翡翠の姫――十六夜(いざよい)に会いましょう

 いつまでもやってこない衝撃と濁流の音。貴増参はそっと目を開ける。すると、青いほのかな灯りに包まれた、広い空間にまっすぐ立っていた。


「…………」


 足元はしっかりとしていて、白い四角いものが散らばり、あんなに強く吹いていた風もない。


 振り返ると、淡いオレンジ色の光がひとつ薄闇にポツリと灯りを落としていた。


「…………」


 白い幕――レースのカーテンが左手にさざ波のように広がり、本特有の湿った紙の匂いが体の内へかすかな呼吸のように入り込んでくる。


 床の上を反転して、乱雑な書斎机を真正面にすると、鍵のかかる引き出しは開け放ったままだった。


「……戻ってきた……みたいです」


 確信はなかったが、人生の大半を過ごす教授室に魔法でもかけられたように再び立っていた。


 散らかった紙の上に無造作に置いてある、腕時計を引き寄せ、時刻を瞳に映す。


 ――二時八分。


「丑三つ時……」


 過ぎたはずの時間は、ループしたみたいにそのままだった。土砂降りの茂みの中に立っていたのに、髪も服も濡れている場所はどこにもなく。嘘みたいに何も痕跡が残っていなかった。


「夢……?」


 あのひどく痛んだ頭の傷もない。狐にでも化かされたようだったが、右手から青緑の光を発しているものだけが、唯一現実だったと教えていた。


 必死に握りしめていたようで、指先の痺れと震えの中で、姿を現したものの名を貴増参は口にした。


「翡翠……」


 逆巻く波を横から見たような曲線を描く勾玉――


 あの別世界へ行く前は石だけだった。だが今手の中にあるものは、白の巫女が肌身離さず首につけていた、皮の紐がついていた。


 深夜にも関わらず、帰ることなど忘れて、貴増参はあごに手を当て、優しさの満ちあふれた茶色の瞳を影らした。


「人々はどうなったのでしょう?」


 他国の陰謀である可能性は非常に高かった。そうなると、白の巫女が守ろうとした弱き者たちは、無事とは限らない。


 多くを語れず、防ぐこともできず、傍観者として、過ごした数時間だった。だが、歴史はそこに大きく息づいていた。


「過去のどちらの時点にも、手を加えることは僕に許されていません」


 手を貸して、一人でも多くの人が幸せになるように物事が運べばいい。それは願いであって、決して確実な事実ではない。


「その先のいくつもの未来まで変えてしまう可能性があります。天文学的数字に登る人々の行末までも変えてしまう」


 人に未来は見えない。誤って、悪政を敷く指導者が代替わりすることが続き、数世紀も人々が悪戯に苦しむ未来へとつながらないとは言えない。


 まだ光り続けている勾玉を握りしめて、深夜の教授室をかかとをかつかつと鳴らしながら、修復作業をしていた土器があるテーブルへとやって来た。


「今、研究室にある出土品も、この大学という制度さえもなくなってしまうかもしれない……」


 この部屋に大量に置かれた本。表現の自由も許されず、人々が知恵をつけることも制限されてしまうかもしれない。今着ている服さえも提供されないかもしれない。


 同じ世界の過去でなかったとしても、あの時間の延長上が存在していることを考えるからこそ、貴増参はため息をもらすしかできなかった。


「だから、僕は君に手を貸せませんでした――」


 目の前で人が死ぬ。尊い心を持った人がいなくなる。やるせない気持ちでいっぱいになり、貴増参はテーブルの上に両手をついて、固く目をつむった。


「できるのなら、助けたかった……」


 一人の人間としてはそう思っていた。だが、人の勝手な判断で、変えていい未来ではなかった。


 あの牢屋から出る時につないだ、白の巫女の手の温もりが今も強く残っている。


 だが、もうどこにもない。どこにもいない。他の誰かでなく、彼女でなくては意味がない。


 それなのに、あの濁流にお互い投げ出され、引き離され、二度とめぐり合うことができないように、探すこともできない。


 素直で柔軟性があるかと思いきや、頑として引かない強情な性格。それは誰かを守るためのものであって、決して自分のためではない。キラキラと輝く心を持った少女。


「っ……」


 貴増参は少し苦しそうに唇を噛みしめ、白い布地をぎゅっと握りしめると、歪みができて土器のカケラがカラカラとむなしく音を立てた。


 リンレイの言葉が何ひとつ忘れることなく、脳裏を流れてゆく。そうして、あの高く澄んだ歌声にたどり着いた。


 まぶたから解放された茶色の瞳は背後にある窓へ振り返って、レースのカーテンはさっと勢いよく開けられた。青白い明かりが人影のない大学構内を照らし出す。


「……月」


 満月のように見えたが、よく気をつけてみると、少しだけかけていた。


「十六夜に会いましょう……」


 約束だった。しかし、それは守られることのない約束――嘘。だがそれでも、信じてみたいのだ。いつか守られる日が来ると。生まれ変わりがあると。


 レースのカーテンはそのままに、作業用のライトをそっと消す。手の中にある勾玉の蛍火のような明かりと、月影が斜めに差し込む床を歩いてゆく。


 開けたままにしていた引き出しに、翡翠を忘れ形見のように大切にしまう。あの白の巫女からの贈り物を、世界にただひとつしかない宝物として、鍵をかけて。


 上着とネクタイを無造作につかんで、カバンを持ち、貴増参は教授室の入口へとゆっくりと歩いていき、破壊されたドアの代わりの、白い幕を手で払って出て行った。


 引き出しの隙間から差していた、青緑の光は呼吸をするように強くなったり弱くなったりを繰り返していた――――


 

 ――――陽はだいぶ西に傾き、あと半刻もすれば、夕暮れが夜へと移りゆくだろう。


 一番星とともに、昼の太陽に隠れて南の高い位置へとすでに登っていた月が、美しい銀色を地上に降り注がせるのももうすぐだ。


 銀杏の葉の黄色はアスファルトを寒々と染めて、枝だけになった並木の前で、長いジーパンの足を持つ男の筋肉質な太い腕に、紫のニットコートを着た女がしがみついていた。


あき! 今日こそは約束だからね!」


 ごつい指先が、女の指一本一本をはがすように取っていこうとする。


「からよ、手ぇ離せや」


 大学の赤レンガの門の前で、また揉めている男女。学生たちがふたりを見て、こそこそと話をして、ニヤニヤしながら通り過ぎてゆく。


 だが、そんなことはどうでもいいのである。ブラウンの長い髪を持つ女にとっては。鋭いアッシュグレーの眼光に負けないくらい、きっとにらみ返してやった。


「一ヶ月前みたいに、置いてくんでしょ?」


 あの日の悔しさと言ったら、一生涯にそうそうないのである。未だ腕組みするみたいにしがみついている女に、明引呼はしゃがれた声でこんなことを聞く。


「てめぇ、一体いってぇいくつになったんだよ?」

「二十八っ!」


 即行返ってきた回答。空いている方の手の甲で、女の肩をパシンと軽く叩いた。


「普通に答えてんじゃねぇよ。置いていかねぇから離せよ」


 大きな手で振り払われて、女はむすっとした顔で思いっきりうなる。


「む〜!」


 この男は動きが早いのである。手を離したら、どうなるか目に見えている。だが、手の拘束は一方的に解かれ、明引呼は程よい厚みのある唇の端を歪ませると、


「ふっ!」


 短距離走のスタートでも切ったように、パッと駆け出して、貴金属類の音をチャラチャラと響かせながら、門の奥へと消え去っていこうとする。


 女は大声を上げて、バイオレンスな言葉を秋空にとどろかせた。


「あっ、もう! 追いかけてって、飛び蹴りしてやる〜〜っっ!!」


 ヒールなしの黒のロングブーツは猛ダッシュで、ガタイがよく背の高い男に走り寄り、


「とりゃっ!」


 本当に飛び蹴りを放った。慣れた感じで、明引呼は背後からの攻撃にも関わらずさっとよけて交わす。


「足が早ぇな」


 自分よりも三十七センチも背が低いのに、よく追いかけてきたと感心していると、シュタッとアスファルトに無事着地した、女からこう返ってくるのである。


「腐ってないわっ!」


 足が早い――腐りやすい。


 この女はいつもこうなのだ。言葉というパンチを食らわしてきたが、カウンターで即座に返してやった。


「逆で、売れ残ってんだろ」


 足が早い――売れ行きがよい。


 その反対。二十八の独身女に言う言葉としては、失礼もはなはだしい。


「違うわっ!」


 今にも噛みつきそうな勢いの女を、明引呼は置いていき気味に歩いてゆく。


 誰がどう見ても仲のいいカップルのふざけ合いに、まわりの学生たちの目には映っていた――――



 ――――そのころ、貴増参は一人きりの教授室で、書斎机の椅子にぼんやり腰掛けていた。


 あの日以来どうやっても、発掘してきた土器の修復作業は、白の巫女との記憶と重なり、そのたびに気づくと、手は止まっているばかり。


 出てくるのはため息と、約束の言葉、


十六夜いざよいに会いましょう――」


 あの不思議な体験をした深夜から、今日は二回目の十六夜じゅうろくや


 貴増参はいくつかの本を広げて、読んでいた文字もどこかぼやけていき、またため息をつく。


 三十五にもなって自分のある一面に、今さらながら気づいて、自分自身であきれてしまうのだった。


「僕は恋わずらいの王子さまみたいです」


 囚われの姫の元へ毎日出向き、愛を語るだけでは助けることはできず、今日も城へ手ぶらで戻り、明日も同じことをする。馬鹿げていると思うが、今ならその王子さまの気持ちもわかるのだった。


 研究者魂という胸の炎は、恋のスコールに消されそうだったが、それでも一ヶ月もかけて、一夜の夢のような出来事の真相にとうとうたどり着いた。


 手書きのメモを取り上げると、切ない気持ちが胸の内に深くにじむように広がってゆく。


「……やっと見つけました」


 時代はとても古い。惑星の反対側にある小さな島国の歴史。人よりは大量の本を所有している自分でも、手元に直接関連する資料はなかった。


 ネットを駆使して調べ、外国のサイトにまでアクセスして、翻訳機の意味不明な言葉というなぞなぞを解き、要約したものを読み上げる。


「二百十五年、十月。長きに渡る巫女が治める谷和紀やわき大国は、大量の降雨による災害により、国として成り立たなくなり隣国の可夢奈かむな国に統合された」


 侵略されたとはどこにも書いていなかった。だが、自分の目の前で起きたあの状況は、巧妙な侵略劇だった。


 歴史はいつもそうだ。人の気持ちは載っていない。無機質な事実が並べられているだけ。そこからどう思うかは人それぞれだ。


 貴増参はスリープしてしまったPCに、パスワードを入れて解除し、何枚かの画像をスクロールした。


 白の巫女が生きていた国は、自分が今暮らしているこの国と同じように、民主主義国家となり、戦争もなく平和な社会となっているようだった。


 自分一人の勝手で、過去に手を加える。少しのズレのように思えても、長い歳月をかけて、大きなズレとなって、今この国はなかったかもしれない。たくさんの人が必死で生きてきたから、平穏な世界が広がっているのだ。


 よかったのだと思うのだ。それはそれでと割り切ろうとするのだ。過去は過去なのだ。もう戻らないのだ。


 そう思おうと何度努力をしても、人とは弱いもので、貴増参は自然とため息が出るのだった。


「僕は勾玉さんに恋の魔法をかけられちゃったみたいです」


 あの日からずっと書斎机の引き出しに入っていて、日に一度は二重ロックを解除して、取り出して眺めては、嘆息ばかりの日々。


 これを魔法と言わずして、何と言うのか。どんなことをすれば、研究ばかりだった自分がここまで変わってしまうのかと、貴増参は客観的に思うのだった。


 今日も結局キーを鍵穴に入れて、暗証番号を入力して、天気のいい日の南の海みたいな青緑の翡翠を取り出した。


 初めのころは光をみずから発していた。いくら調べても、何が原因なのかわからなかった。


 だが、心の中ではそれが、あの白の巫女とのつながりのような気がしていた。


 しかし、もう今はただの石だった。


 どんな記憶でも、忙しい毎日に、これから訪れる多くの月日に埋もれてゆくだろう。だがしかし、彼女と過ごした数時間はいつまでも鮮やかなままだ。


 貴増参がメランコリックにまたため息をつこうとすると、トントンとドアがノックされた。


 上着のポケットに勾玉をそっと忍び込ませ、両肘を机の上について、真正面のドアをじっと見つめた。


 今までは研究の妨げとなる女子学生を追い払うために、いつもロックをかけていたが、そんな気持ちにもなれず、鍵は開いている。


 声をかけようとしたが、相手から先に話してきた。ガサツな男の声が喧嘩っぱやそうに、速攻パンチを放つように。


「おう!」


 蹴り破りはしないが、それに近い勢いで扉が開くと、藤色の長めの短髪と鋭いアッシュグレーの瞳を持つ明引呼が立っていた。


 ふたつのペンダントヘッドとウォレットチェーンをチャラチャラさせながら、先の尖った革靴で、貴増参とドアの間にある埃だらけのソファーへ近づいてくる。


 いつも通りの歩数で止まり、背もたれの後ろからジャンプで飛び上がって、着地と同時に横に寝転がって、ミニシガリロの青白い煙を上げる。それがこの男の行動である。


 貴増参はじっと待ち構えていたが、腹の奥底でくすぶっていた怒りという炎がメラメラと燃え上がり始めた。 


「先日のドアの修理代をまだもらってません」


 今回は踏み倒されないようにしないといけない。また研究費が友人の強行突破のせいで無駄に消えてゆくだけだ。


 いつまで待っても、明引呼はソファーを飛び越えず、背もたれに両手をついて、言葉の軽いジャブを放ってきた。


「いつまでもこだわりやがって」


 執念深さという点で言えば、貴増参の方がずっと上だ。だが、瞬発力は明引呼の方が優れている。矢継ぎ早に、要件を告げるしゃがれた声が両脇に並ぶ本のページに吸い込まれていった。


「助手連れてきだぜ」

「そうですか」


 座らなかったのは、後ろに人がいるからなのだと、貴増参は合点がいった。明引呼は一歩も動いていないが、落ち着きのない靴音が聞こえてきた。


「前から迷ってたんだよな」

「何を迷ってたんですか?」


 ソファの向こうに立っているガタイのいい明引呼にしては珍しく歯切れがよくなかった。いつもなら助手候補の経歴を軽く話して、あっという間に帰ってゆくのに、少々おかしかった。


「紹介するかどうかよ」


 長いジーパンの足を持つ男が、一人で歩いているところなど一度も見たことがない。必ずそばに女がいるのである。貴増参は予測をつけて、


「君の女性ですか?」

「ある意味そうだな」


 前髪を落ち着きなく触りながら、明引呼は答えを返してきた。


 珍しい言動を取ることもあるのだと、貴増参は思った。だが、仕事は仕事だ。プライベートは関係ない。恋愛する気などサラサラない。


 考古学者は広げたままの本を閉じて、机の上でトントンとそろえた。


「仕事をきちんとしてくれるなら、僕は構いません」

「てめぇみてぇに、ハニワさんに興味があってよ」


 貴増参は今日ももれずに訂正した。


「土器です」


 だが、もうひとつ声がかすかに響き渡った。それは本当に小さなもので、途切れ途切れだったが、ひどく怒っているようだった。


「……ど……ない……ば!」


 明引呼が息をつまらせ、貴増参を放置して後ろへ振り返った。


「っ! 何、蹴ってやがんだよ?」


 ドアを蹴り破る男が連れてくる女は、似た者同士らしく人を蹴るようだった。そんな跳ね返りのある女に、貴増参は今まで会ったことはなかった。


 あの白の巫女も頑として引かないところがあったが、明引呼に今のようにハニワと言われたら、きっと同じようにする姿が容易に想像できて、貴増参は久しぶりに微笑んだ。


 しばらく、ソファのところでもめていた明引呼と未だ姿を現さない女だったが、筋肉質な腕で無理やり引っ張られ、


「いいから、前出ろや」


 すすけたワインレッドの革ジャンの横から、小さな女が姿を表した。どこかずれているクルミ色の瞳。ブラウンの長い髪。彼女は戸惑い気味に挨拶をしようとしたが、


「あの、初めまして――」


 深緑のミニスカートに白のブラウス。胸元には大きめのブローチ。黒の膝までのロングブーツ。飛び蹴りしたり、蹴りを入れたりしていたわりには、エレガントな服装だった。


 着ている服はまったく違う。髪の色も少々違う。だが、見間違えるはずがない。あの白の巫女にそっくりだった。貴増参は思わず椅子から立ち上がった。


「君は……」

「あれ?」


 女も思うところがあったようで、小首をかしげて、黒いロングブーツは小走りに近づいてきて、貴増参を指差して、こんなことを言う。


「どこかで会いませんでしたっけ?」


 それを聞いた明引呼があきれた顔をした。


一体いってぇ、いつの時代じでぇの口説き文句だよ?」


 女は怒りで顔を歪め、ソファーまで走り込んで戻り、明引呼の腹めがけてストレートパンチを放った。


「っ!」


 大きな手のひらで慣れた感じで受け止め、明引呼は口の端でフッと笑い、


「っ! 相変わらず手がはいぇな」


 すると、女からはこう返ってくるのである。


「節操はあるわっ!」

「嘘つくんじゃねぇよ!」


 友人は喧嘩っ早いところがあるが、そうそうなことでは怒らない性格。それなのに、子供みたいにもめ出した。


「本当だわっ!」

「から、嘘つくんじゃねぇよ!」

「また笑い取ってきて!」

「少しは、オレに違うこと言わせろや!」

「今のは『嘘つくんじゃねぇよ』でしょ! 勝手に変えて!」


 黙って眺めていた貴増参にはなぜか、痴話喧嘩には見えず、夫婦で仲良く遊んでいるみたいに思えた。


 どこまでも、ふたりだけで話が続いていきそうだったが、女は明引呼の大きな体を引っ張って、ドアの方へ押し出す。


「もう! あきは帰ってよ!」


 無理やり退場させられそうになっている明引呼は、少しだけ振り返って、


「おう! たか!」

「僕は貴増参です」


 きっちり突っ込んでやった。


「てめぇ、こいつきちんと家に送れよ」


 なぜこんなことをわざわざ言うのか。三十五の男だ。この男が女に依存する面を持っていたとは意外だった。


 人に蹴りを入れる女だって、もういい大人だ。一人で家に帰れるだろう。どうも話がおかしいようだった。


「もう! 早く出て行く!」


 女は大きな背中を両手で、容赦なくぽかぽか叩いている。それを両腕で避けながら、明引呼は口の端でニヤリと笑い、いつもの言葉をわざと言った。


「ハニワさんに夢中になって、どこかに置き去りにすんじゃねぇぜ」


 ふたり一緒にツッコミが返ってきた。


「土器!」

「土器です」


 似た者同士の男と女を前にして、明引呼は面白そうに微笑んで、ドアから出て行った。パタンと扉が閉まると、教授室は急に静かになった。


 黒いロングブーツはかかとを鳴らして、書斎机の前にまでやってきた。軽く咳払いをして、低くボソボソとした声が言う。


「倫礼 デュスターブと申します」


 なぜ明引呼と仲よく、家に送れと一言忠告してきたのかが、ファミリーネームで納得がいった。貴増参はあごに手を当てる。


「デュスターブ……。ふむ。確かにある意味、彼の女性です」


 だが、倫礼は別のところで意見をした。


「私は物ではないので、それは間違ってます」


 生きている時代は違う。だが、生まれ変わりがあるのなら、目の前にいる倫礼は、あの白の巫女のリンレイと性質は似ているだろう。環境が変わろうが、人の本質とはそんなものである。


 他にはいないのだ。望んでいたひとが机を挟んだ向こう側という手の届く距離にいることが、貴増参を悲恋という魔法から解き放ったようだった。


「君らしいです」

「え……?」


 倫礼は不思議そうに顔を前に押し出して、まぶたをパチパチと激しく瞬かせた。その仕草も白の巫女とそっくりだった。


 叶うはずもない約束は、長い時を経たのか。それとも、たった一ヶ月だったのかはわからないが、果たされたのだ。


 背筋を伸ばして、ある意味明引呼の女は頭を丁寧に下げる。


「――兄がいつもお世話になってます」


 八つ違いの兄妹きょうだい。いつまでたっても、子供の頃と変わらず、小競り合いばかりをしている仲のいい兄妹。


 微笑ましい限りで、茶色の瞳はいつもにも増して、優しさがこぼれ落ちそうなほどになった。


「こちらこそ、お世話になってます。貴増参 アルストンです。よろしくお願いますね」

「よろしくお願いします」


 倫礼が勢いよく頭を前へ下げると、ブラウンの髪がザバッと空中を縦に切った。貴増参はポケットにさっき入れた勾玉を取り出し、


「こちらを君にプレゼントします」

 ――君に返します。


 彼の心の中では違う言葉があふれる。


 目の前に立っている男は考古学者だ。研究対象だと思い、倫礼は小さな背で、貴増参の綺麗な顔をのぞき込んだ。


「いいんですか? 大切なものじゃないんですか?」


 自分には記憶は残っているが、倫礼はにどうやら残っていないようだった。それでもいいのだ。白の巫女がちぎった革紐ごと、貴増参は翡翠をさらに差し出した、どこかずれているクルミ色の瞳の前に。


「君と出会えた記念に差し上げます」

 ――再会できた記念に差し上げます。


 素直で正直な白の巫女が今目の前にいるように、倫礼は微笑み、勾玉を受け取った。


「ありがとうございます」


 どこか自分の手に馴染むようで、背の割には大きな手で握ったり、開いたりを繰り返していた。そんな彼女を眺めながら、貴増参は巫女の転生後が気になった。


「お仕事は何をしてるんですか?」


 倫礼は勾玉を握りしめたままの手で、ブラウンの髪を落ち着きなく触り、少し苦笑いする。


「全然、有名じゃないんですけど、小さなレストランとかで、ピアノの弾き語りをしてるシンガーソングライターです」


 人には向き不向きがある。あの人生よりは、彼女が生きやすいのではと、貴増参は思った。


「そうですか。素敵な職業です」

「ありがとうございます」


 舟を漕ぐように前後に照れたように倫礼が動くと、ふたりを光るリボンで結びつけたような、あの湿った夜の空気がにわかに広がったような気がした。


 以前読んだ、自身の専門分野でない本のあるページが、貴増参の脳裏に鮮やかに蘇った。


 人の魂にはSNAといって、魂のDNAがあると言われている。それは今までの輪廻転生の星の並びがすべて記録されている。いつどこで生まれ、どんな人生を終えたのか。今の文明よりも前の文明も全て、それを解析すればわかるのだ。


 人間が解析するにはまだまだ時間がかかると言われている。ひとつのDNAでさえ、いくつもの働きを持っているのが事実だ。しかし、それさえもまだ人は知らない――


 白の巫女が濁流に身を投げたあと、時間にすれば数分だろう。それでも行動を共にした、桃色の着物を着たあの女に助けられたが、自分は手を貸せなかった。


 約束などはしていないが、出会えることならお礼を言いたかった。自身を犠牲にまでして、見ず知らずの男を助けようとしたことを。


 少しの期待を胸に、貴増参は倫礼に問いかけた。


「君の友達か何かで、聞き間違いをする方はいませんか?」


 決して知り合いは少なくはない自分だったが、倫礼はすぐに脳裏に浮かんだ。赤茶のふわふわウェーブ髪で、とぼけた顔をしている人物が。


「……友達でいますよ」


 不思議なめぐり合わせだ。そうなると、貴増参の中にある可能性が出てくる。


「名前はシルレさん。正解でしょ?」


 優しさに満ちあふれた茶色の瞳にのぞき込まれた、倫礼は目を大きく見開いた。


「すごいですね! どうしてわかるんですか?」


 貴増参はカーキ色のくせ毛に人差し指を軽くトントンと当てる。


「ちょっとした勘です」


 今は十八ではない。二十八だ。嘘だとわかる。だが、こんな冗談もあるのだと新しい発見だ。倫礼は珍しく声に出して笑った。


「ふふふっ……」


 立ったまま話しているふたりの間に、学校のチャイムが鳴り響いた。最後の授業終了の合図だ。貴増参にとっては今までただの雑音だったが、今日は違う。


 西の空に陽は沈み、残り火のような夕焼けが広がっていたが、一番星と少し欠けた銀盤が宵闇に浮かんでいた。


「お腹は空いてませんか?」


 抜群のタイミングでグーっとふたりのお腹が鳴った。倫礼は手を当てて、照れたように微笑む。


「空いてます」

「僕がおごります」


 今日会ったばかりというか、助手を希望しているのであって、そういうつもりなどまったくない倫礼は、慌てて止めに入った。


「いやいや、お世話にはなれないです」


 お膳をめぐって、牢屋の中と外で押し合った場面が、貴増参の脳裏をよぎってゆく。


「いつかのお礼です」

 ――君が食べ物を分けてくれた時の……。


 魂の奥底に沈められた過去世の記憶は通常戻らない。倫礼にとっては何のことやらさっぱりで、何とかこの男が言っている意味をかなり強引に探してきた。


「いつかの? ん? いつか私が貴増参さんにおごるってことかな?」

「そういうことです」


 細かいことはどうでもいい。一緒に話をしたいのだ。その口実だ。


 時間軸が狂っていようが、倫礼も倫礼で適当に流して、素直にうなずいた。


「じゃあ、今日はお言葉に甘えて、ごちそうになります」


 貴増参はカバンを手に持って、今日は破壊されなかったドアの鍵を手にして、先に歩き出す。


「それでは、行きましょうか」

「はい!」


 ポシェットと紫のニットコートは嬉しそうに扉へ近づくと、貴増参はドアを押さえたまま、レディーファーストで譲った。


「さあ、どうぞ」


 あの雑な兄など先にどんどん歩いて行ってしまうのに、慣れない扱いに、


「あ、あぁ、ありがとうございます……」


 倫礼はかなり恐縮して頭を何度も小さく下げながら、ドアの前を通り過ぎた。


 いつも夜中まで電気がついている教授室は、今日は一番早く電気を消して終わりを迎えた。


 女子学生たちが大学の王子さまだと噂する教授が、女を連れて廊下を歩いてゆく。


 講義室から出てきた彼女たちが立ち止まって振り返っては、驚き声を上げ始めた。


「えっっ!? 彼女できた?」

「嘘っ!」

「先生なら、ずっと独身だと思ってたのに!」


 ふたりにとってはそんな言葉は聞こえず、貴増参の茶色の革靴はいつもよりゆっくりと歩きながら、あの高く澄んでいながら、芯の強い歌声をもう一度聴きたくなった。


「どんな歌を歌うんですか? 聞かせてください」

「はい……」


 人前で歌うことなど、シンガーソングライターにとっては朝飯前である。倫礼は息を大きく吸い、吐き出すと同時に歌い始めた。


 聞いたことのないメロディーだったが、あの心地よいスィングをするリズムだった。月明かりが廊下の窓から差し込むのを眺めながら、現代の巫女が歌う曲に耳を傾ける。


「♪ 窓からの秋風が 素肌をくすぐって

 遠く離れた あなたとつながるこの夜空


 十六夜に会いましょう 久しぶりに

 お酒を飲みながら これからのこと話して

 あなたと手をつなぐ

 約束よ 十六夜に会いましょう♪」


 今はもう同じ時代に生きている。存分に手を貸せる。もどかしさはもうどこにもない。


 歌詞のように一緒に話をして、少し欠けた月明かりの下で、恋をまた新しく、いや遠い昔から続いていたのを再び始めようと、貴増参は堅く決心するのだった。


「♪十六夜に会いましょう 二人きりで

 月影あびながら 今までのこと話して

 あなたと懐かしむ

 約束よ 十六夜に会いましょう♪」


 渡り廊下を歩き終え、長いアーチを通り抜けながら、歌は続いてゆく。


 茶色のスーツと紫のニットコートが遠ざかってゆくのを見送ると、柱の陰に隠れて様子をうかがっていた明引呼の唇の端でふっと笑い声がもれた。


 そうして、画面はすうっと暗くなり、


 =CAST=


 貴増参 アルストン/貴増参

 明引呼 デュスターブ/明引呼

 リンレイ・倫礼 デュスターブ/倫礼

 シルレ/知礼


 =挿入歌=


 十六夜に会いましょう


 作詞/倫礼

 作曲/倫礼、光命ひかりのみこと


 白字も全て消え去った。fin――――

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