悪を知らない高校教師
妻のスリッパは、修業の疑似体験ができる部屋のドアの前で、
「夕霧さんに話しかけるのはちょっとな……。他の人――」
仕事中の夫の邪魔はしてはいけないと思い、倫礼は出てくるまで待つかどうかを思案しようとした。その時、石鹸の泡のようなポワンとした声が右横からやってきた。
「あぁ、倫さん、
この声の主はよく知ってる。自分のことをいつも気にかけてくれる、そういう優しい女だ。とぼけた感じの顔で、可愛らしさ全開。
「学校に行ってるって、
倫礼はきちんと答えた。だが、女はこう聞き返してきた。
「えっ? どこに行ったんですか?」
答えたつもりだったのに、同じ質問がもう一度飛んできて、倫礼はまぶたを
「え……?」
自分の顔をじっと見つめてくる女を前にして、あの紺の長い髪を持ち、冷静な水色の瞳を持つ、策略家夫を思い浮かべた。あの夫がどれほど悪戯好きなのかを軽く脳裏でさらう。
――光さんのお母さんは女優さんなんだよね。
演技がとても上手。
でもね、日常生活はさっぱりで、ボケてるんだよね。
光さん、小さい頃から、お母さんに罠を仕掛けては、驚いてる姿を見て、くすくす笑ってたらしい。
それが光さんの趣味なんだって。
だから、お母さんに似たパートナーを選んだって。
渡り廊下から見える、中庭の竹林を、どこかずれているクルミ色の瞳は見上げた。
――会話は心のキャッチボール。
相手が取りやすい――わかりやすく返さなきゃいけない。
知礼はね、一生懸命話してるんだよ。
だけど、ボケてるから、真後ろに向かって、思いっきり投げる。
今の会話、どこに投げちゃったのかな?
ん〜〜?
長い廊下で、妻二人は向き合ったまま、沈黙は続いていたが、知礼が戸惑い気味に顔をのぞき込んだ。
「あの、倫さん?」
「えっと……?」
わからないのである。話がどこへ行ってしまったのか。下手に聞き返せば、さらにボケ倒してしまう。ここは慎重にだ。
そんな二人を見ている、宝石のように異様に輝く、黄緑色の瞳があった。
「あの二人、また?」
裸足は倫礼と知礼の間に割って入り、山吹色のボブ髪をかき上げた。
「お前の『学校に行ってる』を、知礼が聞き間違ったんでしょ? 『楽譜持ってる』とさ」
「あぁ、楽譜持ってどこに行ったのかだから、またどこに行ったのか聞いてきたのか!」
今度は大暴投しないように、ゆっくりと別の言い方をした。
「小学校です」
「ありがとうございます」
知礼は頭を礼儀正しく下げて、すうっと消え去った。二人きりになった廊下で、ケーキにハチミツをかけたような甘さダラダラの声が響いた。
「ねぇ。甘えていい?」
「あれ? 学校どうしたんですか?」
今ごろ、そんなことに気づく妻だった。さっきも会ったのに。まだ学校は終業時刻ではない。高等学校ならなおさらである。それなのに家にいる、数学の教師。
「お前のために俺、非常勤になったんでしょ? だから、今日の授業は終わったの」
自分のために、好きな仕事を減らしたと言う、この純真無垢のR17夫は。妻の表情は曇り、ため息をついた。
「はぁ……何でみんな、仕事休んだりするんだろう?」
夫なのだから、好きなことを伸び伸びとやってほしいと願う。それなのに、仕事を休止したり変えたり、勤務時間を短くしたりで。
十八人もいるのだ、夫婦は。しかし、夫たちは何かと自分を中心にして動くのである。途方に暮れていると、焉貴のまだら模様の声が皇帝の威圧感を持った。
「いいから、お前こっち来て」
「え……?」
聞き返そうとすると、倫礼の視界はブラックアウトを起こし、一瞬の無音が広がった。
全て正常に戻ると、どこかずれているクルミ色の瞳の前には、首都の街並みが見下ろせる青々と茂った庭の芝生が映っていた。宵闇に美しい紫の月が地平線から顔をのぞかせる。
妻の肩にもたれかかりながら、数学の高校教師は瞳を閉じた。まるで子供が母親に安心して身を委ねるように。淡い夢の中で、今日までの日々――数式を解き始める――
――俺? いいよ。言っちゃ〜う!
俺の思考回路は、光が言ってたでしょ? 俺もあれと基本は同じ。ただ、俺は直感があんの。
――無意識の直感。
いつの間にか、策略になってた? って感じ。どこで、どうやって変えたか、自分でもわかんないの。
光はさ、直感が理論に反するって思ってるでしょ? 俺はいいと思うんだよ。直感も運命でしょ? 神さまの導きでしょ? だから、使っちゃって、全然いいじゃん。
俺はもともと、この宇宙の人間じゃないの。遠くの別の宇宙で生まれて育ったの。田舎でね、のびのびと成長しちゃったわけ。
だからさ、この宇宙に来た時、『悪』って何って感じだった。俺もさ、三百億年生きてるから、大概のこと知ってるけど、悪は初耳だったね。
でもさ、聞けば聞くほど、一人残らず殺したかったね。人を傷つけて、自分の欲を満たすやつなんか、いらないでしょ? 邪魔なだけ。他の宇宙は、悪がなくても発展してるんだからさ。いらない。俺、こういうとこ厳しいからさ、異常に。
そうね〜? 最初に出会ったのは蓮。そう。俺、最初、小学校の算数の先生だったの。
蓮の子供が受け持ちだったとかじゃないんだよね。たまたま、廊下を歩ってたんだよ、あいつが。そこで、運命の出会いをしちゃったわけ。
こんなふうにね。
俺に似てる。綺麗な男……。
で、俺のペニ◯が勃っちゃったわけ! うっそ〜!
小学生って、何十兆っているんだよ。だから、逃したら、次会えないかもしれないでしょ? で、俺、ナンパしちゃったの、学校の廊下で。
ねぇ? そこの彼? 俺といいことしない?
いいことしない? は、うっそ〜!
あれが火山噴火しちゃうからね、そんなこと言ったら。あれ、基本的に、笑いとかしないから。
で、話したら、やっぱり面白かったわけ。あれと俺って、見た目は似てるんだけどさ、性質が全然違っちゃってんの。光と夕霧みたいなもん。
でさ、二人の時、俺がはしゃぐと思うでしょ? 違うんだよね。蓮がはじけるんだよ。きゃあきゃあ騒いじゃってさ、俺といる時いっつも、あいつ。
まあね。俺は三百億年だけど、あれは九年しか生きてないからさ。無理もないよね。俺の前であれが子供になっちゃうのはさ。しかも、こっちは教師だし……。
最初から、俺は好きだったんだよ。蓮のこと、愛しちゃってたの。でもね、あれさ、恋愛にうといんだよ。倫との結婚も、どうしてしたかわからないって言うんだよね。
蓮が望んでないんだから、俺言わなかったんだけどさ。
何? 結婚してるって? そう、蓮、結婚してて、子供がいたから、学校で出会っちゃったわけ。俺? いたよ。その時、妻と子供三人、男一人に女二人がさ。
だけどさ、結婚してるから、他の人愛しちゃいけないって、誰が決めたの? それは悪の感情、嫉妬を持ってるやつがいるから、おかしくなっちゃうんでしょ? みんな相手を想い合ってたら、いいじゃん、何人と結婚しても。
俺、基本的にみんな仲良くだから。
で、蓮のとこに遊びに行くと、もう一人の倫がいるわけ。よく話したよ、あれとは。ただ、こんなくだけた感じじゃなくて、私とあなたで、丁寧な言葉遣いだった。もう、八年ぐらい前の話。倫は俺のこと、上品な人だと思っちゃってた?
――あれも人見る目ないよね。
いつも、蓮と倫はケンカしてるんだよ。それが、どんぐりの背比べっていうケンカでさ。どっちも引かないの。仲良いよね、二人とも。
で、六年ぐらい、会わなかったんだよね。俺も蓮もべったりの関係じゃないからさ。蓮がね、クラシックからR&Bに転身したら、仕事忙しくなっちゃったからね。
だけど、光と結婚するって、結婚式の招待状が来たんだよ。光は会ったことがなかったの。
まぁ、とりあえず行ったわけ。すごかったね。あの取材の多さ。俺、式場の外に出たんだけど、そのあと全然動けなくてさ。
倫がずっと好きだったんでしょ? 光のこと。だから、よかったんじゃない? って単純に思ったわけ。そしたらさ、半月もしないうちに、夕霧と結婚っするって、招待状が来ちゃったの。
で、また、取材の多さに巻き込まれちゃったわけ。
でね。蓮って、昔から俺のこと、他の誰と話すより楽しくて、時間を忘れちゃうって言ってたの。それってさ、俺に恋してるってことでしょ?
なのに、光と夕霧の二人と先に結婚しちゃうなんて。
俺泣いちゃ〜う! うっそ〜!
夕霧にも言われたんだけど、俺感情がないの。だから、どんなに愛してるやつが死んでも、絶対泣かない。っていうか、泣くっていう感情がわかんないの。
でさ、俺言ったの。蓮に愛してるって。そしたら、あれ全然まだ気づかなくて。で、いつものあれ、無意識の直感。
気づいたら、キスしてた。蓮と俺。蓮怒っちゃって、何でキスしたのとか言ってたんけど、途中で急にね。無言で微笑み出したわけ。それって、自分の気持ちに気づいちゃった時なんだよ。
で、ゲットしちゃったわけ、俺さまをね。まぁ、他の配偶者が好きかどうかって問題が残っちゃったでしょ? 俺は別にいいんだよ、誰でも仲良くだからさ。
他がね、色々あったみたい。結局さ。俺が結婚する前は、六人で結婚してたわけでしょ? 誰だってさ、愛してるやつが、他の誰かを好きでいたら、叶えてやりたいって思うよね? だから、蓮が好きだったら、他の人はうなずくわけ。
これが、あとで大変な問題になっちゃうんだけど……
で、問題は倫だよね。結婚するって話知らないんだからさ。式の前の日、倫に結婚することになったって言ったの。久しぶりだった。あれと話したのは。
で、もう結婚するんだから、いいじゃんってことで、俺砕けてる口調にしたら……。驚いちゃって、倫。俺のイメージ崩壊。
式終わってから、ずっと俺、倫に言ってた。
――お前としたいんだけど……って。
倫としては、旦那の友達だったからね。もちろん、好きとかそんなんじゃないんだよ。だけどさ、結婚したんだから、ここは強気でいかないと。でしょ?
ちょうど、学校夏休みだったから、仕事なくて、俺、毎日言っちゃってたの。あれのそばにずっといて、
――セッ◯◯しようって。
倫はしないってずっと言い張ってたんだけど、とうとううなずいちゃった。
で、しちゃいました! 倫、俺のペニ◯に驚いちゃった。俺のすごいからね、本当に。
妻の愛ゲットしちゃいました!
だけどさ、俺、他にも好きなやついたんだよね。
気が多いって? いいじゃん。死なないんだからさ、何やってもオッケーでしょ?
俺いっつも、光と
でさ、俺が好きだった孔明の話。あれは激落ち込みになった。
だってさ、あれはなるよ。孔明、十年以上結婚しなかったのに、他の女と結婚するって急に言い出してさ。俺、頭のいいやつ好きなのに……。あんなに頭のいいやつ他にいないのに……。
あれと話しながら、膝枕してもらうのが好きだったのに、それができなくなっちゃうんだから、落ち込むでしょ?
はい、結婚とセッ◯◯の授業はここまでです!
――――白いはだけたシャツが夕闇に染まっている。山吹色のボブ髪は肩にもたれかかったままで、倫礼は破天荒夫の名を呼んだ。
「焉貴さん?」
だが、返ってくるのは、気持ちよさそうなゆったりとした呼吸ばかりで。
「……zzz」
「寝てる……」
純真無垢であるがゆえの、子供みたいな振る舞い。それはいつものこと。吹いてきた風が焉貴の髪を舞い上げ、倫礼の頬をくすぐる。
「起こすわけにもいかないしなぁ〜。しょうがない。しばらくここで、景気を眺めておこう」
神がかりな景観の街並みが暮れてゆくのが、どこかずれている瞳の中で移ろいゆく。
「綺麗な場所だから、連れてきてくれたのかもしれない」
優しさにふと触れて、少しだけ微笑んだ。こうして、倫礼は無意識の直感を使う策士、焉貴の罠にはまり、庭から動けなくなったのである。
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