大人のかくれんぼ(旦那編) その二

 ――――大騒ぎのプールがある場所とは、屋敷のほぼ反対側にある芝生の上を歩いている靴が二組あった。背丈も歩幅も一緒。


 だが、まったく違う歩き方をしている靴たち。


 前を歩くのは、男らしくつま先を左右に広げ、ウェスタンブーツのスパーをカチャカチャと鳴らしながら、豪快に芝生を踏み分けてゆく。


 後ろからついてくるのは、音がまったくしない。芝生を踏んで歩いているのに。モデル歩きのように交差するまではいかないが、綱渡りのように一直線な足運びの裸足に草履。


 ペンダントヘッド、指にはめた太いシルバーリング六つ。ウォレットチェーン。金属音ばかりの明引呼あきひこはカウボーイハットを片手で押さえながら、少しだけ振り返った。


「隠れんのにいいとこあんぜ?」


 自宅だ。どこにどんな場所があるのかは知っている。袴の袖も裾も音がしないほど静かに歩いている、夕霧命ゆうぎりのみことの地鳴りのような落ち着いた声が、不思議そうに聞き返した。


「どこだ?」


 夕闇色に染まるガタイのいい男の背中を、無感情、無動のはしばみ色の瞳で追いかける。鋭いアッシュグレーの眼光は建物の角にターゲットを絞っていた。


「オレについてきやがれ」


 しゃがれた声を最後に二人は何も言わなくなった。


 ウェスタンスタイルと袴姿の体格のいい夫たちの体は、時々もれ出ている部屋からの明かりに照らされたり、星がまたたき始めた薄闇に紛れたりしながら進んでゆく。


 あと一歩で建物の角を曲がり、人気のない庭の影に入るというところで、明引呼の厚みのある唇の端がニヤリとした。


(無防備についてきやがって。襲ってやっか?)


 かくれんぼではなく、夫二人の野外プレイに向かって、兄貴から先制攻撃。


 振り向きざまに、すぐ後ろを歩いていた、夕霧命の首筋に向かって、左腕でストレートパンチを食らわすように素早く伸ばした。


「っ!」


 明引呼は夕霧命の首後ろから自分へと強く引き寄せ、そのまま二人とも芝生の上に倒れようとした。


 無感情、無動のはしばみ色の瞳は驚くどころか、一ミリも視線は動かず。夕霧命の呼吸は何ひとつ乱れることなく、体が勝手に反応する。


(来る。右斜め前)


 それはほんの一瞬の出来事で、伸びてきた明引呼の腕の内側から外へ払うように、夕霧命の右手が持ち上げられた。それ以外に武道家の揺れ動いたものは、右の袴の白い袖だけ。


 二人の腕が触れるか触れないかの刹那せつな――


「っ!」


 明引呼は息が詰まったのと同時に、いやそれさえも気づけないうちに、五感どころか、思考も全て切断され、暗闇と無音が訪れた――


 どれくらい時間が過ぎたのだろう。息苦しさを覚えて、明引呼は意識を取り戻した。


「っ……」


 すぐ近くで、夕霧命の地鳴りのような低い声が振動を持って響いた。


「すまん」


 武術をするから、合気あいきモードになるのではない。合気の中で、夕霧命は常に生きている。


 夫夫ふうふでもいきなり手を伸ばされたら、体は修業という名の反射神経で勝手に動き、技をかけてしまう。


 気をつけてはいたが、夕霧命は十五年しか生きていない。性格はまっすぐで正直。対する、明引呼は二千年以上も生きている。駆け引きもして瞬発力もある。


 少しずつ正常化してくる意識と呼吸。カウボーイハットは芝生の上に持ち主を失って、一人ぼっちで落ちていた。


「……いいぜ」


 何とか話せるようになった明引呼の視界には、夕霧命の袴の白の合わせ目がすぐそばにあった。


 月が見え始めた、庭の芝生。夫二人きりの建物の影で、夕霧命の胸の中に、明引呼が力なく倒れ込んでいた。


 乱れていた呼吸も、途切れてしまった意識も完全に戻り、急接近している夕霧命の腕の中から起き上がり、明引呼は口の端でふっと笑って、こんなことを言う。


「っつうか、寄っかかってるだけってか? 地面に伸びてんのかと思ったのによ。まぁ、記憶はマジで飛びやがんな」


 芝生の上からカウボーイハットを、片足を後ろへ蹴り上げる形で拾い上げている、明引呼が何をしてきたのかわかって、夕霧命は珍しくため息をついた。


「……罠だった」

「今ごろ気づきやがって」


 兄貴は負けたりはしない。一か八かの綱渡りのような境界線の上で、ギリギリでノックアウトを交わすようなスリルをわざと味わいながら、全速力で生きている。


 一日中武術のことばかり考えている夫に、むやみやたらに手を出したら、今みたいになるのくらい百も承知だ。


 動と静。真逆の二人。プロポーズされた男も違う。夕霧命は光命ひかりのみこと。明引呼は月命るなすのみこと


 顔と名前は知っていたが、お互い好きだったわけではない。愛している男と結婚したら、配偶者となった男。


 夕霧命は明引呼の内側――性質は見えている。そうでなくては、今のように技はかけられない。だが、動機という心情は武術ではわからない。


「なぜした?」


 返答次第では許さないだろう、夕霧命は。宙を一回転させて投げ飛ばす技だ。今は途中で止めたから、バランスを少し崩して、寄りかかった程度で済んだが。受け身も知らない、武道もしていない相手にかける技ではない。


「そりゃ、合気っつうもんがどんなんか体験したかったからだろ? 何度頼んでもよ、夕霧が断ってくるからよ」


 兄貴は単純に気になったのだ。自分がしたこともない、いや落ち着きのない自分が、極めることが決してできない武術が。


 乱れた袴を直しながら恐れもせず、鋭いアッシュグレーの眼光を、はしばみ色の瞳は見つめ返した。


「当たり前だ。なぜ、夫の動きと意識を封じる必要がある?」


 手順をきちんと踏めば、武道家として生きることを許された夕霧命では、相手に触れなくてもかけられてしまう合気。


 触れているが基本だが、さっきの明引呼のように、かけたれたら最後。その瞬間から記憶がない。気づいたら、倒されていたという武術。


 しかし、駆け引きにけている明引呼は、ここへと話を持ってきた。


「真面目になりすぎなんだよ。武術の技、夫夫の寝技に使いやがれ。それができねぇから、ジイさんに毎回投げ飛ばされてんだろ?」

「くくく……そうかもしれん」


 緊迫した雰囲気は一気に崩れ、夕霧命は珍しく拳を握りしめて、口元へ当て噛みしめるように笑った。


 夕霧命が建物の影へと向かって歩き出すと、明引呼が背を向けて表庭を眺めた。深緑の極力短い髪と藤色の少し長めの短髪が背中合わせになる。


 二人の姿はまるで命をかけた戦地に立って、お互いの背中を絶対の信頼のもとで預けられる戦友。それぞれの視線で、それぞれの方向を見つめ、お互いにないものを補うようだった。


 明引呼は思う――


 ジイさん――師匠に少しでも近づきたくて、話し方まで真似している男。バカがつくほど修業ばかりの日々を送っている男。どんな動きも全て、武術へとつなげる生活している男。探究心の塊。


 師匠に投げ飛ばされても、またまっすぐに進もうとする、若造。もっと回り込んで、走れと思うのだ。不意をつけと、階段の一段や二段ぐらい抜かせと思うのだ。


 それでも、焦ることもなく、黙々と着実に進み続ける。そんな背中と横顔に同じ男として、何かしてやりたい。


 力づくでこの男を連れて行ってやりたい。この男が目指して、憧れてやまない師匠と同じ境地に向かって――


 夕霧命は思う――


 この男は、光命と原動力が同じだ。それは感覚で判断しているのではなく、武術――気の流れを通して、理論的に説明ができる。


 胸の意識というものがある。それは穏やかで温かいものもあるが、この男と光命が持っているのは激しく熱いものだ。激情という感情で物事を判断する男。


 光命のような冷静さは持っていない。その代わりに、地に足をつける気の流れを持っている。少しばかりの落ち着きがあるから、感覚ばかりにならず、理論も持っているのだ。


 時々、今みたいに懐深くへ、いきなり切り込んでくることがある。しかも、そこには必ずと言っていいほど裏がある。不意打ちだ。


 心理戦が要求される合気。人生経験がものを言う。若い自分には絶対的に足りないもの。瞬発力と不意打ち。この男を自分の内に取り込めば、もっと技は磨かれるだろう――


 明引呼はしゃがむ行動は瞬間移動ですっ飛ばし、ジーパンの長い足を芝生の上に投げ置いた。


 シルバーリングをする両手を背中の後ろで地面へ下ろし、リラックスした様子で星空を眺め始めた。


 夕霧命はいつでもどこでも修業バカ。


(地べたに座るのは、正中線が崩れる。修業するにはいい機会だ。一番難しい姿勢で座る)


 白と紺の袴は、縦に一本の線が入っているように、前後左右にも体を傾けず、すっとまっすぐしゃがみ込み、あぐらをかいた。


 夫二人だけの外。冬の風が二人の髪と服を揺らす。紺の花柄のシャツと白い袴。着ている服は違えど、ガタイのいい体躯。


 明引呼の手は芝生に落とされたまま、夕霧命の手は膝の上に乗せれたまま。縮まらない距離。鉄っぽい男の匂いがお互いを性的に刺激する。それでも遠い。


 ジーパンが足を軽く組むと、スパーがカチャっと鳴った。百九十七センチの夕霧命を道場でいつも投げ飛ばす、七十センチの小さなジイさんの話がふと出てくる。


「猫になんのか?」

「なる」 


 夕霧命の師匠は変わっていて、十五年前まではずっと猫に化けたままだったのだ。人だったのかと、まわりを驚かせたほどなのである。かなり特殊な道場だ。


 この世界は大人ならば、年齢が好きなところで止められる。師匠は本当は若く素敵なイケメンで、長身なのだ。


 しかし、笑いを取るというふざけた目的で、ジイさんと猫にわざとなっているのである。


 猫に教えを乞う、我が夫夕霧命。その姿を想像して、明引呼は鼻でふっと笑った。


「猫の師匠ってか。そこに通ってる、てめぇも結構ふざけてんな」

「俺はまだまだだ」


 夕霧命は謙虚に、深緑の短い髪の頭を横に振った。乾いた風に男の匂いが混じる。


「じゃあよ。オレの唇感じたら、よくなっかも知れねぇぜ」


 和装の男の色香が匂い立つ、端正な夕霧命の横顔に、明引呼の鋭いアッシュグレーの眼光はフェイントで迫った。


 武術ばかりの夕霧命。その糧になるといえば、絶対不動でも動いてくるだろう。興味を示すだろう。懐近くへ切り込んできた不意打ち。


「二重の罠……」


 夕霧命は彼なりの笑み――目を細めて、ポツリつぶやいたかと思うと、男らしく短く、地鳴りのような声を響かせた。


「来い」


 男臭い二人。色気も何もあったものではなかった。


 合気は護身術。自分から仕掛けない武術。逃げてゆく敵をわざわざ追いかけない。自分へと来るものだけと戦う。手を先に出すような人物には、極められないもの。絶対不動を持つ夕霧命向きのもの。


 花柄のシャツの筋肉質な左腕が、深緑の短髪の首筋へ向かってゆっくりと伸ばされてゆく。長さの違うペンダントヘッドをチャラチャラと歪ませながら。


「惚れてんぜ――」


 しゃがれた声で、明引呼は愛を語った。遅れて、夕霧命の男らしい顔が、伸びてくるシルバーリング三つへを向いた。


「愛している――」


 明引呼の左足は振り向きざまに横へ引き上げられ、夕霧命の腰後ろへまっすぐ伸ばされ、ジーパンの間に袴姿の男を挟む形になった。その時だった。明引呼の口の端がニヤリと歪んだのは。


「っ!」


 今度こそ、明引呼は自分へと夕霧命を、筋肉質な太い腕で首後ろから引っ張ってやった。兄貴はやはりタフだった。たった一度であきらめてなるものか。


 二度も同じことをしてくるとは思っていなかった。しかも、待っていたのに、自分が動かされてしまった。


「っ……」 


 夕霧命は完全に意表を突かれて、横に崩れるように倒れ、そのまま明引呼もろとも、芝生という緑のベッドの上に、二人の服は淫らになだれ込んだ。


 思ったよりも強い衝動で、二人の息が詰まった響きがもれ出る。


「っ!」


 歪んだ貴金属の残響の中で、大地という安定感、明引呼、夕霧命、空という自由感の順で下から折り重なった。故意に作られた不動、動、不動、動。


 強く触れ合ったは唇は、式以来の感触。あの時とはまったく違っていて、お互いの性質に前後を挟まれたまま、腰元が灼熱を招き入れようとする。


 ――不意打ちのキス。


 アッシュグレーとはしばみ色の瞳は、焦点が合わないながらも、少しの間お互いを見ていたが、やがてすうっと閉じられた。


 相手の性的な匂いが頭をクラクラと痺れさせる。質感の違うお互いの服が腕に頬に広がる。自宅の庭の片隅で、文字通り体が重なり合う夫二人。


 倒れ込んだ瞬間を、妻は見てしまった――


 少し離れた芝生の上で、深緑のベルベットブーツはびっくりして、ぴょんと一メートルほど飛び上がる。倫礼は両手で口をふさいだが、それでも驚き声は広い庭にとどろいた。


「あぁっ!?!? 夕霧さんが明引呼さんを押し倒したっ!!!!」


 駆け引きがあったとは知らない妻。あの和装の色気を持つ夫が、鉄っぽい男の匂いがする夫を押し倒している。しかも芝生という野外。衝撃が全身を貫くほど凄艶せいえんだった。


 妻は少しだけかがみこんで、紫のワンピースを夜風に揺らしながら、右に左にウロウロする。あの男臭い二人がどんなキスをしているのか気になって。


「明引呼さんが夕霧さんを押し倒すなら想像つくけど……」


 自分のところにバラバラに来ては、対照的な対応をして、いなくなる夕霧命と明引呼。だが、明智家の婿にしては、珍しく男っぽい彼ら。


「あの二人で話してるの見たことなかったけど……。意外と進んで、きちんとまとまってたんだ。絶対不動の夕霧さんが動くなんて、よっぽどだよね?」


 妻としては嬉しい限りである。夫たちが仲良くなるのなら。倫礼は両腕を組んで、うんうんとうなずく。


「あぁ〜、そうか。激しい恋に落ちてたんだ、二人とも……」


 妻の中で、勝手に誇張表現されている夫たちだった。そうして、倫礼はまた壊れたのである。


 あの長い足を持つ二人。ジーパンと紺の袴。あの腰元に隠された、自分を別々に共有する、あの個性的な二人のセ◯キ。今どうやって、男同士で交わっているのか気になった。


「夕霧さんのあの、うわっていうセ◯キが、明引呼さんのフリーダムなあれに、こう両側から攻められて――!」


 倫礼が毎回驚く、明引呼のペニ◯。全員個性がある。同じものを見たことがない、妻は。


 もちろん、夕霧命の和装の奥に隠された、灼熱の両刀もそうである。だからこそ、妻の口走っていることが意味不明なのだった。


 その時だった。夕霧命が両手をついて、起き上がろうとしている姿を見つけたのは。妻は慌てた。とうとう着衣ではなくなるのかと勝手に妄想して。


「そっとしておこう。盛り上がってるから、よし、ここは静かに退散――」

「俺に気を向けたまま、どこへ行く?」


 走り出そうとした妻を、合気でもかけるように、夕霧命の地鳴りのような声があでやかに捕まえた。


 やけに落ち着いていて、彼らしい言い回しで、妻の色欲という獣はあっという間に檻に閉じ込められたのだった。


 芝生の上だろうと、すうっと一本の縦の線が通っているように、ピンと張りつめた姿勢で正座し直した、夕霧命のそばへと倫礼は歩いてきた。


「あれ? 何でわかったんですか?」


 紫のスカートの中にある妻のパンツ。見たいからではなく、単なる事故で見てしまった。


 カウボーイハットを被り直しながら起き上がった、明引呼もまた、スカートの中のパンツがもう一枚だった。


「てめぇの頭はどうなってやがる? 笑い取ってるってか?」

「ん?」


 不思議そうな顔で、少しかがみ込んだ倫礼の前で、兄貴の声がしゃがれる。 


「人の気配ぐらい読めねぇんじゃ、武術やれねぇだろ。忍び寄ってきた敵にやられっちまうだろ」

「あぁー、そうかー」


 倫礼のうなずきはやけにぎこちないもので、明引呼を間にして、向こう側にいた夕霧命が日本刀で藁人形でも切るように、バッサリと切り捨てた。


「お前はよくわからん」

「合気、知ってんじゃねぇのか?」


 また笑いを取りに行った妻に、明引呼からツッコミ。


 相手の気の流れを操ってかけるのが合気。気配が読めることが大前提。実現はできないが、妻はきちんと知っている、合気のかけ方を。


 気配を消す方法のひとつも、倫礼は知っている。ただ、追求心はなく、普通の生活でやらないだけで。


 妻のどこかずれている瞳は邪悪な色を持ち、ニコニコの笑みに変わり、語尾をゆるゆる〜と伸ばした。


「うふふふっ。おや〜? バレてしまいましたか〜」


 明引呼から鋭くカウンターパンチが放たれる。


「ふっ、るなすの罠に全員はめられてっかも知れねぇぜ」


 倫礼はびっくりして飛び上がり、


「えぇっ!?!?」


 夕霧命は珍しく息を詰まらせた。


「っ……」


 プロポーズされた男。惚れた男だ。ニコニコしながら、平然と人を地獄へと突き落とす野郎。そこも含めて愛しているから、結婚したのである。


 明引呼はポケットからシガーケースを取り出して、ミニシガリロに火をつけ、苦味と辛味の青白い煙を吸い込む。 


「あれが何の考えもなしにこんなことしねぇだろ。てめぇらまだまだデジタルじゃねぇな」


 驚いている隙に妻を瞬間移動で膝の上に連れてきて、煙を閉じ込めたままの唇を倫礼のそれに押し当て、そのまま葉巻の香りを吐き出した。


 不意打ちである。フィルターなしの煙。肺に入れる代物ではない。ミニシガリは。口腔だけで楽しむもの。


「ゲホッ、ゴホッ、ゲホッ……!」


 愛用している妻でも吸い込まされたら、さすがに咳き込むのだった。


「くくく……」


 傍観者と化している夕霧命は、珍しく噛みしめるように笑う。


 待っていろ、武術夫。今、倒してやるぜ、である。


 妻は明引呼の指先からミニシガリロを奪い、煙を十分吸い込んで、もう一人の夫の唇へさっと近づいた。


 倫礼の左手は夕霧命の右手を上から押さえるようにつかもうとした。上から押さえられたならば、人は自然とそれを防ぐために押し返そうとする。


 心理戦が要求される合気。妻がつかんだと思った瞬間、夕霧命のしなやかな腕は左横へすっとずれて、つかむはずの対象物がなくなった倫礼は息を詰まらせ、


「っ!」


 バランスを崩してそのまま前に倒れ始めた。口から青白い煙を吐きながら。


 後ろから見ていた明引呼の腕が、倫礼のあごに引っかかるように回され、妻の背が反るように、後ろへ引っ張り上げた。


 夕霧命と明引呼の間で、三日月みたいな曲線を描く格好で、動きを封じられた妻は苦しそうな顔で叫んだ。


「武術とプロレスの技で、妻を倒すのはやめてください〜!」 


 無感情、無動のはしばみ色の瞳がそっと近づき、大声を上げている倫礼の唇を、自分のそれで封印した。


「ん……」


 これぞ、夫夫の合わせ技。日が完全に落ちた自宅の庭は静けさを取り戻した。夫婦三人を微笑ましげに見守りながら――――


 

 ――――暖炉の火だけの薄暗い部屋。全て落とされている照明。他にも椅子はあるというのに、三人がけのソファーに足を組むことが許されないほど、密着して座っている。


 蓮は思う――


 自分の右膝だけに座っている、マゼンダ色の長い髪を持つ男、月命のことを。


 丁寧で貴族的な物腰。教師のかがみのような小学校教諭。プロとして仕事を妥協などせずこなしてゆく。


 愛とかそういうことではなく、人として尊敬できるところがある男。


 感性はあっても感情のない自分は、ただ人を好きになることはない。そこに誰にでも通用する信念がなければ、相手にする価値などない。だが、この男は自分の内へと招き入れてもいい存在だ。


 失敗すること、負けることばかりをする。それを、他の人間がどう思うかは知らない。


 しかし、自分にとっては笑いでしかない。滅多に笑うことはないが、吹き出すほどおかしいのだ。


 だから、プロポーズしたのだ。だが、いつどうやって、そんなことになったのかはわからない――


 ピンヒールの足は不意に持ち上げられ、ミニスカートにも関わらず、それを組んだ。


 月命は思う――


 自分の左足を預けている銀の髪を持つ男、蓮のことを。


 愛想という嘘偽りは持っていない。彼の中のハードルを越えるまでは、どこまでもゴーイングマイウェイで、人をものとして扱う一面がある。


 だが、それはわざとしているのではなく。九年しか生きておらず、子供であると同時に、一点集中。相手がどう思うとか感じるかは視野に入っていないだけなのだ。


 しかし、ひとたび人を自身の中に招き入れると、面倒見の良さがある。複数婚の中で、自身がどう動けば、まわりがどうなるかきちんと考えて生活をしている。


 結婚してからの、この男の自分への態度は、まるで女を扱うように丁寧で優しい。こんな風に自身と接する男がいるとは思ってみなかった。自分は幸せの中で生きている――


 月命の足は組み替えられ、重心がかかる太ももが左から右へ移った。


 貴増参たかふみは思う―― 


 自分の左膝にだけ乗っている、マゼンダ色の長い髪を持つ男、月命ことを。


 白馬に乗って、美しいるなす姫のすぐ横へ走り寄り、片手をつかんで軽々と自分の膝に乗せ、連れ去ってしまいたくなる。そんな甘く魅惑的な衝動をくれる人。


 だが、よく見ると男。しかし、王子と王子のラブロマンスも素敵だ。


 二人で手を取り、キラキラと輝くシャンデリアの下で、宮廷楽団が奏でるワルツで踊り、恋に落ち、愛を語り合い、敵国の王子同士だった自分たちが結婚して、世界は平和になりました。


 そんなハッピーエンドの魔法をかけてくるような男。ニコニコと微笑みながら、自分と同じように落ち着きがあり、静かに人を愛する男。


 似た者同士というのだろう。だからこそ、愛おしさは増すのだ――


 かくれんぼの話を始めた、談話室に再び戻ってきていた。パチパチと暖炉のまきぜる音だけが響く。


 三人は横並びでソファーに座ったまま、その様子を黙って眺めている。誰も話すことはなく、それぞれの唇は動くこともなく、もう一回り。


 蓮は思う――


 自分にぴったりとくっつき、膝を並べて座っている、カーキ色のくせ毛を持つ男、貴増参のことを。


 この男がいかつい感じで、悪と昔戦っていた。それをいくら想像しようとしてもできない。にっこり微笑み、天然ボケをかまして、まわりを爆笑の渦に巻き込む男。


 だが、自分はどこが面白いのかわからない。理解しようと努力は重ねているが、さっぱりなのだ。


 夫夫になったというのに、丁寧に頭を下げてきたり、遠慮気味に声をかけてきたり。どんな考えがあって、そんな態度を取るのかもわからない。未知数の男。


 なぜ、結婚したのかもわからない。だが、愛はそこにある。いつ何がどうなって、そうなったのかはわからないが――


 マゼンダ色の頭の上に乗せている、銀のティアラは落ちてこないように直される。その影が長く、壁に伸びていた。


 月命は思う――


 自分の右足を預けている、カーキ色のくせ毛を持つ男、貴増参のことを。


 この男のそばへ行くと、いつの間にか自分はお姫さまになっていて、片腕で軽々と持ち上げられている。


 シャボン玉がふわふわと舞い、キラキラと光り輝く二人きりの世界で、一生に一度の恋に落ちたように見つめ合い、甘い口づけをして、甘い言葉をささやかれる。


 女に生まれてきてよかったと思える。いや違う。自分は男で、相手も男だ。だが、なぜか女だと思わせられてしまう男。


 自分もどちらかというと王子さまタイプだが、人の関係はシーソーみたいなもので、主導権は向こうへ移り、自分は姫になる運命をたどるしかないのだ――


 ヴァイオレットの邪悪な瞳は、左に銀の髪、右にカーキ色の髪を従えて、女王さまのように堂々たる態度で座っている。


 貴増参は思う――


 自分にぴったりくっつき、膝を並べて座っている、銀の髪を持つ男、蓮のことを。


 情勢が微妙な国のパーティーへ招かれ、他国の王子として行った。そこには、女性の憧れの視線を、超不機嫌俺さまで、はね飛ばすひねくれ王子がいた。


 この国の技術の高さは世界一だ。PCのハッカー技術に優れているという王子。この男を味方に引き込めたら、サイバー犯罪が増えてしまった、我が国も法整備が行き届き、さらに発展するだろう。


 すらっとした不機嫌王子に近づいて、王子の自分は片膝で跪き、こうべを垂れて、ダンスを申し込んだ。


 しかし、返事がないどころか、動きもしなかった。これで、わが国とこの国の国交には亀裂が入り……。


 違った。奇跡は起きたのだ。不機嫌な足音が近づいてきて、あごクイをされ、いきなりのキス。めでたく、両国は目覚しい発展を遂げました――


 戦いをするとしたら、この三人は後攻タイプ。瞬発力を持っている人が誰もいないペアだった。


 いつもよりも淡い色を妖しげに乱反射しているシャンデリアの下で、男三人は密着したまま座っている。


 動きたいが動けない体勢。どこまでも沈黙が続いていきそうだったが、蓮の形のいい眉はさっきから怒りでピクついていた。


「なぜお前、俺たちの膝の上に半分ずつ座っている?」


 ソファーの上に蓮と貴増参がぴったりとくっついて座っている。その上のちょうど真ん中に、月命が二人の膝に乗っているという、夫夫三人の談話室。


 しかも、女装夫が足を組み替えるたびに、ピンヒールが暖炉の炎の中で揺れ動き、チャイナドレスミニの中で、レースのパンツが見え隠れする。


「おや? やっと君が話しましたか〜」


 月命の凜とした澄んだ女性的な声がおどけた感じで響いた。敗北みたいな言い方をされ、蓮の天使のように綺麗な顔は怒りで一気に歪む。


「くそっ! 俺に罠を仕掛けるとは、お前どういうつもりだ!」


 さらに、俺さま夫を怒らせるような言葉が、貴増参の羽布団みたいな柔らかさの声で、月命の向こうから聞こえてきた。


「僕もちょっとした軽い罠だったんです」


 怒っては負けだ。蓮はゴスパンクの両腕を組んで、鼻でバカにしたように笑った。


「お前らの頭は迷路よりねじ曲がっているんだな」

「蓮は例えるのが上手です」


 ビクともしない、二千年以上生きているメルヘン王子夫、貴増参。そこへさらにおかしな発言がやってくる。


 炎という原始的なオレンジの光を浴びながら、ヴァイオレットの瞳がうるむ。女装夫は俺さま夫をじっと見つめ、凜とした澄んだ儚げで丸みがある声で誘惑した。


「――僕を抱いてくださいませんか?」


 一気に夜色になってしまった。チャイナドレスミニで、レースのパンツで、ティアラを頭に乗せている、負けるの大好きな女性的な夫。


 蓮の鋭利なスミレ色の瞳は、今にも切り刻みそうににらみつけた。


「お前なぜ、その話になる?」


 かくれんぼをしているわけで。好きと言うわけで。キスをするわけで。ただそれだけだ。それなのに、今夜の話にいきなり飛んでいるという、男三人の薄闇が広がる部屋。


 蓮とは対照的に、天然ボケの貴増参は全然へっちゃらだった。にっこり微笑んで、二人のやり取りをしっかりと解説。


るなすは順番をふたつ抜かしちゃいました」 


 月命の女物のブレスレットをした手は、蓮の中世ヨーロッパの騎士風のコートのスリットから中へ入り込む。結婚指輪をした薬指で、夫の太ももをそうっとなぞってゆく。


「なぜ、蓮は僕にプロポーズをしたのに、愛していると言っていないんでしょうか〜?」 


 どういう結婚の申し込みをしたのか、理解しかねる話だ。おかしい限りだ。このペアは。


 複数婚だからこそ、他の人の心を優先させて、配偶者として結婚に同意した。そういうわけではなく、好きになって、プロポーズをしたのに、愛は語っていないという。不思議現象が起きている、蓮と月命。


 二人の息子を見守るパパみたいな、貴増参の柔らかな声がまとめ上げた。


「蓮も順番を三つ抜かしちゃいました」


 針のような輝きを持つ銀の髪は一本も揺れ動くことなく、鋭利なスミレ色の瞳は、紫の月が大きな円を向こう側で描く、レースのカーテンを凝視したまま、まるで静止画のようにまったく動かなくなった。


「…………………………………………」


 月命は人差し指をこめかみに突き立て、


 ――十六時五十八分二十三秒。あと、二十四分五十二秒。


 時刻を隙なく確認して、貴増参へと顔を向け、表情を歪めた。 


「おや〜? 困りましたね〜。翻訳をしてくださる方がいません。蓮は何を考えているんでしょうか?」


 いつも解説してくれる、倫礼と焉貴これたか。だが、彼らは今ここにいない。


 ということで、貴増参は役職名を出し、速やかに、いや昔よく自分に向かって捧げられた呪文みたいなものを口にした。


「それでは、火炎不動明王かえんふどうみょうおうさまの真言しんごんを唱えて、聞いちゃいましょう。ノウマク サンマンダ バザラダン カン!」


 少しの沈黙が広がり、パチパチと薪が爆ぜ、貴増参はあごに手を当て、「ふむ」と神妙にうなずいて、話し出した。


「神のお告げを聞いちゃいました。あまりにも僕たちを愛しすぎちゃって、恋わずらいのお姫さまのように、恥ずかしがって言えない――」


 これ以上この二人に話をさせていたら、何を言い出すわかったものではない。


 そうなる前に止めてやろうと、蓮は「んんっ!」と不機嫌に咳払いをして、ファンを魅了させて止まない、奥行きがある少し低めの声で言った。 


「愛している――」


 言葉足らずの俺さま。当然、月命と貴増参は二人同時に振り向き、声をそろえて聞き返した。


「えぇ、どちらをですか?」


 落ち着き払った二人。感性で動いているばかりに、恥ずかしいことをしてしまったと思う蓮。だがしかし、ここでそんなそぶりなど見せたら、負けと同意義だ。


 地底深くで密かに活動していたマグマが、山の頂上から空高くへと勢いよく出たように、火山噴火が起こった。


「お前ら両方だ! 俺が先に言ってやった、ありがたく思え!」


 イニシアチブを握った。と思ったのもつかの間、月命が怖いくらいの含み笑いをして、


「うふふふっ。僕たちの罠にはまりましたね〜?」


 儀式として行う結婚式。その意味をマジボケしている蓮に、貴増参がしっかりと説明した。


「夫ですから、君のことはわかってます。魂を交換しちゃいましたからね。さっきのは、ノーリアクション、返事なし、すなわち、答えが見つからない、です」


 この世界の結婚は、相手の血や遺伝子が自分に入り込むようなものだ。他人が夫婦をしているのではなく、同性同士でも深く結ばれているのである。


 九年しか生きていない蓮は、見事なまでに長い間生きている夫二人にやれれてしまった。悔しそうに吐き捨てる。


「くそっ!」


 式を挙げた時。この人気絶頂中の夫はワールドツアーの真っ最中で、式の一時間しか時間が取れず、三ヶ月以上も家に帰ってこなかった。新婚生活などなかったのだ。


 子供みたいにそっぽを向いてしまった蓮の、アーマーリングをした手を、月命は優しく両手で包み込み、凛とした儚げな女性的な声で清楚に告げた。


「蓮、愛していますよ――」


 バイセクシャルの複数婚。プライベートも時代の最先端。マスコミを賑わし、ファンたちに新しい一面を見せ、センセーショナルを巻き起こしているアーティスト。


「僕も愛してます――」 


 小学校教諭と国家公務員に愛を注げたられた、非凡であるがゆえに、はみ出した性格の蓮。鋭利なスミレ色の瞳は窓の外に向けられたまま、偉そうに言い放った。


「いい。してやる」


 一人ずつ。プロポーズをして、婿に来た男。月命の頬を、甘美な果実でもつかみとるように引き寄せ、鋭利なスミレ色の瞳とヴァイオレットのそれは閉じられて、ベビーピンクの口紅をした唇に、蓮の綺麗なそれはそっと押し当てられた。


 ――順番通りのキス。


 鋭利なスミレ色の瞳が再びまぶたから姿を現し、伸びきる歌声のように余韻を残しながら、頬に添えていた手のひらがゆっくりと離れてゆく。


 唇の感触がなくなると、長い眠りから覚めたように、月命姫は銀の長い前髪を、ムーンストーンの指輪をした指先ですくい取り、名残惜しそうに唇で、針のようなサラサラな感触を楽しむと、するすると落ちていった。


 月命を間に挟んだまま、蓮は今度反対側の腕をそうっと伸ばす。二人の間に座っている姫をお互いに愛する、ライバルではなく、性的に愛している貴増参王子の腕も同時伸びてきて、姫の背中でちょうど交差した。


 百九十七センチの長身で、立ち上がることもなく、お互いの顔は簡単に近づき、蓮と貴増参はもうひとつの腕で、月命ごと相手を抱きしめて、とろけるように瞳は閉じられ、少し弾力のあるふたつの唇は触れ合った。


 ――魅惑的で禁断なキス。


 三人、もう一組いる。蓮の右腕は背中で上半分の円を描いで引き戻され、それとたがい違いに左腕は下から月命の頬へもう一度触れた。綺麗な化粧をした男の顔を、もう一人の男がいる反対側へと押し向ける。


 月命は結婚指輪をする手で、同じ契約のあかしの指輪をした蓮のそれをそっと包み込みながら、俺さま王子の力によって、メルヘン王子へと振り返った。


「貴増参王子、私もあなたを愛しています」


 これで、声に男性の響きがなかったら、完全に性別詐称である。この女装夫は。


 貴増参の大きくて綺麗な手が、月命のマゼンダ色の髪のそばへと伸ばされた。 


「チャイナのお姫さまに、僕の愛を捧げちゃいましょう」


 真ん中にいる姫は、王子二人の手をそれぞれの手でつかむ。愛の重複の中で、瞳を閉じ、蓮の温もりが残ったままの月命の唇に、貴増参の温もりも重ねられたのだった。


 ――姫と王子のキス。


 夫三人の背後で、妻はさっきから見ていた――


 いや、蓮のヒット曲、R&Bのグルーブ感に乗りながら、深緑のベルベットブーツは葵色の絨毯の上で、右に左にステップを刻んでいた。


「あぁっ!」


 イケメン三人の整った横顔が近づいては、唇に触れてゆく。


 暖炉の炎に照らし出された三人の影は、部屋の壁で狂ったように踊る。原始的な儀式を行うためのトランス状態を連想させ、ひどく幻想的でセクシュアルだった。


 紫の月明かりが夫たちのほのかな影を、もうひとつ別に床へと落とす。その前で、妻は一人踊る、R&B。


「ラブロマンス映画も真っ青なキスを三人でして……。このまま服を脱ぎそうな勢いで……」


 歌い出しに入り、バックステップを踏む。右に、一、二、三、四……。


「この三人のセ◯キで? どうやってするんだろう?」


 左に、一、二、三、四……。


「よし、考えてみよう!」


 曲の中盤に入り、右回りの大きな円を描く。一、二、三、四……。


「そうだなぁ〜?」


 バイセクシャルなだけであって、腐女子ふじょしではない妻は、頑張ってかけ算をしてみた。


 受けが月命。攻めが蓮と貴増参。


るなすさんのアレを、蓮と貴増参さんが両方から口にする……!」


 月命のセ◯キが女性的であるばかりに、意味不明な妻のつぶやきだった。エロ妄想中の妻は、ソファーを勝手にベッドに変え、ムンクの叫びのように顔を歪ませる。


 ――紫の月影が差し込む、夫三人のベッド。


 白いチャイナドレスは持ち主を失って、ベッドから今床にするすると落ちたところ。


 レースの下着からはみ出した、色気も跪く曲線美を持つ足が、シーツの上で悩ましげに動くたび、シワが幾重にもできてゆく。


 倫礼は両手で顔を覆って、大声を上げた。


「あぁ〜! それは、るなすさんが悶え死ぬので、やめてください〜!」 


 思い出したように、R&Bのステップを踏む。一、二、三、四……。そうして、また落ちてゆく、夫3Pというエクスタシーの海底へ向かって。


 月命がピンヒールで、蓮と貴増参を踏みつける、SM。


「攻めと受けが逆になって……二人のセ◯キをるなすさんが包み込む……。貴増参さんのを……あぁ〜、もう絶対に相性良すぎるな。蓮の? あぁ〜、こっちもある意味やっぱり相性いい。でも、どのみち、月さんは悶え死に、の運命なんだな」


 曲も妻の妄想もサビに入り、両腕を上げ、右に左に揺らす。だがしかし、妻はとうとう浸りというまぶたに瞳を隠してしまった。


 あっという間に目が回り、バランスを崩して、またパンツ丸出しにして、絨毯の上に尻餅をついた。 


「いや〜! るなすさんのあのあえぎ声が〜! セクシーすぎる〜〜!」


 だが止まることもなく、一、二、三、四、一、二、三、四……。頭をシェイクし続ける倫礼。


 すぐ暴走する妻と違って、落ち着きがある夫三人。絨毯の上で、大木が強風に揺れるように踊り狂っている倫礼に、すぐに気がついた。


 地べたに座って、パンツまで見せて、大騒ぎしているバカな妻。潔癖症の蓮は鼻でバカにしたように笑って、冷ややかなスミレ色の瞳を降り注がせた。


「ふんっ! 美的センスのかけらもないな。お前のそのなりによく似合っている」

「おや〜? 欲求不満ですか〜?」


 月命はこめかみに人差し指を突き立て、


 ――十七時零四分十二秒。あと、十九分零三秒。


 妻の今の原動力を口にした。倫礼がどんな言動を取ろうとも、貴増参には驚きではなく、にっこり微笑んだ。


「言葉に全て出ちゃってます。可愛い人です」


 踊り続けている倫礼の正面に、ピンヒールは瞬間移動でやってきた。


「僕たちがそんなに欲しいんですか〜?」

「はっ!」


 やっと我に返った倫礼の前には、素晴らしい眺めが広がっていた。白いチャイナドレスのスカートの丈が、頭よりかなり高い位置にあったのである。


 現実の方が、妄想よりももっと魅惑的だった。気まずそうに咳払いをし、妻は心の底から謝罪した。


「あぁ、すみません。勝手に想像して……」

「差し上げましょうか〜?」


 この狂気でサディスティックな夫ときたら、女装して、妻を誘惑するのである。今は完全に見えていた。ピンクの薄い布地をつけた、セ◯キの膨らみが。


 倫礼は目を見開き、


「本当ですかっ!?」


 スカートの中を指差して、妻はとうとうやらかしてしまった。


「じゃあ、そのレースのパンツは私が脱がしますっ!!」


 孔明が触ったのだ。妻にも触らせろ、である。


 どんな風に引っかかりながら、姿を現すのだろうかと想像すると、倫礼は口をバカみたいに開けて、ガン見してしまうのであった。


 蓮は妻にさっと近づき、煩悩だらけの女の後頭部を、スパーンと力の限り引っ叩いた。


「っ!」

「痛っ!」


 倫礼は両手で頭を押さえ、苦痛で表情を歪める。貴増参はあごに手を当て、足を軽くクロスさせて、にっこり微笑むのだった――――

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