第5話 指輪と優しく甘美な罠

騎士団の自室には大量の伝承を纏められた本が山積みされ、その山の如き本に囲まれるようにしてギルバートは休憩も取らず椅子に深く腰掛け足を行儀悪く机の上に放り出し、一心に読み耽っている。ここ最近は軍を動かさなくてはならないような諍いや、他国と政治的な衝突は落ち着いており、ギルバートがしばらく仕事をさぼっても問題ないだろう。

とはいえ、軍記物や歴史書ならいざ知らず、お伽話か誰が言い始めたのか分からない言い伝えまで、グレンが仕えて久しい上司にはあり得ない光景だった。

しかも首元に薄っすら走る赤い傷跡。恐らく爪で引っ掻いかれた跡だ。


どこのじゃじゃ馬だ?

この男に爪を立て、びしょ濡れにして逃げ去るような女がこの世にいたとはな。


ギルバートが足を開けと言う前に自ら足を開く女ばかりだと思っていたのに、世の中探せばいるものだと考えを改めることにする。それに激しく爪を立てて暴れようが、どんなに魅力的な女でも一回抱いたらさっさと部屋から出て行く男がこうも入れ込んでくれたのだ。

ギルバートをその気にさせたのであれば、引っ掻き傷だらけにしても、十分お釣りがくる。


ただ何故逃げ出したのだけが理解できない。

昨夜の夜会に出席した貴族であれば、夜会の本当の目的は分かっているだろう。名も告げずに去る意味がない。ギルバートと結婚できれば、いずれは国の王妃にもなれるというのに。


そして出席者の全員の身元を洗い出すのではなく、ひたすら古い伝承話を自分に集めさせ読み耽ってるギルバートも理解に苦しい。代わりに出席者の情報を集めようとした自分すら無駄だと止められた。

夜会が催された王家所縁の屋敷は、普段なら王族が休暇を取るときや、療養の時に使う屋敷だ。使用しないときでも常に警備兵が屋敷を守り、貴族であっても許可がないものは入れない。そんな場所に身元不明の女が紛れこみ、屋敷から抜け出したギルバートと接触できる確率は極めて低い。気になる言葉は一つ。


「ギルバート様、お忙しいところ申し訳ございません。いくつか質問してもよろしいでしょうか?」

「手短に言え」


読んでいる本から顔を上げることなく、ギルバートから質問の許可が出る。


「夜会から抜け出されて戻られたとき、ギルバート様は女神を見つけたとおっしゃられておられましたが、女神とはどういう意味でしょうか?」

「あの屋敷の敷地内の奥には湧き水がでている池がある。ガキの頃、あの屋敷に遊びにいったとき、召使の老女から池には女神が住んでいるから池では遊ぶなと注意された」

「国王陛下の甥であるギルバート様が誤って池で溺れたら大変ですからね。おとぎ話にかこつけた当然の注意ですね」


単純に池は危ないから遊ぶなと注意したところで、反対にガキは素直に聞かないものである。だからその老女も女神というひねりを加えたユーモアのある注意をしたのだろう。


「その池でギルバート様の目に叶った女神のごとき女性と出会われたのですか?」

「ごとき、ではない。女神その人だ」

「だから出席者の身元を洗い出すのは無駄だとおっしゃられるのですね」

「そうだ」

「相手が池に住む女神となりますとまたいつ現れてくれるか、人間ごとにきに女神を探すのは至難の業かと思われます。何か手がかりや心当たりがギルバート様にはあるのでしょうか?」


真面目な口調で質疑を重ねつつ、女神など存在するわけがないとグレンは冷めた気持ちだった。しかし仕えるギルバートが探すのであれば、部下である自分もギルバートの力になれるよう(表面上は)務めなければならない。


「だから女神に関する伝承を手当たり次第調べている。そして唯一の手がかりはこれだ」


くつろげた襟の中から、ネックレスのチェーンをひっかけ取り出すと、チェーンに一つの指輪は通されていた。間違ってもギルバートの太く節ばった指には通らない小さな指輪。


「彼女の落とし物だ」


ニヤリと口角を斜めにして、見せた指輪をまた大事そうに服の中に戻す。少し手に取って確認したかったのだが、この様子では触らせてもくれないだろう。

仕事一辺倒だったこれまでのギルバートのあまりの変わりように、随分とその女神にハマったものだとにわかに信じられない話を半信半疑に受け止めつつ、グレンはより現実的な方法を模索する。

それはギルバートの言う女神を見つけられなかったときの対処だ。


「差し支えなければ、お探しの女神の特徴を教えていただいてもよろしいでしょうか?」

「歳のころは15、6。薄いピンクを帯びた長い銀髪、金の瞳。白く小さな顔立ち、細く華奢な体躯」

「15、6……」


思わず、ギルバートとの年齢差を考えてしまったのは仕方ないことだろう。まさか30半ばを過ぎたギルバートにそんな少女趣味があるとは一度も考えたことがなかった。考えたことを勘づかれたのか視線だけでギロリと睨まれたが、咳払いをして誤魔化す。

しかしギルバートが好む指向はだいたい分かった。あとは、この特徴と似た女性を何人か探し出し、女神本人と再会できず落ち込むギルバートにあてがえばいい。

本に囲まれながら夢幻に夢中になっているギルバートとは反対に、グレンは徹底した現実的な方法でギルバートを結婚させられないか考えていた。



▼▼▼



女神が誕生するのは雲一つない満月の夜。

その清浄な光を浴びて、幻想的な美が世界に具現する。


愛花が女神として生まれ変わってから2日後、満ちた月は少しづつ欠け始めていた。日1日と月の光は弱まり、なくした指輪はどんどん見つけられなくなってしまう。

昨夜は雲が空を覆い、暗闇でほとんど探すことができなかった。今夜も雲が全くないというわけではないが、月の姿をたまに隠す程度で、昨晩よりは随分明るい。これであれば指輪を探すことができるだろう。


夜も十分に深まった夜半、池の中央から不自然な波紋が立つ。そこから顔半分を出して周囲に人影がないか確認してから愛花は池から姿を現す。

よかった。誰もいないわ。いまのうちに指輪をさがそう。

すでに池の水の上を歩くのは慣れたもので、駆け足に岸にたどりつく。探すのは銀の指輪だ。月の光があれば、少なからず光を反射してくれるはずだと、膝を地面につけてしゃがみこみながら地面に目を凝らす。


「ないわ。こんなに探しているのにどうして見つからないの?」


指輪を落とすなら、絶対男に捕まっていた時しかないのに、男に逢った周辺に指輪らしいものはなにも落ちていない。あまりにも見つからなくて、声も涙声になってしまう。

そこに、


「探し物はこれかな?」


不意に見覚えのある声が池の傍に立っている木の裏から聞こえて、振り向いた。

そこには2日前に自分を抱きしめキスをしてきた男で。しかし、その手に持ったネックレスチェーンの先にはずっと探していたものが下げられ、月の光を反射していた。


「私の指輪!」


通りで見つからなかった筈だ。男が拾っていたのだから。

改めて男を見ると、真っ先に目に入ってくるのは月の明かりでもわかるほど真っ赤な髪をしている。そして着ている軍服の上からでも見て取れる鍛え上げられた体躯。これではいくら自分が腕の中で暴れてもびくともしなかったはずだ。男にとってみれば、自分の抵抗など幼子が嫌々をする程度のものだったろう。


それにあの逞しい腕に捕らわれているとき、すぐ近くで見た深いアメジストのごとき紫雲の瞳。切れ長の目に長いまつ毛、通った鼻梁と形のよい唇は自信に満ち溢れたようにな笑みをたたえている。

自分を襲ってきた相手だったけれど、ファンタジーの本の中にしか存在しない騎士が目の前に現れたような美しい容姿を男はしていた。


「返して!その指輪は私の指輪よ!」

「もちろん返すよ。どうぞ」


意外なほどあっさり男は手に持ったネックレスを自分の方に差し出してくる。ただし、返してほしければ受け取りに来いと言っている。


「こちらに投げて」

「騎士たるもの、女性にモノを投げつけるなんて真似はできないな」


軽く肩を竦めて、男は首を横に振る。

それらしい理由で、男に近づかずに指輪を返してもらうという狙いは拒まれてしまった。

騎士たるものとか言いながら、この前は私をいきなり襲ってきたじゃないの!

矛盾していると不満に思えど、指輪は男の手の中だ。男には近づきたくないけれど、指輪は返してほしい。その2つの葛藤にしばらく悩んでから、恐る恐る男の方へ一歩、また一歩と近づいていく。


男が変な素ぶりをしたらすぐに池に逃げ込むつもりだった。

あと少し、ほんの少し。あと半歩近づけば指輪に伸ばした指が届く。

もうすこし、私の指輪。

女神の指輪に伸ばした指先が微かに触れたとき、獣より素早い動きでその手を男に取られていた。


「あっ!」

「捕まえた」


何が起こったのか理解するよりはやく、狙った獲物を捕らえた満足に満ちた声が頭の上から聞こえてきた。


「……………」


捕らわれた腕の中から無言で男をにらみ上げる。男の腕の中で暴れても体力がなくなるばかりで無駄なことは先日の件で経験している。


「この前のように暴れないのかい?」

「暴れたら逃がしてくれるの?」

「……まいったな、そう来るとは考えてなかった」


男はてっきり自分が暴れると考えていたのだろう。困ったような顔になって、抱きしめる腕の力を緩めてくれた。けれど離してはくれないらしい。


「この前は悪かった。キミに無体を強いるつもりはなかった。ただキミを一目見て好きになった自分の気持ちを抑えられなかった。謝らせてほしい」

「変態の言うことなんて信じないわ。私が嫌だって何度も言ったのに、言うこときいてくれなかったもの」


腕の中に捕らわれながらも、懸命に虚栄を張ると男は頬をひくりとさせ


「変態………。自分でやったことだから言い訳はしないが、俺を変態と呼ぶのはやめてもらえないだろうか。俺の名前はギルバート。ギルバート・エル・グランディ。一応この国の将軍だ。キミの名前も教えてもらってもいいかな?」

「……愛花」

「アイカ?」

「そうよ」

「素敵な響きの名前だ。女神アイカ」

「貴方の言う通り指輪を取りにきたわ。名前も教えたわ。もういいでしょう?指輪を返して」


さっき返すって言ったじゃない。とうとう涙が堪えきれず目尻に滲みはじめてきた。やっぱりこの男は嘘つきだ。約束を守らず指輪を返してはくれない。


「済まない。泣かせたいわけじゃなかった。約束通り指輪は返すよ」


そう言ってギルバートは苦笑しながら目じりの涙を親指の腹で拭ってくれると、指輪の通されたネックレスを自分の首にかけてくれる。男の首まわりに合わせていたのだろうチェーンは自分がさげると少し長い。


「これで俺はアイカの言うとおり指輪を返し、約束を守ったことになる」

「そうね、ありがとう」


女神の証である指輪を指で撫でながら、指輪が戻った安堵でほっとしながら礼を言う。

指輪は戻った。あとはココが待つ池の中の洞窟に戻るだけだと、男の腕の中から出ようとして、しかし緩められていた腕がいきなり抱きしめてきた。


「指輪は返した。だから今度は俺の願いを聞いてほしい」

「ギルバート?」


突然のギルバートの豹変に戸惑っていると、唇に触れるだけの口づけが降ってくる。

もちろん驚いた。けれど、あまりにも自分を見つめるその紫雲の瞳が悲痛そうに懇願してくるものだから、抵抗する気が削がれてしまった。


なんて綺麗な目なのだろう。私を簡単に腕の中に閉じ込めてしまう人が、どうしてこんなに悲しそうに自分に懇願してくるのだろう。

その瞳に見つめられるとこちらまで胸が苦しくなってくる。


「前も言ったが、俺はアイカ、キミを一目見た時から愛している。俺の傍に、一緒にいてほしい。アイカの言うことならなんでも聞く。何でも叶える。だから俺のものになってほしい」

「そんなこと急に言われても……」

「アイカ、好きだ」


出会って2度目でギルバートのことはほとんど知らない。そんな相手に一緒にいてほしいと言われても困惑するばかりだ。どうしたらいいのか分からず、戸惑っていると今度は触れるだけではない口づけが降ってきた。


「んっ」


すぐに舌が差し入れられて口内を堪能し始める。けれど2度目であることとギルバートの口づけが前回と違って吐く息も吸われるほど激しいものではなかったことから、角度を変えるときに隙間から息を吸う余裕もあってパニックに陥ることはなかった。それよりも、

もしかしてこの人、わたしが苦しくならないよう我慢してる?わたしを捕まえる腕も、痛くならないように気を使ってる?

切羽詰まったような表情で本当は思うままに自分を貪りたいのに、私のために我慢してる?


そう思ってしまったら、ギルバートを前のように拒めなくなっていた。




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