絶対不動の愛妻夫家

 倫礼は夫九人の職業を考える。そうして、ピカンと脳裏で電球がついた。もたれかかっていたドアからさっと背中を離して、


「とにかく、今家にいる人にしよう! よし!」


 萌黄色の廊下を歩き出すと、少し遠くにすうっと人影が現れた。倫礼のスリッパは急いで走ってゆく。


「すみません」


 自分の家なのに、どこかの街角で知らない人を呼び止めるような言い方。だが、それはいつものことなので、呼び止めたれた人は振り返った。


 女の色気。しかも、和装。狙った男は絶対に逃さないを、豪語できるようないい女。粋でいなせな声が響いた。


「あぁ、あんた、珍しいね。こっちに来るなんてさ」

「お久しぶりです」


 落ち着きのある濃い桃色の着物の前で、ブラウンの長い髪はバサっとお辞儀をして、床に近づいた。


「あぁ、久しぶり。元気にしてたかい?」


 倫礼のどこかずれている脳裏に、夫九人の顔がすぐに浮かび上がり、


「はい、みんなのお陰で」


 とにかく出発点はよくわからなくても、関わっている以上、倫礼は自分が無事で幸せで暮らせているのは、彼らがいるからだと思うのだった。着物の女が色っぽく微笑んだ。


「あんたらしいね、その言葉は……」

「ん?」


 バイセクシャル。この目の前にいる女も。倫礼を色を持って見つめる。


「用があったんだろ?」

「あぁ、そうでした。夕霧さんどこにいますか?」

「修業中だろ? いつもんとこだよ」

「いつものとこ?」


 言われても困るのだ。増築していて、部屋がわからないのである。どこかずれているクルミ色の瞳は、長く伸びた廊下をうろうろとさまよう。そうこうしているうちに、女のあきれたため息が響いた。


「まったく、あれにも困ったもんだよ」

「夕霧さんですか?」


 倫礼は正面に立つ女に視線を合わせた。身振り手振りで、女は語り出す。武道家という変わった職業の夫について。


「そうさ。夕飯ゆうはんになったって、戻って来やしないんだから。修業に夢中で。ひかりが何度迎えに行ったかわかんないよ。昔っから修業バカで、困ったもんだね」


 あの絶対不動の夫きたら、何週間も戻ってこないほどの勢いで、技を極めようとするのである。倫礼のそばに来ても、永遠修業をしているのだ。人ごみを歩けば、すれ違う人ごとに、技のかけるタイミングを計る始末。


 この女と夕霧命ゆうぎりのみことが十五年も二人三脚でやってきた様が、容易に浮かんで、倫礼は思わず笑ったが、


「ふふっ」


 話が飛んでいるのである。倫礼は顔を不思議そうに突き出して、


「で、どこ?」

「あんた、わざとやってんのかい?」


 こっちへ女の文句が飛び火しそうだった。倫礼はぱっと顔の横で、人差し指を立てて、魔法をかけるみたいにクルクルと回す。


「呪文を唱えて、夕霧さんの元へ〜!」


 瞬間移動。妻もできたのである。すうっと消え去ったのを見て取って、女は肩をすくめて、


「おかしな子だね」


 再び廊下を歩き出すと、遠くの方で白と黒の丸いものが転がってきた――――



 ――――血のように真っ赤な空が地平線を染める。頭上には暗雲が立ち込め、時折、ザザーンと雷鳴をとどろかせ、鋭い青白い閃光を地面と落とす。


 荒野を歩く、はかま姿の男が一人いた。不意に吹いてきた強風にあおられた、白と紺の和装。それなのに、草履は足音ひとつ立てるどころか、土煙も上げることなく進んでゆく。


 無感情、無動のはしばみ色の瞳はどこまでも遠くを見ていて、深緑の短髪の脳裏には、武道家としての専門用語が並ぶ。


 ――腸腰筋ちょうようきん腸骨筋ちょうこつきん足裏あしうらの意識を高める、縮地しゅくち


 夕霧命は猛スピードで走り出した。それでも、土埃はひとつも上がらず、一ミリのブレもなく、動きと速度が比例せず、放たれた弾丸のように疾風のごとく大地を駆け抜けてゆく。


 孤独な武道家の前に、人影がひとつ、またひとつ、またひとつ……あっという間に三百六十度囲まれた。草履の裸足はすっと立ち止まり、無感情、無動の瞳はどこか別次元を見ているように、敵を捉える。


 ――正中線せいちゅうせん強化。


 何もしていないのに、敵が全体的にジリジリと後ずさりをする。殺気が多方向から差し込んでくる緊迫した空気。息をするのもはばかられるほど。


 雷光と同時に雷鳴が鳴り響き、バリバリと空を引き裂くような音のあとすぐに、地鳴りのような落雷が起きた。にわかに吹いてきた強風に袴ははためき、止まっていた間合いが一気に崩れた。


 ――来る。右、殺気。


 抜き身の刀を手にした敵が走り込んでくる。自身の命を奪おうとして。それでも、袴も草履も動くことはなく。細いポールの上で絶妙にバランスを取るように、逆にもなり得る居つくことなく、微動する。


 あっという間に敵は近づいてくるが、夕霧命は絶対不動で、ひたすら待ち続ける。通常とは違うところを、武道家は見つめる。


 ――相手と呼吸を合わせる。相手の操れる支点。


 敵が日本刀を振り上げ、飛び上がって襲いかかろうとする。それでも、夕霧命の体は焦りも先制攻撃さえもバッサリと切り捨て、大地のように絶対不動。


 間合いがゼロになるまで待ち続けた武道家の腕が、修業という瞬発力を使い、白い袴の袖をあでやかにともない、敵の手に軽く触れた。


 ――相手の操れる支点を奪う。


「くっ!」


 敵の息がつまるような声が響き、


 ――相手の操れる支点を肩甲骨まわりで回す。合気あいき


 触れただけなのに、敵の体はブワッとまるで芸術というように宙に持ち上がり、バク転をし、背中からザバーンと地面に叩き落とされた。


 ――来る。左、殺気。


 次々と走りこんでくる武器を持った敵を、夕霧命は素手で倒し始めた。自分がこうやって、思う存分、修業ができるようになるまでの日々が、深緑色の短髪の奥にある、脳裏をよぎってゆく――


 ――俺はもともと覚師かくしと結婚していた。子供は男四人、女一人だ。ひかりとは従兄弟同士だった。


 しかし、小さい頃をやり直した時、光のことを好きになった。あれと俺は対照的だ。


 俺は腹の意識がある。それは落ち着きと追求心だ。

 光は胸と頭の意識がある。情熱と冷静さだ。


 あれと俺を足したら、完璧な人間になる。惹かれて当然だ。


 しかし、俺もあれも、やり直しが終われば、元の生活に戻る。俺は気にしとらんかった。


 ――俺は俺だ。人は人だ。だが、あれは気にする。


 だから、お互い好きだと気づいても言わんかった。


 光のために俺は生きている。あれが望まんことはせん。ただ見守ってきた日々だった。あれが知礼しるれと結婚しない理由も知っていた。


 しかし、俺のことは気にするなと言うこともできんかった。あれが気づいて欲しくないと願っているからだ。


 胸の激情を頭の冷静さで抑え切れなくなった時、光はよく泣いていた。俺はただそばにいて、落ち着くまで何も言わず待った。体が弱くよく倒れたりした。俺がよく運んだ。


 あれは頭がよすぎる。小さい頃、池のまわりを何歩で歩けるかの平均を知ろうとしていたと言ってきた。百七十六回分のデータを紙にも書かず、俺に全て答えてきた。俺は最初何が起きているのかわからんかった。


 あれは、記憶が定着してからの出来事を、全て記憶している。だから、いつまでたっても忘れることができん。


 俺とのことで、一人で泣いた夜はたくさんあったかも知れん。しかし、手を伸ばしてやれんかった。


 あれとのことは先が見えんかった。他人のこと優先、自分のこと後回しの光のことだ。俺も覚師も知礼も傷つけないために、自分のことを犠牲にして、嘘をついて生きてきたのかも知れん。


 倫礼の元へ行っていたことは、あとで聞かされた。陛下からのご命令で、他の者に伝えることは許されておらんかったそうだ。


 去年の夏。光が蓮と倫礼と知礼と結婚すると言ってきた。俺は光が幸せなら、それでいいと思った。光がこれ以上、悲しい顔をしないのなら、それでいいと思った。


 蓮とは子供の関係で知ってはいた。


 しかし、結婚式が終了したあとには困惑した。蓮は有名人だ。普通の結婚式でも、取材は来る。それが、初のバイセクシャルと複数婚だ。マスコミの数が多くて大騒ぎだった。従兄弟の俺は式場の外になかなか出れんかった。


 結婚するたび、あの混雑に全員巻き込まれる。


 光が結婚して、半月もしないうちに結婚を申し込まれた。瞬発力がありすぎだ。あれは昔から。


 くくく……。


 覚師に相談したら、叱られた。


「あんた、いつになっても、光に気持ち言わないからさ、代わりに何度言ってやろかと思ってたよ」


 あれはいつもそうだ。


 知礼も同じようなこと言っていた。


「夕霧さんを見る時の光さんの目は、いつも事件の香りが思いっきりしてました」


 あれもおかしい。


 俺たちだけが隠していただけで、あの二人にはわかっていた。


 覚師と知礼は生きている時間が、俺と光とは違う。四桁だ。だから、大抵のことでは驚かん。俺と光は二十三歳だが、実年齢は十五歳だ。どうやっても敵わん。


 しかし、結婚する時に説明された。一人、違う法則で生きているやつがいると。それが、もう一人の倫礼だ。


 俺のことは十五年前から知っていたそうだ。俺は知らんかった。倫礼あれに初めて会って、最初に言った言葉が、


「お前と結婚する」


 だった。あれは驚いていた。少し間があって、


「夕霧命さんですか?」


 と聞いてきた。久しぶりに俺を思い出したそうだ。


 六人で式を挙げて、結婚生活は新しく始まった。しかし、あれに対してはどう接したらいいか悩んだ。俺のことは愛しとらんと言ってきた。


 ただ、男の色気がするくらいにしか思っとらんと。恋愛感情はまったくないと。


 しかし、合気と無住心剣流むじゅうしんけんりゅうのことはよく知っていた。おかしな女だった。話はしたが、俺はまだ躾隊しつけたいに勤めていた。時間が合わず、距離はあまり縮まらんかった。


 あれが昔思いついた、


 ――恋愛の修業をする。


 を聞かされた。


 俺はキスの修業をすることに決めた。あれは戸惑っていたようだったが。帰宅して、あれのそばに真っ先に行って、キスをする。そうして、感想を聞くだった。


 しかし、あれもおかしな話になった。


 倫が光のいるところで、キスの修業の感想を俺に聞かれるという話をうっかりした。そうしたら、光が、


「私のはどうなのですか?」


 と聞かれて、失敗したと思ったそうだ。しかし、あれと光は一番仲がいい。


「光さんのは、ハートの真ん中、どストレートっす!」


 と答えたと、あとで聞いた。


 しかし、それだけでは終わらんかった。キス騒動は。


 翌日、倫が朝食を食べているところへ、蓮がやってきて、いきなりキスをしてきたそうだ。そうして、


「俺のはどうだ?」


 と聞かれたと騒いていた。その時は、倫が驚いて、朝飯を吹き出しそうになったと言っていた。


 俺と光だけの時に怒っとった。


「もう! やめてくださいよ。蓮にキスの話をするのは!」


 俺は何のことかわからんかったが、光が大爆笑していた。光が蓮に話して、いや罠を仕掛けたらしい。俺は倫に言った。


「蓮も気になったんだろう」


 と。


 そんなことがあったが、ある日、いつも通りキスの修業をした。倫の気持ちが動いた。


 ――だから、抱いた。


 いや違う。光と蓮の四人でセッ◯◯をした。しかし、あれが途中で気絶した。それで、翌日怒られた。


「いやいや! 妻を気絶させる夫がどこにいますか!」


 と。


 くくく……。


 人数が増えた分、おかしなことがよく起きるようになった。しかし、人生と武術には笑いが必要だ。いい修業になる。


 あれは俺が思いつかん武術の動きを教えてくれる。師匠にもいい結婚をしたと言われた。


 ――――いつの間にか持っていた日本刀で、最後の敵を切り裂き、体が勝手に反応する。


 ――日本刀に浮身うきみ


 発泡スチロールでも投げたように、深緑の短髪から、武器は空へと見る見る遠ざかってゆき、すうっと消え去った。


 そうして、次の瞬間には、白と紺の袴は洋風の部屋から入り込む、西日を受けて、大理石の床に影を長く落としていた。

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