第12話

 信五との攻防に気付かない藍子の眼差しは、尊敬で輝いている。

「本当ですか? ありがとうございます! こういった方の相手に慣れているって、康樹君、もしや除霊のご経験が……?」

「ですからそういう話じゃありませんし、津田さんが悪さをしたわけでもないのに排除はさすがに厳しすぎるのでせめて浄霊の方向で……というか収拾がつかないので、これ以上ボケ倒さないでもらっていいですか?」

「ボケ? 私はいたって真剣ですが」

「分かりました。もう行きましょう」

 藍子に誘導を任せ、本棚の間を縫うように歩く。もちろん津田も一緒だ。

 風土史を扱うコーナーには、すぐにたどり着いた。

 藍子が店主らしく、おすすめの本を紹介していく。やはり見えていないのか視線は津田を通り過ぎていたが、康樹は口を挟まずやり取りを見守った。

「では、この本にしたいと思います……」

「はい。ありがとうございます」

 津田は本を選び取ると、思いきったように顔を上げた。

「あの、先ほどのタイトル当て、失礼ですがずっと見させていただいてました……」

 思いきって切り出したわりに、声はだんだん消え入りそうに小さくなっていく。語尾を濁らせるのが彼の癖なのかもしれない。

「それほど長い間気付かずにいて、こちらこそ失礼いたしました」

 本を手にしているからか、藍子は正しく津田がいる方へ頭を下げた。

 津田は、気にしていないと手を振る。

「それは本当にいいんです。ただ、あなたが全てのクイズに答えているのを見て、ぜひ僕のお話を聞いていただきたく……」

「お話、ですか?」

「実は、ずっと昔から探している本があるんです……」

 津田はぼそぼそと、けれど切実そうに話し出した。

「どうしてもタイトルが思い出せないんです。大型書店で探していただいたこともあるんですけど、何となくの印象では理解してもらえず……。けれど先ほどの様子を見ていて、もしかしたらあなたなら、と思いました……」

 なるほど。ずっと探している本があるから、ほとんど悩むことなく即答する藍子を見て頼もしく感じたというわけだ。

 けれど他の書店員に分からなかったならば、彼女にも難しいのではないだろうか。

 康樹の心配をよそに、藍子は勢いよく胸を叩いて頷いた。

「お力になれるか分かりませんが、精一杯頑張りますね」

 断らないだろうとは思ったが、案の定だ。

 津田は嬉しそうに頬を緩めた。

「それで、どんなお話ですか?」

「精神を病んでいるような、生きていても何もいいことがないと思っているような男が主人公で、文体の感じから明治か大正の文豪ではないかと……」

 藍子からあらすじを聞いた『夜明け前』もそうだが、案外そういった病的な主人公は、文学作品には珍しくないのかもしれない。

 なぜそんな物語を読みたくなるのか康樹には理解できないけれど、だとすると病的な主人公というだけではヒントとして不十分だ。

 藍子もさすがに分からないようで、難しい顔で考え込んでいた。

「他に、思い出せることはありますか?」

「すみません、内容はほとんど覚えてなくて。でも、とても面白かったという漠然としたイメージだけあって……」

 どうしても思い出せない焦りから、津田は苛立たしげに頭を掻きむしる。

 隣で藍子はなぜか、むしろ嬉しそうに瞳を輝かせた。

「分かります! たくさん本を読むと忘れてしまうお話もありますけど、おぼろげなイメージは胸に深く残ってたりしますよね!」

 激しく同意する彼女に、津田は目を白黒させている。

 藍子は、ふにゃりと微笑んだ。

「どんなに些細なことでもいいんです。ゆっくり、時間をかけて考えましょう」

 どこまでもマイペースな調子に、津田から焦りが消えた。肩に入っていた力がゆっくりと抜けていく。

 気負わずにいれば、彼の思考もするりと再稼働した。

「――あ。確か、電車かバスに乗るシーンがよくあったような……」

 ここまで記憶を引き出せたのは初めてだったのかもしれない。津田自身、どこか呆然としている。

 もしかしたら今まで本を探し当てられなかったのは、親身に話を聞く者がいなかったためかもしれない。

 何といっても津田の風貌は不気味だし、存在感も薄すぎる。平然と話せる藍子の方が特殊なのだ。

 顎に手を当てて熟考していた藍子が、一つ頷いた。

「電車かバスによく乗っている、病んでいそうな主人公、明治か大正の作品……はい。一つだけ心当たりがあります。津田さんがお探しなのは田山花袋作、『少女病』ではないでしょうか?」


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