第20話
立て付けの悪い戸に苦心しながら入店したのは、十歳くらいの女の子だった。
保護者は一緒ではないようだが、物怖じする様子はない。
あのくらいの年頃ならば明るい色調の服装を好みそうなものだが、グレーのニットに黒いチェックのパンツ、そして靴まで黒だ。
ランドセルは家に置いてきているようで、それがなおさら少女の雰囲気を大人びたものにしていた。
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
ソファから立ち上がりながら藍子が挨拶すると、少女は小さく頭を下げる。
迷いのない足取りで店の奥へと向かう姿を見送り、康樹は声を抑えて呟いた。
「珍しいですね、お客さんなんて」
「あの子、最近よく来てくれるんですよ」
児童書の類いは店舗入り口付近にあり、奥にあるのは難しい専門書ばかりだ。
少女は一体どんな本に興味があるのか。
「あっちって、盆栽の本とか俳句の本のコーナーですよね。俺は結構面白いと思うけど、小学生にしては渋い趣味ですね」
「盆栽や俳句に興味があるかと思いきや、彼女毎回あちこちの棚を移動してるんですよ。難しい小説の棚にもよく向かってますね」
そうして、閉店時間の午後七時ギリギリまで店にいるのだという。
「もしかしたら、お仕事でご両親の帰りが遅いんですかね?」
「……というかそれってつまり、欲しい本を探してるんじゃないですか?」
藍子はたっぷり五秒経ってから、驚きを露にした。うっかりさんか。
「あぁ、そうですよね。一生懸命で可愛らしくて、ついほのぼのと見守ってました」
恥ずかしそうに俯く彼女の頬が、赤く染まった。肌が透き通るほど白いため、ここに来る途中見かけた真っ赤な林檎を思い出す。
「今さらですけど、とりあえず行きましょうか。まだ何か役に立てるかもしれませんし」
藍子と二人、奥へと進んでいく。
少女の小さな背中はすぐに見つかった。何か調べものでもしているのか、こちらに気付かないほど熱中している。
「失礼いたします、お客様。もしかして本をお探しでしょうか?」
藍子が声をかけると、少女はゆっくりと振り返った。
「ごめんなさい。私、邪魔ですか?」
「そんなことございませんよ! ただ、遅い時間まで店にいらっしゃるので心配、という思いがございまして……」
慌てて手を振る店主に、康樹は半眼になった。小学生相手だというのにどこまでも馬鹿丁寧な接客だ。
――まぁ、年下の俺にだって、いつまでも敬語だもんな……。
「本が好きなの?」
康樹の問いに、少女はこくりと頷いた。
「お母さんも本が好きなんです。本屋さんも。でも、今は入院してるから……少しでも、楽しませてあげたくて」
藍子と無言で視線を交わす。彼女の瞳にも、かすかに痛ましげな色があった。
きっと母親が入院しているために、遅い時間まで出歩いていたのだろう。
それでも母親を気遣う少女は、大人びているけれど寂しいのかもしれなかった。
「だから、お母さんにプレゼントするための本を探してるんですか?」
少女は、今度の質問には首を振った。そうして、少しシワになった紙片を取り出す。
何度も書き直した跡の残る可愛い星柄のメモ用紙には、読みやすい大きな字が並んでいる。おそらく少女が書いたものだろう。
『3―2―13―レ
5―6―8―キ
6―4―21―ア
ヒント→奥から』
不思議な言葉の羅列に、康樹は困惑する。まるでこれは――。
「暗号、ですね!」
後ろから紙片を覗き込んでいた藍子の瞳が、キラキラと輝いている。
「もしや謎解きゲームですか? すごいです、これを作ってらっしゃったんですね!」
勢い込んで問う藍子に、少女は戸惑いながらも頷いた。
「そうです、私が考えました。答えは、今私が一番欲しいものになってるんです。……お母さんが退院したら、一緒にここに来て、謎解きをするの」
退院したら、一緒に。
そこに、どれだけの想いが込められているのだろう。
小さな身に負った境遇は察するに余りある。踏み込んだことは聞けず、康樹と藍子は揃って口を噤んだ。
少女が、おずおずと二人を見上げた。
「お母さんに見せる前に、試してもらってもいいですか? ちゃんと問題になってるか、ちょっとだけ不安で」
控えめないじらしさに、藍子は心打たれたらしい。
「やりましょう、康樹君!」
使命感にでも駆られたのか、彼女は力強くこぶしを握っている。何とも頼りないプニプニのこぶしに、康樹は脱力してしまった。
「一応、営業時間中じゃないんですか?」
「大丈夫ですよ! どうせお客様も他にいませんし!」
「それをあなたが言いますか……」
悲しすぎる開き直りにガックリ項垂れながらも、本日唯一の客のため、手を貸すことに否やはない。
不思議な謎解きゲームが始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます