第19話


 それからさらに一週間が経った頃。

 康樹はまたも佐倉書店に足を運んでいた。

 コーヒー豆を挽きながら、茶菓子を用意する藍子をつい眺めてしまう。

 今日も季節外れな藤色のブラウスと、枯れ葉色のロングスカート。黒縁眼鏡をかけた顔はどこまでも穏和だ。

 インドア派らしい色白の肌はふっくらとはりがあり、年齢不詳な彼女が確かに若いのだと物語っている。

 藍子が、二十歳。

 康樹と三歳しか違わないなんて、未だに信じられない。

 彼女が今テーブルに並べているつやつやの栗饅頭が、あれほどまでにしっくり馴染んでいるというのに。

 ――多分、体型とかすっぴんなところが年齢不詳を助長してるんだろうな……。ぶっちゃけ三十五歳くらいだと思ってたことを言わない俺って大人。

「康樹君?」

 首を傾げる藍子と目が合って、康樹は慌てて手を動かした。

 既に水はセットしているので、挽き終えた豆をドリッパーに移して電源を入れれば、あとは待つだけだ。

「いえ……今日はあの人達、いないなって」

 テーブルセットに近付きながら、康樹は誤魔化すように口を開く。

 藍子も腰を落ち着けながら答えた。

「確か今日は、町内の囲碁サロンに行くと言ってましたよ」

「へぇ、囲碁サロン」

 ほとんど佐倉書店の住人のように思っていたが、他にも生き甲斐があったとは。

 言われてみれば現役で働いているようだし、彼らもあれでなかなか忙しいのだろう。この店に入り浸っている方が不思議なのだ。

 意外に思っていることが思いきり顔に出ていたのか、藍子はクスクスと笑った。

「康樹君ったら。宗吉さん達も、毎日来てくれるわけじゃありませんよ」

「いやいや。俺が顔出す時は、百発百中でいたんですけど」

「でしたら今日は、少し寂しいですね」

「いいえ全く」

 騒々しい老人達がいないおかげで、不意に沈黙が落ちる。けれどそれは、決して気まずいものではなかった。

 コーヒーマシンの動く音と、金魚の水槽に取り付けられたエアーポンプの電子音。そして、柱時計が刻む一定のリズム。

 初めてここを訪れた日のことを思い出す。

 あの夏からずいぶん時が過ぎた。昼間の暑さも最近ではだいぶ和らいできている。

 ぼんやりしていると、いつの間にかコーヒーが完成していた。

 立ち上がった藍子が、マグカップを用意している。

「コーヒー、多めに淹れちゃいましたね」

「……今日は元々、おかわりするつもりだったんです」

 いつもの癖で、サーバーいっぱいにコーヒーを淹れてしまった。

 決して寂しいわけではないと断固として主張したいが、言い訳するほど墓穴を掘ってしまうような気がする。

 康樹は気まずさから目を逸らすため、コーヒーに口を付けた。

 藍子特製のブレンドは癖も雑味も少なく、それでいて芳醇な香りが口一杯に広がっていく。彼女が初対面の時に勧めた通り、砂糖もミルクも必要なかった。

 やっと人心地ついた康樹に、藍子は改まって切り出す。

「私、見ちゃいました。SNSで、康樹君が撮った写真」

 ドキッとしたが、顔には出さない。

 ユーザー名まで明かしたのだから、彼女がSNSを見るのは当然の成り行きだ。

 それでもいたずらっぽい笑顔を見返せず、康樹は無言を貫いた。他人からの評価というのは、何年経っても緊張する。

「本当に、とても素敵でした。私がいいなと思ったのは雨上がりの写真で、水たまりに映った空とアスファルトのコントラストがとても鮮やかで、暗い中にもどこか安らぎのようなものが感じられました。あとすすき野原が黄金に燃えている写真も何気ない景色を切り取った康樹君の感性の瑞々しさが……」

「近い近い近い」

 語らせれば長い彼女のオタク気質をすっかり忘れていた。明け透けなほど手放しの称賛に、頬が熱くなってくる。

「夜の写真も多かったですけど、ご両親にはちゃんと話してるんですか?」

 話が逸れたことにホッとしながらも、康樹は頷いた。

「問題ありませんよ。夜の写真を撮るのも親公認でやってますから」

 過去に一度CDのジャケットに採用されたことがよかったらしく、風紀の乱れた場所にさえ足を踏み入れなければいいと、多めに見てくれている。

 若松家は、存在感の薄い父に比べると絶対的に母の発言権が強かった。母さえ頷けば、反対する声など掻き消されてしまうほど。

 そんなことを考えていると、店の出入り口が開いた。

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