噂の真相

 空中スクリーンは消え去り、それと入れ替えに食堂の電気が点り始めたが、倫礼の操作を誰かが邪魔をした。


 またすっと暗くなって、代わりに満点の星空が浮かび、クレーターが見えるほど大きな月が現れた。


 重力の方向は変わらないが、星々で埋め尽くされた、天井も壁も床も。宇宙の真ん中にテーブルと椅子に座った夫婦十人がポツリと漂う。いきなりの異空間。


 こんなことは時々起こる明智分家では。夫たちは気にした様子もなく、それぞれの飲み物を飲んだ。妻は斜め前で銀の長い髪を揺らしている、鋭利なスミレ色の瞳に目をやった。


(蓮が魔法で、家の中に夜空を作った)


 彼は倫礼の視線に気づいたがにらんできた。妻は慌てて視線をそらして、スナック菓子を口に放り込む。


るなすさんが綺麗だったから気分がよくなって、魔法使ったんだ)


 感性で動いている魔法使い――俺さま夫に文句を言うこともかなわない妻の頭上で、緑色の流れ星が青い星雲の前を通り過ぎてゆく。


 細長いゼリーの管を口から離して、独健どっけんの鼻声が最初に響いた。


「ラブストーリーなのに、どうしてキスシーンがあんなにもたついたんだ?」


 倫礼は思わずスナック菓子をのどに詰まらせそうになったが、


「っ…………」


 散らかした食べクズを寄せ集めたり、バラバラに広げたりを繰り返すだけで、いつまでも待っても無言だった。右隣に座っていた明引呼あきひこが鼻でふっと笑う。


「恥ずかしがってんだろ?」

「…………」


 ジンジャエールの瓶を傾けている彼に、倫礼は悔しそうな顔を向けた。言わなくていいものを。焉貴これたかは山吹色の髪をかき上げ、


「間に子供が八人もいるのにね」

「君は可愛い人ですね」


 当の本人、月命るなすのみことの凛とした儚げな声で言うと、倫礼は明引呼から視線を外して、


「…………」


 コーラをガブガブとやけくそ的に飲んで、ドンとテーブルの上に強く置いた。


「キスシーンはもともとなかったんです!」


 夫たちはため息交じりに、キャスティングミスを告げる。


「月と孔明の罠だったんだな……」


 策士がタッグを組むと大変なことになるのだった。


「台本が勝手に変更されたんです。もう!」


 倫礼はそばに置いてあった薄い本をパラパラと何度も何度もめくった。あんなメルヘンティックな展開ではなかったのである。


 だが、夫たちも負けていないのだ。妻の用意した台本を修正するくらいは、会話の順番を全て覚えているデジタル頭脳なら簡単にできるのである。


「孔明が『気がする』って言ったとこで罠が張られてたんでしょ?」

「あそこか!」


 倫礼は大声を上げて、椅子から勢いよく立ち上がった。他の策士、焉貴と光命ひかりのみことからさらなる指摘がやってくる。


「『気がする』は使わないでしょ。デジタル頭脳の俺たちは」

「私たちは『感じがする』を使います」


 わかりやすく孔明もわざと言ったが、妻の超感覚思考回路が抹消に近いほどスルーしていたのだった。


 気がする。

 感じがする。


 ちょっとした言葉の違い。大したことないと思っていても、几帳面な人にとっては、命取りの作戦ミスと言っても過言ではないのだ。


 妻は学びの旅に出ようとする。ふたつの言葉の意味の違いを、自分なりに理論的に説明できるようにならなくては、また罠にはまってしまうのである。


 しかし、倫礼はいつまで経っても、魔法で作り出された宇宙の果てを見つめるだけで、彼女の唇は動くことはなかった。


 時間切れというように、焉貴はもうひとつの問題点へ移る。


「お前、まだ『わかった』使ってんの?」


 物語中、何度か月命と孔明に指摘されていた言葉遣いだ。倫礼は椅子にやっと座り直して、得意げに微笑む。


「使ってないですよ。わざとです」

「彼女は私たちと結婚する前から学んでいますよ」


 斜め向かいの席から、光命の推薦を受けて、倫礼はニヤニヤし始めた。長い苦闘の末に手に入れた、デジタル頭脳の夫たちを理解するすべのひとつ。


 差出人の姿が見えなかった手紙を読んでいた月が、それをしまいながら、真正面に座っている夫を見据えた。


「独健は時々使います〜」

「『わかった』がどうしていけないんだ?」


 独健からの問いかけに、孔明は間延びしたように言って、


「失敗しちゃうかも〜?」


 珍しく光命と月命の声が重なった。


「おかしいからです」


 物語中と変わらない反応。倫礼はテーブルについている夫たちを見渡す。


「他に使ってる人っていましたっけ?」

「…………」


 手が上がるわけでもなく、口を開くでもなかった。デジタル頭脳の持ち主でなくても、少し考えれば、不適切な発言だとわかる。


「俺だけか」


 アップルジュースを飲んだ焉貴は、まだら模様の声を響かせる。


「俺、光、月、孔明はまず使わないね」

「使ってる時は、罠を張ってる時です」


 倫礼が言った通り、間違いなくその時だ。策士が言うはずがない。独健はげっそりした。


「うちは油断大敵だな」

「倫が独健に説明してください〜。できなかった時は、僕のお仕置きが待っています〜」


 小学校教諭からテストが配られた。人に説明できるようになれば、本当にできたと言える。倫礼はドキマギしながら、姿を現したヴァイオレットの瞳をじっと見つめた。


「そ、そうですか。相変わらず月さん邪悪だなぁ」

「頼んだ」


 独健が頭を下げると、倫礼の試験が始まった。まずは問題文である。


「何かの約束をする言葉に対して、私が『わかった』を使った時だけ、月さんと孔明さんは突っ込んできたんです」

「そうだったか?」

「そうです。光さん、焉貴さん、月さん、孔明さんは可能性で計っているので、事実として確定しない限り、断定はしないんです」

「うん」

「つまり、確定と不確定の二種類が常に存在してるんです」


 策士四人の頭の中は、


 事実――確定。

 と、

 小数点以下二桁の可能性――不確定。


 このふたつで成り立っている。


「確定、不確定……?」


 理論派の頭の中に合わせて回答がされているのを前にして、感覚の独健は視線をあちこちさ迷わせた。他の夫たちから心配する声が上がる。


「独健はもうついていけなくなっている」


 他の人たちの視線が集中する中で、倫礼のどこかずれているクルミ色の瞳は、小分けにして質問を投げかけた。


「約束は未来のことなので、独健さん、確定、不確定どっちですか?」

「約束、未来……? 先のことだから不確定だな」

「そうなんです。次です。『わかった』という言葉は確定、不確定どっちですか?」


 魔法で作られた宇宙で、流星群が金の光を引きながら降るように斜めに落ちてゆく。


「『わかった』……。わかった……確定だ」

「そうなんです。不確定の問いかけに、確定の返事を返したら、そこで矛盾が生じます。わかりやすくというと、約束が守れない可能性があるのにうなずいたら、本当に守れなった時、相手に嘘をつくことになるんです。自分についているつもりがなくても」


 こうやって、言葉のすれ違いのひとつは起きる。こんなことを何度もしたら、知らないうちに人は離れてゆくのである。


 負けず嫌いの光命は、遊線が螺旋を描く声で優雅に補足を加える。


「さらには、『わかった』は自身の手の内を相手にばらすことにもつながります。こちらの理解力がどの程度か相手に情報として渡ってしまう可能性が出てきます」

「じゃあ、何て答えるんだ?」


 当然の疑問が独健からやってきた。焉貴の人差し指が妻に向けられる。


「倫、そのセリフ読んじゃって。デジタル頭脳の俺たちが答えちゃうから」

「はい。え〜っと……」


 倫礼は台本のページをめくって、


「孔明さんのセリフで、『黒、もしくはそれに近い色の私服に着替えて、七時にここにもう一度来れるかな?』」


 棒読みの質問が投げかけられると、光命、月命、焉貴、孔明の順で、嘘をつかない返事を返してきた。


「えぇ」

「構いませんよ」

「そう」

「そう? ふふっ」


 光命と焉貴は、ただの相づち。

 月命はイエスかノーかが判断しづらい。結果次第でどっちにも話をあとで自由に引っくり返せる。

 孔明は相づちなのに、それさえも疑問形にするという、真意を隠しまくりの高度な返事。しかも、相手の注意をそらすために、わざと笑い声も入れている三重の罠。この返事だと、相手に聞き返される可能性が残る。しかし、それささえも情報収拾の罠なのだ。


 帝国一の頭脳を前にして、独健はため息をついた。


「孔明が一番、巧妙なんだな」


 大先生のセリフを台本で書いた妻の労力が少しだけ明らかになったところで、話はひと段落した。


 みかんに飽きた明引呼はポケットからシガーケースを出して、ミニシガリロに火をつけ、青白い煙を上げる。


「主人公、月だろ?」


 孔明に勘違いしそうだが、エンドクレジットは月命がトップに出ていた。銀のシガーケースとジェットライターはテーブルを横滑りして、光命の前で止まった。


「はい、そうです」


 倫礼が答えている間にも、細く神経質な指先で、ミニシガリロはジェットライターで慣れたように火をつけられ、中性的な唇から青白い煙を上げた。


「月らしいよね」


 焉貴に言われた月命は、ニコニコの笑みをするだけで何も言わない。


「そうなんです。書いてて思ったんですけど、月さん自分から動かないんですよね。腰が重いじゃないですか? だから、腰の軽い私と孔明さんが動くという話の流れにどうしてもなってしまうんです」


 月命を作っている性質は、


 落ち着き。

 冷静さ。

 あとは人を惑わせるもの。


 である。倫礼と孔明が共通で持っているもの、


 感情、やる気、瞬発力。


 これが月命にはまったくない。


「知らない人から毎日のようにプレゼントをされて、代わりにやってくれる人が必ず出てくる。月さんを中心にしてまわりが勝手に動く。それが月さんの個性です」


 今回のエキストラも、月命が門の外に立って一時間もしないうちに、全員そろったほどであった。頭のよさと人と運を引き寄せる得意性質で、月命は幸せに生きているのである。


 これらの不思議現象を表す、明智分家での言い方が、焉貴のまだら模様の声で出てくる。


「ルナスマジック出てなかったね」

「こうなってしまうから入れませんでした」


 倫礼がラムネに手を伸ばそうとすると、同じものを食べていた貴増参たかふみから渡された。その間にいた夕霧命ゆうぎりのみことが、地鳴りのような低い声で聞く。


「どうなる?」


 ルナスマジックをギャグ好きの妻に渡したら、どう使うか目に見えているのである。


「気絶した女子生徒で廊下が埋まってしまい、他の生徒が通れなくなりました――」


 ないとは言い切れない。結婚前は、本当に女性を気絶させていたのだから。男子高校生の月命を野放しにしたら、そうなって当然だ。


 夫たちから笑い声が上がった。


「あははははっ……!」


 本物の高校教師が、無機質に言葉を紡ぐ。


「先生、毎日大変だね」

「保健室が倒れた女子生徒でいつも満杯」


 倫礼はラムネを返しながら、現実的な問題を口にした。独健は真正面でニコニコしている月命の手強さに身震いする。


「別の意味で、月は停学だな」

「女子生徒の身の安全を守るために、学校さんに断られちゃうかもしれません」


 人と尺度の違う我が夫の斜向かいの世界で、貴増参はにっこり微笑んだ。倫礼はラムネをカリカリ噛み砕きながら、


「女の子も大変ですよ。真面目に学校に来てるのに、気絶させられるわけですから。倒された身にもなれです」


 しかし、月命も困るのである。学校に行きたいのに、自分は何もしていないのに、女子生徒が勝手に倒れるのだから。彼は驚きはしないが、人差し指をこめかみに突き立てて、眉をひそめるばかり。


 ――おや〜? なぜ、彼女たちは倒れるんでしょうか〜?


 全然シリアスシーンにならないのだった、月命が関わると。話が途切れたところで、凛とした澄んだ声が全然違うことを話し出した。


「おや? 電話には出るように伝えたんですが、困りましたね〜」


 夫八人と妻はここにいる。他の誰かに電話しているようだった。倫礼がチラチラうかがう前で、月命は一旦電話を切った。


「仕方がありませんね。彼女にかけましょうか?」


 呼び出しコールを何度か聞くと、向こうから幼い声が聞こえてきた。


流貳るーには近くにいますか〜?」


 電話口を変わったようだったが、


「…………」


 彼の五歳の息子、流貳は無言だった。だが、それはよくあることで、月命は、


「返事をしなくてもよいですが、電話は通話にしてください」

「…………」


 それでも、流貳からは返事がない。月命はテーブルの上に乗っていた折りたたまれた便箋を指先でつまんで、


「手紙の内容は明日にします〜」

「…………」


 それでも返事はなし。月命は一言断って、


「切りますよ〜」


 そうして、携帯電話は切れて、手元からそれは瞬間移動で消え去った。パパも何かと忙しいのである。


 マゼンダ色の長い髪を束ねていたリボンの端をピンピンと横へ引っ張り伸ばし、月命は何もなかったように、ゆるゆる〜と語尾を伸ばした。


「こちらはもともとあったものなんですか〜?」


 他の配偶者たちも気にした様子もなく、話は再開する。倫礼はラムネを飲み込んで、


「案はあってモデルも決まっていて、書いていなかっただけです」


 そうそう使い回しはないのである。妻が得意げに言った斜め前で、焉貴は膝を椅子の上で抱きかかえた。


「誰がモデルだったの?」

「私と知礼の役はなかったんです」


 ラブストーリーにわざと変えたのだ。孔明はテーブルの上に突っ伏して、大きく伸びをする。


「月は〜?」


 倫礼は急に口ごもった。


「これも恐れ多いんですが……」

「また陛下つながりってか?」


 明引呼が手で軽く、妻の腕を叩いた。


「はい」


 いつの間にかテーブルに置いてあった灰皿に、ミニシガリロの柔らかな灰を、光命はトントンと叩き落とす。


「どなたですか?」

「陛下の大人の息子さんです」


 皇帝陛下のお宅は、明智分家の比ではなく、五歳児の数は三桁を優に越しているのである。全員の頭の中で、SPに常に囲まれている、十八歳の青年ふたりだけに照準が絞られた。


「兄と弟どっち?」


 倫礼は左斜め前に座っている、鋭利なスミレ色の瞳と冷静な水色の瞳を順番に見た。


「蓮と光さんの同僚の人です」


 音楽事務所が一緒のアーティスト。帝国では有名人である。夫たちが全員納得の声を上げる。


「あぁ、弟さんのほうね」


 頭の中のイメージがぴったりをあったところで、倫礼はスラスラといつもより長々と話し出した。


「メタルなどの音楽をやっている人なんですが、非常に個性的で、自分で新しい言葉を作って話すような人です。女装をすることはないんですが、してもおかしくない雰囲気を持ってます。ふんわりしていて子供みたいな時と、策略をしてくる二面性のある人です。それなので、二重人格という設定にしてみました。女装をするシーンがあったので、月さんを抜擢ということです」


 男子高校生ふたりの物語――Dual natureは。蓮の超不機嫌な声が俺は知っているが聞いてやるという勢いで、質問してきた。


「孔明の役は誰だ?」

「むふふふ……」


 倫礼は急にニヤニヤし出した。目を閉じて、椅子の上で嵐に揺られた船のマストのようにグラグラと揺れ始める。蓮以外誰も知らない。夫たちは不思議そうな顔をする。


「何で笑ってるんだ?」


 十分間を置いた倫礼はまぶたを開け、みんなを見渡し、ドラムロールが心の中で鳴り続けていたが、


 シャーン!


 とシンバルが鳴ったと同時に、


菖蒲あやめです」


 これは、明智分家の宴である。他人からしたら、今のもたつかせた間は意味不明なのだった。だがしかし、夫たちはわかっていて少しだけ微笑む。


「あぁ、そうか」


 全員の脳裏に浮かぶ。背中の半分までの黒髪で、前髪はまぶたの上でパツンと一直線に切られていて、みやびという言葉がよく似合う人物が。


「お前の五歳の弟ね」

「はい、本家にいるみなさんの義弟おとうとです」


 義理の弟を婿に転じたということである。隣の敷地に住んではいるが、結婚式以来会っていない子供。それでも、孔明の精巧な頭脳には、言動がすべて記憶されている。


「ボクと彼、似てたかなぁ〜?」


 しかし、たくさんの子供を見てきた、小学校教諭は見解を異にした。


「僕は似ているところがあると思いますよ〜」


 同じ黒の長い髪を持つ弟と婿を倫礼は脳裏の中で並べる。


「菖蒲は肝が座ってるという言葉がよく合います。孔明さんは違いますけど」


 孔明に落ち着きはない。天地がひっくり返っても微塵もない。


「それに、孔明さんは怒らないじゃないですか?」

「そうかも〜?」


 間延びした返事をする孔明。この夫ときたら、春風みたいにふんわりと微笑んで、どんな困難も楽しんで乗り越えてゆくのである。怒りという単語が彼の辞書にはないのだ。


 だが、倫礼の弟の辞書にはきちんと、大きな文字で書いてあった。


「菖蒲は怒るんです。それが、何かとてつもなくまずいことをしたのかと思わせられるような、重みのある叱りなんです」


 天からの逆鱗げきりんに触れたような気持ちになる、姉であった。マスカットを瞬間移動で指先に引き寄せた焉貴は、元小学校教諭としての経験を活かし、義理の弟を分析した。


「父親に似たんじゃないの?」


 あの雅な子供が怒ったところを思い浮かべると、夫たちは全員納得した。


「お父上の叱りに似ている」


 畳の上に正座させられ、説教される婿たち。倫礼の中で、隣家にいる父親と弟の面影を重ねる。


「確かに。帝河ひゅーがといつも一緒に菖蒲に叱られてた……」


 あの弟ときたら、月命といい勝負なくらい、怖いのである。


 帝河は別の弟で、この姉弟あねおとうとコンビはどこまでも前のめりで、ギャグというキャッチボールをハイテンションで投げ返すような言動なのである。そうして、羽目をはずすと、菖蒲に叱られるという日々を送ってきたのだった。


 夫たちは容易にその姿が思い浮かんで、笑い声を上げた。


「あはははっ……!」


 まだ、倫礼が誰とも結婚していなかったころ。毎日よく話した彼ら。


「でも、まあ、いい弟ですよ。ふたりとも」


 倫礼が綺麗にまとめ上げたところで、夫たちが次の話題へと移る。


「昼休みの知礼しるれと話してた噂話は?」


 妻同士のギャグシーンである。倫礼は声には出さなかったが、思い出し笑いをして、吹き出しそうになった。


 携帯電話を意識化で操作して、その部分の自分のセリフの音だけ食堂――魔法で作り出した宇宙空間に流す。


 ――自分の息子を一日中、ずっと抱きかかえてて離さない。かなりの親バカになるらしいよ。


「孔明の話は全員知ってるが……」


 独健が言うと、全員がため息交じりに同じことを言った。


「親バカ二号……」


 大人の世界をクールに満喫してきた男、孔明と光命。子供が生まれた途端、激変して子煩悩パパになっているのである、明智家では。


 さっきテーブルの下でそれぞれの溺愛している子供にジュースを渡していたのを、妻はしっかり見ているのだ。


 倫礼から孔明にしっかりと言葉のジャブが入った。


「孔明さん、叱られるとわかってても、自分の子供が小学校に入学したら、学校に様子見に行くんですよね?」

「光と一緒だ」


 夫たちが苦笑して、一人失敗しているのにも関わらず、孔明は珍しく断定してきた。


「そう、行く」


 負けると結果がわかっているのに、帝国一の頭脳を持つ大先生は小学校の廊下に瞬間移動する予定を早々と組んでいるのである。というか、行かないと気が済まないのである。


「お前、教師に知られるよ」


 隣に座っていた焉貴が孔明を手の甲でトントンと叩くと、小学校の歴史教師のヴァイオレットの邪悪な瞳がまぶたから解放された。


「僕の出番でしょうか〜?」


 夫が夫に叱られる、小学校で。ある意味ギャグである。


 倫礼は右側の離れた場所を指を指す。だがそこには誰もおらず、食堂の壁があるだけ。それなのに、彼女はこんなことを言う。


「もしくは、あの薄暗いところに立ってる、もう一人の先生にかもしれないですよ」


 全員の視線がそっちへ向くと、瞳というレンズに背の高い金髪の男が映っていた。孔明だけは漆黒の長い髪をつうっと何度もすくを落ち着きなく繰り返す。


「ふふっ」


 つい最近、子供たちが通う初等部がある、姫ノかんに新しく転任してきた教師がいるのである。倫礼は孔明の真正面で妄想を口にする。


「あの先生に孔明さんが叱られたら、翌日のメディアの見出しはこうです」


 月命が街を歩くだけで振り返るほど、注目されている明智分家だ。十分あり得るのだった。


「帝国一の頭脳を持つ大先生。元恋人に小学校で叱られる――」

「あははははっ……!」


 夫たちが大爆笑の渦に包まれ、


「倫ちゃん、ボク恥ずかしいんだけど……」


 椅子の上で珍しくもじもじし始めた孔明を前にして、妻は白々しく言い訳する。


「いや、可能性ですよ。あそこに立ってる人と、侵入した学校で出会うという可能性はゼロじゃないです」


 どの先生が注意しにくるのかはランダムである。教師はたくさんいるので、月命でもなく元恋人でもないかもしれない。


 もしくは、小学校教諭の妻の誰かかもしれない。そうなると、翌日のメディアの見出しは、


 帝国一の頭脳を持つ大先生。妻に小学校で叱られる――


 になるのだ。


 これが月命だと、


 帝国一の頭脳を持つ大先生。夫に小学校で叱られる――


 どの配偶者でも、見出しがおかしいのである。


 自分の得意分野――可能性で話をされてしまい、孔明は桃ジュースが入ったグラスを右に左に傾けただけだった。


「ん〜」


 そうして、もうひとつのおかしな噂話に突入する。音声だけをまた再生した。


 ――女装して、乙女ゲームをするらしいよ。


 妻は菓子の袋を適当にたたんで折り目をつける。


「月さんのこの話、みんなに情報共有されてるんじゃないんですね?」


 倫礼は不思議だった。自分の些細なことなど、あっという間に別の夫が知っているということが起きるほど、旦那たちの連携は抜群なのだ。


「月、何してんの?」


 妻にこんな噂話を劇中でされている夫に、焉貴は問いかけたが、現実は小説は奇なりだった。


「僕は外出時は常に女装をすると決めたんです〜」

「とうとうそこまでいったか」


 趣味の領域ではなくなったのだ。デフォルトなのだ。


 倫礼は一緒にお昼ご飯を食べに行った時のことを思い返す。


「清楚なワンピースを着て、クマのぬいぐるみを抱いて、乙女ゲームをやってたんです」


 水色の膝下までのワンピースを着て、マゼンダ色の長い髪を結ばず、ツバの大きめの帽子をかぶって、手元でゲームをやる女装が外出着の男性、小学校教諭。


「そこまで乙女づいて……」


 初めて聞いた夫たちがあきれた顔をしたが、月命の次の言葉がさらに奇なりだった。


「ですが、ゲームの中の蓮が落ちなかったんです〜」

「あははははっ……!」


 蓮をモデルにした乙女ゲームをやっていて、攻略に苦戦。焉貴は両手で山吹色のボブ髪を大きくかき上げる。


「おかしいね」


 倫礼も笑いそうになるのを何とか堪えながら、


「ですよね? 月さんは蓮にプロポーズされて婿に来たので、現実ではしっかり落としてるんです。でも、ゲームは違うという……」


 やはり奇なりなのだ。


「で、どうしたの?」


 焉貴の質問に答えたのは、夕霧命の地鳴りのような低い声だった。


「俺が代わりにやった――」

「あははははっ……!」


 男の色香匂い立ついつも袴姿で、芸術のような技を生み出す武道家。ミスマッチすぎて、やはり奇なりだった。


 倫礼は何とか笑いの渦から戻ってきて、自分の隣に座っている、極力短い深緑の髪と無感情、無動のはしばみ色の瞳をまじまじと見つめた。


「夕霧さんが乙女ゲームですよ」


 この節々のはっきりした手で、乙女ゲームの画面を持って、選択肢を丁寧に選んでゆく。


 だが、重要なところはそこではない。鋭利なスミレ色の瞳を持ち、銀の長い前髪の夫がターゲットなのである。


 焉貴は皇帝のようは威圧感で一気に話を戻した。


「お前、落とせたの?」

「落ちんかった」

「蓮、身が硬いね」


 純真無垢なR17夫が言うと、別の意味に聞こえてくるのだった。

 

 夫二人が挑戦しても、振り向かない俺さま超不機嫌ひねくれ夫。


「倫ちゃん、攻略できるの?」


 孔明に妻は問われたが、勝手に答えたら、蓮から火山噴火ボイスがテーブルの上を疾風迅雷しっぷうじんらいのごとく横切ってくるのである。倫礼は斜め左の向こうに座っている鋭利なスミレ色の瞳にうかがいを立てた。


「…………」


 蓮は刺し殺しそうなほど鋭い視線でにらみ返し、あっちにいけみたいにししっと手の甲を押して、あごで使う。許可してやるからありがたく思えと言わんばかりに。


「…………」


 カチンとくるなと思いながら、倫礼は座り直して、気を取り直して、


「蓮は恋愛対象として最初は見ないので、人としてどうなのかが一番大切です。だから、好感度だけじゃなくて、他のパラメーターを一緒に上げないと攻略できないです」


 だから、色気のかけらもない自分と結婚したのだろうと、倫礼は勝手に解釈しているのだった。


「で、落ちたの?」

「えぇ、落ちました〜」


 焉貴の問いかけに月命が答えると、時間がオーバー気味の終了トークから、妻は速やかに撤退する。


「無事に乙女ゲームはクリアということで、次の作品タイトルは――」


 魔法で出されていた宇宙は消え去り、倫礼は携帯電話を素早くつかんで、


「――神の旋律!」


 言うと同時に、プレイのボタンを押して、夫たちの視線が空中スクリーンに集中し、ほんの少しの暗闇が広がった。

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