翡翠の姫――死にゆくならば
ツーツーツー。
虫の音だけが響き渡っていた。シルレの消えた入り口をずっと見つめていたが、やがてリンレイは額に手を当て、頭痛いみたいな顔をした。
「結局、話終わったまま、行ってしまったわね」
残り少なくなったお膳へと振り返り、姫は侍女によって巻かれてしまった話を、山菜の煮物をつまみながら再開させた。
「どんな土器が好きなんですか?」
こんなことを聞いても、適当な答えか、戸惑い顔をされる日々。だったが、この男は違った。
「底が丸く質素なものも好きであれば、装飾を施したものも好きです」
今ここにどうして一緒にいるのかはわからない。だが、共通の話題がある。しかもそれは、自分の一番好きなことだ。どんな宝物よりも素敵で貴重なめぐり合わせだった。
リンレイは珍しく笑顔になり、雑穀米をつかもうとした手をそのままに、話に夢中になり始めた。
「装飾がついたものなんてあるんですね?」
こんな生徒ばかりだったら、どれだけ有意義な毎日なのだろうと、貴増参は思いながら大きくうなずく。
「えぇ、あるんです。それまでは使いやすさという点で作られたものでしたが、芸術性をそこに見出したという点では、僕は大きな文化の発展だったと思うんです」
「そういう見方もあるんですね」
巫女という立場と、研究者の見ている方向性はまったく違っていて、リンレイの世界は広がってゆく。
この国からほどんと出ることのない、視野の狭い生活を送り続けていたら、出会わなかっただろう。
「君はどのように思いますか?」
ふたりとも食事のことなど、もう忘れてしまって、土器談義に花を咲かせる。
昔の割れた器のことを聞いても、答えてくる女は今までいなかった。だが、リンレイは意気揚々を熱く語った。
「同じものはひとつとしてないじゃないですか? だから、そこに今がある気がします」
「えぇ、手作りですからね」
窓から入り込む湿った風が、光るリボンのようにふたりをひとつに結んでは、優しく吹き抜けてゆく。
「土の中から出てきますけど、どんな生活がそこにあったのかな? と思い浮かべると、組み立てたくなるんです」
「僕もです」
知らない人など、ただの
「そこに土があるから、掘りたくなるんですよね?」
登山好きが、山があるから登るみたいな言い方をしてきた、リンレイ。だったが、貴増参も大いに賛成した。
「えぇ、あるから掘るんです。君とは話が合いますね」
「ふふふっ」
リンレイが珍しく笑い声をもらすと、松明が祝福の光のシャワーにように、ふたりに降り注いだような気がした。
木の柵を挟んで、貴増参とリンレイは肩を並べ、時代も何もかも超えて、普通に出会ったみたいに話し続ける。
「君の仕事はどんな内容ですか?」
リンレイは着物の袖口を合わせて、落ち着きなく触りながら、貴増参が生きてきた世界にはない話がすらすらと出てきた。
「神に祈りを捧げたり、舞を奉納したりです」
部屋の隅に置いてある朱色の飾り紐をつけた鈴を鳴らし踊る。頭の中に全て記憶されている
「他には何かありますか?」
「はい。凶事を占ったり、神託などもします」
相談役。国の行く末を問われ、その答えを直感で導き出し、人々をまとめてゆく。
だが、そこは決していい地位ではなく、人の心の闇が隠れているものだ。都合のよくない者は、再度やり直しを求めてくる。誰かを呪い殺してほしいなど、よくあることだ。なだめるのも、この国の巫女の役目だ。
貴増参はあごに手を当てたまま、ふむとうなずいて、専門書から言葉を見つけてきた。
「シャーマンでしょうか?」
「しゃーまん?」
その渦中にいる姫にとっては、巫女は巫女であり、聞いたことのない名前で、ただただ繰り返した。
ほんの些細なことかもしれないが、考古学者として、新しいものは持ち込みたくない、貴増参だった。彼は何気ないふりで首を横に振る。
「いいえ、こちらの話です」
リンレイは落ち着きなく服を触っていたのをやめ、急に高貴な雰囲気を身にまとい、どこかずれている瞳はしっかりしたものに変わった。
「人の上に立つ人間は、みんなを守るためにいるんです。だから、何かあった時には、自分はみんなを守るために何でもするんです」
歴史はいつも、起きた出来事が名を残している人を中心に書き記されている。
だが、そこにはもっとたくさんの人が生きて、様々な感情を抱いて、間違った指導者のために、下の人たちも一緒に悲惨な運命に巻き込まれているのが常である。
貴増参は優しさの満ちあふれた茶色の瞳で、リンレイのクルミ色の瞳を真摯に見つめ、羽布団みたいな柔らかな声で静かに言った。
「世の中、君みたいな人ばかりでしたら、歴史はまったく違ったかもしれない――」
「え……?」
リンレイは本当に意味がわからず、まぶたを激しく
ここも説明するわけにはいかない。考古学者は地中から、人の闇の応戦をよく見つける。
みんなが望んでいる、誰も悲しまず、発展していく未来が、今目の前にいる巫女ならできるのかもしれない。
たったひとつの文明だったとしても、そんな過去が残っていたら、その発掘作業は特別なものに変わるだろう。
それを密かに祈りながら、貴増参は話をそっとすり替えた。
「先ほどの歌を歌っていただけませんか?」
「あぁ、いいですよ」
リンレイは祈りを捧げるでもなく、ただただ自分の内に浮かび上がった旋律をつなぎ合わせた曲を歌う。
今は出ていない月を心のスクリーンに映して、大きく息を吐き吸って、吐き出すと同時に、最初から歌い出した。
「♪窓からの秋風が 素肌をくすぐって
遠く離れた あなたとつながるこの星空
十六夜に会いましょう 二人きりで
月影あびながら 今までのこと話して
あなたと懐かしむ
約束よ 十六夜に会いましょう♪」
夜風と高い歌声がくるくると
歌が終わると、黒い筋を引く雨雲が流れてゆくのを眺めたり、虫や風の音に耳を傾け始めた。
お互いに触れることはなくても、相手の息遣いを聞いたり、同じ話を空間を共有して時は過ぎていった。
ふたりきりの世界で、侍女がお膳を下げにきたことも、寝床の支度をしたことも気づかないほどだった。
どちらともなく、あくびをすると、リンレイはシャツとズボンだけの貴増参を心配した。
「何かかぶるものいりますか?」
「僕はこういうことには慣れているので、心配いりません」
研究に夢中で、服が強風に飛ばされることなどよくある。雨が降ってきたことに気づかず、ずぶ濡れなんてことも何度もあった。貴増参は優男に見えるが、野宿でも何でもできるタフガイである。
それでも、檻の中という不自由な身を案じで、リンレイは一声かけた。
「何かあったら言ってくださいね」
「お気遣い、ありがとうざいます」
貴増参が丁寧に頭を下げると、姫は檻の向こうで、生地が安く入手できるようになったお陰で手に入れた毛布をめくり、簡易な床に入った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
穏やかな一日が無事に終わったみたいに、今日最後のあいさつを交わした。
また明日も――
三日間が終わるまでは、月が色づくまでは、姫でもなく不法侵入者でもなく、同じ土器好きで、少ない食料を分け合って、たわいないようで、心に深く刻まれる会話をする。そんな日々が送れるように願って、眠りにつく。
サーサー……。
窓の外から雨が横殴りで叩きつける音が、あたりを突如包み込んだ。さっきまでの小康状態が嘘のように、大雨がとうとう地上に君臨した。
リンレイは高窓を見上げて、表情を曇らせる。
「また雨が降ってきちゃったわね」
白の巫女はあることを思い出して、持っていた毛布を膝の上にだらっと落とし、首をかしげた。
「そういえば、北の堤防を
二日前の出来事。しかも、やけに鮮明に、リンレイの脳裏に残っている話。
男の部下が報告に来て、指示を出した普通のやり取りだった。いくつも案件が出てくる日々の仕事に紛れ込んだ、その中のひとつ。
聞き流していたが、リンレイはそれが今ごろひどく引っかかった。
「それって、壊れてたってことよね? 一週間前に行った時はそんなことなかったけど……」
大雨が続いて、地盤でも緩み、修理が必要になったのだと、姫は簡単に納得していたが、急に胸騒ぎがして横にはならず、しばらく窓の外を眺めていた。
「大丈夫なのかしら?」
貴増参は姫の小さな背中の後ろで、思わず瞳を閉じた。
(そちらが嘘だったら……)
さっき見送った危険だという可能性が、はっきりとした輪郭を描いてゆく予感。
しばらく考えていたが、疲れてしまったのか、あどけない顔で眠りについた姫の寝顔を、考古学者は見下ろす。
雨が降っていること以外は、静かで何もない平和な夜。それが崩壊の序曲を踏む――。貴増参の予測した答えでは。
彼は柵から手をそっと伸ばして、遠くへ行ってしまうかもしれない、栗皮色の髪に触れようとした。この手触りがなくなってしまう前に。
その時だった。大慌ての侍女が部屋に走りこんできたのは。貴増参の手はすっと檻の中へ戻された。
「リンレイさま! 大変でございます!」
姫は眠たそうな目でも起き上がって、あくび交じりに聞き返した。
「ん? どうしたの? シルレ」
焦っていて、侍女は口を鯉が餌を求めるがごとくパクパクとするだけで、言葉が出てこない。
「あ、あの……!」
貴増参が予想した通りのことが起きているのなら、一刻を争う。羽布団のように柔らかだが、重厚感のある落ち着き払った声で聞き返した。
「どうかしたんですか?」
「シルレ、深呼吸して」
リンレイは侍女の両肩に手を当てて、子供をあやすようにトントンとゆっくり叩いた。
「北の堤防が決壊して、濁流が国になだれ込んで……」
シルレの言葉を聞いたリンレイが、今度は顔面蒼白になって慌て出す。
「そんな!
「それが、みな事前に避難しており、全員無事でございます」
侍女の話を聞いて、リレインはほっと胸をなでおろしたが、
「はぁ〜、よかった」
貴増参はそれとは反対に、少しだけ表情を歪めた。
(おかしい……)
予感が確信の階段を登り始める。誰かがまるで知っていたみたいだ。別の角度から見れば、北の堤防が決壊することを。
平常を取り戻した侍女は、姫のかぶっていた毛布を端へ寄せて、貴増参に黄色の瞳を向けた。
「まだ逃げていないのは、リンレイさまと……そちらの方だけでございます」
「鍵は?」
姫の問いかけに、侍女は抜群のタイミングで木の鍵を顔の前に取り出した。
「バッチリでございます!」
「さすがシルレね」
姫と侍女は両手を、スポーツでファインプレイをしたみたいに、お互いから合わせてパンと鳴らした。
リンレイは素早く起き上がり、身の回りの品を何も取らず、貴増参に声をかけた。
「とにかく、ここは比較的低い場所にあるから、早く高い場所へ行きましょう」
このまま放置して、水没させることはたやすくできるだろう。そのためには、黒の巫女がわが鍵を持っていけばいいのだ。それなのに、白の巫女の侍女が持ってきて、牢屋の扉は簡単に開いた。
(やはりおかしい……)
次々に出てくる違和感。だが、濁流は解き放たれ、止めるすべがもうない。しかし、貴増参はあごに手を当てて、のんびり考え込んでいた。リンレイが手を差し伸べて、
「立てますか?」
「えぇ」
姫の手を取って、貴増参は牢屋の柵をかがみ通り抜け、生き延びることが幸せとは限らないが、大雨の降る夜へ向かって、走り出した。
「こっちです!」
滑る足元に気をつけながら、降りしきる雨の中、高台へ上がろうとしたが、
ゴーゴー……。
地響きのようなうなり声を上げる、濁流が大きな口を開けて、三人の前に立ちはだかった。
「あ……!」
自分が予想していたよりもの大崩壊で、もともと川があったとした思えない、水没した町を目の当たりにして、白の巫女は放心状態になり、貴増参から手を力なく離した。
茶色の渦を巻く、あの水の下には、民たちの平和で大切な暮らしがあった。
それが今は何もかもが飲み込まれ、跡形もなく流され消されていた。自然の猛威の前には人はただただ無力でいるしかなかった。
「リンレイさま……」
侍女がつぶやくと、ふたりはしばらく黙ったまま、雨風にさらされるだけさらされ、服も髪も何もかもがびしょ濡れになってゆくたび、彼女たちに訪れる、最後の審判の時が。
上に立つ者として、人々の暮らしをいつも見てきた巫女は、やるせない気持ちで唇を強く噛みしめていたが、過去ではなく明日を見つめるように、気持ちを入れ替えた。
「元の生活に戻るには、かなりの時間と労力が必要になるわね」
「はい……」
天気、疫病、不作。それらを乗り越えて、今の生活があった。それが何もなくなってしまった。民の心は大きい悲しみの渦に飲み込まれているだろう。
リンレイは胸元の着物を通して、常に肌身隠さず持っているものに触れ、ぎゅっと握りしめた。後悔というものは、いつもあとになってからやって来る。
「もっと私が早く対処してれば、違ったのかもしれない……」
「何事にも意味がございます」
侍女は姫と視線を合わせず、貴増参の前で、ふたりだけの会話を続けていたが、リンレイが力なくうなずくと、
「そうね……」
それきり何も言わなくなった。刻々と迫ってくる最後の時をヒシヒシと感じる。
「…………」
「…………」
濁流と強風のふたつの龍が、縦横無尽に暴れまわる自然の脅威。それでも、巫女と侍女は逃げることもなく、激しい水流に削られ崩れ落ちそうな水際でただ立ち尽くす。
ごう音にかき消され気味な、リンレイの声がどこまでも物悲しかった。
「……シルレ。いろいろあったけど、今日までの日々、楽しかったわ」
「
シルレがそう言うと、物心ついた時から、身分は違っても、どんな時でもずっと一緒だった思い出が走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。
リンレイの頬に一筋の涙が静かにこぼれ落ちる、流してはいけないのに。
「……それじゃ、お願いするわ」
姫の言葉を合図に、侍女は胸元から小さな袋を取り出して、白い粉を姫に振りかけた。
貴増参はあごに手を当てて、さっきからうかがっていたが、それが何なのか気づいて、
(清めの塩)
リンレイの白い着物が濁流に一歩一歩近づいゆくのを前にして、貴増参の手が彼女の華奢な肩を引き止めた。
「待ってください」
「はい?」
当たり前のことを、当たり前にしている。そんな巫女は驚いて、思わず振り返った。貴増参の茶色の瞳は真剣そのものだった。
「君の仕事はもうひとつあったんですね?」
草の冠が、立派な金のそれに見えるような、威厳を持ったリンレイはしっかりと説明を始めた。
「はい。口寄せとして生きてきて、巫女となり、天災時には自分の身を
贄。そういえば、何らかの理由づけになるだろう。だが、それは単なる自殺だ。神が望んでいるはずもなかった。
しかし、そんなことではなく、貴増参は文化の発達した世界の人間として忠告した。
「君が身を投げたところで、大雨は止みません」
「今までもそうしてきました。そうやって、収まって――」
生きて来た時代の違いが、どこまでも論争を呼びそうだったが、貴増参がリンレイの言葉を途中でさえぎった。
「収まったのではなく、停滞低気圧などの雨を降らせる大気の状態が変化しただけです」
それが科学で事実だ。だが、巫女にとって大切なことはそこでなかった。三十七センチも小さいリンレイは、貴増参の優しさの満ちあふれた茶色の瞳をきっとにらみ返した。
「それでは、あなたはそれを止めることができるんですか?」
「僕にもできません」
貴増参はゆっくりと首を横に振った。科学が発展しても、天災は変えられない。
だが、それでも、リンレイたちはこの時代を生きているのだ。姫としてやるべきことをするために、彼女はいる。
「みんなの心を、私は少しだけでも安心させることはできます」
話を挟まれないうちに、次の言葉を、リンレイは続けた。
「民とはこう思うものです。私が贄とならなければ、もっと軽くて済んだのかもしれない。ですが、私が贄となれば、だからこの程度で済んだのかもしれない。同じ結果を見ても、受け取り方が変わります。その後、人々が少しでも幸せで生きていける方法を、私は選びます!」
大衆心理というものは、そんなものだ。黒だったものが、何かで少しでも変わったら、一気に全員白にひっくり返るのだ。
死にゆくならば、誰かのために――
みんなのために何かをしようとしている。考古学者と巫女という立場の違いはあれど、根本的なところは一緒。
どこかずれていて、頼りがなく、ただの十代の少女だと思っていたが、どうやら自分は甘く見ていたようだ。
何を言ってもきっと引かないだろう、この巫女は。それならば、一人の大人として、意見は尊重すべきだ。
「それが君の決めた道ですか……」
リンレイは少しだけ微笑んで見せる。その笑みは、三十代半ばの貴増参よりもずっと大人のものだった。
「いつかこうやって、死ぬ時があるかもしれないと思って生きてきました」
人の命がここで、目の前でなくなる――
他の人なら違う対応をするのかもしれない。だが、貴増参は考古学という歴史に携わる身だからこそ、この選択肢を選んだ。
「それでは、僕に君を止める権利はありません」
ふたりで過ごす明日はもう来ない。この嵐のような大雨を何とかしのいでも、語り合うことも、あの歌声も二度と聞けない。それでも見送るのだ。
リンレイの視界に映る、貴増参が涙でゆらゆらと揺れる。
「巫女として見られてばかりの日々でした。ですが、最後に
出会いは突然で、昨日までは何気ない日々の繰り返しだった。だが、奇跡はやってきて、リンレイの幸せという価値観を変えていった。
巫女という役目を全て取っ払ったとこにある、十八歳の少女でいる時が数時間でもあったことは宝物だった。
巫女は涙がこぼれ落ちないように顔を上げて、空を仰ぎ見る。
自分といつもともにあった、あの月は今は新月でどこにもない。もう一度最後に見たかったが、その願いは叶わない。思い出という記憶から拾い上げて、銀盤を心に強く焼きつける。
「昔聞いたことがあります。月の満ち欠けは人の再生を表してるって……」
涙も雨も混じり姫の頬を伝い始めた雫を、貴増参は視界の端に映して、ゴーゴーと咆哮する濁流を見下ろす。
「信じてるんですか?」
雨が染み込み重みを増す着物の上から、姫は巫女として生きていくことになってから、常に肌身離さず持っていたものを、またきつく握りしめた。
「はい。実際に体験したことはないですが、人の生まれ変わりはある気がします」
リンレイは
「っ!」
ブチっという何かが切れる音がすると、貴増参の前に
「こちらの石は
なくしたはずのものが渡された。教授室の引き出しに入っていたものは、タイムループをしているのかもしれない。
リンレイを常に守ってきたもの。それを、自分にと言う。どこまでも、人のこと優先の姫だった。貴増参が受け取ると、心の整理ができた巫女は最後の笑顔を見せた。
「めぐり合わせがあったら、十六夜に会いましょう――」
叶うはずもない約束。それでも、見送る身として、貴増参はにっこり微笑んだ。
「えぇ」
人々の明日からの幸せを祈って、濁流が大きな渦を巻く岸の端へ、巫女はしっかりと立った。リンレイは両手を胸の前で組み、そっと目を閉じる。
前に倒れるように地面から離れ、白い服は茶色の水にあっという間に飲み込まれた。
強風と濁流の爆音で、巫女が飛び込んだ音はまったく聞こえず、ひどく小さな存在に思えた。
荒れ狂う
貴増参は降りしきる雨の中で、少し苦しそうに目を閉じ、自分の知識を紐解く。
(濁流に飲まれた人の体は、その水圧に耐えられず、一瞬にしてバラバラになる。そのために、行方不明者が多い)
あの白の巫女はもうどこにもいない。亡骸さえも見つけることは難しいだろう。
貴増参は侍女とともに、
「こちら――」
巫女の代わりに、侍女が案内しようとすると、風上から男の声が聞こえてきた。
「堤防は簡単に決壊するように、一昨日手を加えておいたからな」
内容からしておかしいのはすぐにわかり、貴増参とシルレは慌てて木の幹に身を隠し、耳をそばだてた。
「天災が起きたように見せかけたってわけか、さすが頭がいいな」
予想した通りの裏があった。男たちはリンレイが飛び降りた場所へとやって来て、かがみこんで濁流を眺める。
「やはり、白の巫女は身を投げたな。民のためなら死ぬことも
「万が一、死ななければと思って、手を下しに来たが、余計な心配だったようだ」
やはり白と黒の対立だったのか。だがしかし、次の男たちの言葉からそれも違うと証明される。
「巫女が
柔軟性のある文化。新しいものを簡単に取り入れる。策略で一人の命が無駄に亡くなってしまった。
「黒の巫女はどうするんだ?」
そうして、貴増参が予測した通りの、東の国の名前が出てくる。
「
「無理な命令ばかり下して来て、目障りだったからな」
漁夫の利。第三派の存在。
(国に内紛が起こる時、他国から侵略される可能性が高い……。歴史は同じ繰り返し)
貴増参は息を潜めながら、耳を澄ます。さらなる可能性をはじき出して、話をしている男たちの心配をした。
そんなことをされているとは知らない男たちは、あたりの草をかき分けたり、木々の影をのぞき込みながら、
「可夢奈の侵略の陰謀だったとかじゃないよな?」
「何でそんなことを思うんだ?」
「偶然にしちゃできすぎてる気がするんだよな」
「違うだろう? 布地の値段だって下げてくれたんだからな」
「あれだけ、価格が下がらなかったのに、俺たちを気に入ったと言ってくださって、簡単にな」
二枚板の国。ほんの少し手を加えれば、簡単に崩壊する。一番いい方法は内部崩壊させることだ。戦争資金も兵力などなくとも、ほぼ無償で新しい土地と人が手に入るという寸法だ。
右側の草むらが大きくクシャクシャと言い出して、貴増参はゆっくりと左側へ向きを変えた。
(彼らも騙されているという可能性がある)
売れないはずの心を買われた結果の、当然の
だが、東の国もよほど注意して、今後の政治を進めていかないと、嘘にはいつか民も気づく。
その時は、反対勢力として作用し、今度は自分の国が崩壊の危険にさらされることになるのだ。人とは愚かなものだ。そうやって同じ繰り返しをしてゆく。
それをなくすことは簡単なのに、たくさんの人は地位と金に狂わされて、気づかないまま、多くの歳月を費やしてゆくのだ。
滅多なことでは怒らない貴増参だったが、自然と手を握る力は強くなった。それでも、目を強くつむって、貝のように固く口を閉ざして耐えるしかない。
「あの男はどこに行った?」
自分が探されている――
「わざと逃して難癖つけて、奴隷として差し出すつもりだったんだが……」
「とにかく見つけて、少しでも媚を売って、王さまに高く取り立ててもらうんだ」
だから、鍵はすぐに見つかったのだ。逃げてきたのも間違いだった。だが、過去は変えられない。変えられるのは今と未来。しかし、それも――
男たちの声が背後でウロウロする。
「侍女はどこだ?」
奴隷として差し出すのは、やはり自分一人ではなく、この隣に隠れている女も一緒だった。
「逃げてください」
かすかにそう聞こえた気がした。動き出そうとすると、歩きなれない自分の革靴が落ちていた枝をパチンと踏み潰した。一気に男たちの動きが忙しくなる。
「いたぞ!」
ガサガサと走り寄る音とほぼ同時に、シルレは貴増参が隠れている木よりできるだけ遠くへ向かって走り出した。
「捕まえろ!」
男たちの注意は一斉に遠くへ向き、あっという間にシルレは囲まれ、侍女は濁流を背後にして、まさしく背水の陣になってしまった。
ジリジリと詰め寄られて、ほんの少し足を後ろへやると、大雨のせいでもろくなっていた大地はたやすく崩れ落ち、
「きゃあっ!」
女の悲鳴が空へ突き刺さるように上がると、男たちのため息交じりの声が聞こえてきた。
「濁流に落ちたか……」
「まぁ、いいか」
「男の方を探せ!」
今度は自分に追っ手が迫ってくる。声の方向から探ろうとするが、こんなことは日常では起きない。今まで平和な日々だった。慣れない。わからない。勘も持っていない。
潜める息の中で、貴増参は心の整理をする。
逃げるのではなく。目を背けるのでもなく。ただ、自分は手を貸せない。味方とか敵とかではなく、彼らに自分を渡すわけにはいかない。
白に近いピンクのシャツは隠れるのには不向きで、男たちの目に無防備にさらされた。
「いたぞ!」
「あそこだ!」
捕まることはできない。考古学の見地から見て。願わくば、それを自分はしたくない。だからこそ、捕まるわけにはいかない。
味方をしてくれる人――頼みの綱はなくなった。それでも、自分の
死ぬゆくならば、濁流の中で――
自分という証拠が完全になくなる、濁流の中で――
土砂降りの薄闇の中で、服も心も濡れて物悲しく、死へと手招きするように、ゴーゴーとうねる濁流へと急いで近づいてゆく。だが、ふと足を滑らせて、
「っ……」
木々も地面もあっという間に高くなり、立ったままの姿勢で落下し始めた。
「あ……」
全てがスローモーションになる。濁流の音はやけに濁り、手のひらから翡翠の勾玉が反動で飛び上がり、青緑の光を四方八方へ力強く放ち、視界は一瞬にして真っ白になり、まぶしさに思わず両手で目を覆った。
次は濁流に飲まれ、そこで意識はなくなる。体はバラバラに砕けるのだから。落ち続ける体。近づいてくる濁流の音。だが、不思議なことに途中で全てが消え去った――――
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