閉鎖病棟の怪――怨霊の魔窟

 ふたりがいる部屋の外――廊下を白い何かがすうっと横切っていった。あれは歩いている速度ではない。


 パチ、パチ、パチ……。


 ラップ音が合図というように、主役ふたり――いや餌食えじきふたつがそろい、死へのうたげがとうとう始まった。あたりの気温がひどく下がったような気がした。


「朝まで生き残るしか方法がない――」


 袴姿の男に言われて、倫礼は自分が風呂から出てきた時刻を思い浮かべる。まだ午前零時を過ぎたばかりだ。気が遠くなるような時間の幕開け。


 自分たちを取り囲むように、ぐるぐると回旋かいせんしながら悪霊たちが押し寄せてくるのが、手に取るようにわかる。我先に、自身のエネルギーとなる相手の魂をらいに。


 夕霧の精巧な脳裏に敵の数がカウントされてゆく。


 ――霊体、三十六。邪気、七十。


 すでに、百近くにも登ってしまった。


 幽体離脱をして、同じ次元になった倫礼たちには、幽霊は透き通った白い存在ではなく、きちんと色を持っていた。全員悪意があるというように、目がつり上がっている。


 肉体は嘘をつくことができる。だが、心がむき出しとなる、霊体では嘘もごまかしもできないのである。


「俺の後ろに下がっていろ」


 知らない男の背中にかばわれたが、倫礼は腕をかき分けるようにして、前に出ようとした。


「自分のことは自分で守ります!」

「戦えるのか?」


 無感情、無動の瞳でまっすぐ見下ろされたが、倫礼は首を横にプルプルと振った。


「戦ったことはないです。ですが、大丈夫な気がする――」

「命がかかっている時に、感情で判断するな」


 ずいぶんと無責任な発言に、重く踏み潰すような低い声が静かに告げた。倫礼は珍しく真剣な顔で恐れもせず見返して、しっかりと意見する。


「確かに、あなたの言う通りだと思います。ですが、私をかばって、あなたまで死んでしまっては意味がありません」


 守られるだけの存在になどなりたくないのだ。理不尽に誰かに連れてこられたとしても、人には迷惑をかけたくないのだ。それが、倫礼の誰にも譲れない信念だ。


 しかし、現実は厳しく、こうしている間にも、敵の数は無情にもどんどん増えてゆく。


 ――霊体、五十七。邪気、九十二。


「では、どうする?」


 ミイラみたいな人たちに囲まれた病室で、女優志望のフリーターは険しい顔で、ない頭を絞る。


「んん〜〜?」


 人差し指を立てて、くるくるっと円を描いていたが、体のあちこちを急に触り出した。


「魔法……ぶ――あれっ!?」


 そこで、極めて重大な出来事に出くわして、大声を上げた。病室に不釣合いな白と紺の袴が冷たい風に少しだけ揺れる。


「どうした?」

「服が変わってる! どういうこと? パジャマだったのに……」


 今ごろ、こんなことに気づいた倫礼だった。スーツが袴姿に変わった夕霧は、今までの戦いで心得ていた。


「霊体は自身に由縁ゆえんのある服装になる傾向が高い」


 武術をしている夕霧は、袴姿になるのは納得がいく。しかし、倫礼は白のワンピースと編み込んだみたいな茶色のサンダルをまじまじと見下ろして、首をかしげた。


「え……? これはどういうコンセプト?」


 見当違いなところで引っかかってしまった彼女は落ち着きなく、体をねじったりしながら眺め始めた。


 地にしっかり足がついている、いや大地と言っても過言ではない絶対不動の夕霧は、地鳴りのように低い声でまっすぐツッコミ。


「話がそれている」


 ――霊体、七十三。邪気、百五。


 はっとして、倫礼は素早く戦う方法を再び模索し始めた。


「あっ! そうでした。魔法……ぶ――あっっ!!!!」


 雷に打たれたように、天啓が下った。手のひらを、夕霧の顔に近づける。


「ちょっと待ってください」

「俺は待つが、向こうは待たん」


 もっともな意見で、戦闘開始前である。倫礼は自分たちを取り囲んでいる敵を見渡して、大声を張り上げた。


「みなさん、ちょっと待っててください!」

「え……?」


 悪霊たち全員が毒気を抜かれたように、唖然とした。そんなことは眼中になく、倫礼はマイワールドに入り、うんうんと大きく何度もうなずく。


「このためだったんだ。きっと」


 腕組みをして、足でパタパタと病院の床を叩く。


「何だろう? ってずっと思ってきたけど……」


 右に左に首を向ける。


「神父さまに相談した時、神の御心みこころって言われたけど、やっぱりそうだったんだ」


 さっきから、ぶつくさとつぶやいている、緊迫感のない女に、夕霧はまっすぐツッコミ。


「何のことを言っている?」


 それには答えず、倫礼は意味不明なことを口にする。


「ちょっと集中します!」


 くるっと背を向けて、胸の前で両方の手のひらを天井へ向け、何かを念じるように、彼女は力みうなり出した。


「ん〜〜〜っ! ん〜〜〜っ!」

「何をしている?」


 ――霊体、八十八。邪気、百十七。


 三十七センチも身長差があるものだから、背後からではなく、完全に上からのぞき込まれた。


 倫礼は立てた人差し指を唇に押し当て、振り返って素早く注意する。


「し〜、静かに!」


 肩に入った力を、息を吐きながら抜く。目を閉じ、祈るようにつぶやく。


「神さま……」


 縦にビリビリと貫く、人知を超えた畏敬。あの聖堂の高い天井、空間。それがなぜか、すぐ後ろにさっきから立っている男からも感じ取れた。


「ん?」


 この男は普通と違う。他の人が持っていない雰囲気を持っている。それはとても希少で価値あるものだ。


 神聖で荘厳なぴんと張り詰めた空気。まるで、聖堂の身廊にひざまずいて祈りを捧げているような気持ちになった。


 こんな不浄な閉鎖病棟で、唯一の希望の光として後押しされたようだった。


 その時だった。倫礼の手の中に重みが広がったのは。


「あっ! 来た」


 彼女は得意げな顔をして、夕霧へと振り返った。急に手の中に現れたものを差し出す。


 美しい曲線を描く、素材が何であるかわからないその正体を、地鳴りのような低い声が口にする。


「弓……」

「きっと、これが私の武器です!」


 倫礼は親指を立てて、バッチリですみたいに微笑んだ。


「なぜ持っている?」


 理論とはそこが気になるもので。だが、感覚の倫礼には、そんなことはどうでもいいことで。


「小さい頃、気づいたらありました。だから、なぜと聞かれても困ります。でもたぶん、あってると思います」


 答えが出ないことも、この目の前にいる女は適当に乗り越えてゆく。ある意味、それも強さなのだ。


 滅多に微笑まない夕霧の、無感情、無動の瞳は細められた。


「そうか、俺と同じか」


 しかし、倫礼の勢いがあったのはここまでだった。脱力したように腕を落として、ひたいに手を当てる。


「ただ困ったことに、矢がないんです。どうやって攻撃――」


 三人寄れば文殊もんじゅの知恵。ではないが、今度は夕霧が答えを持っていた。


「俺のも銃弾はないが、霊力で装填できる。お前の矢も自身で作るのかもしれん」


 天にも昇るように、みるみる笑顔になって、倫礼はガッツポーズを取った。


「よし、やるぞやるぞ!」


 袖がないのに、腕まくりをする仕草をして、


「ずっと誰かの役に立ちたいって思ってたけど、これでその夢が叶う! よし! 頑張るぞ!」


 右腕を高々と勢いよくかかげた。だが、夕霧の地鳴りのような低い声に出鼻をくじかれた。


「戦いに頑張りはいらん。隙ができるだけだ」


 ――霊体、九十七。邪気、百三十二。


 正論である。物事がそこにあるだけで、感情などいらないのだ。ただ処理すればいいだけのことだ。


 だが、倫礼というまきを燃やす炎だった、やる気とは。


「私には頑張りがいります! それが私を動かすエネルギーです!」


 職業柄、女と接する機会は多く、言い寄ってくる女はたくさんいるが、媚びを売るやからはいても、こんな女はいなかった。


 腹の低い位置で袴の袖を交差させ、両腕を組み、今までに感じたことのない、面白みが湧いた。


「あぁ言えばこう言うで、おかしなやつだ」


 また言い返してくる。


「それが私ですから、誰が何と言おうと」


 対等を望んでいるのだ、夕霧は。この名前も知らない、超適当で感覚的な女は不安定なはずなのに、揺るぎないものを持っていた。


 そこで、待ちきれなくなった敵の一人が、かなり戸惑い気味に声をかけてきた。


「あのぅ……もういいですか?」

「はい、お待たせしました!」


 倫礼はノリノリで、ダークサイドに微笑んだが、夕霧から待ったの声がかかった。


「まだだ」

「え……?」


 前へ前へ出ようとする性格がわざわいしていた。弓だけである、手元にあるのは。


「矢がない」

「あぁ、そうでした。攻撃できませんでした」


 ふらふらと寄り道ばかりする感覚的な話は、地に足がついている人がそばにいることで、理論という線路に再び乗せられた。倫礼は両手を広げて、幽霊たちに向かって大きく横へ揺らす。


「もうちょっと待ってください!」

「あぁ……」


 敵は構えようとしていた武器を一旦下ろし、残念そうなため息をついた。


 だが、相手は人ばかりではない。言葉の通じない、邪気――黒い霧は静止できない。


「霊力ってどうすれば……?」


 戦闘向きでない倫礼はのんきに考え出した。


 自分を飲み込もようとするような闇――黒いモヤが襲いかかってくるが、蛍火のような金の光が重力に逆らって、上へと登ってゆくように、ゆらゆらと縦の線が突如現れた。


 倫礼は我に返り、蛍光灯もない天井を見上げ、


「あれ? 金の光が……本当にどこから出てくるのかな?」


 不思議なことが起きるもので、波にさらわれたように見事に、黒い霧が消え去ってゆく。


 キョロキョロとしている倫礼の後ろ姿が、無感情、無動のはしばみ色の瞳に映っていた。


「お前だ」

「え……?」


 ――霊体、九十七。邪気、百三。


「お前から、金の光が出ている」

「えぇっ!? 自分だったのか!」


 倫礼は驚いてぴょんと飛び上がった。


 近くて見えぬはまつげ――である。倫礼が自分の胸へ視線を下ろすと、水蒸気でも上がるように、金の光がゆらゆらと登っていた。


「あれが……?」

「初めて見た」


 どよめく敵たちも、倫礼にとってはギャラリーでしかなく、横たわっている患者たちをうかがう。


「黒い霧が眠り病の原因?」

「そうだ」

「それが金の光で消える……浄化の力ってことかな?」

「おそらくそうだ」


 形勢逆転みたいな話が、幽体離脱をさせたふたりから出てきてしまった。


 悪霊たちは自然と後ずさりする。自分たちまで消されてはという、恐怖に取りかれて。


 倫礼はそんなことよりも、夕霧からすんなり出てきた答えに、気を取られてしまった。


「あなたも浄化できるですか?」

「俺のは違う。吹き飛ばすだけだ」


 深緑の短髪は横へと振られる。アサルトライフルに視線を落とし、倫礼は、


「そうなると……あなたが攻撃したのを、私が浄化する……ですね?」

「理論的にはそうなる」


 いつの間にか作戦会議は終了したのだった。だが、それよりも先にやらなくてはいけないことがある。さっきから同じ問題が未解決のままなのだ。


 倫礼は弓をじっと見つめて、で始まる言葉でも探すように繰り返し始めた。


「とにかく、矢を作らないといけない。矢、矢、矢……弓で飛ばす。矢、矢、矢……弓で飛ば――あっ!」


 ピンときてしまった。


「どうした?」


 敵との間合いをうかがいながら、夕霧は聞き返した。今もゆらゆらと黒い霧へ勝手に近づいては、消し去る聖なる光。


「金の光が浄化の力になるんだから、飛ばせれば形は関係ないですよね? ハート型だろうが、星型だろうが、遠くのものを浄化するための武器……かもしれないですもんね?」


 呪文を唱えるでもなく、神に祈るでもなく、自然と浄化してゆくのだ。つるに引っかかれば、離れた位置へと飛ぶのである。


 まっすぐな自分では到底思いもつかないことを、めちゃくちゃなのにたどり着く女。夕霧はこの女の内を、気の流れという特殊な世界で見つめる。


「俺と違って、胸に意識があるから発想が柔軟だ」


 倫礼はその視線には気づかず、弓を強く握って、


「とにかく、何かを作り出せばいいんだ」


 勢いよく高々と弓を掲げた。


「よし! やってみよう!」


 強く目を閉じて、ウンウンとうなり声を上げ続けること、一分間。


「んん〜〜〜!」


 そっとうかがうように、片目だけうっすらと開けてみた。するとそこには、金のボールみたいなものが手のひらに乗っていた。


「おっ、丸いものができました!」


 矢ではないが、飛ばせるものを生み出した。倫礼はにこやかな笑みになり、さっきからずっと待ちぼうけを食らっていた敵に、大きく両手を振って合図をした。


「敵のみなさ〜ん! お待たせしました。準備オッケーです!」


 やったことはないが、見よう見まねで、弦に金の透明なボールを引っ掛けようとすると、


「よし、これで弓を引っ張って――」


 武術の達人から、待ったの声がかかった。


「手だけでやるな」

「え……?」


 倫礼はぽかんとした顔をして、武器を思わず落としそうになった。持っているのは弓矢なのである。そう言われても困るのである。


「それでは、狙ったところには飛ばん」


 筋肉という外面そとづらにとらわれてはいけないのだ。気の流れという中身が大切なのだ。


 夕霧からすれば、倫礼の今の動きは空っぽなのだ。まぐれで当たったとしても、はずすことが許されない戦場向きでは決してない。


「弓矢は手でやるものですよね?」


 戦い慣れしていない倫礼とっては、不可解以外の何物でもなかった。


 手、腕の動きの基本はどんなことでも同じ。一点集中、敵を置き去りにして、夕霧の指導が始まる。


「手は矢を押さえるだけだ。引くのは肩甲骨を使ってだ」

「け? けんこうこつ? どこの骨?」


 自分の体のことなのに知らない。よくあることだ。胸椎の何番目から何番目の間にあのかもすぐには答えが出ない。


 二番目から八番目だと、反射的に脳裏に浮かんでいる夕霧。だが、そんなことは一般の人は望んでいないし、わかりなどしない。だから、こう言った。


「肩より下の背中の骨だ」

「背中……」


 前へ飛ばすのに後ろ――


 倫礼は戸惑い気味に振り返った。だが、夕霧の理論は正しいのだ。


「手の筋肉は小さい。それで大きな力を使おうとすると、手首などを痛める原因になる」


 人体模型がパッと浮かび、手の比較ではないほど、大きな筋肉が肩甲骨まわりにあるのだった。


 倫礼は大きく前進する学びを得た。彼女は夕霧に向かって礼儀正しく頭を下げる。


「教えてくださって、ありがとうございます」


 そうして、前のめりがちな性格が災いする。言葉だけを受け取り、肩甲骨を使う具体的な行動は起こさず、弓矢を持ち直そうとした。


「よし! 背中で矢を引く――」


 胸の意識は当然ながら、胸にしかない。それは体の前面だ。背後に意識を向けるのは一苦労なのである。


 気の流れ、

 は、

 気にする、


 だ。すなわち、そこを感じることができなければ、使えないのだ。倫礼は気の流れを作るスイッチが何なのかわかないまま、悪戦苦闘する。


 一方、夕霧の無感情、無動のはしばみ色の瞳は、別世界を見ているような目をしていた。


「違う。それはまだ体の前面だ。もっと後ろだ」

「もっと後ろ?」


 永遠、肩のラインを超えられない倫礼。最初から親切丁寧に指導していては学びになどならない。夕霧の師匠はいつもそうだ。腰の重い弟子がやっと動いた。


「教える」

「あぁ、ありがとうございます」


 倫礼が笑顔になったのもつかの間――


 夕霧のしなやかでありながら男らしい左腕が肩を素通りして、彼女の胸の上を横切り、右肩を前から押さえた。深緑の短髪はかがみ込み、倫礼の耳を妖艶に刺激する。


「んんっっ!?!?」


 教えてもらっている。だが、それよりも何よりも、乙女事件発生である。驚いた顔をしている――感情が強くなった倫礼の耳元で、


「胸の意識がさっきより強くなった。もっと後ろだ」


 そんな官能的な低い声で注意されても困るのである。倫礼は顔を赤くしそうだったが、


「あぁ、はい……」


 恥ずかしがっている場合ではない。はっきりと突っ込まないといけない。


「っていうか! 何で後ろから抱きしめてるんですか?!」


 完全にバックハグである――


 だが、絶対不動の男にはまったく効かなかった。


「今から、肩甲骨まわりをほぐすからだ」


 指導していただいているということで、倫礼はすぐに納得しようとしたが、


「あぁ、ありがとうござい――」


 トントンと肩を叩かれた。


「はい?」

「何だ?」


 同じく肩を叩かれた夕霧が聞き返すと、闘争心を削ぎ取られた敵が戸惑い顔を向けていた。


「戦闘中ですが……」


 しかし、そんなことはどうでもいいのである。弓矢をきちんと使いたいのだ。教えを乞いたいのだ。


「ちょっと待ってください。今大切なところなんで……」

「待て」


 さっき初めて会って、意気投合してしまい、密着している男女みたいになっているふたりからの阻止で、悪霊たちは冷や汗をかき気味に、仕方なしにうなずくしかなった。


「はぁ……」


 画面から、倫礼と夕霧がはずれると、ふたりの声だけになり、こんなおかしな内容になるのだった。


「痛っ!」

「動くな」

「そこに入れるんですか?」

「他にどこがある?」

「何でこんなに痛いんだろう?」

「初めてだからだ」

「いた〜〜っ!」


 バージン喪失みたいな場面展開。倫礼が大袈裟なのではなく、本当に痛いのだ。状態によってはバリバリはがれる音がするほどなのである。


「修業バカ……」


 悪霊全員があきれたため息をついた。夕霧は気にした様子もなく、倫礼からさっと身を引き、まっすぐ立った。


「肩甲骨は普通、羽のように体から離れているものだ。お前のはくっついていた。それでは使えん」

「ありがとうございます」


 こんな素晴らしいことは、そうそうないのである。誰かが自分に何かをしてくれるなど、その人の慈愛でしかない。


 使いたいところは、手で直接触ればいいのである。知らないばかりに、倫礼はみっちり教えられたのだった。


「あのぅ……?」

「はい?」


 真実の愛という至福の時に浸っていた倫礼が我に返ると、敵がひどく困った顔をしていた。


「もういいですか? 私たちも朝日が昇るまでという決まりがあるんですよ」


 悪霊も大変なのである、色々と。縦社会であり、上から命令を下されているのだから、手ぶらで帰ったら叱られるのである。


「すみません。お待たせしました」


 映画の本編が始まる前の、宣伝みたいな長い時間はやっと終わりを告げた。


「脇は空けろ」

「はい」


 コーヒーカップを持ち上げる動きは、ここにもつながっていた。


 倫礼は言われた通り、弦に作り出したボールを引っ掛け、


「っ!」


 狙いを定め、力んだ。即行、師匠から指導が入る。


「構えは取るな。隙ができる」


 斬りかかろうとしていた敵たちも一斉にびっくりして、ピタリと動きを止めた。自分たちが注意されたのかと思って。


「あぁ、勉強になります」


 いつも通りの呼吸で、弓を最大限に引っ張ってゆく。


「…………」


 倫礼が放とうとしている軌跡が、夕霧にははっきりと見えた。


「殺気は消せ。それでは相手に逃げられる」


 自分を殺そうとする何者かから逃げない人は誰もいない。倫礼は弓矢をいったん脇へ落とし、笑いを取りにいった。


の殺気を消す!」

「面白い」


 夕霧は珍しく微笑む――無感情、無動のはしばみ色の瞳を細めた。


「親父ギャグ!」


 倫礼はガッツポーズを取った。しかし、そう言われても、方法はわからないのである。


「どうやって、殺気を消すんですか?」

「相手に感謝をする」


 ――霊体、九十七。邪気、百三十三。


 敵の数はゆうに二百を超している。単純計算で自分たちの百倍だ。だが、焦ることなく落ち着き払っている、夕霧は。

 

 戦うのに、お礼をする。真逆というか、水と油というか、ベクトルがまったく交わらない気が、倫礼はした。


「それで消えるんですか?」


 当然の質問が弟子からやってきた。


「相手に感謝をすると、自分の気の流れが相手に向かい、それと入れ違いに相手の気の流れが自分へ入ってくる」

「あぁ〜、なるほど。相手と心が通じるから、殺気がなくなるんですね?」

「そうだ」


 嘘で言っては、気の流れはできないのである。だからこそ、真心を込めないといけない。倫礼は足をそろえて、悪霊の方々に丁寧に頭を下げた。


「敵のみなさんに、ありがとうございます」


 感謝している人間が自分を殺す。ありえないからこそ、殺気は消えるのだ。妙な間が戦場をかけめぐる。


「…………」

「…………」

「…………」

「…………」


 一分経過。その間動くものは誰一人としていなかった。いやひとつだけあった。冷たい風が室内のはずなのに、の葉をひゅるひゅる〜と巻き上げて、足元を吹き抜けていった気がした。


「あ、あのぅ……。もういいですか?」

「あぁ、はい、どうぞ!」


 倫礼の言葉を合図に、一気に戦況が動き出した。


 だが。


 達人の技が何よりも早かった。


 ――霊体、九十七。邪気、百三十三。


(間合いが狭すぎて、銃が使えん)


 まわりを取り囲んでいた敵が、何もしていないのに、


「うわぁぁぁぁぁっっっ!!!!」

「ぎゃぁぁぁぁぁっっっ!!!!」


 凄まじい悲鳴を上げて、全員宙でバク転し、地面に強く落ちたのである。倫礼は唖然とした。


「え……? 自作自演?」


 そう見えるだろう。夕霧の武術の技――合気を知らないのだから。


 浄化することも忘れ、急に見通しのよくなった戦場を見渡す倫礼のブラウンの髪を見ている、無感情、無動のはしばみ色の瞳の奥に隠れている脳裏に、今の技の詳細が並んでいた。


 ――地面を介して、合気をかける。


 触れていればかかるの、応用だ。かける手順がひとつ変わる。


 ――敵全員の呼吸と合わせる。

 敵全員の操れる支点を奪う。

 それを、正中線上で回す。

 合気。


 ということで、全員やられてしまったのである。一気に間合いもできたというわけだ。


 ――霊体、零。邪気、百三十三。


 相手が強すぎるのだ。毎日、コツコツと積み上げた成果はこうやって、大きくなって返ってくるのである。地道な努力にまさるものなどない。


 さっきは使えなかった。肉体に宿っている間にはできない。次元が違うのだから。


 だが、幽体離脱したのだ。同じ次元になったのである。技は存分に効果を発揮するのだ。


 しかし、トドメはさせない。浄化しないと。待てど暮らせど、倫礼に動きはなく、夕霧は横からのぞき込んだ。


「何をしている?」

「……あっ、あぁ、はい」


 倫礼は慌てて弓矢を流れるような仕草で動かして、いびつな形のものを飛ばす。


 降り注ぐシャワーのような金の光を浴びると、倒れていた敵は煙にでも巻かれたように消え去り、何度か繰り返すうちに誰もいなくなった。


 ――霊体、零。邪気、零。


 圧勝であった。


「はぁ〜……」


 倫礼は晴れ晴れとした気持ちで、夕霧へ振り返ろうとしたが、女の禍々まがまがしい怒りに満ちた声があたり一帯に響き渡った。


「おのれ〜っ!」


 限られた空間の病室ではなく、戦場は一気に広い荒野へと変わり、遠くの方からこっちへ向かって、


「うおぉぉぉっ!」


 ときの声と武器を上げながら、敵勢が迫ってくる。土煙が上がっているのを眺めながら、倫礼は首をかしげた。


「あ、あれ?」

「殺気が増えている」


 ――霊体、九十八。邪気、百三十三。


 別働隊でも隠れていたのかと疑うところだが、林や山などがあるわけではない。召喚魔法でも使ったように出てきた敵。


 血のような真っ赤な着物と乱れた黒髪。濁った目に、欲にまみれ、自分がブレまくっている女は何の特徴もない姿形をしていた。


 自分たちと違って、浮遊する女。と、武器を持つ敵たちに四方を囲まれたら、生者必滅しょうじゃひつめつである。


 その前に対処をしなければいけない。技の効果が効く射程しゃていに、ある程度の数が入るたびに、


 ――霊体、百二十五。邪気、百三十三。


 地面を介して相手のバランスを崩す。


「うぎゃぁぁぁぁぁっっっ!!!!」


 それを、倫礼が浄化するが続く。しかし、倒しても倒しても、次々に敵は現れ、埒があかない。やはり底なし沼のような敵のテリトリーへと連れ込まれてしまったのだ。


 そうこうしているうちに、地面を走ってくるのではなく、二人の頭上近くの空に敵が突如現れ、落ちてくるが始まった。


 無感情、無動のはしばみ色の瞳は驚きもせず、閉じられることもなく、


 ――殺気、右横。


 長身の袴姿の夕霧が、空へ向かって銃口を向ける。


 ズバーンッッッ!


 ――左前。


 白く広い袖口が静かに揺れる先で、銃声が鳴り響く。


 ズバーンッッッ!


 ――後ろ斜め右……。


 裸足に草履はかかとをつけてきちんとそろえられたままで、


 ズバーンッッッ!


 銃声が空を震わせるように耳をつんざくたびに、敵は荒野へと力なく落ちてゆく。


 ――霊体、五十二。邪気、百七。


 倫礼は霊力で矢のようなものを作りながら、浄化をしてゆく。攻撃と浄化。需要と供給。そのバランスは崩れることはない。


 だが、それが一度狂ったのなら、確実にふたりは消滅の運命をたどるだろう。


 焦りが生まれる、倫礼の中に。それでも、守られるだけになりたくないのなら、切り抜ける手段を考えなければいけない。有言実行だ。


 赤い着物の袖を、宙でユラユラ揺らして、手で招くような仕草をしている女をまっすぐ見据えた。


「そうか。結局、あの女の人を倒さないと、どんどん新しい人たちが集まって来ちゃうんだ」


 戦いの基本は各個撃破。しかし、回復要員がそこにいれば、それを先に倒さなければ、無駄足を踏んでしまうのである。倫礼は弓矢を引き続けながら考える。


「他にも敵はいるし、どうすれば……?」


 戦況は冷酷無惨に動いてゆく。最初に決めていた作戦のままでは、対応できないことは出てくる。それはよくあることだ。しかも、戦いながら対策を取っていかないといけない。


 ――霊体、七十六。邪気、百八。


 ブラウンの髪を持つ倫礼とは正反対に、夕霧はどこまでも落ち着き払って、淡々とライフルで悪霊を吹き飛ばし続ける。


 ――殺気、左横。


 和装に銃というミスマッチなはずなのに、はずすことがないものだから、


 ズバーンッッッ!


 ――右前。


 革新的アバンギャルドで、


 ズバーンッッッ!


 ――真後ろ……。


 白と紺の袴のさむらいはスタイリッシュだった。


 ズバーンッッッ!


 浄化し続けながら、どこかずれているクルミ色の瞳はあちこちうかがい続ける。突破口が見当たらない。今日、初めて戦闘という非日常に出会った、女には。


 だが、戦場に慣れている夕霧の地鳴りのような声が、攻撃の合間にふと響いた。


「こうする」

「え……?」

「俺が女の動きを封じる。その間に浄化しろ」

「はい!」


 宙に浮かぶ真っ赤な着物姿の女は、勝ち誇ったように不気味な笑みを向けていた。


「無駄な抵抗とはのう。何ともざまじゃ」


 倫礼はライフルを使うのだと、銃声が鳴り響くのを待っていたが、息が詰まったような声がきしんだ。


「くっ!」


 それとほぼ同時に、女は後ろに半分倒れた状態で止まっている。背面跳びをする途中で静止画にしたような、やけに無理のある体勢の敵を前にして、倫礼は目を疑った。


「えっ!? また自作自演?」


 そうとしか思えないだろう。空中で一人、苦しそうに目をつぶったまま、動かないのだから。銃口は容赦なく向けられ、


 ズバーンッッッ!


 緑に光る銃弾が女の胸に当たると、血もなく悲鳴もなく大きな穴が空いた。どんよりとした曇り空が隙間から望める。


 ――霊体、九十八。邪気、百三十七。


 しかし、技の効果はいつまでも持続しない。ぼうっと突っ立っている倫礼の背中に、夕霧の地鳴りのような低い声がかけられた。


「驚くのはあとだ」

「あぁ、はい!」


 ずいぶん慣れてきた、矢もどきの作り方。手のひらにギリギリ入るくらいの特大のものを作って、流れるような仕草で正確に射た。


 女の体前面に金の光がぶつかり、かき消すように広がってゆくが、何かに吸収されるように収縮し、女の体は元へと戻ってしまった。


「えっ!? 浄化しない!」


 異常事態が起きてしまった。赤い着物の女を倒さなければ、自分たちの体力――霊力が尽きるまで、敵は次々にやってくるだろう。そうなると、自分たちが死ぬのは時間の問題だ。


「もう一度する」


 触れていればかかるの合気。その応用編二。夕霧の体は勝手に反応する。


 ――空気を介して、合気をかける。

 相手の呼吸と合わせる。

 相手の操れる支点を奪う。

 それを相手と自分の中間点の空中で、回すのを途中で止める。

 合気。


 故意になかばで止められた技。赤い着物の女は苦しそうに息をつまらせ、後ろに半分倒れた状態で止まった。


「くっ!」


 一番辛い体勢だ。いっそかけ切ってもらった方が楽なのである。何か支えがあって、体が止まっているのではなく、自分の力だけで倒れそうになるのを、耐えさせられているのだから。


 ――霊体、百二十五。邪気、百七十八。


 殺気を消した銃弾は、情け容赦なく打ち込まれる。


 スバーンッッッ!


 袴の白い袖が衝撃で揺れると、また大きな穴が女の体に開いた。倫礼はあらかじめ用意していた矢らしきものを放つ。


「よし、今度こそ!」


 だが、さっきと同じ繰り返しで、何事もなく着物の女は宙にゆらゆらと浮かんでいた。


「あぁっ!? 倒せない……」


 霊力でもう一度、矢を作り始めながら、倫礼は焦って、真っ白になりそうな頭を無理やり動かす。


「どうしよう? どうすればいい? 考えて、考えて!」


 人が困っている姿を見て、嘲笑う女の声が不吉にからみつく。


「そなたたちにわれは倒せん。力が違いすぎるのじゃ」


 だからと言って、何もせず死んでゆくなど、倫礼にとってはバカバカしい限りだ。自分の計りに合わない言葉は聞かない。ただの雑音にする、だ。


 死ぬ間際まで、あらがい続けてやる。闘争心というエネルギーは、今やガソリンでもまいたようにメラメラと力強い炎で燃え盛っていた。


 諦めのよくない倫礼の脳裏に、パパッと閃光が走ったようにひらめいた。


「あっ! 攻撃してから浄化だと、時間差が出て、相手が回復しちゃうのかな?」

「そうかもしれん」


 倫礼は浄化の矢を放ちながら、さっきからずっと背後に立っている大きな男の気配を感じ取る。


「ってことは、同時に攻撃するだ。掛け声をかけて、合わせるとか?」


 バラバラにここに来て、お互いに未だ名前など知らない。とにかく、自分を相手を守るために、戦っているだけである。合わせづらさ全開だ。


 しかし、武術の達人は心得ていた。


「いい方法がある」

「どんなものですか?」

「合気という武術の応用だ」

「あぁ、武術をやってるから、さっきからすごかったんですね」


 やっと合点がいった、倫礼だった。ワイヤーアクションか手品なのかと思っていた。いや下手をすると、フェイクだったのかと疑うほどだった。敵の動きは味方の技の影響だったのだ。


「すごいかどうかは知らんが……」


 深緑の短髪と無感情、無動のはしばみ色の瞳は、謙虚という動きで横に揺れた。


「お前の呼吸と操れる支点に、俺のを合わせる」


 専門用語がまじっていたが、倫礼はすぐに納得した。


「私は何かしたほうがいいんですか?」

「浄化する霊力を高めることに集中しろ」


 素直に聞くところは聞かないと、人生発展しない。微調整が常に大切である。それを倫礼は感覚でわかっていた。


「ありがとうございます。あとはお願いします」


 これで終わりにする――


 相手に感謝することを忘れない。悪へと引き込まれる要因になる、恨みや憎しみはいだかない。ただ、倒すことだけに集中する。


 倫礼の手のひらに、金色の細長い光の筋が針金のような大きさから、ペンの太さまでに広がりできてゆく。


 夕霧は少しだけかがみ込み、倫礼の背後から両腕を回し、小さな手に自分のそれを乗せる。


(ふたつの呼吸に合わせる)


 倫礼はきちんと矢と言える細長く、先が鋭利に尖ったものを作り出した。白いワンピースミニを支えるように、包み込む白と紺の袴は。


(ひとつの操れる支点を奪う)


 無感情、無動のはしばみ色の瞳は、宙に浮かぶ悪霊の女を見ていたが、自分の腕の中にいるブラウンの長い髪の倫礼に神経を傾けた。


(もうひとつの操れる支点には合わせる)


 重なり合った手で、弓の弦はしっかりと引かれてゆく。悪霊の放つ霊波が鋭利な刃物のように、ふたりの頬をかすめるたび、ガラスの破片のように鋭く切って、痛みが走る。だがそれさえも、今は構っている暇はない。


 ――霊体、百四十八。邪気、二百九。


 敵の数は今や最高数の三百五十ほどまで膨れ上がっていた。


 武術の達人の目はどこか遠くを見るようになり、


(殺気。右、左、左、右……)


 自由自在に現れては消えてを繰り返す、幽霊の気配を追い続けながら、銃弾を作り出す霊力を倫礼の浄化の矢に込めてゆく。


(背後、右、左……!)


 何枚ものトレースシートを重ねたように、全てはピタリとそろった。夕霧の腕につれられて、倫礼のそれも持ち上がり、照準の先で、女の禍々しい声が爆発する。


「死ねっっっ!!!!」


 ブラックホールのような黒い絶望的なエネルギーの巨大な球が、破滅へと導くように放たれた。


 それと交差するように、緑と金色の光が弦を離れ、赤い着物を覆うように聖なる光が包み込むと、


「ぎゃあぁぁぁぁっっっ!!!!」


 ビリビリに全身を破るような金切り声が上がり、光は一旦収縮するように思えた。


 だが、一気に膨張し、夕霧と倫礼もろとも飲み込むよう広がり、地面をえぐるように土煙を上げて迫ってきた。


 すさまじい風圧で吹き飛ばされそうになるのを、お互いを支えるように踏ん張るが、


「っ……」

「っ!」


 ふたりは反射的に顔をかばい、勝敗がわからないまま、爆音の中で視界が真っ暗になった――――

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