閉鎖病棟の怪――死の帳(とばり)降りて

 消灯時刻を過ぎた病院の長い廊下。昼間とは打って変わって、月も出ない夜の海ように静まり返っている。


 あの別棟――閉鎖病棟へと続く通路。夕霧の紺のスーツは医師としてのあかしである白衣を今は着ていない。これから行くところには無縁というよりは、邪魔になるだけだ。


 昼間開けなかった銀の自動ドアの前へとうとうやって来た。不自然なほど、巡回の看護師が通らない廊下。静脈認証のセンサーに手を近づける。


 すっとドアは開くが、文明の利器が通用しないような絶望の淵が広がっていた。


 中は今いる通路と違って、蛍光灯もダウンライトも何もついていない。唯一の頼りは非常口灯の緑だけ。


 何かの境界線でもあるような、手前で黒のビジネスシューズは一度立ち止まる。負けないための対策を、体が勝手に取ってゆく。


 ――呼吸は常にいつも通り。りきまない。乱さない。

 外から自分の内側へ入ってくるイメージで、息を吐く。

 自分の内側から外へ出てゆくイメージで、息を吸う。


 夕霧は知っている。呼吸とは大きな部屋の端から反対側への往復をするような、非常に効率のよくない動きだと。


 だからこそ、それを最小限にする方法。

 吸うイメージで吐く。

 吐くイメージで吸う。


 真逆を組み合わせることで、部屋の真ん中にいながら、両方の壁にたどり着くことが可能になるのだ。


 どんな静寂でも、気管を通る空気の擦れる音はもうしない。夕霧は背後に振り向くこともなく、


 ――気配はひとつもない。


 他人を巻き込まないように、誰もいないことを確認して、右足を一歩踏み出す。


 別世界であることを表すように、黄色く光る幕が目の前で密かに揺れる。しかし、これはいつものことで、もう片方の足を引き入れた。


 すっと自動ドアが閉まると、他の廊下から自分の姿は完全に消え、昔から馴染みのある重さが手に広がった。それは、FN/FNC アサルトライフル。


 なぜ自分のそばにこの武器があるのか。なぜ自分が戦えるのか。それはわからない。だが、ある程度の対峙はできる。ただそれだけのことだ。


 両脇に並ぶ病室から、ホルター心電図の、


 ピ、ピ、ピ……。


 という規則正しい電子音が、自分を飲み込む津波のように押し寄せる。壊れた機械のように何度も何度も同じ繰り返し。


 雑音として阻害しないと、脳内に染み込み、こびりついて狂臭きょうしゅうをもたらすだろう。


 夕霧は絶対不動で左右されることなく進んでゆく。


 ――霊力を高める。


 目に見える範囲ではなく、宇宙空間へと意識を広げ、さらにその果てまで神経を研ぎすます。自身の立っている場所――天命がより鮮明になった。


 突き当たりにある非常口灯は何度新しいものに変えても、何かに呪われているように、すぐに点滅を繰り返すようになる。


 今もチラチラと闇を作っては、緑の光のはずなのに、影のように廊下に灯を落とす。


 眠り病――眠り続ける廃疾はいしつ。患者への配慮から、全ての病室には暗幕が張られ、隙間から外の光が中へ入らないように、黒のペンキで窓は全て塗りつぶされている。


 他の空間から切り離されたベッドに横たわる患者――いやもうそう呼べない。動かないのだから肉塊だ。それらが、無感情、無動のはしばみ色の瞳に映る。


 その時だった。


 ピチャン、ピチャン!


 どこからか水が漏れ出ている音が聞こえてきたのは。ここは国の首都。そこにある大きな病院。整備不良など起きない。いやそうではなく、水源がない。


 夕霧がライフルを構えることなく、黒のビジネスシューズで慎重に、廊下を突き当たりに向かって進み続けていたが、やがて背後に異変を感じた。


 ――来る。後ろから、左右両方。


 深緑の短髪の後ろ一メートルほどのところに、闇から青白い顔がぬうっと浮かび上がってくる。うつろな目。乱れついた長い髪。


 パキ、パキ、パキ……。


 病院という頑丈な廊下や壁のはずなのに、建物が歪むような音が響く。


 アサルト ライフルは慣れた感じで、後ろへ構えられる。引き金など必要ない。銃口さえ、標準さえ合っていれば、相手を吹き飛ばすことはできる。


 ――殺気を消す。


 夕霧は心得ていた。


 ――相手に感謝する。


 真心を込めて、背後にいる敵へと心の中で頭を深々と下げ、


 ――装填そうてんする。撃つ。


 淡々と作業をこなし、


 ズバーンッッッ!

 スバーンッッッ!


 銃声が病室に鳴り響き、断末魔がすぐさま上がった。


「うぎゃぁぁぁっっ!!」

「きゃあぁぁぁっっ!!」


 ゆらゆらと煙のように消え去るが、視界の端で右肩に真っ白な手が乗せられた。少しだけ後ろを振り返るが、その持ち主はいない。


 手だけが自分の肩をつかんでいる。迷うことなく、銃口を自分の体へ向ける。


 ズバーンッッッ!


 銃弾は体を貫通し、手という部品はピクピクっと痙攣して、どさっと廊下に落ちた。悲鳴を上げる口がない。体の一部分だけ。やましさがそこにあるから、全身が見えないのだろう。


 その時だった。室内のはずなのに、急に真正面から突風が吹き荒れたのは。


「っ……」


 防御反応で思わず目をつむる。故意に作られた、ほの一瞬の隙だった。


「あはははは……っ!」


 女のあざ笑うような声が響き渡る。それは、耳から聞こえるものではなく、体の内で精神汚染するように、何重ものやまびこを呼んでとどろく。


 無感情、無動のはしばみ色の瞳が再び開くと、点滅する非常口灯の緑の下に、首をおかしな方向に傾けている白い着物姿の女が立っていた。


 うつむき加減で、顔を見ることはできない。黒の長い髪は縛られることもなく、乱れ絡みついている。


 夕霧はライフルを構えようとしたが、パパッと閃光が走るように、女の幽霊は姿を消し、次の瞬間には、武器との間合いが取れない位置に立っていた。


 数十センチの至近距離で、女が顔を上げると、大きく開かれた眼球は白目ばかり。


 気味の悪い笑みを浮かべる口の赤がやけに印象的。粘り気のある、どす黒い血が今にも青白い唇からしたたり落ちそうだった。


 理論で考えれば、あるはずもない現実――幻だ。幽霊に血などない。肉体のものなのだから。


 夕霧は惑わされることなく、後方へ銃口を向けていたライフルを持ち直そうとした時、全身が硬直したように動かなくなった。


 ――金縛り。


 それでも焦ることなく、解いていこうとする。武術を使って。


 ――相手の呼吸と合わせる。

 相手の操れる支点を奪う。

 それを肩甲骨まわりで回す。

 合気。


 技を発動させたが、


 ――効かん。


 あちこちから白い手がたくさん伸びてきて、悪霊に拘束をかけられ、死出の旅路への波止場に無防備に立たされた。


 閉鎖病棟の廊下でただ一人。自分がここへ入ってきたことを知っている人間はいない。院長の許可が出ない限り出入り禁止区域。誰も助けに来ない――


 そうして、勝ち誇ったように女は笑い、


「あはははは……っ!」


 すっと姿が消え去ると、真正面から自分の首を狙って、鋭利な鉛色が手裏剣のように横に回転しながら猛スピードで迫って来た。


 シュリュ、シュリュ、シュリュ……!


 それさえも、動かせない体のまま夕霧は恐れもせず、まっすぐ対峙する。あっという間に近づいてきたブーメランの刃は、雲を切るようにのどを通り過ぎ始め、


「っ……」


 血が出ることはなく、首と体を別々の塊に切断して、背後ですうっと消え去った。


 視界が横滑りする、体を残したまま。次に景色が床へとあっという間に落ちて、遅れて自分の体がすぐ横でドサっと崩れ落ちる音が聞こえた。


 急速に意識が薄れ、まぶたが勝手に閉じてゆく。朦朧もうろうとする中で、禍々まがまがしい女の声が響いた。


「死ぬがよい。魂の切断の放置は、いずれ消滅へとつながる。しんの死だ」


 どこの世界からもいなくなる。悲劇的結末カタストロフィーへと向かって、夕霧の時間はカウントダウンが始まった――――



 ――――1K六畳のアパート。ドレッサーの前で、濡れたぼさぼさの髪が、ドライヤーからの温かい風にあおられている。


「ふふ〜ん♪」


 間接照明ふたつの、ほのかな癒しの光の中で、口ずさむ鎮魂歌レイクエム


 風呂上がりの髪を、ノリノリで乾かしていた倫礼は、視界の異常を感じて、床に置いていた照明の青を見つめた。


「ん?」


 ほんの一瞬、明かりが寸断された気がした。まばたきと言えば、瞬きとも言えるほど、短い暗闇。どこかずれているクルミ色の瞳を鏡に映して、


「ふふ――」


 再び歌い出そうとすると、ストロボみたいな電気の切断が起きた。


「気のせいかな? 停電っていうか、瞬電?」


 人が生活するには、支障のない電力の供給不足。だが、計測などをする病院や研究所では大問題となる瞬停。


 倫礼はドライヤーのスイッチを切って、部屋を見渡す。散らかったままの机の上。デュアルモニターにしているPC。帰ってくるたび、床にすぐ置いてしまうバック。


 何もかもがいつも通りだったが――ついたり消えたりと何度か繰り返し、とうとう照明器具から明かりはなくなった。


「あぁ〜、真っ暗だ」


 バッテリーの入っているPCのブルーライトだけになった。それでも、六畳の部屋には十分な明るさ。


 ドライヤーをドレッサーの上に置いて、十一月半ばの気温を思い返しながら、壁の上の方にある四角い箱を見上げた。


「おかしいなぁ。エアコンつけてないのに、ブレーカー落ちるなんて……」


 違和感のある停電。パジャマ姿で机へと近づき、バックの中をガサガサと探し出す。


「携帯、携帯……」


 部屋を出たキッチンは真っ暗だろう。だが、そこが今一番行きたい場所だ。一人暮らしの空間。それなのに、


 パキン!

 コツ!


 さっきまで聞こえなかった音がした。幽霊ばかりの日々の倫礼は、手を止めて壁の端や敷居の線を眺める。


「ん? 何の音?」


 パキン!

 コツ!


 携帯電話をバックから取り出し、耳をよくすます。


「これって、ラップ音……?」


 目に見えない存在が出す音。動いたり、何かを伝えたいがために。


 この部屋にはすでに、倫礼以外の何かがいる。それでも、彼女は気にした様子もなく、立ち上がった。


「この周波数って……ん? 混じってる?」


 幽霊とそれ以上の高次元の存在は聞こえ方が違う。これは、体験したことがある人間にしか判断ができない。


「二種類、鳴ってる気がする……」


 だがしかし、悪霊の上も、自分の命を狙っている存在かもしれない。天使や神とは限らない。姿形を変えて、何食わぬ顔をして、近づいてくる。そんなことが当たり前の死という闇。


 携帯電話のライトを操作して、足元にスポットライトのような光の線ができた。


「とにかく、ブレーカーだ」


 キッチンと部屋を仕切っている引き戸をすっと開ける。部屋よりも闇が侵食する、いつもよりも心なしか冷たい床。


 体温を奪うような板の間を歩き出そうとして、玄関ドアのすぐ近くにある、突起物の横並びの線を見上げた。


「届かないから包丁を持って……」


 シンク下にある片開きの扉から、家で唯一の刃物を取り出す。使う用途は違う。ただ、背が低くて届かないからだ。


「よし!」


 起用に刃先で、ブレーカーのスイッチを上に押し上げた。


「あれ?」


 だが、開けっ放しの引き戸からは、相変わらずのPCの青白い光だけで、手に持っている携帯電話のライトは充電池という限りある視界確保のままだった。


「ショートした?」


 落としたり上げたりを繰り返してみたが、うんともすんとも言わない。一人暮らし。他に誰がしてくれるわけでもない。金曜日の夜。包丁を下駄箱の上に放り出す。


「そうか。じゃあ、電力会社に電話して――」


 携帯電話を目の前に持ってこようとすると、後ろから肩を叩かれたように、


 ――ゴボゴボ……。


 ひどく濁った音がシンクの方から聞こえてきた。電話をかけようとしてた手を止める。


「ん? 何の音?」


 ゴボゴボ……。


 今までの記憶からさぐり出すと、それは液体の音だった。鈍い銀色を放っているくだに視線を落とす。


「水道から聞こえる……」


 爆弾でも見つめるようにうかがい、パジャマの襟口をぎゅっと手で握りしめた。携帯電話のライトを当てる。


「何かつまってる?」


 ゴボゴボ……。


 水道ではなく、誰かの口の中から吐き出されるような、流れ出てくるものから目をそむけたいような想いに駆られる。それでも、倫礼は蛇口を下からのぞき込もうとした、その時だった。


 水道のレバーが下へスパッと下がり、開いた安全弁を通り越して、シンクに降り始めの大粒の雨のように、べったりとした赤がポタポタと滴り落ち始めた。


 倫礼は思わず後ろに一歩下がり、


「っ! 血っっ!?」


 停電した一人暮らしの部屋で、水道から血が流れ出る。怪奇現象、奇絶怪絶きぜつかいぜつ


 勝手に下げられたレバーは、上げようとしても何かで固定しているみたいに、蛇口をしめることができない。


 前に気を取られている倫礼の背後に、すうっと人影が立った――


 青白い顔をした女の不気味な笑みが、黒く乱れた長い髪の間から見えると同時に、倫礼は背中から突き飛ばされるような衝撃に襲われた。


「っ!」


 持っていた携帯電話が力なく床にガタンと落ち、水道から出る血だまりは広がり続ける。だが、動くものは誰もいない。


 玄関の曇りガラスから、街灯の明かりが、儚い命が闇に葬られるように点滅を繰り返していた――――



 ――――前へ転がるように倒れ始めた倫礼は、訪れるであろう衝撃に待ち構えるために、いつの間にか目を強くつむっていた。


 両膝を何かにぶつけ、思わず苦痛の声を上げようとしたが、


「痛っ……????」


 強い違和感を抱いて、倫礼は目をさっと開けた。


「……くない」


 クリーム色の明るい場所にいた。一瞬にして、まわりの景色が変わる。こんな現象など起きるはずがない。


「どういうこと?」


 物理的におかしいことに気づいた。


「あれ? でも待って、今後ろから押されて、前に倒れた」


 パジャマ姿ではなく。白い薄手のミニスカートのワンピースと、膝までの古代人のような編み込みのサンダルを履いている。


 灯台下暗しで、服のことなどどうでもよく、倫礼は腕組みをして、考え続ける。


「シンクの前に立ってたよね?」


 確実にその場所にいた。あれ以上前には行けない。壁の向こうは道路だ。


「それに、体の感覚もおかしい気がするなぁ〜」


 風もない。いやそれどころか、温度がない。半袖でミニスカート。今は十一月。肌寒い服装のはずなのに、それを感じることもない。


 いつの間にかしていた地べた座り。とりあえず、目の前にあるクリーム色の何かに手をかけて、立ち上がろうとするが、


「よいしょっと……あれ?」


 向こう側へ、まるで水の中に入ったように指先が消えた。


「手が通り抜ける……」


 何度やっても、壁らしきものはつかめないどころか、触った感覚もない。


「どういうこと?」


 そこで、雷に打たれたような衝撃が倫礼の全身を貫き、両手で口を押さえてもなお、あたり中にとどろくような大声を上げ、


「あぁっ!?!?」


 超不謹慎発言を放った。


「死んじゃったっ!!」


 笑いどころではなく、がっくりと肩を落とす。


「あぁ〜、何がどうなったかはわからないけど、死んじゃったんだ……」


 いきなりのご臨終――

 それでも世界は動いている。倫礼は自力で立ち上がり、


「死んじゃったのは元に戻せないから、しょうがないね」


 ヤッホーっと叫ぶように、手を口元にかざした。


「天国はどこですか〜?!?!」


 しかし、答えるものはいなかった。倫礼は別のことに気づき、手をパッと元へ戻す。


「いや、地獄行きかもしれない……」


 死後の世界の行き先は、人が決めるわけではない。自分が天国に行きたいと願っても、神さまがダメだと言ったら行けないのである。


 現世うつしよ常世とこよの間に流れているという、三途さんずの河までの道のりと思える場所。クリーム色の壁ばかりが続く。その前で倫礼は難しい顔をする。


「意外とわかりづらいんだね」


 不案内な霊界の入り口で、ウロウロする。


「誰かが迎えに来てくれるとか、こっちです、みたいな看板とか出てないんだ」


 そこで気づいてしまった。


「あぁっ!? だからか! 世の中、浮遊霊が多いのは。みんな、道に迷ってるんだ」


 倫礼は単純に心配した。物事の壁にぶつかっている時も、人は苦悩するのだろうが、何をすべきかわからない時の方が辛いのだと、身にしみてわかっていて。


「そうか。大変だなぁ〜」


 大きくため息をつき、右を見て左を見て、まわりをうかがう。


「私も成仏できる場所を探さないと……」


 浮遊霊になって、他の人に迷惑をかけるわけにはいかないのである。


「っていうか、ここはどこ?」


 倫礼のサンダルは歩き出し、T字の突き当たりへやってきた。ダウンライトの落ちる細長い空間を眺める。


「……どこかの廊下? なのかな?」


 家でないのは確かだ。長い通路で、人が誰もいない。


 倫礼は体を揺らしながら、何気なく振り向いた。そこには、銀の大きなドアが取っ手もなく佇んでいた。


「これはどこにつながってるのかな?」


 その存在を抹消するように、表札も何もない。倫礼は両手を胸の前で軽く握る。


「触れないよね? そ〜っと、あぁ、やっぱり触れ――」


 伸ばしてみたが、通り抜けた。だが、さっき壁を貫通した時とは違った。


「ん? 今、何か感じだなぁ」


 成仏したいのだ。できることなら、天国へ行きたいのだ。


「もう一回手を入れて……」


 水面でも揺らすように、銀のドアはゆらゆらと揺れた。引き抜いた手を、倫礼はじっと見つめる。


「ん〜〜? 何か指先だけ向こう側にあるみたいだ」


 水に浸すように、


「もう少し手を入れてみよう」


 ゆっくりと、手首も通り過ぎ、前腕も入り込み、


「肘より先が、別の世界にあるみたいだ」


 閉まったままのドアの前で、右腕だけが向こうに消えている。そんな非現実的な状況の中で、倫礼が首をかしげると、背中でブラウンの長い髪がかたむいた。


「ここが成仏への道? すなわち、霊界の入り口?」


 どこかずれたまま、物事が進み出す。振り返って、人気のない通路を眺める。


「演出が凝ってるんだなぁ。人生という廊下の端が終焉しゅうえんだなんて……」


 大きく感心しながら、倫礼はぴょんと中に入り込んで、そうして、固まった。


「え……?」


 さっきまでの平和な景色が嘘のように、まとわりつくような闇。真正面のはるか彼方で、非常口灯の緑が点滅している。ホルター心電図の、


 ピ、ピ、ピ……。


 という音がけたたましく鳴り響いてくる。倫礼は廊下の端へ向かって歩き出す。


「病院?」


 仕切りのそばへ寄って、下げられた小さな札の字を見つけて、ショックを受けたようにつぶやいた。


「面会謝絶……」


 次の部屋へ進むと、また同じ文字が。反対側の部屋に寄っても同じで。倫礼は薄暗い廊下を困惑気味で見渡す。


「こんなに面会謝絶?」


 廊下の端まで来てみたが、全ての部屋がそうで、倫礼の成仏への道探しはまだまだ続く。ホルター心電図の緑色のギザギザの線を頼りに、ベッドへ近づいてゆく。


 そこには、茶色く変色した骨と皮だけの、到底人とは言えないものが横たわっていた。


「ミイラ……?」


 ピ、ピ、ピ……。


 という電子音が判断の過ちを訂正する。


「……じゃない。生きてる人だ……」


 どのベッドを見ても物言わぬ肉塊。かろうじて、生命維持装置で生きているのではなく、生かされている傀儡くぐつ


「何の病気?」


 一人や二人ではなく、何十メートルもある長い廊下の全ての病室に、同じように横たわる人々。感覚の倫礼なりに答えをはじき出した。


「……眠り病だ、たぶん」


 テレビのニュースというのは、制限がかけられている。戦争の映像に、人体の欠損は映し出さないようにされている。


 海外のネットでは見れても、国内のニュースでは欠片かけらも出ていない。軍の誤った作戦遂行の末での、一般市民の虐殺などあるのだ。


「両親に最後会えなかったのは、これを見せない配慮だったのかもしれない……」


 十代の少女が耐えられるものではないだろう。あまりにも変わり果てた姿だった。骨と皮だけになり、誰かももう判別ができないほどである。


 だがとにかく、成仏への扉である。部屋へ入っては探して、廊下へ出てまた別の部屋へ入るを何度もする。


 幾つ目かの部屋で、他と違う光景に出くわした。


「え……?」


 白い布地が床に落ちていた。さっきまでは、綺麗に整理整頓されていて、そんなものはなかった。


 よく見てみると、それは人の体。下は黒っぽいのが闇に紛れている。白の上着は袖口が広く、どうやら和装のようだった。


「人が倒れてる?」


 ベッドの角の向こうに頭が隠れているようで、倫礼は回り込もうとしたが、


「違う……首が切れてる……」


 血も何もないが、完全に体と頭はバラバラだった。不要物と言わんばかりに、捨てられたような肉塊がふたつ。


「死んでる?」


 振り返って、部屋の間仕切りを見て、ベッドをうかがい、このエリアに入った時の銀のドアを思い出す。


「触れないよね?」


 腕であろう白い袖口に手を伸ばすと、しっかりと感触がした。


「ん? っていうことは……この人も死んでる」


 死んでしまったから、物に触れられないのであって、触れられるということは、理論的に同じ霊界に来てしまった人になる、のである。


 だが、倫礼は手を離して、首をかしげる。


「でも、ちょっと待って。死んでるのに、死んでる? パラドックスみたいだ……」


 二度も三度も死なないのである。頭が取れていても、全然気にしない倫礼は、珍しくため息をつく。


「これじゃ、天国生活も楽しめないよね? 不憫ふびんだなぁ〜」


 同じ成仏の道中で出会ったのも、これも何かの縁だろう。しかし、倫礼は残念そうな顔をする。


「生き返りは存在しません。神さまでも、滅んだ肉体はよみがえらせられません」


 だが、霊体という魂の姿形が破損する。そんなことがあるのかと、倫礼は首をかしげる。


「だけど、死んでるのと違う気がする……」


 倫礼は極力短く切られた深緑色の髪を触ろうとしたが、ふと手を止めた。


「でも、命は人の領域じゃないから、神さまっ!」


 十字を切って、胸の前で両手を組んで祈った。


「どうか、この人が元に戻るすべをお教えください」


 脳裏でピカンと電球がついた気がした。


「あっ! 来た」


 パッと床から両膝を離して、立ちがる。


「よし! こうだ!」


 息を吐き切って、大きく吸い込み吐き出すと同時に、いきなりのルティッシモ、聖なる高い声で歌い出した。


「Kyrie eleison〜〜〜♪(キリエ エレイソン/主よ 憐れみ給え)」


 単語ふたつだけで、一分近くも伸ばし続けた歌声の荘厳であり神聖さが、不浄な病室からすうっと姿を消すと、バラバラだった体はいつの間にかつながっており、小さなつまるような吐息がもれた。


「っ……」

「あ、ミサ曲、ロ短調で生き返った」


 倫礼の願いは無事神に届いたのである。


「気がつきましたか?」


 人がそばにいるなど、気を失っている間のことで、男が知るよしもなく、倫礼のどこかずれているクルミ色の瞳を、無感情、無動のはしばみ色の瞳で見つめ返してきた。


「誰だ?」


 地鳴りのような低い声で聞かれて、成仏しようとしている倫礼は迷わずこう言った。


「通りすがりの者です」


 混濁している意識の中でも、答えがおかしいのは何となくわかるもので、


「?」


 男の服装は白と紺の袴姿だったが、羽柴 夕霧その人だった。名前を聞くことよりも、倫礼は気になることがあって、少し戸惑い気味に、


「あの?」

「何だ?」


 一ミリのぶれなくすっと立ち上がると、夕霧の背丈は、倫礼よりも三十七センチも高かった。あごのシャープなラインを見上げる形で、


「成仏したいんですけど、道はどっちですか?――」


 夕霧は刀で藁人形でも切るようにばっさりと切り捨てた。


「知らん。俺に聞くな」

「あれ? 死んだんですよね?」

「俺は幽体離脱ゆうたいりだつしただけだ」


 肉体から魂が抜け出る現象。さっきからどうも、どこかピッタリ合わなかった、死亡説が音を立てて崩れていった、


「あっ! 私もだ! 死んでない!」


 後ろから押されたぐらいでは死なない。倫礼はやけにがっくりと肩を落とした。


「そうか〜。天国での人生設計――女優を目指すという計画を立て始めたけど、まだお迎えは来てなかった。フライングしちゃったなぁ〜」


 すっかり死ぬ気だった。生きているということで、帰らなくてはいけないのである。自分のアパートのキッチンへと。


「ここはどこですか?」

「眠り病の閉鎖病棟だ」


 嫌な予感というものは当たるものだ。倫礼は視界の端で、病室にいる死ぬだけの運命を生きている患者たちを捉えた。


「やっぱりそうなんですね」


 どうやって来たかわからないが、


「とにかく帰る方法を……」

「おそらく朝まで出られん」


 やけに落ち着いた声で、倫礼の浮つき気味の心は地に足がしっかりとつき、慎重に聞き返した。


「え……? どうしてですか?」

「ここは全て結界が張ってある」


 邪気が人の魂を蝕むのだ。野放しにはできない。ここから外へ出さないための霊的なおりだ。


 しかし、それはいつものことで、今日は異常事態が起きていた。


「だが、さっき今までに会ったことのない、悪霊が入り込んでいた。何らかの原因で、結界の効果は無効にされ、向こうのテリトリーに変わっているかもしれん」


 破壊されたのだ。奪われたのだ。


 右の肘まで別世界にあるように思えた原因を、倫礼は今ごろ理解した。


「あれって……結界だったんだ。誘い込まれた……」


 悪霊の罠だったのだ。幽体離脱をさせられ、別の場所へと連れてこられ、今まで無事でいるのがおかしい。


 しかし、まさかこの閉鎖病棟で、こんなことが起きているとは、倫礼が知るはずもない。


 後悔先に立たずで、彼女は急な寒気に襲われた。


「閉じ込めれたってことですよね?」


 正常な魂の形を保っているのは、夕霧と倫礼のふたりだけ。ここにいる患者たちは頼みの綱にならない。手足が食いちぎられているのが、今ようやく見えた。


 まるでもうすでに、死のとばりが降りているように、


「おそらくそうだ」


 地鳴りのような低い声が響くと、嵐の前のような静けさが閉鎖病棟に広がった――――

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