第3話 池の女神

 王家所縁の屋敷は王都のなかで一等地であっても、広大な敷地を持っている。その敷地のなかには、貴族であっても王族やその血縁者でしか入れない場所があった。


 庭の奥、手入れされた木々のその奥に突然でてくる大きな池。川から水を引き入れてるわけでも、水を貯めているわけでもないのに池の水は枯れることなく、そして水は澄み、雲一つない空に浮かぶ満月を水面が鏡になって映す。

 恐らく池の底から湧き水が沸いているのだろうということだったが、確かめた者はいない。

 そして、


「確かこの池には女神が住んでいるんだったか。馬鹿らしい」


 ホックを外し首元を寛がせると、とたんにギルバートは気疲れによるため息が出る。子供のころに聞かされた昔話を思い出しながら、取り囲まれる人垣と匂いから解き放たれた解放感に身をまかせる。さすがにこの場所まではグレンも探しにこれないだろう。あとは、頃合いを見て夜会に戻り、そのまま帰ればいい。

 とりあえず夜会には出席し、嫌々ながらも三回踊ったのだ。セルゲイの口添えに対する面目は立てた。十分だろう。


 伯父上が俺の身の上を心配してくださるのは有難いが、こればかりはな


 ダンスをしている最中、わざと背伸びして顔を近づけてきた相手と頬がすれ違った。そのせいで化粧粉が頬にわずかについてしまったのも気持ち悪い。だから夜会は嫌いだ。

 さっさと顔を洗おうと、池のほとりに膝をつき、掌で水を掬おうとしたときだった。


 バシャン!


 と、池の中央で激しく水音が立ち、咄嗟にギルバートは顔を上げた。まさかグレンに先を読まれて先回りされたのかと咄嗟に考えた。

 しかし池の真ん中から現れたのは、シルバーピンクの長い髪から水を滴らせ、空を見上げる少女で。

 着ている白のワンピースは水を含み、その細い肢体にぴたりと張り付き、水から上になる胸から上のラインがはっきりと浮き出ていた。なぜこんな夜更けに少女が王家ゆかりの敷地内の池の中にいるのかと頭の隅で思いつつ、警戒することも忘れてギルバートは少女から目が離せなかった。


 月の白い光を一身に浴びて、濡れた白い肌が、淡い光をまとう。美しい顔立ちに赤い小さな唇。その紅さにギルバートは下半身の下腹奥がズクンと疼くのを覚える。あの唇に今すぐ自分の唇と重ね、嬌声ごと貪りつくしたい。

 虚ろげに空を見上げていた少女がゆっくりと緩慢な動きで振り返り、そこで少女の瞳が満月を映したような金色の瞳だと気づく。けれど、ギルバートの姿を瞳に映した少女はびくっと震え、きゃっと悲鳴を上げ後ろに倒れた。バシャバシャと両手を振り池の水面を細腕で叩き、静かだった水面が波立つ。


 「キミ!?待ってろすぐに助けるから!」


 ギルバートの姿に驚いたのか、足を滑らせ溺れかけているのかと慌てて着ていた軍服の上着を脱ぎ、池に飛び込む。しかし、少女が胸から上を水面に出していたことから池の水深は浅いと思っていたのに、あっという間に長身のギルバートの足は水底につかなくなり、止む無く少女の元へ泳ぎ近づいた。


「はぁっ!たすけて!」

「暴れるな!助けに来たから!」


 暴れる少女の手をつかみ、首にしがみつかせると、そのまま背面泳ぎで岸の方へと戻った。溺れる者を助けるときは二重遭難を警戒するが、鍛え上げられているギルバートは少女一人にしがみつかれても難なく池から岸へと上がる。


 それよりも驚いたのは救助するためではあったが、抱き寄せた少女の細さと柔らかさ、そして冷たさだ。

 季節はまだ春先で、夜は大人でも羽織を必要とするくらい冷える。どれくらい水の中にいたのか知らないが、水を飲んだのか、せき込む少女の体は完全に冷え切っていた。


「大丈夫か!?すぐに服を脱げ!風邪をひくぞ!」


 すぐに濡れた服を脱いで体を温めなくては風邪どころか肺炎になると、濡れた少女の服に手をかけたとき、


「きゃっ!どこ触ってるのよ!この変態オヤジ!」

「ッ―!」


 我に返ったらしい少女の平手がギルバートの左頬に、ぱんっと小気味よい音を立ててヒットする。急いで服を脱がさなければと焦っていたギルバートに、その手を避ける余裕はなく、頬を打たれた痛みで、助けるためとは言え、自分が何をしようとしていたのか我に返った。

 俺は何を年端もない少女から服をはぎ取ろうとしていたんだ?

 これが世間に知られたら英雄の醜聞として騒ぎ立てられるのは間違いないだろう。そのうえ、これまで生きてきた中で初めて言われた言葉がまだ耳に残っている。仮にも池でおぼれているところを助けた相手に、


「変態、オヤジ?それは俺のことか?」

「他に誰がいるっていうのよ?」


 ワンピースを脱がされないように両腕を交差するように身を丸め、警戒した眼差しで少女はギルバートを睨みつけている。


「………俺しかいないな」


 苦笑いして周りを見渡しても、この場にいるのはギルバートと少女の二人だけだ。けれども少女もギルバートを警戒しながら周囲をゆっくり見渡し、不思議そうに首を傾げた。


「ここ、どこ?」


「ここがどこか分からず池で水浴びしていたのか?ここは王家所縁の屋敷内にある庭の池だ。とりあえず、その濡れた服を脱ぎたくないなら脱がないでいいから、俺の上着を羽織るといい。濡れたままで風にあたっていると風をひく」


 言ってから池に飛び込む前に放り投げていた上着を取りにいき、少女の肩へかけようとして、


「待って!それ以上私に近寄らないで!」

「何もしない、上着をかけるだけだ」

「……本当に上着をかけるだけ?」

「ああ」


 優しく言うと、少女はギルバートと上着を交互に見て、ぶるりと震える。やはり寒いには寒いらしい。

 警戒されないようゆっくり近づき、微かに震える少女の肩にそっと上着をかける。それだけでも僅かに温かかったのだろう。小さく微笑んだ少女の腰に、ギルバート自身驚くほど無意識に手を回し抱き寄せていた。


「ちょっと!上着をかけるだけって言ったじゃない!?」

「本当に上着をかけるだけのつもりだった。俺自身驚いている」


 慌ててか細い手でギルバートの胸を叩き少女が逃れようとしても、ギルバートは腕の力を緩めることなく難なく腕の中に細くやわらかな肢体を閉じ込め続ける。


 いい匂いがする。香水の甘ったるい香りじゃない。これは花の香だ。爽やかでいて香しい。

 腕の中から香る鼻をくすぐる甘やかな香りと、近くでみればより一層美しくかわいらしい小さな顔立ち。

 だめだ。これはきっと一生自分には無縁だと思っていたものだ。けれど胸の奥で一度ついてしまった恋の炎はもう消すことはできなかった。熱く興奮して冷めやらず、この甘く甘美な思いは堕ちればもう二度と抜け出せない。


「俺はキミに惚れたらしい」

「え?」

「好きだ。このままキミを攫って屋敷に閉じ込めてしまいたい。誰にも見せず俺だけのものにしたい。その鈴を転がしたような可愛らしい声すら誰にも聞かせたくない」


 こんな風に誰かに気持ちを伝えるのは初めてのことで、うまく気持ちを言葉にできないのが酷くもどかしい。


「愛している」


 そう言ってから腕の中から驚き見上げる少女の赤い唇に口づけた。驚き顔を背けようとした少女の顎をとらえ固定してしまえば、欲望のままに今度は舌を差し入れる。逃げる少女の舌を捕まえ絡めると、少女は声にならない悲鳴を上げたが、それすら少女の声なら耳に心地よかった。


「やぁっ……んっ、……ぁ…はな、し、……んぁ……」


 キスに全く慣れていないらしいく息が思うようにできず、息苦しさで少女の目じりに涙が浮かぶ。けれど、その涙を見たらもっと虐めたい気持ちが沸き起こった。暴れていた腕も次第に力をなくしていき、ギルバートの胸にしがみつくようになる。

 キスについていくので必死なのだろう。


「ふぁっ……んぁっ、ん……」


 口づける角度を変えて溢れる唾液ごと吸ってやれば、甘い声が漏れる。

 なんてかわいらしい人だ。ずっとこうしていたい。離れたくない。

 そう思うと少女の顎をとらえていた手が離れ、まだ成長途中の胸へと下りる。柔らかな小ぶりの双丘はギルバートの掌にすっぽり収まる。濡れた服の上からでもこんなに柔らかいのだ。直接触れることが出来ればどんなに滑らかで気持ちいいことか。想像したとたんまた下半身に熱が集まっていく。


「やだぁ……触らないで……離して、お願いっ……」

「好きだ、愛している、俺のものになってほしい」


 自分にはこの少女しかいない。出会ってまで間もないのに確信があった。

 他の誰にも渡さない。欲しくてたまらない。今すぐにでも自分のモノにしたい。そんな思いが溢れて爆発寸前だった。


「いやっ、助けて……」


 追い詰められた少女の涙混じりの懇願に、やりすぎたかと冷静さがわずかに戻った瞬間、少女と自分の間に突然透明な壁らしきものが現れ弾かれる。それはまるで少女を守るような、光る薄い膜だった。


「なっ!?なんだ!?」


 その衝撃で腕の中にとらえていた少女を離してしまい、自分が腕を離してしまったことに気づいた少女は肩にかけた上着を放り出し一目散に池の方へと走りだす。


「待ってくれ!」


 まさかまた池の中に入って逃げるつもりかと、追おうとした足が池に数歩入って止まった。今、自分は信じられないものを見ている。


「池の上を走るだと?」


 ギルバートの足はまだ岸の浅いところだが完全に池の底へと沈んでいる。なのに少女の足は水の中に沈むことなく小さな波紋を立てるだけで水の上を走り抜け、池の中央あたりに来た瞬間、池の中に消えるように少女の姿は消えてしまった。


 あたりは風の音と木々がこすれる音だけで、残されたギルバートはまるでリアルな夢でも見ていたような感覚だった。

 確かに池の中から少女が現れた。たしかに少女の細い肢体をこの腕の中に抱いた冷たさが残っている。そして重ねた唇の熱い熱も覚えている。

 池に入る前に脱ぎ捨てた上着は、濡れた少女の水分を吸って、内側だけ濡れている。


 そこに満月の光を反射するものをギルバートは見つける。


「これは……指輪?」


 拾い上げると、また満月の光を反射して鈍くひかる。誰かが前に落としたものであれば、泥や傷がついているものだが、拾った指輪は汚れらしいものはついておらず、そしてその穴は小さい。落として時間は経っておらず、女性用の指輪だ。


「あの子が落としたのか………」


 証拠はない。けれど確信に近い自分の直観が、指輪は少女のものだと告げている。

ニヤリと口端を斜めにし、指輪をつかむと、上着を肩にかけギルバートは屋敷の方へと戻っていく。自分の運命の相手と出会ったのだ。ならばこんなところで無駄な時間を過ごしている暇はどこにもない。


「ギルバート様!?どちらに行かれて、ってどうされたのですか!?ずぶ濡れじゃないですか!誰か部屋を!」


 誰にも行先を告げずに消えたギルバートを見つけるも、ずぶ濡れになり、整えた髪も乱れた姿に、グレンは慌てて近くの者に着替えるための部屋を用意するように命じる。あれから消えたギルバートを屋敷のものたちと共に探しても全く見つからず、ギルバートを目当てに集まった淑女たちに散々行方を聞かれあとで小言の一つ二つ言おうと決めていた考えが一瞬で吹き飛ぶ。


「必要ない。グレン、戻るぞ。やることはたくさんある。お前も手伝え」

「どうされたのですか?何かあったのですか?」

「ああ。俺の女神に会った」

「女神?」


 言いながら手の中の小さな指輪をギルバートは握り締める。子供のころに聞かされたおとぎ話だとばかり思っていた池の女神の話。


 紅銀色の長い髪、白く透き通るような白い肌、小さな顔立ちに大きな金の瞳、そして赤く熟れた甘い唇。月の光を浴びて、この世の何よりも美しい女神。

 必ずまた見つけて、今度こそ自分のものにする。

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