翡翠の姫――月の魔法
ハラハラと乾いたアスファルトの上に枯葉が落ちる中を、大きめのバックを持った若い女の子たちが何人かで固まって中へと入ってゆく。
赤茶の門柱の前で、紫のニットコートを着た女が、すすけたワインレッドの革ジャンの男のたくましい腕に必死にしがみついていた。
「ねぇ、
「てめぇはここで待ってろや」
十月のいくぶん色あせた青空の下で、ガサツな声が突っ返した。門へと入ってゆく数名のグループが、男女のやり取りをチラチラとうかがう。
誰がどう見ても、
そんなことはどうでもよく、男のジーパンの長い足は門の中へ入っていこうとする。女は全体重をかけて、両腕で引っ張り戻そうと踏ん張った。
「約束だったでしょ?」
「またにしろや。手ぇ離せよ」
男と女の押し問答は続いていきそうだったが、ごつい手が強制終了した。女の手を無理やり自分の腕から離して、振り返りもせず、言葉もかけず、
「~~♪ ~~♪」
陽気に鼻歌を歌いながら、長い足を駆使して、女を置き去りにして、あっという間に門の中へと遠ざかっていった。
「む~~っ!」
女の悔しそうなうなりがして、黒いロングブーツのかかとが石畳に強く叩きつけられると、ブラウンの長い髪がゆらゆらと背中で揺れた――――
先の尖った革靴が
「~~♪ ~~♪」
両手を後ろポケットに突っ込み、肩を右に左に揺らしながら歩いてゆく。追い越しをかけ始めた、両脇を歩いていた若い女の子たちが、男が通り過ぎるたび、振り返り出した。
「かっこいいっ!」
ビクともせず、男の鋭いアッシュグレーの眼光は、決戦の
「~~♪ ~~♪」
ふたつのペンダントヘッドとウォレットチェーンが金属音を
「背高いっ!」
「足長いっ!」
慣れた感じで植え込みを右へ曲がると、三つしか止めていないシャツの裾から、日に焼けた筋肉質な素肌が顔をのぞかせた。
「~~♪ ~~♪」
チャイムの音があたりにのんびりと広がってゆく。ベンチに座っていた女の子たちが誰一人もれず、両手を夢見がちに胸の前で組んで、立ち上がっては目を輝かせた。
「どこの人?」
「学生……?」
そうこうしているうちに、男の革靴は建物に近づき、右から五番目の窓の前に立った。外の明るい光が入らないように、両手で覆い隠し、鋭い眼光は中をうかがう。
だが、レースのカーテンが邪魔していてよくわからなかった。窓から一度離れて、骨格のはっきりした拳でガラスを強く叩く。
しばらく待ってみたが、窓は開くこともなく、中の人が寄ってくることもなかった。
藤色の剛毛はあきれたように手のひらでガシガシとかき上げられて、先の尖った革靴は再び歩き出す。
「~~♪ ~~♪」
長いアーチを通り抜け、渡り廊下から建物へと、男は入り込む。壁にぶつかって返ってくるかかとの靴音が大きくこだまし始めた。
「~~♪ ~~♪」
外の比ではなく、中は女のたちの視線が一気に増えて、黄色い声があちこちで上がる。
「きゃああっ!」
こんな現象はいつものことだ。ここでなくても、どこでもいつでもそうだ。今はそれどころではない。
男が気にせず先へ進もうとすると、中年のスーツを着た男が立ちはだかろうとした。
「関係者以外の構内の出入りは――」
「関係はあんだよ」
百九十七センチの長い足で、簡単に追い越しをかける。中年の男は慌てて振り返り、すすけたワインレッドの革ジャンの腕を捕まえた。
「職員証を拝見――」
「細けぇこと言うなよ」
男は一旦立ち止まり、アクセサリー類の貴金属をチャラチャラと歪ませながら、長ザイフから札束を取り出し、
「ほらよ」
いきなり十万を渡された職員は引き止めるのをやめて、遠ざかってゆく男の後ろ姿を黙って見送った。
「…………」
構内の自由な出入りを金で買いつけた男は、親指だけをポケットにつっかけて、長い足で廊下を足早に歩いてゆく。
「またどっか行っちまうかもしんねぇだろ。もたもたしてっとよ」
大学の建物内に入り込んでいる、背の高い男。女子大生たちが群れをなして追いかけてくるが始まった。だが、それはいつものことだ。何度ここへ来ても、何年経っても変わらない。
囲まれて動けなくなる前に、目的地にたどり着かなくてはいけない。足の長さを駆使して、女子大生たちを引き離し、廊下の角からひとつ目のドアへ近づいてゆく。
「~~♪ ~~♪」
そうして、とうとうやって来た。歩みを止めると同時に、立派なドアをドンドンと強めにノックした。しかし、返事はなし。
「いんのに出やがらねぇで」
相手の断りなしで、ドアノブを回して、何度も引こうとするが、ガタガタ音がするだけで、動く気配がない。
「開いてもいねぇ」
どうしても会いたいのだ、この部屋の主に。今日を逃したら、またいつになるのかわからない。無駄だと知っていても、携帯電話をポケットから取り出した。
「かけてみっか?」
この番号にかけると必ず聞こえてくる、女の電子音声が流れてきた。切るのボタンを強めにタップする。
「充電切れてんだろ」
もう一度かけてみようとしたが、問題はそこではないことに気づいて、あきらめたため息をついた。
「っつうか、電話は外国に置いてけぼりってか?」
電源が入っていないのではなく、存在そのものがその人の脳から抹消されている携帯電話。人生の基本的なところがめちゃくちゃな、中にいるであろう人に、しゃがれた声でぼやいた。
「携帯電話っつうのは携帯してっから、そう言うんだろ」
右手で山なりにポイっと携帯電話を投げて、左手でナイスキャッチすると、慣れた感じでポケットにしまった。
「しょうがねぇな」
口の端でニヤリと笑うと、男はドアから二、三歩後ろへ下がり、右足を自分の胸へ引き上げ、
「ふっ!」
ドアへ向かってまっすぐ勢いよく押し出した――――
――――小さな砂埃を最新の注意を配り、ハケで丁寧に払う。優しさでいつも満ちあふれている茶色の瞳は、今や真剣そのものだった。粒子のひとつさえも見逃さないというように凝視していた。
「…………」
そうしてまた、砂埃を慎重に払う、白い手袋をした手に持ったハケで。今度はループに持ち替え、対象物を拡大して、目を皿のようにする。
「…………」
布を敷いたテーブルの上から、小さなカケラを拾い上げた。細い線が作り出す模様と模様がピッタリ合うかを見極める。ひとつ目は違う。
「…………」
チャイムの音が不意に響いても、その人の耳にはまったく入ってこなかった。聞こえないのではなく、意識が向かないと言った方が正しい。
「…………」
別のかけらを拾い上げて、また近づける。ふたつ目も違う。背を向けているレースのカーテンの向こうで、ガラス窓が強めにノックされたが、それもこの男には聞こえなかった。
「…………」
背が高くガタイのいい人影はあきらめて、窓から去っていった。
少し離れた場所にある書斎机の椅子。その背もたれには、茶色のスーツの上着と緑のネクタイがよれた姿でかけてあった。
「…………」
部屋の外の廊下がどよめいてきたが、ルーペをのぞいている男には蚊帳の外だった。しかし、次の瞬間、
ドガーン!
と、爆音が響き渡り、持っていたカケラが手からつるっと落ちて、テーブルの上にコトンという鈍い音を作り出した。
「っ……」
細かい作業中に起きた事故。この静かな大学構内で、こんなことをする人間は一人しかいない。
「おう!」
がさつな男の大声がとどろいた。予測した通りの人物で、カーキ色のくせ毛はかがんでいたのをやめて、ルーペを脇へと置く。
「…………」
静かに待っていると、床を歩く靴の音がカツカツと響いてきて、
「ったく、返事もしやがらねぇで」
そうして、いつも通りの歩数で止まり、
「っ!」
勢いをつけるような息が聞こえると、ドサっと何か大きなものが落ちたような音がした。
もう一人増えた部屋。相手がどんな姿勢でいるのか容易に想像できて、優しさの満ちあふれた茶色の瞳は軽く閉じられて、表情を少しだけ怒りで歪めた。
だが、お互い何か言うわけでもなく、
「…………」
「…………」
しばらく、男ふたりの間に沈黙が広がっていたが、白い手袋を脱いで、チェック柄のズボンは椅子から静かに立ち上がった。
書斎机へとたどり着くと、自分が予想した通りの光景が広がっていた。
ドアとの間にある埃だらけのソファーには、破けたジーパンを履いた男が仰向けで寝転がっていて、部屋と廊下を仕切る扉は、風通しよく破壊されていた。
「今回は君が修理代を払ってください」
「てめぇが払うんだろ?」
このふたりはいつもそうで、お互いに引けない理由がある。
「壊したのは君です」
「開けなかったのはそっちだろ」
言い争っているドアの隙間から、男ふたりのイケメンぶりを撮ろうと、写メのフラッシュが焚かれ始めた。
ドアの役目を失った壊れた扉。それを前にして、貴増参は本人だけがすごみがあると思っている、鋭い視線とドスのきいた声で言った。
「太陽が東から昇っても、僕は譲りません」
慣れないことはするものではなく、明引呼は鼻でバカにしたようにふっと笑って、
「お
廊下で聞いていた女の子たちが微笑み合った。職員がやってきて、ギャラリーを追い払うと、壊れたドアが運ばれてゆく。
「ボケてんのは、何やっても治らねぇんだな」
貴増参が気まずそうに咳払いをすると、上着とネクタイが椅子からスルスルと床へ落ちていった。
「んんっ! 外国に長く行っていたから、忘れてしまったんです」
「どこにいても、お天道さまは東から登んだろ」
服を床から拾おうとすると、腕まくりしていたピンクのシャツが今度はずれ落ちた。
自分とは違って上品なスーツ姿の男の影が窓からいなくなったのを、視界の端に映しながら、明引呼は手を顔の横で大きく振って力説した。
「ったくよ。仕事以外てんでなってねぇな」
上着とネクタイを書斎机に乗せようとしたが、資料ばかりで置き場がない。貴増参はひとまず引き出しを開けて、ずいぶん不安定な場所に服を適当にのせた。
「僕は発掘に人生を捧げちゃいましたから、いいんです」
椅子を引いて、やっと空いたスペースに自分の体を預けると、ソファーからライターをいじる音が聞こえてきた。
「ふー」
青白い煙が部屋の天井に蜃気楼のようにゆらゆらと登り、本や資料の隙間に匂いが入り込んでゆく。
この男はいつもここへ来て、寝ながら細身の葉巻、ミニシガリロを吸うのだ。手持ちぶたさになると。
ドアは打ち破られていて、禁煙の構内へとフリーダムに煙は流れ出てゆく。それを注意しようかと、するならばどんな言葉で言おうかと考えていると、しゃがれた声が先に響いた。
「言うことねぇのかよ? 大学教授さんよ」
「僕は考古学者です」
ドアの代わりに目隠しとして、白い幕が入り口に貼られてゆくのを見ながら、手元に置いてあった本に手を伸ばした。
「よく仕事クビになんねぇよな」
長い間開けていなかったみたいに、部屋は少しカビ臭い湿った匂いがしていた。貴増参の興味は本へと完全に向いてしまって、表紙に手をかける。
「…………」
しゃがれた声の文句はまだまだ続く。
「携帯はつながらねぇし、手紙書いても返事はよこさねぇし。何やってたんだよ?」
だがしかし、専門書の文字の羅列に、カーキ色のくせ毛の奥にある脳はとうとう
「…………」
いつものことだ、返事が途中で返ってこなくなることなど。明引呼は引き戻すすべを知っていた。
「盗賊にでもあって、死んじまったのかって心配したぜ」
仕事ワードになら即座に対応できる。貴増参は椅子の肘掛けに頬杖をついて、
「僕はそんなヤワではありません」
「すぐ帰ってくるとか言っといてよ」
ドア以外は平常に戻った部屋で、ふたりの会話は続いてゆく。
「僕もそのつもりで出かけたんです」
「五年も帰ってこねぇで」
誰でも心配するだろう。制止を振り切ってでも、大学構内に入ってくるだろう。下手をしたら、死亡が決定してしまいそうな勢いだ。
本から視線を一旦はずして、貴増参はにっこり微笑んだ。
「それは僕も驚いちゃいました。帰ってきたら、三十歳が三十五歳になっちゃってましたからね。お誕生日会を五回分まとめてしないといけません」
どこまでもマイペース。のーてんき。何が起きれば、五年もの歳月をスルーできるかが、明引呼のあきれたため息と一緒に出てきた。
「発掘作業に没頭して、また時間忘れやがって」
だが、貴増参もやられてばかりではない。
「君は女性遊びが盛んでしたか?」
さっきの大学構内の騒ぎが日常茶飯事、明引呼にとっては。ミニシガリロを持つ手で、こめかみをイライラとかく。
「遊んでんじゃねぇんだよ。向こうから来んだよな。断りもなくよ」
そうして、貴増参らしい変な例えが出てきた。
「僕が女性だったとしましょう」
真夏のうだるような熱くでどうしようもなく気だるいような声で聞き返しながら、明引呼のアッシュグレーの瞳は、本の表紙で見えない貴増参に向いた。
「あぁ?」
スラスラ~と、羽布団みたいな柔らかさで低い声が告げる。ソファーに座っている男の外見と履歴を。
「背が高い。スタイルは抜群」
貴増参はソファーから足が大きくはみ出している男の真似をする。
「こう……鋭い視線に渋い声」
だが、全然似ていなかった。それでも平気で、綺麗にしめくくった。
「職業はパイロット。僕も憧れちゃいます」
しかし、最後の一言が余計だった。
「何言ってんだ?」
同じ歳の男からの愛の告白。ミニシガリロの柔らかい灰はぽろっと床に落ちた。
貴増参はマイペースでノリノリになってゆく。
「お嬢さん、僕と今夜、愛のフライトに行きませんか?」
歯が浮くようなセリフが、男ふたりきりの教授室に響き渡った。発掘してきた土器のカケラがくすくす笑った気がした。明引呼は吸い殻をぽいっと床へ投げ捨て、
「相変わらず、頭ん中、お花畑でいやがる。
「僕の名前は貴増参です」
自分に尊称がついているところは、ツッコミを入れなかった。明引呼は手を上げて、念を押すように大きく揺らし、
「――っつうかよ。話それてってんだよ」
また専門書を読み始めた貴増参に向かって、いつも通りの言葉を贈ってやった。
「少しはハニワさんから離れろや」
「土器です」
即行、訂正が入った。シガーケースが取り出されて、ミニシガリは火をつけられ、厚みのある唇に入れられる。くわえた葉巻をした口から、しゃがれた声がもれ出た。
「どっちも一緒だろ?」
「いいえ、違います」
貴増参は持っていた本をパタンと閉じて、コホンと咳払いをした。
「ハニワは、古墳の上に並べられた素焼きの陶器を指します」
青白い煙は退屈そうに天井へと登ってゆく。
「土器は、胎土が露出した素焼きの器です。磁器のように化学変化を起こさないで、不透明な状態がそのまま残っているものを指します」
「どっちも素焼きだろ」
明引呼から当然な意見が飛んできたが、貴増参は何事もなかったように、受け取るたびに重ねていってしまう資料の山から一枚の紙を引っ張り出した。
バランスを崩した紙の束が赤い絨毯の上へドサーッとなだれ落ちる。それはよくあることで、貴増参は改善することもなく、文字の羅列を追ってゆく。
仕事以外のことは整理整頓もなっていない。乱雑な教授室のソファーで、明引呼は親友としていつも忠告していることを口にした。
「人生いろいろあんだから、他にも目ぇ向けろや」
だが、他人に言われたぐらいで変わるくらいならば、研究者としてはやっていけない。自分の信じた道を突き進まないと、あと一ミリ掘れば、世紀の大発見があるかもしれない。の連続なのだから。
プリントの紙を右から左へと動かしながら、不必要なものは、これ以上入らないと叫んでいるゴミ箱へ落としては、こぼれ落ちて床に白を広げてゆく。
「それよりも、先日お願いした助手の件はどうしたんですか?」
「先日じゃねぇんだよ。五年も前のことだろ。行方不明だったんだからよ」
時間軸がずれたままの考古学者は、急に口調が変わった。
「ごちゃごちゃ言ってねぇで、早く言いやがれ、です」
「オレの真似しやがって」
おうむ返しみたいなのを聞いて、紙があちこちに落ちている教授室の床に、明引呼のあきれたため息が降り積もった。
「何度見つけてきてもよ。てめぇの研究者魂を前にして、ドン引きしてすぐに辞めちまうんだろ」
見た目は優男なのに、心はタフガイ。だが、それが災いして、身を結ばない助手探し。
「からよ。そこ直してからにしろよ。探すのはよ」
紙の山からまた出てきた別の専門書を、貴増参は手元へ持ってきた。
「僕は考古学を通して、世の中に貢献してるんです」
「よく言や、そうなんだろうけどよ。ハニワさんと一緒に寝るのはどうかと思うぜ」
特殊な性癖みたいなものが出てきた。研究に没頭していて、いつの間にか居眠り。そうして、起きると隣に発掘品があるという話である。
「土器です。そう言うわけですから、僕の価値観と合う助手を探し続けます」
「オレの話スルーしやがって……」
何度言っても、同じ繰り返しで、頑として引かない、この考古学者の友人は。明引呼は長くなった葉巻の灰を床へトントンと無造作に落とした。
「てめぇで探せよ」
埃臭い空間で、火と紙が化学反応を起こすこともなく、焦げ跡も作らず消えていった。
「僕のまわりにはなぜか人が集まらないので、プライベートも充実してる君に頼んでます」
「仕事ばっかやってっから充実しねぇんだろ。少しは離れろや」
それっきり、会話は途切れた。優しさの満ちあふれた茶色の瞳が本から上げられることなく、葉巻の吸い殻が何本も床に転がってゆく。
「…………」
「…………」
「…………」
何が起きているのわかった、明引呼はソファーから勢いをつけて起き上がり、
「研究にかまけて、オレがいることまで忘れやがって」
足跡がいくつもついた紙の上に、先の尖った革靴を平然と乗せ、
「少しは女に目ぇ向けろや。でもってよ、時間管理してもらえよ」
「…………」
しかし、本から茶色の瞳が上げられることはない。明引呼は膝の上に両肘を落として、藤色の短髪をガシガシとかき上げた。
「また別世界にワープしやがって」
「…………」
それでも、考古学者はページをめくるだけで、口を動かすことはない。明引呼はソファーからジーパンの腰を上げて、シガーケースをポケットに突っ込む。
「じゃあな。また来るぜ」
「…………」
カチャカチャと金属を触れ合わせながら、足音が遠ざかっても、貴増参のカーキ色のくせ毛は微動だにせず。明引呼は破壊したドアのところで、一旦振り返った。
「終電乗り遅れんなよ」
「…………」
白い幕の前でしばらく待っていたが、いつも通り無反応だった。
明引呼は布地をさっと払い、黄色い声を従えながら元来た道を戻っていった。
陽が西へと次第に傾き、貴増参が気づくと、友人の姿はどこにもなかった。だが、それはいつものことで、自分が本を読んでいる間に帰ってしまうのである。
本はとりあえず閉じて、ピンクのシャツの腕をまくり、発掘品を並べた大きなテーブルへと歩いてゆく。
白い手袋を手にはめて、砂埃をハケで丁寧に取り除いては、バラバラの破片を修復する作業が続いていった。
手元を照らすライトがいつの間にかついていた。しかし、それをつけたことさえ、記憶にはない。いや、ついていることすら、当たり前になっている。
ルーペであちこち眺めていたが、やがて、貴増参はあごに手を当てた。
「……確かこの部分は、あの本の三十六ページに載ってました」
記憶から必要なものを取り出す。適当にしまわれているような、教授室の本の群れ。しかし、この部屋の主にはきちんと整理されていた。
他のことは人にあきれられるほど忘れてしまうのに、研究にことに関してはいつもこうなのだった。
貴増参はゆっくりと立ち上がり、歩き出そうとして、
「暗くて本棚へ行けない……」
開けたままのレースのカーテンへと振り返り、カーキ色のくせ毛は薄闇の中で横へ少しかたむいた。
「いつの間に夜になったんでしょう?」
陽が暮れたことも気づかず、研究にまた没頭しまっていたのだった。かろうじて、光の届く書斎机へと歩いてゆく。
引き出しに置いたままの上着とネクタイも待ちくたびれて、眠っているように大学構内は静まり返っていた。
「今、何時なんでしょう?」
はずした腕時計を、さっきというか、昼間に読み返していた資料の山に埋めてしまった、それを手を当てて探し出す。
持ち帰ってきた出土品に目を奪われ、よそ見をしながらはずした時計。どこに置いたのかも、下手をすると机の上に乗っているのかも定かではない。
それでも運よく、右斜め前で紙の歪みができ上がった。適当にどけて、腕時計を救出すると、
――二時八分。
いくら都会でも、終電はもうとっくにない。明引呼があんなに忠告していったのに、まったく届いていなかった。
腕時計をつけるつもりもなく、いやそんな生活能力などなく、貴増参はせっかく探した出した、それを机の上に無造作に置いた。
「
おどろおどろしく、ドロドロという太鼓の音がして、背後に青白い人影が立ったような気がした。
「タクシーさんが深夜料金を追加請求する時間です」
予算は研究に思う存分使いたいのに、交通費として消える。また余計な出費であった。考古学者にとっては頭が痛い限りだ。
薄墨で書いたような雲が風で流されると、レースのカーテンを通して、月影が部屋へ差し込んだ。満月ではなく、一日分かけた銀盤が夜空に浮かんでいる。
ミッドナイトブルーを背にして、背の高い男の影が机から床へと伸びて、月明かりが幻想的な光をオーロラのように降り注がせる。妖精がくるくるとスパイラルを描きながら踊るように。
カタカタカタ……。
何かがぶつかり合う音が突如聞こえてきた。地震でも起きたのかと思って、いつ飲んだのかわからない、コーヒーカップの水面に視線を落としたが、どこまでも鏡のようにブレはなかった。
それでも音は止むことなく、貴増参はあごに手を当てて考える。
「何でしょう?」
人気のない大学構内で、教授室で、奇怪な音がする。
カタカタカタカタ……。
木がぶつかっているような乾いた響き。ライトの
カタカタカタカタ……。
もっと下の方から聞こえてきた。
「どちらでしょう?」
床に耳を近づけていこうとすると、
ゴトゴトゴトゴト……。
音が急に近くなった。服を置きっぱなしにしていた袖机のすぐ上から聞こえてくる。
「鍵をかけてる引き出し……」
研究に必要なものが入っている場所。その鍵のありかはよく知っている。どこかへ適当に置いても、不思議と記憶に残っている。
昼間読んでいた本を退けて、小さな鍵を簡単に探り当てた。
キーを差し込み、暗証番号も解除する。カチャンとロックが外れた音が、一人きりの教授室に響き渡った。
ゴトゴトゴトゴト……。
引き出しをゆっくりと手前へ引くと、青緑の淡い光が中から差していた。海面から射し込む陽光を下から浴びているようだった。
だが、この引き出しの中に、光を発するようなものは入っていない。まぶしくもないそれは、海岸へと押し寄せる波を横から見たような、曲線を描くものだった。
身に覚えのないもの――
月影が差し込む窓を背にして、光るものへと無防備にそうっと手を伸ばす。
熱があるわけでもなく、何か変わるわけでもない。引き出しから取り出すと、貴増参はその正体を口にした。
「
近くにあったルーペで、淡い光を避けて、レンズをのぞき込む。
「
考古学者の自分にとっては、無縁ではない。だが、今までの出土品にはなかった。研究のことなら、何年前のことでも、頭の中にしっかりと記憶されている。
「どなたが置いたのでしょう?」
ルーペをはずして、白い膜が張ってある入り口に視線を移したが、グレーの影が落ちていてよく見えなかった。
「今朝、研究室に入ってきてから、こちらを訪れた人で、机に来た人は誰もいない」
理論という道筋をたどってゆく。
「そうなると、僕が留守にしていた間……ということになります」
五年間の空白。誰が何のために。
「ですが、鍵はしまってました」
合鍵を作ったとしても、暗証番号を突破するのは難しい。なぜなら、自分がこの引き出しを開ける時は、誰も背後に立っていなかった。つまりは、数字の並びは誰も知らない。
外から。レースのカーテン越しに。それも少しおかしい。自分は、昼間来た明引呼に比べたら、ガタイがいいとは言えない。
しかし、背丈は一緒。肩幅もそれなりにある。角度的に外からも見えない。
だが、手の中には光る勾玉があり、事実として確定してしまっている。
「どのようにしたら、このようなことが起きるんでしょう?」
研究という現実世界で生きている自分には、答えの出ないものに出くわしてしまった。いや、どこかに答えがあるのに、自分が気づかないだけかもしれない。
貴増参は引き出しから立ち上がって、レースのカーテンを片手でさっと開け、秋空に浮かぶ銀盤を向こうにして、勾玉をかざしてみた。
青緑の光が茶色の瞳に透明な色を落とすと、サーっという水が流れる音がどこからかして、急にあたりが真っ白になり、思わず目をつむった。
「っ!」
机の上に乗っていた資料がパサパサと床へなだれ落ちる音がし始める。ふさぎ止める貴増参の茶色のビジネスシューズがあるはずなのに見当たらない。
それどころか、妖精に魔法でもかけられたように、考古学者の姿は真夜中の教授室のどこにもなかった。
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