復活の泉――改革派(レジスタンス)に波紋

 十二月の冷たい風はどこかへ消え去り、焼けるような陽射しを感じた――


 潮の香りは乾いた土のものへと変わり、ヒカリは目をそっと開けると、深い青――瑠璃色の夏空が広がっていた。


 水平線は地平線となり、見渡す限りは荒野。その真ん中で、遊線が螺旋を描く声が埃っぽい風に乗る。


「ここはどこだ?」


 丸く小枝が絡まったダンブルウィードがコロコロと転がってゆく。どこまでも続いてゆく青と茶色ばかりの中に、鮮やかなピンク――マゼンダ色の細い線が藁が飛ぶように混じってきた。


「この髪……?」


 背中を振動させて伝わってくる、おどけた凛とした澄んだ女性的な青年の声が。


「おや〜? 脱出は成功したみたいです〜」


 足元に濡れたような跡が残っていたが、ジリジリと太陽に照らされ薄れてゆく。髪も服も嘘のように乾いていて、物理的に説明はできなかったが、海の青とルナスの髪が同調せず、今もそばにあって、ヒカリは安堵のため息をもらした。


「兄さんも無事でよかった」

「しかし、どこへ行くかを考えていませんでした〜」


 ルナスは困った顔で、こめかみに人差し指を突き立てた。今ごろそんなことを言う。というか、完全に兄の罠だったと気づいて、ヒカリは珍しく怒ろうとした。


「兄さん、いい加減に――」


 その時だった、スポーツ観戦でもしているような、大勢の声が地鳴りのように一斉に上がったのは。


「ウォォォォォッッッッ!!!!」


 人影など見えないと言うのに、ヒカリの冷静な水色の瞳は警戒心マックスであたりを見渡す。


「何の声だ?」

ときの声でしょうか〜?」


 ルナスの邪悪なヴァイオレットの瞳は未だニコニコのまぶたに隠されたままで、弟とは違って、動揺することもなく、全身白の服は荒野を吹いてくる風にはためいている。


 やがて、逃げ水――蜃気楼のゆらゆらと揺れる遠くの地面に、黒く小さな影が浮かび上がった。


「何かがこっちへ向かってくる……」

「何でしょうか〜?」


 ジリジリと照りつける太陽のまぶしさから、ルナスは避けるために、手のひらをまぶたの上にかざした。


 どんどん近づいてくる影は地平線を黒く染めて、まるで砂糖菓子に群がるアリのようだった。


「人? そうだ。武器を持っているたくさんの人だ」

「おや〜? 奇遇ですね〜。僕の正面からも、鎧兜みたいなものを着たたくさんの人たちが来ます〜」


 兄と弟は背中合わせで、荒野に立っている。さっきの声。ヒカリは何が起きているのか理解して、汗ばむひたいに手のひらを当てた。


「はぁ〜。もう口にもしたくない……」

「ヒカリ、どのような状況でも現実は現実です〜。受け止めてください〜」


 誘発しておいて、兄の手厳しい性格がよくわかる。解けてしまった紺の髪を大きくかき上げ、ヒカリは事実と向き合った。


「僕たちはどうやら、戦場の真ん中に移動してきたみたいだ――」

「おや〜? 戦争に巻き込まれてしまったということでしょうか?」


 横に逃げるという手はもうない。最前列が騎馬隊なのだ。地平線が軍勢で埋め尽くされているほど戦場は広く、もう間に合わない。


「どうするんだい? 兄さん」

「もう一度ヒカリがメシアを使えば、別の場所へ移動できるんではないんですか〜?」


 他力本願な兄だった。水色をした瞳の中で人影がどんどん大きくなってゆく。


「さっき、どうやって使ったかもわからないのに、この切迫した状況で使うのかい?」


 未だニコニコの笑みのまま、ルナスはしれっとこんなことを口にする。


「僕は月のメシアしか持っていません。基本的に回復系です〜」


 初耳である。というか、重大事件である。ヒカリは思わず、群衆から視線を外して、首だけで振り返った。


「兄さんも持っていたのか。どうりで、みんな必死に追いかけてくるはずだ」


 ルナスは背を向けたまま、なぜかあたりをうかがっている。


「ですから、水のメシアを使えば、今度は安全な場所に行けるかもしれませんよ〜」

「可能性の問題だ。違うかもしれないじゃないか!」


 ヒカリの珍しく怒り色を含んだ声が荒野の上に降り注ぐと、少し遠くまで迫ってきていた兵たちから驚きがどよめいた。


「な、何だ!?」

「ど、どういうことだ!?」


 馬を操っていた手綱は強く引かれ、先頭にいた隊長の命令が戦場を駆け抜ける。


「全軍、止まれ!」

「進軍停止!」


 鋭利な武器を持った騎馬隊に囲まれた状況。一難去って、また一難。ヒカリは珍しく盛大にため息をついた。


「今度こそ、袋の鼠だ。終わった……」

「僕たちがヒーローになるかもしれません〜」


 緊迫しているのに、ルナスだけゆるゆる〜っとしていて、ニコニコのまま。兄の背中を感じつつ、ヒカリは囁き声ながら、文句を言おうとしたが、途中でさえぎられた。


「兄さんの言っている意味がもうわから――」

「何者だっ!」


 警戒心マックスで、抜き身の剣を構えて、ジリジリと詰め寄ってくる兵たち。冷や汗をびっしょりかくとは、まさしくこんな場面を言うのだろう。


(異世界から来たなんて言っても信じてもらえない。答えようがない)


 完全武装の靴底たちが砂を擦る音が近づいてくる。


「見たこともない服だな?」

「隊長、これは異端者アナテマでは?」


 落雷でも受けたような衝撃が両軍に走った。


「アナテマっ!?!?」


 五歳で科学技術の発達した惑星へと来たヒカリは、聞いたこともない言葉に、心の中で首をかしげる。


(何のことだ?)


 そうして、一気に戦場は殺伐とした雰囲気へと変わった。


「陛下の元へすぐに連れて行け!」

猊下げいかの元へすぐに連れて行け!」


 両軍の兵士たちが、兄弟を間に挟んで、一斉に驚き声を上げた。


「何っ!?」


 すぐに、殺気立った押し問答が始まった。


「我らが先だ!」

「いや、私たちだ!」

「我らだ!」

「私たちだ!」


 どこまでも、大人気ない争いは続いていきそうだったが、ヒカリの背後から、凛とした澄んだ声は威嚇という地獄へ突き落とすように、鋭く天へと突き抜けた。


「シャアアアアアッッ!!!! はい、そこまでですっ!!」

「え……?」


 全員がぽかんとした顔を向けた先には、マゼンダ色の長い髪と邪悪なヴァイオレットの瞳を持つ兄が、荒野の風に吹かれて、いくさ女神のように立っていた。


(兄さんなぜ、喧嘩している猫みたいな声を出しているんだ?)


 ルナスは両軍を右と左にして仁王立ちした。テキパキと指をさし、指示を出す。


「平等です! 僕がこちら、君はそちらです」


 兄弟の身の振り方を自身で決定している曲者くせもの。兵士たちは口を挟もうとしたが、


「いや、それでは……」


 女性的なキンと氷が張るようでありながら、地底深くからマグマが吹き出したような重厚感がある声が、地平線の彼方にまで飛び散った。


「黙らっしゃいっ!!」


 お尋ね者はルナスなのに、なぜか彼が場を仕切っているという珍事。何千、何万といる兵たちの中で、一番度胸があるのは、兄のようだった。


 ニコニコのまぶたから解放された、ヴァイオレットの瞳を前にして、兵士たちは震え上がった。なぜなら、その目は見ないほうがよかったと後悔するような、邪悪という言葉を何度言っても足りないほど末恐ろしいものだったからだ。


 兵士たちはおずおずと返事をする。


「は、はい……」


 まぶたにルナスの瞳が隠れ、にっこりと微笑むと、拘束の魔法でも解かれたように、兵士たちは我に返り、


「よし、貴様はこっちだ」

「お前はこっちだ」


 腕をそれぞれ引っ張られ、背中合わせだった体は無理やりはがされ、


「っ!」


 ヒカリの足は荒野の上でもつれた。いつも一緒だった兄が、敵対する軍へと行ってしまう。冷静な水色の瞳は振り返ったが、そこで待っていたのは、ニコニコの笑みで、顔の横で上品に手を振る兄の姿だった。


「アデュ〜!」


 ヒカリは目を軽く閉じ、心の中でツッコミを入れる。


(兄さん、それは永遠の別れの言葉だ。どういうつもりなんだ?)


 吹いてきた風が、紺の長い髪を頬をなでてゆく。空はどこまでも青く晴れ渡っていたが、切ないほど心の中は土砂降りの雨だった。


 兄とはどうにか今日まで一緒に生き抜いてきた。ことはとても深刻だ。今生こんじょうの別れになるかもしれない。ヒカリの脳裏で今までの出来事が走馬灯のようによぎろうとした時、


「きゃあああっ!」


 女の黄色い悲鳴が突如上がった。まわりにいた男の兵士たちが着ている鎧兜の金属が慌ただしく鳴り響く。


「な、何が起きた!」


 これから合戦となる、戦場の真ん中で、女の兵士だけが気絶をしているという異様な光景が広がっていた。


 ルナスのまわりはいつでもそうだった。シリアスのはずなのに、ギャグみたいに何もかもなぎ倒して、虹がかかる平和な日常に変えてしまう。


(兄さんまた、知らない女の人たち気絶させて……)


 ヒカリにとってはいつものこと。しかし、当の本人は自覚がなく、こめかみに人差し指を突き立て、本当に困った顔をする。 


「おや〜? なぜ、彼女たちは倒れたんでしょうか〜?」


 これだけの現象をいつもまわりで巻き起こしているというのに、兄は動揺とは無縁だった。兵士たちは、マゼンダ色の長い髪を持つ女性に勘違いしそうな少年を中心として、ドーナツ化現象を起こしていた。


「魔術を使うのかもしれん。あまり近寄らないように気をつけろ!」


 兄の特異体質はそう言われても仕方がないと、弟は思った。呪文もなく、発動方法も特にないのに、相手を倒しているのだから。


 自ら投降して離れてゆくルナスの背中を、ヒカリは見送っていたが、腕を引っ張っていた兵士が、


「名前は何だ?」

「…………」


 中性的で綺麗な唇は動かなかった。ヒカリは自分の瞳よりも濃い空の青を目に映す。


(情報が漏洩するのは得策とは言えない。だから、言わないほうがいいかもしれない……)


 あんなにざわめいていた兵士たちの様子が激変した。お互いをチラチラとうかがい始める。


「…………」


 何かが起きているのはわかる。しかし、こんな言動を研究者たちが取っているのは見たことがない。つまりは、ヒカリの中に情報としてない。


(何だ?)


 熱風が吹き荒れる荒野なのに、背筋にゾクゾクと悪寒が走る。それが何からくるものなのか気づく前に、後頭部にひどい痛みが走った。


「っ!」


 ヒカリの細い体は乾いた土の上に、糸が切れた操り人形のようにパタリと倒れ、兵士の一人に軽々と担がれる。


「暴れられても困るからな。運べ」


 布袋を頭から被せられ、馬に乗せられて、土埃を上げ駆け抜けてゆく。何万もの兵隊が左右に慌ててよけてできた道を、異世界から来た少年をつれて。


    *


 立派な玉座に座る完全武装は、片肘で頬杖をついて、もう一方の手で水晶を眺めていた。そこに映る景色は逆さまの謁見の間。早馬が戦場を駆け抜けてから、半刻が過ぎようとしていた。


 組んでいた足を床の上でトントンと鳴らそうとすると、ドアがノックされた。


 何も言わず右手を上げる。それだけで、許可をするの意味だ。扉のそばに控えていた部下がそれを開けると、両腕を捕まえられ、赤い絨毯の上を引きずられてくる少年がいた。


「陛下、アナテマを連れてまいりました」


 水晶は鎧兜から離れ、そばにあったテーブルの上にそっと乗せられた。


「どこにいた?」

「戦場の中央に立っていたのでございます」

「そうか」


 紺の長い髪が力なく下がっている様子を、兜の隙間から視線はうかがい、ずいぶん汚れているが見慣れない服を眺めた。そうして、


「全員、下がれ」


 お付きの者まで人払いを命令され、部下たちに困惑が一気に広がった。


「陛下、お言葉ですが、魔法を使うかもしれません。ですから、私たちもおそばに――」

「命令だ、下がれ」


 途中で言葉をさえぎられ、有無を言わせない強い口調が謁見の間に走った。部下たちは不服ながらも、


「御意……」


 返事をして、紺の長い髪を持つ少年だけが床になだれ落ちるように置いていかれ、扉から鎧兜たちは出てゆく。それが閉められると、ヒカリと陛下のふたりだけになった。


 玉座から立ち上がり、思ったより小さな背丈で、カチャカチャと甲冑かっちゅうを鳴らしながら、近づいてきたが、少年の肩に手をかけ、仰向けにすると、固く閉じられたまぶたを見つけた。


「気を失っている? ここまでする必要はあったのか?」


 怒りでその声色は少し震えていた。


    *


 ヒカリは夢を見ていた。ゴウゴウと炎が燃え盛る中、ひたすら前へ前へと走っている。しかし、小さな自分の足はもつれ、滑り込むように前へ転んだ。


 踏み鳴らす靴音は自分を一人残して脇を通り過ぎてゆく。悲鳴はさっきからずっとこだましていて――


「っ……」


 違和感――冷たい感触にふと目を覚ました。


「お、気づいたか?」


 視覚はまだぼやけているが、音は聞き間違っていないはずだが、ヒカリは多少の困惑を隠せなかった。


「…………」


 途切れた記憶をつなぎ合わせると、声をかけてきた人物が誰だかは予測がつく。しかし、戦争を指揮するような人間に正直怒りを感じた。


 ヒカリは目を合わせることもせず、何も言わず、相手の情報だけを記憶してゆく。


(女の人が陛下ということか?)


 兜は外されることなく、くぐもった女の声が話を続けるが、少年は終始無言だった。


「すまぬな。部下が手荒な真似をして……」

「…………」

「まだ意識がはっきりとしないのか?」

「…………」

「どこか酷く痛むとかなのか? 血は出てはおらぬが……」


 やけに心配した様子だったが、あのにこやかに自分たちを出迎えたカナリラ星の闇を思い出すと、何か裏があるのだろうと疑わずにはいられなかった。


「それとも、言葉が通じぬのか?」

「…………」


 ヒカリは痛む頭を押さえながら、起き上がるが、彼の冷静な水色の瞳には真正面に置かれている水晶だけが映っていた。陛下は手を頭に当て、残念そうに言う。


「困ったな。お前に聞きたいことがあったんだが……」

「…………」


 鎧兜をカチャカチャと鳴らしながら、女王陛下は右に左に行ったり来たり。


「言葉を教えるべきか……。それでは間に合わぬ……。今回の件で一旦中止となったが、期限は一週間後だ。それまでには何としても、戦争は止めたいところだ――」


 思っても見なかった言葉が出てきて、ヒカリは思わず、


「その話は本当ですか?」


 兜をかぶった顔が近づいてきて、こんなことを言った。


「やはり言葉は通じておったのだな」

「なぜおわかりになったのですか?」


 ヒカリは自分よりも背丈の低い女教皇をじっと見つめた。


「言葉が通じてないだけならば、私のことは見る。しかし、お前は視線を一度もあわせていない。そうなると、別の考えがある……になる。違うか?」


 今までの話で、どこからが罠だったのか気づいて、ヒカリはため息をついた。


「はぁ……」


 その時だった、兜が取られ、ブラウンの長い髪が姿を現し、クルミ色の瞳があらわになったのは。男性的な格好なのに、着ている人物は女性。本物の戦乙女だった。


 教皇は片膝をつき、ヒカリに向かって丁寧に頭を下げた。


「すまぬ。からかうつもりはなかった。私の無礼だ。許してほしい。自己紹介が遅れた。私は、リンレイ メデューム サシュレと申す。お前の名を聞かせてくれぬか?」

「…………」


 情報漏洩をさけたいヒカリは何も言わなかった。リンレイは不思議そうな顔で、


「何だ? さっきのことで気分を害したのか?」

「違います」

「では、教えてくれ」

「ヒカリ ヴァッサー ダディランテです」

「そうか。ヒカリと呼ばせてもらおう」


 ここまでは普通の会話に思えたが、リンレイは意味ありげに微笑んだ。


「勝ち負けにこだわるやからは多くてな。この程度の駆け引きは日常茶飯事だ」

「はぁ……まただ」


 ヒカリはあきれた顔をした。わざと怒っているかと質問してきたと知って。女教皇に名前という情報を渡してしまった、理論派少年。


 しかし、そこにはきちんとした意図があった。リンレイは髪を直しながら、


「少しは緊張感がなくなったか?」

「僕のためだったのか……」


 気絶させられて、知らない場所に連れてこられ、いつも通りでいられる人間などいないだろう。彼女の気遣いだったのだ。


「私の不行き届きだ。殴って連れてくるなど……。すまなかった。信頼関係が築きづらくなってしまうではないか」


 今までに会った人間とはタイプの違う教皇を前にして、ヒカリは軽いカルチャーショックを受けていた。彼女はそれに気づかず、立ち上がって去っていこうとする。


「今椅子を用意するからな。そこへ座るがよい。床にひざまずいたままで疲れるであろう?」

「なぜ、アナテマの僕に親切にしてくださるのですか?」


 威厳などどこか別世界の話のように、控えの者が座っていた椅子を運び始めたリンレイの背中にヒカリは威風堂々と意見した。


「異端とは何だ? 十人いたら十通りの考え方があり、それぞれが普通ではないか? 異端などというものは存在しない。だから、お前とも同じように接するのだ」

「しかし、教皇でいらっしゃいますよね?」


 恐縮してしまうほど、気さくで対等な立場の女教皇。しかし、彼女は当たり前のことを言った。


「お前は私の部下ではない。客人だ。礼を尽くさねばいかん」

「……上に立つ人でも、こんな人がいるとは知らなかった」


 ヒカリはあごに指を添えて、ポツリとつぶやいた。リンレイは椅子をふたつ並べながら、


「お前、歳は幾つだ?」

「十六です。それがどうかされましたか?」

「それならば、丁寧語は不要だ。私も同じ歳だからな」

「そうか……」


 ヒカリは驚いて、言葉の語尾が消え入りそうになった。確かによく見れば、肌艶は十六歳の少女で間違いない。しかし、表情は人生の重みを積んで、自分よりもずっと大人な乙女戦士に見えた。


 リンレイは先に椅子へ座り、いつまでも突っ立っている同じ歳の少年の顔を見上げた。


「とにかく座れ」

「ありがとう」


 玉座のすぐ近くに水晶があり、分厚い本が一冊置いてある。シャンデリアは電気ではなく、ろうそくばかり。科学技術が発達していないのは、すぐに見て取れた。


 リンレイは膝に両肘を落として、話を切り出す。


「ヒカリ、聞きたいことなのだがな」

「僕が君に話せることかい?」

「リンレイでいい」

「……リンレイに、僕が教えられることがあるとは思えないんだが……」


 人権もない、ただの少年に、あれだけの兵を統治している女教皇に言えることなどない。ヒカリはそう思った。しかし、上に立つ者らしい悩みが、教皇にはあった。


「お前でないと、困るのだ」

「どんなことだい?」


 足を組み直して、真正面をじっと見つめたまま、リンレイは話を続けた。


「宗教団体という集団心理は怖いもので、間違っていることでも、神のお告げと判断されれば、正しいものになる。組織外の人間の意見を聞きたいのだが、どうだろうか?」

「さっきの戦いは宗教間の争いだったのか?」


 ヒカリはリンレイの横顔に聞き返した。クルミ色の瞳はどこか遠い目をしていて、


「そうだ。クズリフ教というもともと同じ宗派だった。しかし、時代の流れなのだろうな。今まで農業を中心として、シャーマンが政治などを仕切っておったが、産業などの発展でな、それは古いという考えが出てきた。教皇という立場を新しく作り、他国との外交や時には侵略などもして、国として成り立たせようとする改革派が現れ、意見が分れているということだ」

「そうか。僕は改革派に来たんだな」


 ヒカリはあごに手を当て、足を組んで考え出した。視線はぶつかることなく、今度はリンレイが横顔を見つめる。


「もう一人いたと聞いたが、その者は知り合いか?」

「双子の兄だ。保守派に行ったのかもし――」

「逆だな……」


 ヒカリの言葉の途中で、リンレイのつぶやきが割って入った。あごから指先を離して、冷静な水色の瞳に少女の血色がいい頬が映った。


「逆ってどういうことだい?」

「保守派の教祖は、私の双子の妹だ」

「姉妹で争っているってことか?」

「結果的にそうなってしまった」


 リンレイの声色はどこまでも暗く、さっきまでの威勢のよさはなかった。自身と同じようにこの教皇である少女は、大人たちの理不尽な理由に左右されているのだろうか。


「どういう意味だい?」

「もともと嫡男の世襲制だったのだが、他に兄弟も生まれぬまま、両親は急死した。もう五年も前のことだ。それまでも、保守派と改革派の内部紛争はあったらしいが、十一の私たち姉妹だけでは収めることは難しくてな。まわりの大人たちに祭り上げられた。妹とはその日以来一度も会っていない。そうこうしているうちに、それぞれの溝は深くなり、今日とうとう戦争という運びになったのだ。妹が今回のことをどう思っているのかは知らぬ。敵対関係だからな。ふたりきりで話し合うことは困難だ」

「そうか」


 この少女は少女で、別の人生を懸命に生きている。たとえ運命に翻弄ほんろうされたとしても、嘆くでもなく、前を向いたまま思案し続けている。諦めるという言葉が己の辞書にない教皇の話は続く。


「ひとつに戻ればよいと思うのだが、神という存在を信じている宗教団体は、一度亀裂が入るとややこしくてな」

「それでも、君はうやまわれているんだろう?」


 地位があれば人は動かせるのだろうと、ヒカリは単純にそう考えていた。しかし、少女の身の上は複雑だった。


「今は教皇などと呼ばれているが、人々の心の奥では、ただの巫女なのだろう。もうすでに血族の尊厳などないのかもしれん」

「ひとつにまとめることができないってことか」

「たとえできたとしても、いっときであろう。本質は変わらぬのだからな。私が悩んでいるのは、まとめ方とその後の運営だ」


 リンレイは躊躇する。強引に進めたとしても、その先が決まっていなければ、人々は路頭に迷い、彼らには結局、平和で安定した生活はやって来ないのだ。


 教育を受けていない十六歳の少年のはずなのに、こんな言葉をつぶやく。


「政治……為政者いせいしゃか……」

「ヒカリ、何か参考になるような話を――」


 やっと本題にたどり着きそうだったが、ドアがトントンと急かすようにノックされた。しびれを切らした部下たちの心配する声が聞こえてくる。


「女王陛下! 何かあったのでございますか?」

「大丈夫でございますか?」


 リンレイはため息をついて、唇に指を当て考える。


「まだ何も聞いておらぬが、時間切れか。仕方がない。こうするか」


 ヒカリは今のところ、異端者――お尋ね者だ。教皇のそばになどいられる身でもなく、牢屋に入れられるか、処刑を言い渡されてもおかしくない。それをくつがえす方法を、リンレイは思いついたのかと、ヒカリは事の成り行きを見守ることにした。


(何かいい手でもあるのだろうか?)


 リンレイはさっと立ち上がり、扉へ向かって、さも重大なことでも起きたというように大げさに言い始めた。


「お前たち、大変なことをしたぞ。入ってくるがよい」

「どのようなことでございますか?」


 仁王立ちした教皇の鎧兜を背後から見る形で、座っていたヒカリは、少女のこんな手口を聞かされることになった。


「この者はアナテマではあらぬ。神の御使みつかいだ」


 瞬発力バッチリだと言わんばかりに、ヒカリは驚き声を上げると同時に椅子から立って、制止しようとしたが、


「えぇっ!? 僕は――」

「ヒカリは黙っておれ」


 少女がつけていた手甲てっこうにさえぎられ、ヒカリの口が動く代わりに、部下たちの顔が驚愕に染まった。


「まさか!」

戯言ざれごとではない。水晶にそう映った」


 戦場での兄も度胸があると思ったが、この少女も相当なものだと、ヒカリは思った。教皇があまりにも堂々と言うものだから、屈強な男たちも震え上がった。


「こ、これは! ど、どうか、命だけはお助けを!」

「おゆるしくださるか?」

「…………」


 意味ありげに微笑んでいるリンレイと、大の大人が青ざめている前で、ヒカリは言葉が出てこなかった。


 人生の急転直下だ。異世界から来た少年はそう思う。頭を下げられるような立場になってしまったのだから。十六年間生きてきて、こんな扱いは受けるのは初めてだ。


「天罰が……ひぃっ!」


 大の大人たちが頭を抱えて、次々に床へと膝を落としてゆく。リンレイは少しだけ振り返って、小さな声でささやく。


「ヒカリが答えぬと、この者たちは怯えたままだ」

「君は……おかしな人だ」


 そう言うヒカリの表情はあきれているのではなく、微笑んでいた。背に腹は変えられない。というか、自分もどちらかというと、嘘が得意な性格だ。


 背筋をピンと伸ばし、百九十七センチの長身を生かして、遊線が螺旋を描く声で、神の御使らしく、上から目線で言い放った。


「赦す。ありがたく思うがよい」

「ははぁー!」


 大人たちは両手を上げて、床にひれ伏した。リンレイは一言命令する。


「そういうわけだ、丁重にな」

「御意」


 こうして、あっという間に話はまとまり、知らない世界で別の人生を、ヒカリは歩むこととなった。


    *


 灼熱を発していた夏の日差しもだいぶ西に傾いて、涼風が青々とした葉っぱを揺らし、リンレイのブラウンの長い髪を優しくなでてゆく。


 戦争も中止となり、着慣れない重い甲冑も脱ぎ捨て、薄手の白いローブが芝生の上をうろうろと歩いている。


「ヒカリはどこへ行ったのだ?」


 色あせてきた空はあともう少しで、オレンジ色へと変わるだろう。


「泉の方へ行くのを見かけたが……」


 クルミ色の瞳には、緑豊かな茂みが映っていたが、


「さっきの話の続きをしたいのだが……」


 やがて視界が開けると、空の生き写しのような泉が広がっていた――


    *


 ――水面に静けさが満ちていたが、ザバッとかき乱された。


「はぁ〜、冷たくて気持ちがいい」


 紺の長い髪から水は滴り落ちて、白く滑らかな肌を伝い、泉へと戻ってゆく。


「一ヶ月と十三日ぶりだ。体を洗うのは」


 ヒカリの両手で髪はかき上げられ、水色の瞳に空の青さが混じる。気持ちよさに目を閉じて、芝生の上にでも倒れこむように、後ろに体を傾ける。まっすぐ立っていられなくなり、重力を感じると、バシャーンと派手な音が背中でした。


 全ての音は急に濁り、水圧が頬を優しくなでる。目を再び開けると、水面の向こうに、木々や空がゆらゆらとえている。


「水につかっても寒くないなんて、夏なのか?」


 潜り続けたまま、ヒカリが言葉を言うたび、ゴボゴボと泡が上がっては、水面が小刻みに揺らめく。


「日付もわからない。季節もわからない。こんなところに飛ばされて、一人で生きていくことになるなんて……」


 手のひらを目の前に持ってきて、ヒカリは開いたり閉じたりをしてじっと見つめる。


「おまけに、僕が神さまの使いだなんて……」


 十分以上の時間が過ぎても、色白の肌が泉から出てくることはなく、湧き水がさらさらと流れてゆくだけ。鳥のさえずりと風が揺らす葉音を邪魔するものは何もなかった。


「とにかく、新しい生活に馴染むためにも、彼女に色々と聞かないといけない。泉から出たら、彼女を探そう」


 ザバッと泉から起き上がると、ヒカリは滑らかな水底を歩いてゆく。きよめの水でも浴びたように、透明な線を描いて雫は落ち、自由という風が肌を優しくなでてゆく。


 御使という立場である以上、自分を監視する人間はいない。逃走と実験ばかりの日々だったヒカリには、何もかもが新鮮なものだった。


 タオルで体を拭き、湿った紺色をした髪の重さを肩で感じ、元いた世界で落としてしまったものをふと思い出した。


「髪を束ねるリボンがあれば――」

「ヒカリ?」


 少女の声が響いた。髪を拭いただけ。用意されていた服に袖も通していない。


「なっ!? ちょ、ちょっと!」


 驚いて、持っていたタオルまで落としてしまった。自分の体を隠すものは何もない、ヒカリの前で、茂みの木々がガサガサと揺れて、リンレイが不思議そうな顔を出した。


「そんな大声を出して、何かあったのか?」

「うわーっっ!!!!」


 悲鳴にも似た少年の叫び声が上がると同時に、クルミ色の瞳には色白の腰元がしっかり写り込んでいて、教皇はそれを指をさし、素っ頓狂な声がそこら中にこだました。


「それは何だっっ!?!?――」


 少年と少女の間で、初々ういういしいやり取りがしばらく続く、泉の水際だった――


    *


 騒動が去り、静けさが戻った木々の合間から、鳥のさえずりが聞こえてくる。無事に服を着たヒカリと、リンレイは肩を並べて、芝生の上に座っていた。


「知らなかったな。男と女の違いが体にもあるとはな」


 特にダメージを受けていない少女の横顔に、ヒカリは当然の質問を投げかけた。


「君はどういう十六年間を送ってきたんだい?」


 リンレイは芝生をちぎっては、泉へと投げ込み、小さな緑が流れてゆく。


「父は神としてあがめられていた。実の娘とて、そばに寄ることはできなかった。十一歳で教皇の身だ。その前は巫女だ。人としては扱われておらぬ。恋と言ったか? それもないほどだ。男の体が自分と違うとは知らないであろう」


 落ち着いて説明されたのがやけに気に障り、ヒカリはぼそっとつぶやいた。


「駆け引き上手な、純潔教皇さま、だ」

「何か言ったか?」


 クルミ色の瞳から泉の水面は消え去り、リボンで結んだ紺の髪を持つ少年が映った。涼しい顔をして、その髪は横へ揺れる。


「いや、何でもない」


 リンレイは空を見上げ、また芝生をむしり始めた。


「ヒカリの兄上は大丈夫だろうか?」


 異端者として連れて行かれたルナス。宗教団体の保守派。ここよりも風当たりは強いだろう。しかし、弟はまったく気にしていなかった。


「兄さんなら心配いらない。無事なのは目に見えている」

「どうしてだ?」

「女の人をはべらす特異体質なんだ。だから、今頃ハーレムになっている可能性が高い」

「おかしな兄上だな」


 リンレイは珍しく微笑んだ。


 ヒカリの脳裏に容易に浮かぶ。あのマゼンダ色の長い髪で、ニコニコの笑みで、


「ご親切にありがとうございます〜」


 と、ゆるゆる〜と語尾を伸ばしながら、色欲も恥ずかしさもなく、キャーキャー叫ぶ女たちに囲まれている兄の姿が。


「君の妹はどんな人だい?」


 長く会っていない、赤茶髪と黄色のとぼけた瞳をリンレイは思い出した。


「私と違って落ち着きはあるのだが、天然ボケでな。よく聞き間違いをする」

「どんな感じでなんだ?」

「そうだな? 話はたくさんあるが……蜃気楼が見える、と言った時などは、刃物を差し出した」


 細く神経質な手の甲は、瞬発力バッチリですと言わんばかりに、ヒカリの中性的な唇にパッとつけられ、


「…………」


 それきり何も言わず、肩を小刻みに揺らして、彼なりの大爆笑を始めた。リンレイはわざとらしく、小首を傾げて聞き返す。


「ん? ヒカリ、どうかしたのか?」


 笑いの渦から速やかに戻ってきたヒカリは、保守派の教祖がどんなボケをしてきたのか指摘する。


「最初のふた文字はどこへ行ったんだ?」

「そうなのだ。気楼きろうだけ器用にとってな、切ろうに解釈したのだ」


 リンレイは笑いを何とか噛み殺して、話を振った。


「兄上の話は他にあるか?」

「そうだな? 僕によく『うずくんです』と言って近づいてくるんだ」


 青天の霹靂へきれき。話のジャンルが変わってしまった。


「あ……」


 夫夫ふうふネタが出されて、リンレイは言葉をなくした。


(BLじゃなくて、BS……)


 今はどこからどう見ても、十六歳の少年ではなく、余暇を楽しむ優雅な王子のように見えるヒカリ。彼は上品に微笑んで、リンレイの反応をただ待つ。


「…………」


 今はどこからどう見ても、十六歳の少女ではなく、冷や汗をかきまくっている妻のようなリンレイだった。


(もう! ひかりさん、悪戯ばっかりして! ど、どうしよう? あ、わかった!)


 彼女はピンとひらめいて、大きく深呼吸をし、素知らぬふりで会話を再開する。


「兄上の古傷が疼くということだな。苦労されているんだな」


 妻は心の中で、ガッツポーズをした。


(よし、交わした!)


 そうして、夫――いや、今日会ったばかりの少年に、妻――いや少女は言葉のストレートパンチを食らわしてやった。


「妹もな。私をよく心配して、抱きしめてくれるのだ」


 しかし、細く神経質な指はあごに当てられ、夫は思考時のポーズを取り、


(そうですね? それでは、こうしましょうか)


 ささっと可能性を導き出して、デジタルに話す言葉を操った。


「それは百合だろうか?」


 リンレイの瞳は少しだけ見開かれ、


(ノーマルじゃなくて……今度はGL……)


 策略的に、話のジャンルがすり替えられそうになっていた。


「……あぁ、白い……綺麗な花のことだな。……なぜその話が今出てきたのかわからないが……」


 千鳥足ちどりあしという言葉が真っ青なほど、リンレイの言葉はもつれにもつれていた。それを前にして、ヒカリは再び、神経質な手の甲を中性的な唇に当て、くすくす笑い出し、


「…………」


 肩を小刻みに震わせて、何も言えないほどになって、大爆笑を始めた彼の心のうちは、


(困っているみたいです)


 不自然に会話が途切れ、


「…………」


 リンレイはパッと後ろへ振り返ると、ブラウンの髪が横の線を描き、背を見せた。ふたりとも同じように肩を小刻みに揺らす。


 お互いが笑いのツボにはまってしまって、話がこれ以上進まなそうだったが、遠くの方から男の声が聞こえた。


「陛下、お部屋の準備が整いました」


 教皇は威厳をもって答えた。


「ご苦労だった」


 立ち上がると、芝生が少しだけへこんでいた。リンレイはオレンジ色に染まり始めた空を見上げ、


「ヒカリ、そろそろ日が暮れる。中へ入ろう」


 教皇と神の御使は微妙な距離を保ちながら、城へと戻り始めた。

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