神の旋律――光る春風

 城の天井は破壊され、床に瓦礫が散らばっていた。玉座には白いローブはもういない。


 床に倒れたままのレンとリンレイの頬を打ちつけていた雨は上がり、びしょ濡れのふたりから、真っ赤な血が一筋の線を引き、水面みなもにじんで消えてゆく。


 星空を覆っていた暗雲は幕が開けるようになくなり、赤ではなく紫の大きな月が照らし出す、動かないふたりを。


 優しい夜風が髪をなでてゆく。静寂がどこまでも広がりそうだったが、リンレイのまぶたがピクピクと動き、どこかずれているクルミ色の瞳は姿を現した。


「……ん? 何?」


 満天の星と月を見つけて、リンレイは落ち着きなく瞬きする。


「落雷で天井が落ちたってこと?」


 血だまりはいつの間にかなくなっていて、動こうとするが、


「重い……。何が乗って?」


 焦点が合った視界に映った、銀の髪を見つけて、リンレイは大声を上げた。


「レンっ!?」


 何がどうなって、自分の上に男が乗っていて、下敷きになっているのか、彼女にはさっぱりだった。というか、押し倒しである、完全に。キラキラと輝く星々を見上げる。


「悪魔とレンの位置が逆なんだから、レンは自分を撃とうとしたわよね?」


 真っ暗な視界の中で、聞こえてきた音だけを頼りに、リンレイは予測を立てる。


「それで、やっぱり思った通り躊躇ちゅうちょしてた。だってそうじゃない? ここは心の世界なんだから、本当の職業は殺し屋じゃない。クラシックと関係することなのよ。そうすると、レンは拳銃を撃ったことはない……」


 漬物にでもなった気分で、リンレイはウンウンと頭を縦に振る。


「だから、私が代わりに悪魔を攻撃した……。あ、もしかして、気絶したってこと? ずいぶん繊細なのね」


 銀の髪から水が滴り落ちて、リンレイの頬をかすめた。チャプンと水面を打つ音が響く。


「だから、悪魔に心を蝕まれて、死にそうだったってこと……なのかもしれないわね」


 さっきまでの嵐と緊張が嘘みたいに、平和な星空に月が浮かんでいた。男という重石おもしをされているリンレイは、首を右に左にして見渡す。


「倒したのよね? でも私はいつ現実に戻るのかしら? ルファーって神さまに言えば――」

「ん……」


 黒いロングコートに侵食されているようなリンレイは、気を取り戻したレンに、言葉のストレートパンチをさっそくお見舞いしてやった。


「順番間違ったら、あなたを銃でぶち抜いてやるところだったわ」

「?」


 寝耳に水の話で、レンは不思議そうな顔をするが、いつまでも上に乗ったままの男に、リンレイは文句を言い続ける。


「いい加減どいてくれないかしら?」


 女を押し倒していようが、そんなものは、レンにとってはどうてもいいことである。自分の服が濡れて汚れているほうが重要だった。リンレイの顔前で、手のひらを合わせて雨つゆを払う。


 リンレイが迷惑顔で首を振っている上で、何事もなかったように起き上がり、


「なぜ、お前、自分が助かるってわかっていた?」


 レンが彼女に手を差し伸べると、それをつかんで、チェックのミニスカートと白いシャツも水たまりから離れようとしながら、


「狙われてるのはあなた。ここは心の世界。生きようという気持ちがあれば、心は死なないでしょ? あなたは衰弱してたから、死んじゃうかもしれないじゃない? だから私が代わりになればお互い生き残る。それに、あなたの心がここで立ち止まったままだから、悪魔に殺されかけたわけでしょ? それはあなた自身が倒さないといけない。そうでしょ?」


 引っ張られていた手は急に力が抜かれて、ミニスカートは再び水たまりに浸され、


「ん?」


 銀の長い前髪を持つ超不機嫌な男は、舞踏会でダンスの申し込みでもするように、片膝で跪いて、


「…………」


 不思議なものでも見つけたように、鋭利なスミレ色の瞳は迫ってきた。だが、天使のような無邪気な笑みに変わって、まぶたはすっと閉じられ、リンレイの唇にキスをした。


「ん……」


 彼女には予測不能な展開で、どこかずれているクルミ色の瞳は大きく見開かれた。


 優しい風がふたりの髪を揺らすと、レンとリンレイを祝福するように光のリボンがくるくると踊り舞い、結びついた。


 少し遅れて、ふたつの瞳はまぶたの裏に隠され、唇の温もりがやけにはっきりと輪郭を持った。そうっと離れて、スミレ色の瞳とクルミ色のそれは一直線に交わる。


「……もう会わないのに――」


 文句を言いかけたがやめた。過去は変えられない。ゴーサインを出したくないのなら、振り払えばよかったのだ。リンレイはさっと立ち上がって、軽く嘆息する。


「まぁ、いいわ。眠くなってきた。戻る時間ね」


 大きく伸びをしている間に、レンの黒いロングコートはすらっとした長身を取った。リンレイはくるっと向き直り、


「じゃあ、今度はつまらない女につかまって、殺されないようにね。元気で生きてくのよ。じゃあね」


 珍しく笑顔で手を振る彼女は、魔法でもかけられたように、キラキラとした光に包まれ消えると、もうどこにもいなかった。


 自身の心という世界でただ一人。消しゴムで消したようになくなった城壁のはるかかなたで、水平線をオレンジ色に染める朝焼けを見つめる。太陽のコロナが金色の光を放って昇り、ようやく夜明けを迎えた。


 キーンと耳鳴りがしてきて、光は黄色へ変わり、白になり、まぶしさに目がくらむと、


「っ……」


 ピ、ピ、ピ……。


 規則正しい電子音が聞こえてきた。そうして、まぶたを開けると、レンの瞳に病院の天井が広がっていた――――


    *


 一年後――


 ダステーユ音楽堂にある楽屋の鏡には、針のような輝きを持つ銀の長い前髪があった。


 レンの鋭利なスミレ色の瞳は、今日までの日々と自分の顔を重ね合わせる。


 悪魔の殺し屋という職業を演じさせられた、奇妙な夢。あの日だけで、一度も見ていない。


 雨ばかり降っていた、あのバッハのCDをかけた部屋も出てこない。もちろん、ブラウンの長い髪とクルミ色の瞳を持つ女もだ。


 自責の念に駆られ、自身に手をかける衝動に恐怖を覚え、震える神経質な指先。


 自身の生命線とも言えるそれは今は正常に動いていて、夢のはずなのに、温もりというリアルなベールを今もかけられたままの唇を物憂げに拭う。


「夢……」


 謁見の間で聞いた耳鳴りと、バッハ トッカータとフーガ 二短調が、絶対音感というルールからはみ出して、不協和音に変わった。


 焦点が自分の瞳へと戻ってきて、レンは首を横に振ろうとすると、トントンとドアがノックされた。


「…………」


 仕事中は一人にしろとあれだけ、スタッフに言っておいたのに、不手際を前にして、天使のように綺麗な顔は怒りで歪んだ。


 鋭利なスミレ色の瞳はドアを一瞥して、銀の前髪を指先で、神経質に整えようとする。


 すると、またトントンとドアがノックされ、


「俺」


 まだら模様の声が響いた。この人物だけは別だ。逆に美的センスを磨き上げてくれる。関係者以外は入れない時間帯に、時々こうやって来るのだ。どうやって入ったのかは知らないが、いつものことだ。


「ん」


 レンは黒のタキシードが着崩れないようにまっすぐ立ち上がり、エナメルを使った靴のかかとを鳴らしてドアに近づいた。


 鍵をはずし、扉を内側へ引き入れると、海のような深い青のサングラスをかけた、山吹色の髪を持つ男が立っていた。


 光沢があるワインレッドのスーツが部屋に慣れた感じで入ってきて、黒いソファーに座った。ローテーブルに乗ったヴァイオリンのケースを間にして、レンとコレタカは向き合う。


「どう?」

「それなりだ」


 レンは華麗に足を組み、最低限の筋肉しかついていない細い袖口で、腕組みをした。青いサングラスははずされ、宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳があらわになる。


「危篤になった時、どうなるかと思ってたけど、回復してよかったよ」

「ん」


 消し去ろうとしていた、あの日の話。鋭利なスミレ色の瞳は少し伏せ目がちになった。


 指で引っ張った山吹色の前髪を焦点の合わない視界で見つめながら、コレタカは聞き返す。


「何? いつもよりも口数少ないね。体調まだ戻ってない?」


 銀の長い前髪は横に揺れて、


「違う」

「そう」


 無機質なまだら模様の声が響くと、男ふたりの間に沈黙が降りた。


「…………」


 黒のタキシードを着ている男は、基本的に口数は少ない。だが、今日はあまりにもおかしいのだった。


 聖堂の中で感じるようなビリビリとした神の畏敬が、控え室に急に広がった気がした。いや人智を超えた存在が降りてきたような気がした。コレタカは気づいていないのか、相変わらず軽薄的な口調だった。


「悩みごと?」

「…………」


 レンの唇は動くこともなく、超不機嫌顔も変わることはなかったが、鋭利なスミレ色の瞳はあちこちさまよった。


「肯定ってことね。女のこと?」


 螺旋階段を突き落としたみたいなぐるぐる感のある声の持ち主は、時々こんなことを言い出す。自分の考えていたことを、まるで心でも見透かしているように。


 レンはうなずきはしなかったが、銀の長い前髪は不思議そうに斜めにかたむいた。


「?」

「そう。今度は図星。いいんじゃない? 新しい恋してもさ」

「?」

「愛してんでしょ? その女のこと」


 コレタカ ファスルの別の顔を今見た気がした。レンの奥行きがあり少し低めの声が何かを言いかけたが、


「コレタカが――」


 ドアをノックする音が聞こえた――


    *


 ――時間は少し戻る。


 ダステーユ音楽堂の裏口に、白いワゴン車がやって来た。さっきまで降っていた雨が嘘のように、雨季のつかの間で日差しが空に虹を描く。


 黒いエプロンをつけた女がふたりが石畳に降りて、積み荷の花を台車に乗せ始めた。歩道を傘をたたんだ人々が往来をしばらく繰り返していたが、色とりどりの花々はふたつに分かれた。


 赤茶髪のシルレは、片方の台車に素早く回り込んで、


「先輩、こっちお願いします!」

「え? だって、シルレのほうが多くなっちゃうじゃない」


 どこかずれているクルミ色の瞳で、リンレイは後輩をじっと見つめた。そんな視線はどこ吹く風で、シルレはこんなことを言ってのける。


「いいんです。先輩のほうが上手に届けられますから。受け取り主のヴァイオリニストの方は結構、ストイックで気難し屋らしいんですよ。だから、先輩のほうが失礼もないかと思って……」


 配達する花の数が多いと言っているのに、違うことを答えて来た後輩。リンレイはあきれた顔をする。


「シルレ、全然、理論になってないわよ」

「そうですか?」


 久々に姿を現した青空を見上げて、シルレは黄色の瞳をまぶしさに細めた。可愛らしい天使みたいに見える後輩が横顔を見せる意味を理解して、リンレイは観念した。


「そう言う時は聞いても、話さないのよね。わかったわ。じゃあ、こっち行ってくる」


 注文された花々の台車のひとつを押し出そうとすると、シルレはやっとこっちへ向いて、


「行ってらっしゃ〜い!」

「何で笑顔なの?」


 リンレイは首を傾げながら、音楽堂の裏口へと向かった。あらかじめ用意していた建物の見取り図を見ながら、台車を押してゆく。


 雨が上がったばかりの廊下はまだ、湿った空気が十分残っていた。ヨハネ受難曲のかすかな音が耳に入り込むと、あの夢の中で聞いたバッハと雨音。そうして、銀の髪を持つすらっとした男を思い出した。


 人気のない廊下でリンレイはふと立ち止まり、台車から手を離して、唇をなぞった。


 車のフロントガラスに、雨が白い線を引いて落ちてゆくのをぼんやり見つめながら、一年前の記憶をたどった、さっきのことを思い返す。


 知らない男の部屋を訪ねて、悪魔退治に廃城へ行った夢。とは言い切れないが、夢としか説明がつかないこと。


 他の人の足音と話し声が聞こえてきて、リンレイは我に返り、再び台車を押し進んでゆく。やがて、ひとつのドアで立ち止まったが、見取り図と来た廊下を交互に見始めた。


「この控え室よね? 名前も書いてないなんて……よっぽど神経質なのかしら?」


 メッセージカードのついた大きな花束を抱え上げて、大きくて前が見えないながらも、リンレイはドアをノックした。すぐに、奥行きのある少し低めの声が響く。


「はい?」

「お花を届けに来ました」


 向こうまで聞こえるように大きく言うと、靴音が近づいて来て、引き入れられたドアから、山吹色のボブ髪と黄緑色の瞳が顔を出した。まだら模様の声がナンパするように、


「お疲れさま〜」


 返事をした人と声が絶対に違った。だが、リンレイはそこにではなく、別のところに引っかかった。


「あぁ……」


 隙でも作ったみたいに、ワインレッドのスーツは廊下へ出て、背を向けたまま離れてゆく。


 リンレイはその後ろ姿をじっと見つめて、首をかしげた。


「ん? どっかで聞いたことがある声ね?」


 あの印象的な声色。そうそうない。だが、あの山吹色のボブ髪と黄緑色の瞳も強烈だった。しかし、それは見た記憶がない。また不思議な現象が起きて――


「どうした?」


 最初に返事を返してきた男の声が聞こえてきた。リンレイは廊下の角を曲がった男から視線を慌てて戻して、仕事をこなし始める。


「あぁ、申し訳ないです」


 花束に挿してあったメッセージカード――送り主はルファー。


「え〜っと、レン ディストピュアさんに――え?」


 そうして、受け取り人の名前を全て読んで、リンレイは固まった。あの廃駅から、崩壊した夜の街を歩いていた間に聞いた名前と同じ。


 鮮やかに蘇る――

 自分の前をゴーイングマイウェイで歩いてゆく銀の髪と黒いロングコートの男が。


「何だ?」


 超不機嫌で。俺さまで。ひねくれで。人を惹きつける力のある声。昨日のことのように、話してきた言葉ははっきりと覚えている。


「夢じゃなかったのかしら? 偶然……?」


 リンレイは自分の顔を覆っていた花束を退けて、部屋の中をのぞくと、黒のタキシードを着た男が立っていた。鋭利なスミレ色の瞳で、右目だけ銀の長い前髪で隠していて、すらっとした体躯。


 レンの前に立つ女は、ブラウンの長い髪をひとつにまとめて、どこかずれているクルミ色の瞳で、百六十センチの小さな背丈。着ている服は違うが、破滅への序曲から自分を救い出した、あの女だった。


 スミレ色の瞳は珍しく見張られて、


「……お前、名前は?」


 奇妙な空気に包まれると、控え室のドアはブラウンの髪の後ろでパタンとしまり、ふたりきりの部屋になった。


「リンレイ コスタリカよ」


 このおかしな体験のカラクリに、レンは気づいて、ある名前を口にした。


「ルファーが……」

「それって、神さまの名前よね?」


 初めて会ったのに、そうじゃない男を前にして、リンレイは砕けた感じで指をさした。


「…………」


 ノーリアクション、返事なし、すなわち肯定。だが、レンの中では、理論が成り立たなかった。リンレイは誰がここに連れてきたのか。


 会うことはないのだと信じて疑わなかったが、奇跡は起こる。現実という舞台で、神聖な加護は、人が予測できないだけで、密かに続いていたのだ。


 キラキラと光るリボンでひとつに結ばれたような輝く空間の中で、リンレイはレンが探しているパズルピースを見つけた。


「もしかして――」


 だが、今のレンにとっては、そんなことはどうでもいい。空席の唇が恋しさを色濃くつづっているのだから、一年前のあの日から。


 ぼうっと突っ立っている花屋の手から花束を取り上げて、ソファーの上にそっと投げ置いた。あの幻想的な紫の月明かりの下で跪いたように、レンは静かに告げる。


「愛している」

「神さまのお導き、ね」


 ふたりの唇が現実で再びめぐり合うと、花束から落ちたメッセージカードの送り主ルファーは連名で、もうひとつはシルレだった――。


    *


 光沢のあるワインレッドのスーツは廊下の角を曲がり、人気がなくなると、上からふわっと降りてきたみたいに、赤茶の髪を持つ可愛らしげな女が突如目の前に現れた。


「ルファーさま?」


 そう呼ばれた男の名は、コレタカ ファスル。


「はい、知礼しるれ天使ちゃん。お帰りなさい」

「バッチリ、再会させました」


 天使の報告を聞いて、ルファーはスーパーハイテンションで言う。


「そう。よくできました。花マルあげちゃいます!」


 教師みたいな言葉を聞いても、そこはスルーして、天使は心配げに首をかしげる。


「でも、神さまも大変ですね?」


 ルファーは人差し指を斜めに持ち上げた。


「そう。神さま大変なの。同じ容姿の女探してね、神さまの力で勝手に引き合わせちゃったわけ」

「究極のパワハラです」

「俺がね、倒してもよかったの、悪魔を。でもさ、神さまは人を導かないとでしょ。だから、これを機に、レンには成長してもらうってことで、悪魔と対峙させたの。で、乗り越えられたら、そこに新しい恋があってもいいじゃん」

「どうして、一年後だったんですか?」

「俺も、あの時まとまっちゃって欲しかったの。だけどさ、あのふたり恋愛にうといでしょ。だから、あの日だけじゃ時間足りなかったわけ。で、一年ぐらい置いたら、うまくまとまるって未来が見えたから、あの日はあのまま終わりで、今日にしたの」


 光沢のあるワインレッドのスーツに青いサングラス。どこからどう見ても、ホストに見える神さま。それでも、天使は敬意を示した。


「本当の慈愛ですね。キューピッド役の神さまに恋愛はないですからね」


 コレタカの指先が知礼の小さなあごに添えられ、


「じゃあ、天使のお前と恋しちゃ〜う!」


 花屋に扮した女の顔を持ち上げ、ナルシスト的に微笑むと、画面はすうっと暗くなり、


 =CAST=


 レン ディストピュア/れん

 コレタカ ファスル・ルファー/焉貴これたか

 リンレイ コスタリカ・フローリア/倫礼りんれい

 シルレ スタッド・知礼/知礼


 白字も全て消え去った。fin――――

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