第6話
じわじわと、窓の外で蝉が鳴いている。
学校にはエアコンが導入されていないので、どこにいてもじんわりと体が汗ばむ。
窓を開け放しても籠った熱気から逃れられない状況の中、誰も彼もだらけきっている。
康樹ももうすぐやって来る夏休みだけを希望に、何とか半日を乗り切った。
昼休みになり、資料室に移動する。
出入り口の鍵が壊れている資料室は、教室と異なり静かだ。机も椅子もないが、考え事をしながら昼食をとるにはちょうどいい。
けれど今日は、ゆっくり思索にふけるような状況ではなかった。
「お前進路表って提出した? 俺さっき書き終わったぜー」
康樹の隣には、相槌を打たずとも勝手にしゃべり続ける男がいる。貴重な友人の一人、関町健太郎だ。
高校で知り合った彼だが、『ツキ』のことも既に打ち明けている。
気の置けない相手と言えるけれど、彼は致命的に黙るということができない。
「あーあ。まだ高二の夏だっつーのに、何で進路なんて考えなきゃなんねーのかなぁ。ゆっくり青春する暇もないよ。今年こそカワイイ彼女が欲しいのにさー」
これほど饒舌にもかかわらず『ツキ』の秘密もリカと幼馴染みであることも漏らさないのだから、何も考えていないように見えて案外考えてしゃべっているのだろう。
ただ、気の利いた返しもできない康樹を面白いと言っているのだから、変人であることには間違いなかった。
「しっかしダルいわー、午後イチ谷先生の授業なんだよな。俺文系なのにー」
康樹は二人の間に置かれたプリントをチラリと見下ろした。
「じゃあこの進路希望表、何で第一希望を経済学部にしてるんだよ。一応文系だけど、確率とか数学も必要になるぞ」
無防備に置かれた進路希望表は、健太郎のものだ。
康樹はまだ決めきれておらず、自室の机の上に置きっぱなしにしていた。
友人は、決して真面目そうには見えない眼鏡を持ち上げながらヘラリと笑う。
「経済学部に行けば就職に有利だと思って」
「今どきはそうでもないらしいぞ」
「えー、夢も希望もない。綺麗な写真撮ってるくせにー」
ペシャリと突っ伏す健太郎の膝から、菓子パンの空き袋がカサリと落ちる。
康樹は無言で丸めると、彼の頭にそれを投げつけた。
肌を突き刺すような太陽光を逃れて家に帰り着くと、母がリビングのソファで寛いでいた。冷房の効いた快適な室内に、康樹も生き返るようだ。
「ただいま。今日はパート休みなんだ?」
「おかえり。休みをとってたのよ。高科さんとジム行って汗流したあと飲みに行くつもりでね。でも向こうに急な仕事入っちゃって」
「え、痩せたいの? 太りたいの?」
適当に手を洗いながら、思わず突っ込んでしまった。
ちなみに高科とはリカの母親で、同じジムに通う仲でもある。
彼女の母と違い、康樹の母はジムの成果が見えないぽっちゃり体型だが。
康樹の現実的な指摘に、母はふくよかな顔をさらに膨らませていた。
「運動して痩せたあとに飲むからプラマイゼロなの。それに喉を渇かしておとくとね、ビールが最高においしいんだから」
「うわぁ、酒飲みの超理論」
運動直後に痩身効果が出るわけではないので前提から間違っているのだが、もう何も言うまい。結局、仲のよい友人と酒を飲みたいだけなのだ。
小腹が空いていたので、常備されているお茶請けのミニバウムクーヘンを三つ掴むとそのまま二階の自室へ向かった。
ドアを開けた途端、もわっとした熱気が康樹を出迎える。小さく顔をしかめ、すぐさまエアコンを点けた。
昼に健太郎との話題に上った進路希望表は、家を出た時のまま学習机にあった。
一応第三希望まで埋めてあるが、何となく出し渋っていた。
だが、期限はいよいよ明日だ。
康樹は通学鞄からクリアファイルを取り出すと、進路希望表をそこに挟んだ。
そのまま適当にローテーブルへと放る。
個包装のバウムクーヘンを丸ごと口に入れ、パイプベッドに転がった。乱暴な仕草に、固いベッドが大きく軋んだ。
エアコンの強風を直に受けながら目を閉じかけ、ふと物音に意識が逸れる。
起き上がってベランダに視線を遣れば、リカが向かいのベランダから手を振っていた。
康樹はため息をついて立ち上がる。軽い音を立て、ベランダのガラス戸を開いた。
「何か用? 俺、ちょっと眠いんだけど」
「別に用はないけど。ねぇ、そっち行ってもいい?」
雑な対応をしても、彼女は楽しそうに笑うばかりだ。
リカとは部屋まで隣り合っているため、幼い頃から頻繁にベランダを行き来していた。最近は、格段に頻度が減っているが。
「いいでしょ? 早く入れてよ、暑い」
「勝手に出てきてるくせに、言い分が横暴すぎるだろ」
若松家のベランダに飛び移っていない点に若干の気遣いは感じられるが、なぜ康樹の周囲には暴論を振りかざす人間ばかりなのか。
仕方なく折れると、リカは身軽にベランダを移ってきた。
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