎるし。というか、お礼を言う相手は宗吉さんでしょう」
「そうでした! 宗吉さん、ありがとうございます! みなさんも!」
子どものようにはしゃぐ藍子に、老人達が孫でも見守っているかのように優しい眼差しを送っている。
康樹も似たような眼差しになっているだろうことを自覚し、我に返って首を振った。
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