第24話
「石井睦美の『キャベツ』。『キ』ですね」
どうやら探し方は間違っていないようだが、先ほどの本と全く共通点がない。康樹は眉間にシワを寄せた。
藍子がこちらの手元を覗き込んだ。
「石井睦美先生の『キャベツ』。これは心が温まるほっこり日常系のお話ですね。母と妹のために毎日のご飯を作る、大学生の男の子が主人公なんです。作者の石井先生が元々児童文学作家ということもあって、とても優しい文体なんですよ。確か、文庫本にもなっていたと思います」
先ほどと同じようにあらすじを紹介する藍子に、素直に感心した。一つ一つの内容を正確に覚えているようだ。
「では最後、『6―4―21―ア』を探しましょうか」
隣の棚に移動すると、彼女は真剣な表情になって本を探し出す。
日が落ちてきたのか、横顔は輪郭が曖昧にぼやけていた。丸い頬に濃い影が落ちて、彼女の肌の白さをより鮮明にしている。
いつの間にか引き込まれるように見つめていた。一度も染めたことのなさそうな黒髪、意外に長い睫毛。
店中に立ち込める紙の匂い。
差し込む橙色の光。
――今ここに、スマホがあれば……。
きっと、藍子の横顔を切り取っていた。
康樹は我に返って、無意識に動かしていた手を見下ろした。
ここ最近は美しい景色に心を動かしても、写真を撮る気になれなかったのに。
これまで主に撮影してきたのは、風景写真だった。人物を撮りたい欲求に駆られるなんて、自分自身思いも寄らなかった。
康樹は込み上げた感覚を確かめるよう、手を握り込んだ。
「康樹君?」
首を傾げる藍子と視線がぶつかる。
決して美人ではないのに、何と書店の似合う人だろうか。
きっと、彼女自身に本の匂いが染み付いているからなのだろう。
「――藍子さんは、すごいですよね。若いのに店長なんて尊敬します」
しっくりと空気に馴染むほど、書店を愛している。その愛を貫き通せる藍子を、純粋にすごいと思った。
康樹は、踏み出せずにいる。写真だけを選べずに、保険をかけようとしている。
握ったこぶしに、爪が食い込んだ。
これは、羨望だろうか。胸に暗い感情が差しかかる。
けれど、向き合う藍子の表情は、なぜかあまりにも静謐だった。どす黒い嫉妬が、育つ間もなく霧散していく。
「……藍子さん?」
「私は、祖父の店を継いだだけですから」
「いや、でも他の選択肢だって、」
「なかったんですよ」
きっぱりとした言葉はまるで壁のようで、康樹は目を瞬かせた。
藍子は体ごとこちらを振り向いて、静かに微笑んでいる。
けれど瞳の奥に確かに宿る、決然とした強さ。潔さ。……初めて、彼女の深い部分に触れたような気がした。
「祖父が突然亡くなった時、ここを守る以外の道を考えられなかった。私には、それが当然だったんです」
藍子にとって祖父は、たった一人の肉親。
彼が守ってきた場所を、大切な思い出が詰まった書店を、失うことはできなかった。
「親は、幼い頃に離婚しています。ここは、両親に引き取ってもらえなかった私を迎え入れてくれた場所。唯一の居場所なんです」
唯一の、と言い切った彼女に、康樹は胸が痛んだ。
可哀想だと感じたからではない。
書店を守るためなら、他の一切を切り捨てられる。
彼女の言葉から伝わる覚悟が、やんわりした拒絶に感じたのだ。
藍子が、控えめな中にも芯の強さを持つ女性であることは分かっていた。
譲れないことは数えるほどに少ないけれど、それらを決して譲らないだろうと。
それでも幸せそうだったから。宗吉達に愛されていたから。それが彼女の本質なのだと信じて疑わなかった。
「……つまらない話をしてしまいましたね」
藍子は視線を書棚に戻すと、本探しを再開した。日が沈み、その横顔は先ほどまでと全く違ったものに映る。
月みたいだ、と思った。
全てを優しく照らし、癒す光。
けれど月は、みんなに愛されているのに、空の頂点でいつも一人ぼっち。
きっと一人でいることを、恐ろしいとも寂しいとも思っていない。
永遠に、届かない距離。
「あ。康樹君、見つけましたよ。最後の本はこれです」
藍子が抜き出した本のタイトルを、康樹はぼんやりと読み上げた。
「金原ひとみ、『アッシュベイビー』」
「はい。金原ひとみ先生は有名ですよね」
「あぁ、そういえば聞いたことあります。確か若い時に、芥川賞をとった人ですよね」
三冊全てを持って、康樹達はソファスペースに戻った。テーブルに本を並べてから腰を落ち着ける。
「さて、全ての答えが出揃いましたね。『レッド』、『キャベツ』、そして『アッシュベイビー』。これらから連想されるのは……」
束の間沈黙が落ちたけれど、結論にたどり着くまでそう時間はかからなかった。
三つの本のタイトルから導き出される答え。紗菜が今一番欲しいものとは。
「…………『赤ちゃん』?」
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