第11話

 フレーズだけならば聞き覚えがあった。

 確か近代文学で、テストの出題範囲だったため暗記した気がする。

 けれど読んだわけではないから、どうしてもタイトルが出てこない。

「有名な書き出しのフレーズですね」

 考え込む康樹の隣で、藍子が微笑んだ。

「島崎藤村作、『夜明け前』。藤村は、田山花袋や国木田独歩と親交があったと言われている自然主義の作家の一人です」

 島崎藤村はギリギリ知っているが、あとの二人の名前は記憶に引っかかりもしない。

 康樹は藍子の説明をただ黙って聞いた。

 夜明け前。舞台は、大政奉還が起こった激動の時代。変わりゆく日本に期待し、夢を膨らませる一人の男がいた。

 変わらないもの、変わって欲しかった方向とは違う変化をしたもの。

 色々な現実に振り回され、打ちのめされ、彼はやがて精神を病んでいく。

「『わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ』。男が遺した言葉です。まさに夜明け前の、苦しい時代を切り取った名作ですね」

 あらすじを聞いているだけで、康樹は暗い気持ちになった。

「……何か、これも全然救いがないですね」

「確かに悲しいお話ですよね。でも私は、この作品を読んで少しホッとしたんです。無理に変わろうとする必要は、ないんだなって」

 藍子からそんな感想が出るなんて、少し意外だった。

 能天気で、悩みなんて何もなさそうに見えるのに。

「変わりたくなくても、時代が変わってしまうことだってある。ならせめて、変わらなくていい今くらい、ありのままでいていいんじゃないかな、って」

「――」

 康樹は何も言えず、ただ口を噤んだ。

どんな言葉も浮かぶはずがない。少なくとも、上っ面の軽はずみな返事だけは、してはいけないと思った。

 これほど息が詰まりそうな、やりきれない作品を読んでさえ、藍子は康樹とは全く別の感想を抱く。

 まるで見ている角度が異なるみたいに。

 変わらなくていい。自分のままでいい。

 その言葉に、彼女の本質を見た気がした。

 ――自己肯定感が強いのとも、違う。

 彼女にそういった傲慢さはなかった。

 むしろ、ひどく悲しい肯定の仕方だったように思う。

 過去に何か、どうしても変わらざるを得ない出来事でもあったのだろうか。

「あの……」

 突然背後から第三者の声が上がり、康樹達は揃ってぎょっとした。

 振り返ると、極めて希薄な存在感の霊が――いや、客がいる。

 藍子は慌てて頭を下げた。

「いらっしゃいませ……で、いいんですよね!? 大変申し訳ございません。夢中になってお客様……? に、気付かないなんて」

「あの、幽霊じゃないです。ちゃんと人間です。まぁいいんですけどね。よく影が薄いと言われるので……」

 動揺からか色々失礼な本音が漏れてしまっているが、無理もないような気がした。

 男性は、いかにもそれっぽく見える。

 猫背でこけた頬は青白く、弱々しい風情。

 眼鏡がなぜかやたらと反射しているために表情がはっきりとしない。そのせいで顔全体の印象がぼやけていて、次に会っても気付けないような気がした。

「あの僕、津田といいます。最近このアーケードの裏にあるアパートに越してきたので、あまりこの辺りの地理に明るくなくて。それであの、できれば風土について詳しく書かれている本が欲しくて」

 津田と名乗る男性は失礼な態度に気分を害した様子もなく、あくまで丁寧な物腰だ。康樹と老人達は恥じ入って黙り込む。

 今どきインターネットではなく紙の本から情報を得ようとする姿勢に、藍子は好印象を抱いたようだ。

「それは、ようこそいらっしゃいました。これから末長くよろしくお願いいたします。これは私も、街を好きになっていただけるよう気合いを入れてご紹介しなくてはなりませんね。ご案内いたします、こちらにどうぞ」

 彼女は嬉しそうに微笑み、店の奥の方へ津田を誘導する。

 彼らの姿が本棚の向こうに消えると、老人達は一斉に肩の力を抜いた。

「いやぁ、驚いたのう」

「俺も。幽霊かと思っちまったぜ」

 康樹はむしろ、騒々しい彼らが来客中には黙っていられるという点の方が驚きだった。

 なぜ自分だけが邪見にされるのか、やはり解せない。

 老人の内の一人、信五がおもむろに康樹を振り返った。

「君は、それほど驚いていなかったね」

「あぁ、はぁ」

 突然話を振られたことに驚き、康樹はつい頷いていた。神父という職業柄か、彼は人をよく見ている。

「始めは少し驚きましたが、慣れてるので。影の薄い身内がいますから」

 具体的に言うと、父だ。

 康樹の実の父親も、日常的にいるのかいないのか分からなくなったりする。

 そんな会話をしていると、奥からぽてぽてと慌ただしい足音が聞こえてきた。

「あのっ、さっきまでそこにいたはずなのに、ちょっと目を離した隙に津田さんが消えちゃったんです! 私どうしたら……」

 奥から戻ってきた藍子の顔は蒼白だった。

 先ほどまで一緒にいた人が忽然と姿を消したのだから、当然の反応とも言えるが。

「えっと……いますよ。今もずっと、あなたの後ろにちゃんとついてます」

「憑いてるんですか!?」

 彼女はますます震え上がり、康樹は頬を引きつらせた。確かに言い方がよくなかったかもしれない。

 おそらく津田の存在感があまりに薄すぎるために、姿を見失ってしまったのだろう。

 藍子の後ろでおろおろしている彼を見ていると、母にまで素通りされる父を思い出して物悲しい気持ちにさせられる。

「いやそういう意味じゃなくて――あの、よかったら手伝いましょうか。俺、そういう人の相手は慣れてるんで」

 康樹は、親しくもない相手をわざわざ助けようとするほど善人ではない。

 ではなぜこんな申し出をしたかというと、後頭部に信五の視線が突き刺さっているからだ。おそらく笑顔でいるのだろうが、彼の言わんとすることがひしひしと伝わってくる。

『できることがあるなら、人として手伝うのが当然だよね?』

 ……無言の圧力に耐えきれなかった。

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