第26話

「病気じゃなくて、出産だったのか……」

 遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、ポツリと呟く。

 隣で藍子がおかしそうに吹き出した。

「やっぱり康樹君も、そう思ってたんですね。私も入院って聞いて、てっきり」

 お互い、あまり触れてはならないと思っていたためもあるのだろう。

 ずっと勘違いしていた間抜けさに気付くと堪えきれなくなり、どちらからともなく笑い出す。ただの取り越し苦労でよかった。

 藍子は笑みの残る眼差しで、小さくなった親子の背中を見つめていた。

「……『赤ちゃん』が欲しいというより、お母さんが早く帰って来ますようにって、そんな祈りにも似た気持ちだったんでしょうね」

「赤ちゃんが無事生まれたら、母親も一緒に戻ってきますもんね」

 康樹達を戸惑わせた紗菜の欲しいものは、新たな兄弟のことだった。

「いいお姉ちゃんになりそうですよね」

「どうでしょうね。調子を取り戻したら、一気に小生意気そうな感じでしたよ」

「康樹君たら」

 藍子が、耳に髪をかけながら笑う。その視線はまだ親子の背中を追いかけていた。

 先ほどちらりと聞いた、両親の話を思い出す。離婚の際、彼女を引き取らなかったという無責任な父親と母親。

 笑顔が溢れる家族の姿を見て、彼女は今何を思っているのだろう。

 穏やかな笑顔から、どうしても目が離せなかった。




 その夜。康樹は久しぶりに、写真を撮るために出かけていた。

 家の近所にある山は起伏が少なく、ほとんど丘と言ってもいい。その頂上に向かいながら、遠い夜景にスマートフォンをかざす。

 ポツリポツリと光る明かりは華やかさこそ欠けるけれど、味わい深いものがある。

 宝石箱のような賑やかさでなく、あるがままの日本の風景。

 厚地のパーカーの隙間から、冷たい風が忍び込む。体を動かしているため、ひんやりして心地いい。暑すぎず寒すぎず、活動するには丁度いい季節だ。

 康樹は秋の気候を楽しみながら、気ままにシャッターを押し続ける。黒に塗り潰された木々の不気味さ、闇に浮かぶ白い花とのコントラスト。

 久しぶりに写真を撮る高揚感からか、存在する全てが魅力的に映る。天鵞絨のようになめらかな夜の手触りさえ切り取れたらと、貪欲にシャッターを切った。

 今どきのカメラ機能が高性能とはいっても、夜なのでうまく撮れないこともある。

 それでもぽつぽつと点在する常夜灯が、暗闇に濃厚な木々の影を映し出していた。

 枝ぶりの立派なブナやカラマツ達は、獣のごとき生々しい存在感で夜の世界を支配しているようだ。

 ふと、空を見上げる。今夜は満月だった。

 明るいおかげで周囲の星は霞んで見えるが、夜道は歩きやすい。足許のスニーカーも白く際立っていた。

 皓々と白い月光を浴びていると、血液がざわざわしてくる。

 体の中にある汚いものが洗われていくようで、康樹は昔から月が好きだった。

 空に向かってスマートフォンをかざしてみるも、レンズ越しの月はとても小さい。

 スマートフォンのカメラでは、中空に浮かぶ月を美しいまま切り取ることができない。

 肉眼で捉えるような鮮やかさは褪せ、どこかぼやけて見える。

 だから康樹は、いつの日にかと夢をしのばせる気持ちで、ユーザー名に『ツキ』を選んだのだ。

 けれど、あまりに遠い。

「――別に俺は、今のやり方も間違ってないと思うけど」

 つい独白をこぼしたのは、帰り際の藍子の笑顔を思い出したからだ。

 誰もいない店の前で、朗らかに手を振る藍子。全ての客を送り出し、そうしてまた一人に戻っていくのだろう。

 客は少なく赤字ばかりで、祖父の遺産を少しずつ削りながら、何とか経営を成り立たせているのだと言っていた。

 緩やかに終わりに向かっていく店を、それでも守り続けるのが彼女の全てなのだと。

 尊敬すると言ったのは本心だ。

 何かを守ろうとする純粋な気持ちを、それを実行に移せる勇気をすごいと思った。

 けれどあの息が詰まりそうに静かで、常連客しか立ち寄らない店で、生涯を終えるのだと思うと――。

「藍子さんが一人になるのは……寂しい」

 本人は寂しいなんて言ったこともないのに。素振りすら見せないのに。

 これは、独りよがりな押し付けだろうか。

 彼女を取り巻く圧倒的な孤独を思うと、胸が引き絞られるように痛い。

 まるで、未来が閉ざされていくのを静かに見つめているようではないか。

 先のない人生を、死に向かって淡々と歩いているような。

 綺麗すぎて、胸が痛い。

 アニメについて熱心に語る姿も、コーヒーを褒められてはにかむ表情も、間違いなく彼女の一部なのに。あの静謐な月と似ている部分なんて、顔の丸さくらいに思えるのに。

 ……決して手の届かない場所で微笑む藍子は、やはり、月に似ていた。

 だから、写真に納めたくなったのだろうか。月に似ているからこそ、彼女の笑顔が頭に焼き付いて離れないのか。

 なぜこんなに胸が痛むのだろう。

 まだ出会って間もない、たまにふらりと立ち寄る店の、店主であるだけの藍子が。

 ふわりと冷たい風が頬を撫で、ふっと思考が冷えた。

 秋の夜長のせいか、頭がぐちゃぐちゃだ。

 康樹は緩く首を振ると、とりとめない物思いを断ち切った。

 そして空へ、目一杯に腕を伸ばす。

 遠い遠い月にレンズを向けて、スマートフォンのシャッターを押した。




             本編へと続く。

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