大人のかくれんぼ(旦那編) その三

 ――――あと二人。だが、鬼の倫礼は壁にぶち当たっていた。


 とっぷりと日が暮れ、妖精がランプを手にしたように、淡くライトアップされた中庭を右手に従え、妻は足早に水色の絨毯の上を進んでゆく。


「どこにもいない。外にもいない。家の中にもいない。どこに行ったんだろう? ひかりさんと独健どっけんさん」


 つのる焦燥感。見つからない夫二人。一回目の光命ひかりのみことの隠れ場所――ピアノの部屋の前までやってきた。ブラウンの長い髪を落ち着きなく、右左に揺らす。


「同じところには隠れないよね? 光さん頭がいいし……」


 妻の深緑のベルベットブーツは消えては現れてをして、人気のない廊下を探し続ける。通り過ぎる部屋の中の時計は、十七時零六分十七秒を指していた――――



 ――――独健のはつらつとした若草色の瞳は、今は焦りを見せていた。


 広い部屋に夫二人きり。かくれんぼのルールは、相手に好きと言って、キスをする。


 それなのに、自分は廊下側の壁にもたれかかったまま。紺の肩より長めの髪を持つ光命は、反対側の窓際に優雅に佇んでいる。


 もうどれくらい時間が過ぎたかわからない。時計など持っていないし、計りもしない自分だから。だが、感覚として、一時間近くにはなっているだろう。


 お互い動くこともなく、話すこともなく。それどころか、光命は独健に見向きもしなかった。


 どこかの高貴な城の窓枠に、グレーの細身のズボンの片足で腰掛け、百九十七センチの背丈だからこそできる、茶色のロングブーツを履くもう片方の足で横座りを大きくするように窓に寄りかかりながら、綺麗な角度をたもって、大理石の床で体を支えている。


 冷静な水色の瞳はどこまでも冷たい。人々を魅了するガラス細工の花のような儚く秀美な顔は横を向いたまま。


 物憂げに窓の外を眺める王子――


 指先から髪の毛の一本まで取っても眉目秀麗で、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。


 今は活動休止中のピアニスト。だが、その容姿の美しさだけでも、人々を魅了するだろう、この優美な男は。


 遊線が螺旋を描く男性としては高めで、独特の響きを持つ声色は、この部屋に入ってきてから、ずっと息を潜めている。


 そんな夫に見惚みとれそうになるが、とにかく今はかくれんぼである。独健はひまわり色の髪をかき上げて、部屋を見渡す。


(何から話せばいいんだ?) 


 小さなおもちゃ箱のすぐ隣で、アーミーブーツは何度か大理石をその場で踏み鳴らし、手首に巻きつけているミサンガが、ミリタリー ズボンの脇ポケットに出たり入ったりを繰り返す。


(いきなり言うのもな。ムードがないだろう?)


 戸惑いの影が差している若草色の瞳には、濃い紫のシャツにピンクのストールをエレガントに首からかけている、どこからどう見ても王子さまにしか見えない、夫の結婚指輪が放つ小さなシルバー色が重なっていた。


(光が話してくると思ったんだが……。光も恥ずかしがってるのか? 珍しいな)


 視点はぐるっと反転する――


 冷静な水色の瞳は、細い指先で開いたレースのカーテンの隙間から、夜色がかっている窓にずっと向けられていた。


 光命の中性的な唇は動くことはなく、紺の髪が肩へ落ちるたび、耳にかけるだけを繰り返す。


 だが、その手のひらの中には、マリンブルーの数字盤を持つ懐中時計が常に握られていた。


 ――十七時十五分十五秒。あと、零八分零零秒。


 他の夫たちの到着地点を探り、自身との距離を測る。


 七人全員、玄関ロビーにいる。

 私たちが最後であるという可能性が九十九.九九パーセント。

 私は勝った――


 負けず嫌いの王子さま。そんな彼の冷静な水色の瞳は、真っ暗な外の景色など見ていなかった。


 その手前の、今は鏡のように部屋が映り込む窓ガラス。その中に立ち尽くしている、ひまわり色と若草色の瞳を持つ夫だった。


 時計を持ったままの手は人差し指を軽く曲げて、細いあごに当てられる。思考時のポーズ。


 窓の外を見ているふりをしながら、ガラスというワンクッションを置き、夫の様子をさっきから、デジタルにうかがっていた。


(独健が右に動いたのは、こちらの部屋に入ってきてから、十七回目。左に動いたのは十八回目……。髪をかき上げる仕草は、九回目。ズボンのポケットに手を入れるのは、六回目。視線の動き……)


 視点はぐるっと再び反転する――


 独健は二回目のかくれんぼが始まる時。主導権を握れる瞬間移動をかけようとした時のことを思い返していた。


 サッカー好きで、自分はどちらかというと体育会系。光命は音楽家で、インドア派。運動などしているところを見たことがない。乗馬ぐらいだ。


 瞬発力には自信があった。夫九人中、一二を争う速さだ。だが、この優雅でありながら、同じく俊敏な策士にやられたのだ。


 倫礼のカウントダウンとともに、瞬間移動を独健は光命にかけた。しかし、ロックがかかっていたのである。


 いや落ち着いて考えれば、夕霧命に武術の何かの技で、他の人に勝手に動かされない方法を使ったのかもしれなかった。


 連れて行こうとしたが、先手を打たれていた。驚いている隙に、独健は光命の望む場所――この部屋へと連れてこられてしまったのだ。


 光命の髪と瞳の色と寄り添うような、青を基調にした空間。二人の間には、優雅な夫の分身ともいうべき、グラウンドピアノが神秘的な黒の光を放っていた。妻の裏をかいた隠れ場所。


 視点はまたぐるっと反転する――


 ――十七時十八分十五秒。あと、零五分零零秒。


 窓に映る独健の隣で、冷静な水色の瞳はついっと細められた。


(独健は落ち着いていないように見える。そうですね……?)


 そうして、紺の髪の奥にある、全てを記憶するデジタルな頭脳の中で、土砂降りの雨のようにデータが流れ出した。神業のごとく必要なものだけを拾い上げる。 


(それでは、こちらのようにしましょうか)


 ここまでの思考時間、零.一秒。レースのカーテンを抑えていた指先は何気ないふりで外された。


 几帳面な性格のはずなのに、少しの隙間を残して、光命は今初めて、独健へ顔を向けた。


 優雅に微笑み、遊線が螺旋を描く芯のある男の声で、二人きりの部屋の静寂を破った。


「どうしたのですか?」


 いきなりの問いかけ。独健としてはすぐに言葉が出てこず、珍しく口ごもった。 


「あぁ、いや……」


 そうして、優雅な王子さま夫はこう言ってくるのである。


「どうしたいですか?」


 音の数は同じ。ただ一文字違うだけ。意味もまったく違う。


 こうして、感覚の独健は故意に待たされて、焦りが出ているところへ、言葉のすり替えの罠を放たれてしまったのだ。


 かくれんぼをしている。ルールがある。それを守ろうとしている。光命は自分の意思を問うてきていると、独健は勝手に判断した。


「そ、そうだな……?」


 相手が混乱するタイミングと言葉で、瞬発力と冷静さを持っている光命が、疑問形を重ねた。


「どうされたいですか?」


 三番目の質問。最初の二文字が一緒。しかも、判断が非常に難しい内容。独健はその通り、さらに混乱させられ、ただただ言葉を繰り返しただけだった。


「されたい? 受け身か? 敬語か?」


 そうして、罠の最後から二番目の言葉が、光命の中性的な唇から出てきた。


「私が決めてしまいますよ――」


 質問だったのが、いきなり主導権を握ると言ってきた。いくら独健でもおかしいと気づく。いつもだったら。


 だが、一時間近くも話もせず、悪戯に時ばかりが過ぎてゆく、二人きりの部屋。


 正常な判断も、優雅な策士に奪われてしまい、独健はうんうんとうなずいた。


「あぁ、そうだな。俺じゃ、迷ってばかりで、先に進まない気がするからな」


 光命から最終確認が入る。


「取り消しはできませんよ――」

「構わない」


 独健はさわやかに微笑んで、承諾してしまった。


 そうして、光命は次の罠を仕掛ける。窓枠にもたれかかっていた足を大理石の床の上に落として、甘くスパイシーな香水を男二人の部屋ににじませた。


「それでは、椅子に座って、ピアノを弾いてください――」


 楽器など弾けない独健。無理難題が突きつけられた。若草色の瞳は驚きで丸くなり、鼻声が思いっきり聞き返す。


「はぁ? ピアノを弾く?」

「えぇ」


 副業として、ピアノの先生をしているピアニストは窓から離れ、白と黒の鍵盤のすぐ近くへと、非合理と言わんばかりに瞬間移動してきた。


 独健は壁際に立ったまま、戸惑い気味に髪をかき上げる。


「いや、俺は音楽はできないんだが……」


 そんな言葉は計算済み。光命はおどけた感じで、無効化する言葉を放った。


「――おや? 取り消しはできないと、先ほど約束しましたよ」


 自由がすでにない独健。心優しき独健。


「わ、わかった」


 今日初めて座るピアノの椅子に、独健は瞬間移動で腰掛けた。母は音楽をやっているが、誰がどう見ても父親似だ。


 鏡のように綺麗に磨き上げられた黒のボディーに、落ち着きのない独健のまぶたがパチパチしている姿を映る。


「どこを弾けば……?」 


 冷静な水色の瞳には、光命に無防備な背中を見せて座っている、独健の後ろ姿があった。立っているのではなく、座らせられてしまった独健。


 次々に光命の罠というムチが放たれる。


「自身の肩幅と同じ位置に両手を置いてください」


 どれが何の音かわからない。言われるがまま、独健の日に焼けた両手は、不釣り合いなピアノの鍵盤の上に乗せられた。


「こ、こうか……?」

「鍵盤を押してください」


 バイセクシャルでスーパーエロのピアニストから指示がやって来た。


「ん……」


 弾いた。思ったよりも重さがあり、弦を叩く打楽器のピアノ独特の、ピキーンとした音が部屋に響き渡った。たった一音だけ。


 男二人きりの部屋。いや夫二人きりの部屋。通常のレッスンではしない、エロティックな教え方が始まる。


「ピアノは手だけで弾くものではありません」


 光命は独健の真後ろから両腕を回し、鍵盤の上に無防備に乗せられていた、男らしい大きな手の上に、自分の神経質なそれをさっと重ねた。


 急接近して来た、甘くスパイシーな香水。耳にかかる、光命のコシがあるのにしなやかな紺の髪の感触。


「なっ!」


 独健の顔は驚愕に染まり、動こうとしたが、手はすでに押さえ込まれており、いくら中性的な雰囲気でも、力は男性なのだ。しかも、椅子は後ろにもう引けない。


 ドキマギし始めた独健とは違って、冷静さを常に持っている光命は、夕霧命から聞いた正しい手の使い方を伝授し始めた。


 あの修業バカ夫ときたら、武術のことになると全て忘れて、一点集中。思春期真っ只中の、バイセクシャルの自分の体を、指導することに気を取られて、今から独健にやるようにして来たのだ。


「肩から腕、手のひら指先まで一本の線でつないでいかないと、上手に弾けませんよ」


 耳元で響く、遊線が螺旋を描く優雅で芯のある男の声。それだけでも、背筋がゾクゾクと官能の痺れを起こす。


 光命の手は独健の肩甲骨まわりをさすり、指先で肩から上腕の外側を通って、肘の内側をなぞり、前腕をつうっと愛撫するようにたどってゆき、手首にたどり着くと、五本の指先と自分の細いそれが完全に重なるように合わせて、今度は手の甲から戻り始めた。


 独健を襲ったのはこれだけではなかった。光命の細く神経質なあごは、フード付きジャケットの肩に置かれた。夫の顔が肩に乗っている。


 鼻声が裏返りそうになるのを必死で押さえながら、独健は猛抗議した。


「な、何してるんだっ! お前」

「肩の意識を持っていただくためです。お教えしているのです」


 遊線が螺旋を描く、性的に酔わせるような響きが耳元で舞った。光命が話すと、独健の肩にあごのガクガクと動く振動が、嫌でも伝わってくる。


 それでも、心優しき夫は何とか呼吸を整えて、お礼を言う。自由がどんどんなくなっていくとも知らず。


「あぁ……そうか。サンキュウな」

「それではもう一度弾いてください」


 再び耳元で聞こえて来た。人ごみで全ての人を振り返らせる、あの綺麗な男の声。


 チラチラと脳裏によぎる――独健の妄想世界。


 この男と二人きりのベッドの上で、いつの間にか手足を縛られ、無理やり開けられた口から媚薬を飲まされて、抑えられない性衝動に身体中をむしばまれ、ちてゆくしかない運命――


 気づくと、独健の視界は真っ暗だった。閉じてしまったまぶた。さっと瞳を開け、妄想を振り切るようにごくり生唾を飲み、


「わっ、わかった……」


 鍵盤を弾こうとしたが、もう限界だった。


(ドキドキして、手が震えるっ!?)


 光命は自分の手のひらから、このはつらつとした夫の手が、小刻みに震えているのを感じ取り、優雅に微笑んで、チェックメイト――


(ずいぶん困っているみたいです――)


 とうとう耐えきれなくなって、光命はくすくす笑い出し、


「…………」 


 それきり何も言えなくなって、神経質な手の甲を中性的な唇につけて、彼なりの大爆笑を始めた。


 恥ずかしさもドキドキも一瞬にして消え去って、独健は後ろにパッと振り返り、


「あ、お前、わざとやってるだろう?」

「えぇ」


 優雅なうなずきがピアノの弦に混じると、独健の屋敷中に響くような怒鳴り声が炸裂した。


「このエロ悪戯夫っっ!!」

「ありがとうございます」


 この優雅な王子夫ときたら、なぜかお礼を言うのだ。嘘でも何でもなく、本気で述べてくるのである。即行、独健からツッコミ。


「だから、褒めてない!」


 光命は思う――


 夫たちの中では、自身は若く経験も知識も少ない。夫夫だからこそ、対等に愛したいと、それがルールであり、決まりだから守らなければいけない。


 夫たちの言動をデータとして頭にしまう日々。可能性を導き出しては、予測と違うことをしてくる。愛そうと思っても、逆に愛されるばかり。


 それでも諦めず、冷静に対処しようとする。だが、追いつかず、何度も倒れた。愛したいと願うのに倒れてしまう。


 自身の望んでいる方向とは正反対、迷惑をかける方向へと結果はたどり着いてしまう。


 それならば、可能性の導き出し方が間違っているのだ。そうして、新しいルールを見つけた。


 この優しい男に自分は今のように悪戯をして甘える。そんな愛し方もあるのではないかと。自分らしくいることが、愛を返す方法ではないのかと。


 だからこそ、今のように罠を仕掛けて、くすくす笑う。子供じみた快楽に身を投じても、許してくれるこの男の愛の中で自分は幸せに生きている。


 いつも夫たちのデータを収集しているからこそ、この男がどれほど優しくて、人に気を使っているのか知っている――


 くすくす笑うのをやめて、光命は甘く囁いた。


「愛していますよ――」

「あっ! そうか……。それを言うために近づいたのか」


 若草色の瞳は優しさ色に染まった。


 独健は思う――


 この男は全て覚えていると言う。日常生活でもそうなのだ。


 専門分野の音楽など、曲を一度聞けば、全ての音を楽譜として、頭の中へしまってしまう。


 全てが数字。頬を横切る風も匂いも数字だ。曖昧さがどこにもない。


 その感覚は自分にはわからない。


 十五年間、同性を愛するという、ルールからはずれた日々の中で一人きり、猜疑心、羞恥心、自己嫌悪……様々な感情に足元を何度もすくわれそうになっただろう。


 自分がもし、同じ立場に立たされたら、耐えられなかったかもしれない。その日々の痛みも何もかも、今でもついさっきのように鮮明に覚えているのだろう。


 それならば、今から笑顔の毎日を過ごせるようにしてやればいい。冷たい優雅な笑みではなく、陽だまりみたいな優しい笑みになればいい。


 この男が笑うのなら、自分は罠にでも悪戯にでもはまってやる――


 独健の体は後ろにねじられ、


「ん〜、俺も好きだ」


 光命の細い腰を自分へと引き寄せた。甘くスパイシーな香水のついた内手首は、独健の頬を上へと持ち上げ、ふたつの唇はピアノの黒の前で出会ってしまった。


 ――悪戯と優しさのキス。


 ――――倫礼のベルベットブーツは、未だに最後の二人を見つけることができず、何度も同じ廊下を行ったり来たりしていた。


「どこにもいない……」


 どこかずれている妻の脳裏で、ピカンと電球がついた。パッとハイテンションに右手を斜めにかかげて、できるだけまだら模様の声で言った。


「こんな時は! デジタル思考回路、使っちゃ〜う!」


 感情だけで突っ走るのはやめて、事実を可能性からはじき出す。光命と独健の居場所を。


 そうして、今度はあごに人差し指を当てて、できるだけ優雅に微笑む。


「自分で確認していないことは決めつけない。可能性が零.零一パーセントでもあるならば、勝手に切り捨ててはいけない。ということで、ピアノの部屋であるという可能性がある!」


 さっと瞬間移動をして、ドアはもちろんノックせず、そうっと扉を中へ入れた。


「ん〜〜? いたっ!」


 妻は見てしまった――


 紺の髪とピンクのストールで隠れていてよく見えないが、座っている独健の足と立っている光命。そばにいるのに話してもいない。動きもしない。ということは……。


「あぁっ! 光さんと独健さんが……。お取り込み中……」 


 だが、立ち位置が逆である。ピアニストが立っていて、料理上手な体育会系の夫が椅子に座っているのだから。妻の軽い妄想が始まる。


「あぁ〜、懺悔ざんげと称して、ご主人さまにBL罠を仕掛けられた、感覚的執事の受難……。ノーマルだった執事はこうして、男色という世界へ堕ちてゆくのだった――」


 ピンクのストールで二人の腰元はうかがえない。隠れているからこそ、妻の意識はそこへと釘付けになる。しかし、倫礼は首をかしげた。


「ん? 光さんと独健さんのセ◯キで、どうやってお楽しみをする?」 


 かろうじて見えている、アーミーブーツとミリタリーズボンを体へとたどってゆく。


「独健さんのあの躍動感のあるセ◯キ……」


 この記憶は静止画にした。今度は窓に半身を見せるように立っている光命。だったが、倫礼は彼の身を案じる。


「光さん、大丈夫かな?」


 セ◯キまで瞬発力バッチリの、スーパーエロ夫。倫礼はドアを開けたまま、廊下を左右に眺めた。


「夕霧さん、呼んできて、お姫さま抱っこしてもらわないと、もう動けないんじゃ……。あの光さんの男女兼用のセ◯キじゃ……」


 夫たちのセ◯キが普通でないばかりに、妻の独り言はやはり意味不明だった。


 夫二人のかくれんぼで、夫夫のキスなのに、他の夫夕霧命が必要になるという緊急事態。


「やっぱり、夕霧さんに来てもらった方が……」


 光命の冷静な水色の瞳には今度、妻がドアを開けたまま、廊下を右に左に落ち着きなく眺めている姿が、背を向けているにも関わらず映っていた。


「倫? 構いませんよ」


 遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が聞こえてきて、倫礼はビクッと反応した。


「あれ? どうして、わかったんですか?」

「窓ガラスにあなたの姿が映っています」


 開けたままにしていたレースのカーテンは、妻の姿を見るためだったのだ。無駄な動きなど、光命にはないのである。


 冷静さも落ち着きも持っていない妻は、独健と同じようにはまってしまった。倫礼はぺこりと、礼儀正しく頭を下げる。


「あぁ、バレバレだった……。すみません、邪魔してしまって……」


 今はもう、ひまわり色の短髪は妻からもよく見えていて、独健は不思議そうな顔を、光命に向けた。


「邪魔なのか?」


 細く神経質な手の甲は中性的な唇に当てられ、くすくすという笑い声を間近で聞かされた。


「おかしな人ですね、倫は。私たちの妻なのですから、よいではありませんか」


 その手のひらにある、鈴色の懐中時計は、


 ――十七時二十二分二十三秒。あと、零分四十二秒。


 時間制限があることなど知らないどころか、倫礼は十八人で夫婦をしていることに、まだまだ慣れていなかった。


 他の人たちの情事を、夫婦間で共有しないのはおかしい。今日は誰とどこでどんなことをしたのか。それは、罪悪感でも羞恥心でもなく、明智分家の真実の愛の形なのだ。


 本人たちにが特別に断ってきたのなら、それはのぞき見はいけないことだが、今はただのかくれんぼであって、煩悩を持っている妻が勝手に妄想しているだけ。


 倫礼は達成感で自然と笑顔になり、指先を夫二人に勢いよく向けた。


「はい! じゃあ、二人を見つけました!」


 独健と光命が近くへ瞬間移動してきて、それぞれの手が妻をつかむと同時に、三人はすうっと消え去った。


 センサーで点灯していた、部屋の明かりは日が沈むように少しずつ暗くなってゆく。


 レースのカーテンは乱れひとつなくなり、強い青、花色の厚手のカーテンが部屋に一日の終わり、幕を下ろした――――



 ――――無事終えた、二回目のかくれんぼ。


「ありがとうございました。楽しかったです」


 何も知らない妻は笑顔で、夫たち九人に頭を下げた。夕食までまだ三十分以上もある玄関ロビーから、オルタナティブロックの縦揺れを再現しながら、すっと姿を消してゆく。シャットダウンしていないPCの前へ戻るために。


 夫たちはお互いの顔を見合わせて、何も言わず、まだ本当に終わっていない、かくれんぼの終焉しゅうえんを待ち続ける。


 策士四人のそれぞれの時計は、


 ――十七時二十三分十秒。あと、五秒。


 他の夫たちももう気づいている。このかくれんぼの提案者が誰か。全員の心の中で密かにカウントダウンが始まる。


 ――あと、四秒。


 バイセクシャル複数婚をして、よかったと心の底から思える時間の訪れ。


 ――あと、三秒。


 つるしびなのような、フェルト生地の雪だるまとみかん。


 ――あと、二秒。


 十五時過ぎと十六時過ぎに、玄関の扉をバターンと勢いよく開ける人たち。


 ――あと、一秒。


 その時だった。月命のチャイナドレスだけを残して、夫たちは瞬間移動で、ロビーの吹き抜け高くへ浮き上がったのは。


 ――零。十七時二十三分十五秒。


 抜群のタイミングで、ガヤガヤし出した少し離れた廊下。夕食を終えた子供たちが、思い思いに話しながら水色の絨毯の上に次から次へとなだれ込んできた。


 月命のピンヒールは綺麗な足を連れ、子供たちを迎えるように、かかとをそろえて立っていた。


 ニコニコと優しい笑み。学校で人気のある先生で、自分たちのパパの一人。子供たちはそんな大人を見つけると、目を輝かせ走り寄ってきた。


るなすパパ〜!」

「どうだった?」


 さっとかがみ込むと、マゼンダ色の長い髪がシルクの布地を滑り、床にこぼれ落ちた。


「みんな以前より仲良くなりましたよ」


 小さな手で万歳をしたり、ピョンピョンはね出して、子供たちは大騒ぎになった。


「よかったぁ〜!」

「僕たちの大作戦、成功〜!」

「やっぱり、大人でも一緒に遊ぶと仲良くなるんだね!」


 子供が考えたから、かくれんぼだったのだ。しかも、大好きなパパとママたちへのプレゼント。


 昨日お願いされた子供からの話。小学校教諭はいかに合理的に、彼らの願いを叶えるかを考えた。全てを記憶している頭脳の中で、


 日々の時刻のデータ。

 誰がどう動くかの可能性。

 三百億年という月日で手に入れた計り。


 そうして、はじき出した。子供たちが帰ってくる、二時間前の十四時七分から始めようと。


 時刻を記憶している夫たちは、七分のずれが、子供たちの帰宅時刻と関係しているかもしれないと気づくだろう。


 全員、自分と同じように父親だ。子供の願いとならば、叶えようとするだろう。すなわち、協力者が出てくるのだ。時間内に終わらせようとする人が出てくる。


 もちろん、気づかない夫や時計を持っていない夫もいる。それに対処するために、一回目は、月命が鬼になると言い出した。


 探したなど嘘なのだ。時間がくれば、個別瞬間移動をかけて、先へと強引に進ませる。


「パパ、僕ママをおやつに誘ったよ」

「よくできましたね」


 パパだとか、ママだとかではなく。両親に仲良くなってほしい。


 バイセクシャルの複数婚。夫たちのつながりもある。二回目はルールが変わる。


 そのために、子供たちが帰宅する時刻に、玄関ロビーへと一旦戻り、彼らに妻を連れて行くように指示を出したのだ。


 噓も方便。ママも一緒におやつを食べたいと願っているかもしれないと。


 そうして、子供たちが夕食を終える、二回目の時間制限に向かって、二周目が始まる。


 四組のペアのうち、時計を持っている人がいるのは三組。調整はいくらでもつく。


 どうしても間に合わない時は何か言い訳をつけて、倫礼ごと戻って来ればよいのだから。


 最短時間で、子供たちの願いも叶え、自分たちの絆も深めた、月命のかくれんぼ。


 子供のために生きていると言っても過言ではない。小さな人たちが笑顔になるならば、好きでもない女装までする男。慈悲深く、数時間で全てを叶えるための策を投じたのだ。


 結婚指輪をしたパパの大きな手で、頭を優しくなでられた子供は照れたように微笑んだ。


「ふふふっ」 

「君たちのお陰で、パパ同士も仲良くなりましたよ」


 学校でみんなに、パパとママがいっぱいいてすごいねと感心される子供たち。誇りであって、三日後の学校でまた話そうと心に決めるのだ。


 子供たちは全員万歳して、ピョンと飛び上がった。


「やったぁ〜!」  


 そうして、月命の前に大きな布袋が瞬間移動してきた。桜色で水色のリボンがかけらている。


「それでは、こちらがご褒美です」 


 縛られていたリボンを解くと、甘い香りと色とりどりの紙に包まれた丸いものが現れた。


「うわぁ〜! キャンディだ〜!」

「月パパ、ありがとう!」 


 今日学校から帰ろうと、正門を出た時。ぜひ受け取ってほしいと、知らない男から渡されたプレゼント。


 好意に甘えて笑顔で受け取り、今こうして、めぐりめぐって、小さな人たちの幸せに変わっている。


「こちらこそ。君たちのお陰で、楽しい時間でしたよ」


 妻も夫も小さな人たちの思いやりのお陰で、幸せの連鎖はどこまでも続いてゆく。


 アメでぷくっと頬を膨らませながら、子供たちは得意げにまた相談を始めた。


「次何にしようか?」

「パパとママが仲良くなる方法?」


 将来やりたいことを、今日も遊びながら学ぼうと、数人で割り振っている部屋へと小さな足たちが歩き出す。


 月命はそっと立ち上がり、子供たちの小さな背中の斜め上に浮かんでいる夫たちの姿を、ヴァイオレットの瞳の端に映した。


「大人のアレンジを少々加えましたが……うふふふっ」 


 だが、全員いなくならず、たて巻きカールをした髪を、頭の左右の高い位置で縛っていた、月命の娘で付き合も長い、繁礼かるれが女装しているパパに話しかけてきた。


「月パパ? ティアラはどうだった?」

「みんな喜んでいましたよ」


 月命はサイズの銀の小道具を頭の上からはずし、持ち主の娘に無事に返した。


「パパのファンクラブの姫たちも喜んでたよ」


 受け取った繁礼は誇らしげに言って、ドレスを着たお姫さまがスキップするように、両手を後ろに組んだまま去ってゆく。


 取り残された月命はこめかみに人差し指を立てて、表情を曇らせた。


「困りましたね〜。僕の体質にも。小学生の女子児童まで、僕に夢中になってしまって……。どのようにしたら、なくなるんでしょうか〜?」


 ルナスマジックは強烈だった。


 娘の言葉に補習をつける、小学校教諭は。空想世界で、黒板にチョークで文字をさらさらと書いた――


 姫とは、女性全員の名前の後ろにつく尊称のこと。繁礼姫が正式名。ここでは、小学校の女子だけを指す。娘の言葉を翻訳すると、


 パパのファンクラブの女の子たちも喜んでたよ――


 ちなみに、男子は童子がつく。隆醒りゅうせい童子が正式名。


 姫は大人まで使えるが、童子は子供のみ。そのため、成人として認められる十七歳になると、童子をはずす、もしくは改名するのが慣わし――


 夫たち九人。


 蓮、光命、夕霧命、焉貴これたか、月命、孔明、明引呼あきひこ貴増参たかふみ、独健――


 は廊下にいつの間にか、それぞれの格好で佇み、子供たちの頼もしい背中を、一人一人の父性で優しく見送っていた。


 ――父として、子供の気持ちに応えた、かくれんぼだった。


 小さな人たちが全員いなくなったところで、月命は振り返り、紺の長い髪と冷静な水色の瞳を持つ夫に、ニコニコの笑みを向けた。


「それでは、今日は光をみんなで囲みましょうか〜?」


 今夜は八対一。


 光命の神経質な指先は悪戯っぽく、紺の髪を巻きつけては、離してスルスルと落とす弄びをする。


「なぜ、そちらになるのですか?」

「おや〜? とぼけても無駄ですよ〜」


 全員の視線が集中する。


 何の見返りもいらない。ただ、他の人が幸せになって欲しかった。ただそれだけ。


 こうなることはわかっていた。言えば、少なからず情報は漏洩する。自分が仕向けたのだと、気づかれる可能性が非常に高い。


 だがそれよりも、みんなが幸せな気持ちになることが優先順位が高かった。夫たちだけではなく、妻も子供も、みんな。


 父として、夫として、男として。今ここに、こうやっていれることが、自分には何よりの幸せだ。


 どこまでも中途半端で、自身の家庭など持てないと、一年前までは思っていた。


 だがそれは、こんなにも大きな幸福となって、返ってくる前触れだったのだ。過ぎ去ってみれば。


 今も鮮やかに、あの悩み苦しんだ日々が脳裏に浮かび上がって、目の前にある幸せが傷跡に強くしみて、遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声は、少し震え気味になり、


「……ありがとうございます」


 神経質な頬に一筋の涙がこぼれ落ちていった――――



 ――――そのころ本家では。さっきからひっきりなしに着信し続ける携帯電話があった。小さな手で握られていて、丸い子供らしい瞳がそれを見つめる。


 少し枯れ気味で意気揚々としていて、幼い声だが、どこか人生の重みを感じさせる響き。それがさっきから同じことを言い続けていた。


「おう? メール……おう? メール……おう? メール……おう? メール……」


 返事を返せないうちに、次々に受信ボックスにたまってゆく。手に負えない携帯電話。


 それを背後から見る形で、すうっと瞬間移動で人が立った。黒のトゲトゲ頭をした弟の名前を、飄々ひょうひょうとした声が呼ぶ。


帝河ひゅーが?」


 携帯電話を握った手は机の上から降ろされ、回転椅子をくるっと回して、帝河は振り返った。


 そこには、自分よりも七歳も年上のサッカー部に入っている、日に焼けたひょろっとした兄が立っていた。


「あぁ? 何だよ? 輝来きら。珍しいな、五歳児の部屋に来るなんてよ」


 プライベートもしっかり守られている、思春期の兄、輝来。そんな兄が、わざわざチビッ子の相部屋に来るなど、五歳の弟でもおかしいと思うのだ。


 輝来は両腕を組んで、右に左に行ったり来たり。自分たちが学校に行っていた間に起きた大事件を口にする。


「今日、倫姉ちゃんとるなすさんが来たって聞いた。父上に頼んだのはお前か?」


 身に覚えがない、濡れ衣である。だが、この五歳児は驚くわけでもなく、怒るわけでもなく、見当違いもはなはだしい、兄に思いっきり聞き返した。


「あぁ? 何言ってんだ? 輝来」


 いつでも七十センチの身長差。椅子と立っている姿勢。さらに磨きがかかった高低差で、兄は上から目線を弟に食らわした。


「そうか。お前じゃなかったか。じゃあ、誰なんだろうな?」


 やたらと突っかかってくる兄。だが、こんな挑発に乗るような弟ではない。


 体は五歳だが、中身は四百歳を超えているのである。しかも、十五年前までは、一人で生き抜いてきたのだ。そこらへんの大人よりも知恵は持っているのである。


「玄関から入ってきたんじゃねぇんだな。輝来がわざわざ聞いてくるっつうことは」


 兄だって、見た目は十二歳だが、三百五十年生きているのである。


「縁側にいきなり現れたって聞いた」


 そう言って、兄は弟の反応を待ちわびた。


 布団の上で遊んだだけで、厳しく叱られる本家。帝河の少し枯れ気味の声は裏返りそうに素っ頓狂な響きを上げて、


「あぁぁっっっ!?!?」


 リアクション抜群の五歳児は、打ち上げ花火が上がるようにピューッと一メートルほど飛び上がった。


 浮遊の能力をすでに手に入れている五歳のチビッ子は、浮き上がったまま、あの邪悪なヴァイオレットの瞳を持ち、小学校に女装してくる歴史教師、いや義理の兄の心配を始めた。なぜか実の姉のことを放り出して。


るなすのやつ、大丈夫かよっ?! 今ごろ畳に正座させられて、パパに叱られてんぞ!」


 義理の兄がどれだけ生きていようと。誰だろうと。この五歳の義理の弟は、いつでも態度デカデカで呼び捨て。


「月さんはそんなヘマはしない」


 バカにしたように笑う兄の前で、すうっと椅子の上に座り直した弟は、小さく短い足を机の上にぽいっと放り投げた。そうして、帝河の癖が出る。


「あぁ? 笑いだろ? 人生硬くなっちまったら、上手くいくこともいかなくなっかんな。だからこそ、笑いは必要だぞ?」


 五歳の弟に説教された、十二歳の兄だった。だが、輝来も負けていない。自分より五十年も長く生きている、弟の知恵を借りにきて、罠はもう仕掛けてあるのだから。


 両手を頭の後ろで組み、帝河は推理を始める。


るなすは言ってねぇんだよ。自分でやらなくても、まわりが勝手に動くだろ? それによ、あいつ頭いいかんな。誰かが言ったってわかってて、来たんだぞ。それは間違いねぇ」


 あのどこかずれている姉に、そんな頭があるとは、いつも一緒にいた弟には思えない。当事者二人は真っ先に消える。


「っつうことは……?」


 パパッと閃光が走るようにひらめいた。


「あぁっ! 姉ちゃんの子供の誰かが、パパに頼んだんだろ!」


 孫の頼みなら、おじいちゃんも多少の無理難題でも、そこにきちんと気持ちがあるのなら聞くのである。息子はよく見ているのだ。


「それしか考えられねぇぞ。誰だ?」


 九家族が集まった分家。子供の数は五十近くに上る。兄は手詰まりになりそうな弟をさりげなくあおった。


「どうやって絞る気だ?」


 パッシングなど気にしない。相手のペースに乗せられていては、人生上手く生きられない。このトゲトゲ頭のチビッ子は、そこらへんはよく心得ている。小さな腕を一丁前に組んで、障子戸をじっと見つめた。 


「あぁ〜っと、パパと仲がいいやつだろ? 新しく来たやつじゃねぇぞ」


 この携帯電話に登録されていた、友達だった甥や姪は一気に姿を消した。そうして、姉のそばでいつも話していた、昔からいる五歳児の顔が一人一人浮かび上がる。


「っつうことは……隆醒りゅうせい百叡びゃくえい……あぁっ! わかったぞ」


 同い年の叔父はピンときた。


我論うぃろーだ!」


 サラサラの銀の前髪を持つ、隣のクラスにいる気難し屋の甥が浮かび上がった――――



 ――――分家のベランダでは、小さな白い息が冬空に蒸気のようにフワフワと上がっていた。去年の夏休みに買ってもらった天体望遠鏡から、顔をはずす。


 何度も書き直した手紙。もう頭の中に全て入っている。それは新しい宝物だ。


『おじいちゃんへ。僕たちの作戦で、パパとママが遊ぶから、おじいちゃんちに行くよ』


 我論が見上げた夜空には、クレーターが見えるほどの大きな紫の月が、今日の顔を見せて浮かんでいた。

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