Dual nature――眠り王子
西の山の合間に、灼熱の残り火のような夏の夕日が沈んでゆく。オレンジ色の絵の具が空を染めて、じきに夜の闇を東から連れてくるだろう。
あと数日もすれば、緑深いこの場所は
神社の屋根から、カーカーとカラスが鳴き声を上げながら飛び立ち、家へと帰ってゆく。のんびりとした田舎町。
もうすぐ日が暮れる小さな神社。参拝客は誰もいない。だが、
上が白で下が水色の袴姿。
しかし、していることは神事ではなく、魔法でも使っているようだった。人差し指を立ててさっきから右左に回している。
「くる、くる、くる……」
参道の石畳の上で、ほうきが誰もいないのに、ゴミや枝の切れ端を勝手に掃いていて、
「さー、さーっ!」
青年が横へ線を引くように指を動かすと、操っているようにほうきが同じように動き、集めたゴミを地面に置いてあったチリトリに掃き入れた。
ひょいっと、何かを空へ持ち上げるように指先を動かすと、ほうきとチリトリは不思議なことに姿を消した。
空はどこまでも綺麗な夕焼けで、吹き抜ける風はどこまでも澄んでいたが、青年の心は今にも雨が降り出しそうなほどどんよりと曇っていて、思わずため息をもらす。
「ボクの能力は毎日、神社の掃除をするためだけに使われる……」
湿った夏の風が遠くの風鈴をチリンチリンと鳴らすと、漆黒の長い髪が神社の板の間の上でさらさらと揺れた。
パンドラの箱でも開けてしまったみたいに、別世界へと飛ばされてしまったように、何かで空間が歪み、急に悪寒が走るような生暖かい風に変わった。
昼と夜の交差点、夕暮れ時は、
頬杖をついて、聡明な瑠璃紺色の瞳は参道へと続く階段がある鳥居をずっと見ていた。
登ってきた人影はどこにもなかったのに、おかっぱ頭の少女が火のないところに煙が立ったように突然ゆらゆらと現れた。
歳の頃は七、八歳といったところだ。白いブラウスに赤いスカート。もう何十年も前に流行った靴を履いて、こっちへ歩いてくる。
青年がいることに気づいていない少女。彼が凝視している前で、彼女の姿が蜃気楼のように揺れ、煙のように消えたかと思うと、時間を飛ばしたように参道を進んで、賽銭箱へと近づいていた。
夕日が注ぎ込んでいる石畳の上には、少女の影はどこにもない。それでも、青年には彼女の姿がよく見えた。恐怖心もなく、間延びした声で言うと、
「どうしたの〜?」
頬杖をついていた視界がガクガクと縦揺れを起こした。
青年しかいない、境内には。彼は誰もいないところに向かって話しかけていた。しかし、聡明な瑠璃紺色の奥にある脳裏の中で、参道の石畳の上にいる少女がびっくりした顔をする。
「おにいちゃん、みえるの?」
戸惑い気味の少女の声も近くの木々に染み込まなかったが、青年の陽だまりみたいな穏やかな響きが夕風に乗った。
「見えるよ」
小さな白と赤の服は、賽銭箱の隣に座っている白と水色の大きな袴の前まで、小走りに寄ってきた。心配そうで、寂しげな色の少女の瞳が青年を見上げる。
「どうして、みんな、わたしのこと、みえなくなっちゃったのかな?」
のんびりと今でも頬杖をついている青年は、誰もいない場所に向かって話し続ける。
「それはキミの住む世界が変わったからだよ」
少女の向こう側にある景色は、彼女の体がそこにあってもよく見えた。透き通っているからだ。
「せかいがかわった?」
青年は片手を膝から外して、夕暮れのオレンジ色を指差す。
「そう。お空になったんだよ」
死んだことも気づいていない、少女の霊――浮遊霊と、青年は話していたのだった。
ピンクや紫、ミッドナイトブルーなどの様々なグレデーションを見せる夕焼けを、少女は瞳に映すと、風もないのに、おかっぱ頭の髪がサラサラ揺れる。
「そら? どうやったらいけるんだろう?」
「ボクが送ってあげるよ」
青年は板の間から立ち上がって、足袋に草履の足を石畳の上で、ジャリジャリと音を鳴らした。少女は目を輝かせる。
「できるの?」
「できるよ」
嘘は言っていない。服は着ているが神主見習い。だが、目の前にいる幽霊の少女を――霊界へと送ることは容易い。今まで何度もしてきた。
「すごい! おにいちゃん」
少女はまるで魔法使いでも見ているような気持ちになって、手を叩いて大喜びした。その幸せはとても儚いもので、青年の脳裏で電光石火のごとく、少女の行く末が厳しく流れてゆく。
(死後、どんな理由があっても地上に残ることは
死んだことも知らず、生きている他の人に声をかけては無視されての日々。少女の心は十分傷ついているだろう。
知らずに地獄へと行って、自分に課せられる試練を懸命に乗り越えた方が、罪が軽くなる可能性だって上がるだろう。
恐怖心で後ろ向きになればなるほど、年数は増えていってしまうのだから。誰だってそうだった。
青年は真意を隠すように、春風のような穏やかで柔らかな笑い声だけをもらす。
「ふふっ」
大きく深く息を吸って吐いて、心を鎮める。精神を統一するように、両手を胸の前でパンと鳴らした。
夏の湿った風ではなく、サワサワと嵐のような強風がふいに吹きすさぶ。ごうっと火が勢いよく燃える音がすると、少女の後ろにある石畳に突如現れた、青白い光を放つ魔法陣。
服も髪も風で激しく揺れている少女は、思わず腕で目を覆っていた。だが、痛みなどという感覚はとうになく、すぐにしっかりと立った。
背の高い青年の漆黒の長い髪は横へ横へと流れるようになびく。少女へと近づいた彼には、さっきまであった陽だまりみたいな穏やかさはどこにもなく、今は
「じゃあ、その円の中に入って」
何も知らない少女の赤い靴は小走りで、青白い魔法陣の中へ入って、得意げに振り返った。
「こう?」
「そう。じゃあ行くよ」
凛々しい眉をした青年は優しく言って、組んだ両手を口元へ持ってきた。さっきまでとは違って、低くボソボソとした声で唱えられ始める
「
魔法陣の青白い線は高波のように上下に激しい曲線を描いていたが、二匹の龍のように空高くへ登るように、少女のまわりで螺旋を引き出した。続く呪文の中で、少女の姿は完全に光に包まれた。
そうして、長い祝詞は結びを迎える。神にもそれぞれ役割がある。今この時に最適な神との約束を取りつけようと、その名を口にした。
「……
急に立ち込めた雨雲が空の低くへモクモクと吐き出された煙のように降りてくる。ザザーンと大地を震わせるような雷鳴が鳴り響き、雷光が雲の合間をはうと、六柱の鎧兜を着た神が降臨した。
あっという間に金の尾を引いて、少女を連れて空へ登り、雲の隙間からさらに高い場所へと消え去った。
台風一過のように、何事もなかったように、田舎町ののんびりした夕暮れの空が山が、カラスのカーカーと鳴く声と、風鈴が風に儚げに揺れる音が戻ってきた。
乱れた漆黒の髪を手ですうっとなでながら、背中へ戻す。青年の瑠璃紺色の瞳は黄昏れ気味に夕闇を眺め、今の自分の言動を振り返った。
「あと、除霊かなぁ〜? ボクの能力を使うのって……」
特殊能力。それは素晴らしいことかもしれない。だが、田舎町に暮らす青年にとっては、宝の持ち腐れ。珍しくため息が夏の湿った空気に入り混じった。
「はぁ〜」
しかし、いつまでも落ち込んでいても、現状が変わるわけでもなく、青年はささっと気持ちを入れ替え
「テレビでニュースでも見よう」
年末年始は近隣の人々が参拝に訪れる、ちょっとした有名な神社だが、七月半ばのこの時期になど、夏祭りでもなければ人は来ない。
さっきの幽霊の除霊事件を除けば、平和でのんびりとした田舎町の神社の境内だった。
*
築百年ちょっと。何度も張り替えている畳の上で、丸いちゃぶ台の中央に置かれたせんべいに、袴の白い袖から出ている手が伸びてゆく。カサカサとという乾いた音とテレビから聞こえてくるアナウンサーの話し声が重なっていた。
香ばしく焼かれた茶色の丸は手に連れられて、ちゃぶ台の上から一枚だけ姿を消して、下へ落ちてゆく。ずいぶんと間延びした青年の声が聞こえてくる。
「おせんべいをパリパリ……パリパリ……」
青年の口元にせんべいは運ばれ、噛み砕かれ、
手持ちぶたさで、近くに置いてあった週刊誌を適当にパラパラとめくり、せんべいの食べクズがページに挟まってゆく。
昼間は高校生、家に帰れば、神主見習いとして過ごす毎日。するべきことはきちんとこなして、時間を持て余す日々。
田舎町でそうそう大事件に出くわすこともなく、平和はどこまでも広がってゆくようだった。
しかし、運命の出会いはやってきた、聡明な瑠璃紺色の瞳に映ったテレビ画面の中で。
そこには、黒の長い髪を清潔感を表すように、きちんとポニーテールしている女が映っていた。どこにでもいる平凡な女。
青年は食べかけのせんべいも放り出して、雑誌の上に両肘をついて、四つんばいでテレビに近づいてゆく。十分見えているはずなのに、穴があくほど画面を見つめた。
「ん〜?」
小首を傾げると、漆黒の長い髪が背中から、畳の上にさらっと落ちた。
テレビの中には白衣を着て、細い黒縁のメガネをかけた、いかにも頭がよさそうな女が映っていた。アナウンサーの少し興奮気味の声が聞こえてくる。
「
フラッシュの嵐の記者会見を見ながら、青年はちゃぶ台の上に手をはわせ、振り向きもせずにせんべいを一枚つかんだ。
「家族との再会……そう」
リポーターのマイクが大量につきつけられた、患者の両親が涙ながらに言葉を口にする。だが、それは青年にとってはどうでもいいことだった。
視線は一ミリも動かさず、歯でせんべいを噛んで、パリッと勢いよく破り食べる。ゴリゴリという濁った音が自分のうちで響くが、それさえも蚊帳の外で、テレビの見出しの文字を読む。
「またもや快挙。藍花 蓮香、二十三歳……そう」
青年の聡明な瑠璃紺色の瞳は女の見た目というよりも、別のところを見ているようだった。
そうしてやがて、せんべいを全て食べ終えると、さっと畳の上から立ち上がって、天井高くを指差し、
「ボクのするべきことはこれだ!」
吊り下げられた照明の和紙に、白の袴の袖口がぶつかって、ゆらゆらとオレンジ色の光が揺れた。
*
七月十六日、火曜日。梅雨が明けるには少し早く、薄曇りのはっきりとしない空。高校の制服にまとわりつくようなジメジメとした湿度の高い風が立ち込める。
期末テストも終わり、夏休みまであともう少しのワクワクとだらけの入った二年生の教室。下敷きがうちわがわりにパタパタと
体育の授業をしている声が校庭から聞こえてくるが、窓際から二列目に座っている少女には姿が見えなかった。ハンカチで額の汗を軽く拭いて、パタパタと上下に振って小さな風を頬に浴びせる。
開いたままの現国の教科書を腕で押さえながら、ノートの上でシャープペンをまた走らせたが、少し離れた斜め前でそこだけ休み時間みたいな光景を見つけて、ふと手を止めた。
黒板をカツカツとチョークで叩く音が止まるのに、少女は気をつけつつ、どこかずれているクルミ色の瞳でそっとうかがう。窓際から二列目の自分の席から、一番廊下側の最前列に座っている人を。
(まただ……)
授業中にも関わらず、鮮やかなピンク――マゼンダ色の長い髪は机の上に突っ伏して眠っている。動くこともなく、起きる気配もなく。
よそ見として国語教師に認定されないように、少女はそっとうかがい続ける。
(一年生の時から同じクラスの、
あの印象的なマゼンダ色の長い髪が授業中だけでなく、休み時間もどんな時も、まっすぐ立っているのを見たことがないのだった。
(話したことはないけど……)
いつも寝ているのだ、そんな機会などめぐってこない。それは少女だけではなく、他の生徒も全員同じだった。だからこそ、注目を集める漆橋 月は。
(気になる……)
先生が振り返りそうになって、少女は慌てて視線をそらした。腰までの長い髪がベールのようになって、顔をうかがい見ることができない少年から。
(恋をしてるってことじゃなくて……)
ノートの端に、適当な線をシャープペンで何本も落ち着きなく引いてゆく。
(すごく不思議な男の子で……)
本当にそうで、女子に見える時がある
(女の子みたいに綺麗で、女子から……)
どこか神秘的な男子生徒についた、異名を少女はノートに走り書きした。
(眠り王子――って呼ばれてる)
いくら綺麗でも、眠っているだけの男子に、女子もそうそう注目するはずがないが、魔法と呼ぶべきか、月の奇怪な行動が今日も授業中に始まる。
先生の説明とチョークのカツカツという音だけが、七月の教室に響いていた。
「ここは体言止め。こっちは倒置法を使っている」
だが、黒板に書かれていた文字が止まると、教師は振り返り、
「あともうひと――」
一番前の席で、眠っている生徒を見つけた。
「漆橋、聞いてるのか?」
眠り王子のマゼンダ色の長い髪はもそもそと起き上がり、月のような美しい横顔はまどろんでいた。
「……あぁ、はい」
その声色は凛として澄んだ儚げで丸みのある女性的だが、誰がどう聞いても男子のものだった。起きたばかり、熟睡していたのは誰が見てもよくわかる。
教師は怒る口実を作るために、わざと言う。
「それじゃ、今説明したところ読んでみろ」
「くすくす……」
できずに怒られる姿が容易に想像できて、クラス中から密かな笑い声がもれた。
月が立ち上がると、椅子がズズーっという音を教室中に撒き散らし、開いてもいなかった教科書をめくり、平然と読み出した。
「――空の生き写しのような海は、淡く濃い真逆の青、瑠璃色。まるで僕の心を表しているようだった。恋に不慣れな僕の心を」
教師は制裁を与えるつもりが、問題点は生徒によってかき消されてしまった。
寝ていたから、どこを今やっているかわからないだろう。という予測を見誤った、生徒の見る目がない教師は、あっという間に倒されてしまった。
気まずそうな表情も、他の生徒たちにはできるだけ隠して、
「う、んん……終わりにしていい」
「はい」
クラスメイトたちは顔を見合わせて、コソコソ話を始めた。
「どうして、寝てたのにわかるんだ?」
「本当は起きてるとか?」
疑惑だらけの眠り王子を一人残して、ざわざわと強風に揺れる木々の葉音のように大きく広がってゆく。
「それだったら、机の上に突っ伏さないよな?」
「怒られるの目に見えてるしね」
大人の教師にもさっぱりだった。月の言動の構造は。
「静かにしろ」
先生の叱りが飛ぶと、生徒たちの話し声はピタリと止んで、授業はまた進み出した。
黒板の字をノートへ写しながら、どこかずれている瞳の少女は今日も囚われる。マゼンダ色の長い髪持ち、女性的な声を持つ不思議な雰囲気の青年に。
(そうなんだ。寝てるはずのなのに、当てられるときちんと答える。どうなってるんだろう?)
だからこそ、余計に噂が噂を呼び、眠り王子などというメルヘンティックでファンタジーな名前を、女子につけられてしまうのだった。
その時だった。終業を知らせるチャイムが鳴り響いたのは。
「じゃ、今日はここまでだ」
授業という拘束からの開放によって、生徒たちがそれぞれ席から立ち上がり、話や笑い声が波のように押し寄せ出した教室の端で、マゼンダ色の長い髪を持つ男子生徒は微動だにせず、まるで死んでいるように眠り続ける。
平凡で頭がいいわけでもなく、他人のこと優先で自分のこと後回しの、どちらかというと損するタイプの少女の、どこかずれているクルミ色の瞳は、クラスメイトの隙間を縫って、眠り王子を見つめる。その視線は誰も知ることはない。
(動かない。休み時間もずっと椅子に座ったまま眠ってる。というか、起きてるとこをほとんど見たことがない)
高校生の自分が見ても異常な行動。人は自分の価値観で相手を見る傾向がある。サボる人は、相手もサボっていると思う。
いつでも一生懸命な彼女には、月の奇怪な言動には全て意味がある気がした。
(病気か何かなのかな?)
首をかしげると、ブラウンの長い髪がワイシャツの背中で揺れ動き、盛夏の訪れを予感させる風が吹き抜けていった。
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