第15話


 書店をあとにした康樹は、苦い顔でため息をついた。

 あの場所が、どんどん自分にとって居心地のいい空間になっていることが分かる。

 当初の自分の態度を思えば胸中は複雑だ。

 もうすぐ六時になろうとしている時間帯なので日は落ちかけ、肌を撫でる風もひんやりとしていた。

 アーケード内にある精肉店から揚げ物の匂いが漂ってきて、反応した康樹の腹が空腹を訴えている。

 母は基本的に放任主義だが、夕食の有無に関しては厳しい。

 いらないと夕方の内に連絡しておけば問題ないが、もし何も知らせず外食をしようものなら恐ろしい仕打ちが待っている。

 小遣いを半額に減らされるのだ。

 昼食を購買のパンや学食に頼っている身としてはかなり切実だった。

 貯金ならば、それなりにある。

 以前撮影した夕焼けの写真がCDのジャケットに採用された時、学生には分不相応な大金を印税として受け取っていたためだ。

 両親は康樹が間違った使い方をしないと信用してくれ、今も全額手元にあった。

 貯金を増やしていつかいいカメラを買おうと考えているので、ほとんど手を付けていない。バイトもしていないため、日々の生活は毎月の小遣いだけが頼みの綱だった。

 何か少しでも買い食いをしてしまえば、夕食を食べる量などから推測、尋問される。

 揚げたてのメンチカツを未練がましく見つめながら、康樹は何とか堪えた。

 ――今日の夕飯何だっけな。うん、それだけ考えるようにしよう。

 いつか絶対食べてやると、心に誓いながら瞑目する康樹を呼ぶ声があった。

「あれ? 康樹?」

「お、リカ」

 アーケードを出てしばらく歩いたところで行き合ったのは、幼馴染みのリカだった。

 まだ昼間は暑いだろうにネイビーのカーディガンを着ているのは、おしゃれのための努力というやつだろうか。

 先ほどまで一緒だった女性が着ていたわさび色の半袖ブラウスを思い出し、康樹はつい遠い目になった。

「こんな時間に会うなんて珍しいな。何してたんだ?」

 周囲に知り合いがいないことを確かめると、康樹はリカの隣に並んだ。

 暗くなり始めているということもあり、人目を惹く彼女を一人で帰すという選択肢はなかった。

 どうせ目的地もほとんど変わらない。

 すんなり伸びた足が、ほの暗い中で浮かび上がって見える。

 顔がうっすらとしか確認できないような視界にも、彼女は特別際立っていた。

「友達とカフェに行ってたんだ。新作のアップルシナモンラムレーズンが飲みたくて」

「またカフェかよ。つーかそれ、本当に飲みものかよ」

「飲みものだよ、ホラ」

 新作ドリンクの画像を見せようとしたリカだったが、スマートフォンの電源を入れるとすぐに顔をしかめた。

「あー、ヤバい充電ない。今日バッテリー忘れてきちゃったんだよね」

「俺持ってるぞ。使う?」

「ありがと。助かる」

 持ち運び用のモバイルバッテリーを通学鞄から取り出し、リカへと放る。彼女は難なくキャッチした。

「家着いたら返せよ」

「分かってる。つーかあんたって何でも持ってるよね」

「充電なくなったら普通に困るだろ」

「そっか。写真撮れなくなっちゃうもんね」

 単に不都合が多いという意味で言ったのだが、リカは違う解釈をした。

 突然興味を惹く被写体と出会うこともあるので、あながち間違いではないのだが。

「でも康樹、最近写真アップしてないよね」

 ぼかした言い方だが、彼女が『ツキ』のことを言っているのだと分かった。

「あぁ、ちょっとスランプかもな。調子いい時はいくらでも撮れるんだけど、駄目な時はどんなに頑張っても無駄だから」

 ここ二ヶ月ほどは、ブログの更新が途絶えていた。納得のいく作品が撮れないのだ。

 撮りたいという欲求が発露する条件を、自分自身分かっていない。

 何かに突き動かされるようにスマートフォンを手に取る時もあれば、全く意欲が沸かない時もある。

 締め切りがあるわけでもなし、そういう場合はきっぱり写真から離れることにしていた。これがアマチュアのいいところだ。

「もう少し暑さが和らげば、やる気も戻ってくるかもな」

「あんた昔から暑いの嫌いだよね。耐えてるつもりなんだろうけど、結構バレバレだよ」

「言っとくけど格好付けてるんじゃなくて、暑がったって非効率的だから我慢してるだけだからな。嫌いって騒いで涼しくなるなら、いくらでも騒ぐけど」

 何てことないように肩をすくめる康樹を見上げ、リカがいたずらっぽく微笑んだ。

「ねぇ、じゃあさ。今からかき氷でも食べに行く? フワフワの氷のやつ、あんた食べたことないでしょ」

 定番となりつつあるフワフワ食感のかき氷は、氷の産地や削り方からこだわっていると康樹も聞いたことがある。

 たっぷりの苺やマスカルポーネ、マンゴーやメロンなど味も様々で、もはやスイーツと言ってもいい。

「確かにあれはうまそうだけど、やめとくよ。お前も知っての通り買い食いできないし、そもそも寄り道が嫌いなんだ」

 康樹のすげない返答に、リカは可愛らしく唇を尖らせた。

「寄り道嫌いとか言ってるけど、こんな時間にうろついてるってことは、あんたもどこか寄ってたんじゃん」

「本屋に行ってただけだよ。成り行き上ね」

 途端、なぜかリカの雰囲気が変わった。

「もしかして、最近たまに帰りの遅い日があるのは、そこに行ってるから? ――康樹、バイトでも始めたの?」

 詰問口調と帰宅時間を把握されていることに若干の驚きを感じたが、どうせ母辺りがしゃべったのだろう。

 康樹とリカの母親は本当に仲がいい。

「いや。手伝いもたまにしてるけど、給料は発生してない」

「何それ。じゃあ何でわざわざ通ってるの? もしかして狙ってる子がいるとか?」

 リカの厳しい追及は止まらない。

 なぜか怒ってもいるようで不思議だったが、康樹は佐倉書店の紅一点である店主を頭に思い浮かべた。

 ありがたささえ覚える福々しい笑顔。

「……それはないな。うん、絶対ない」

 やけに重々しく頷く康樹に、リカは疑問符を浮かべながら眉根を寄せた。



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