第12話 女神の歌声

「おい、見ろよ。ギルバート将軍だ。アインはあの方を初めて見るんじゃないか?」


隣に座り食堂で昼食を食べていたオリバー・スチュアートに肘で腕を突かれ、クイと首で促されたほうをアイカは見やる。そこには食堂に居合わせた騎士たちの視線を集め、騎士たちと同じ食事を取ろうとしているギルバートの姿があった。


ギルバートだ。

何度か直接会っているグレン副将軍の他に、何人か騎士団長たちを連れている。


自分と共にいるときの優しい面差しはなく、精悍な顔は引き締められニコリともしない真面目な顔つき。将軍だけが着ることを許された漆黒の軍服をきっちり着込み、自分よりも年上だろう騎士団長たちの中心に座って、何事か話しながら運ばれてきた食事を取り始めた。

普段見慣れていないギルバートの姿にドキリとする。あれがこの国の10の騎士団と軍を束ねる将軍の顔になったギルバートの姿。

同じ人物なのに別人に見えてしまう。


とは言え、毎晩のように離れの部屋で会ってますなんてオリバーには言えない。


「はい。初めて見ました。あの方がギルバート将軍なのですね」

「そうだ。しっかり顔を覚えておけよ。いずれこの国の王になられる方だ」


え?そうなの?


初めて聞く話だ。ギルバートがこの国の王の甥ということは前に聞いたことがあるが、いずれ王になるというのは初耳である。甥ということは祖父が王だったということだろうから、王位継承権をギルバートが持っていてもおかしくないが、いきなり王というのは内心驚いた。

今の王には子供がいなくて、それで甥のギルバートが王になるということなのだろうか。

礼儀作法をギルバートに教えてもらっているときに、一緒にこの国について聞いておけばよかった。


「国の将軍がこうして下っ端の俺たちと同じ飯を食うってのも珍しいだろう?」


常識的に考えれば国のトップである将軍が、下っ端の騎士見習いと同じ食事を取るのは、言われたとおり珍しいので、うんうん頷く。食堂の昼食は日ごとでメニューは変れど、みな同じものを食べる。それが一番コストがかからないかららしい。


「大概、将軍ってのは王宮かどっかの奥まったところで豪勢な飯を食うのが一般的なのに、あの方は将軍になる前からずっと俺たちと同じ飯を食ってる」

「何か理由があるのでしょうか?」

「さぁな、俺たちにとって見りゃ、雲の上のお方が何を考えてるのか分からねぇが、前の戦争は間違いなくあの方のお陰で勝てたようなもんだ。敵の大軍にギルバート様自ら先陣を切って斬り込まれて行く姿に、俺たちがどれだけ奮い立たされたか」


数年前、隣国とこの国で戦争があったことは知っている。そしてギルバートがその戦争で活躍しこの国の英雄として称えられていることも。けれどそれを聞くよりもっと嬉しい気持ちになった。


「すごいお方なのですね。父が言ってました。横や上からではなく、下の者からの評価は常に正しいと。スチュアート卿にそれだけ尊敬されるという事は、ギルバート様はきっと素晴らしい王になられると思います」

「ほう?お前の親父さんいいこと言うな」


転生する前、サラリーマンだった父親が常日頃言っていたことばをふっと思い出す。学生のうちは横社会。けれど社会人になれば横だけじゃなく上下関係が生まれると。色んな方向から評価される中で、下からの評価が一番正しいと断言していた。

スチュアートだけではない。食堂に居合わせた誰もが、ギルバートに尊敬と敬意の眼差しを向けている。それだけでどれだけギルバートが皆から慕われているのか分かり、自分が誉められたかのように嬉しい気持ちになる。


「ひきかえ…最近ウチのハロルド騎士団長、やつれて来てないか?なんか心配ごとでもあったり」

「心配ですね、頬も少しこけてきたみたいですし、体調悪いのでしょうか」

「たまに胃薬飲んでるの見かけるし、上から何のプレッシャーかけられたんだか。ま、下っ端の俺たちには関係ないか」


ハハ、とオリバーは軽く笑い飛ばしたが最初にアイカがグランディ邸でハロルドに会った時より、確かに痩せている。

自分が所属させて貰っている騎士団長ということもあるし、日頃お世話になっているのだから今度ギルバートに何かいい胃薬が無いか聞いてみよう。


「そういや、来週には花祭りがあるが、お前、相手はいるのか?」

「花祭りってなんですか?相手?」


急に話題を変えられ、ん?と、飲もうとしてスープのスプーンが止まり首を傾げる。


「王都で毎年催される祭りだ。街中が色とりどりの花で飾られて、いろんな曲芸師が芸を見せたり、音楽を奏でて歌を歌って春を祝うんだ。通りに店もいっぱい立つ」

「へぇ、面白そうですね」


そんなお祭りがあるのかと思わず興味を駆り立てられた。お祭りなんてこの世界に転生してからはじめてだ。仕事が入るかもしれないけれど、少しだけも見に行きたい。

そう思っていると、どこからかやって来たフレッドがスチュアートとは反対の隣の席にどかりと座り、


「それだけじゃない。花祭りはいわば若いやつの出会いの場でもある。実を言えば俺の嫁さんも花祭りで一目惚れして口説いたんだ。だからアイン、お前もせっかく王都に来てるんだったらこの機会にだな」



バキッ!!!



フレッドが話している途中で、拳で机が叩き割れる激しい音とともに、食器が床に散乱し飛び散る。食堂中がシーンと静まった。

机を叩き割ったのは額に血管を浮き上がらせ激怒しているらしいギルバートだった。同席している騎士団長たちも目を丸くして、ギルバートの突然の豹変に、何が起こったのか分からない様子で呆然としている。


「部屋に戻る」


怒りを押し殺したような決して大きくはないギルバートの声が食堂の端にまで届く。そして何事かグレンの耳元で囁くと、そのまま無言で食堂を出て行ってしまった。

ギルバートの姿が消えると、小さなざわめきが段々と大きくなる。


「ギルバート様はどうされたんだ?あんな風にいきなり激怒されることも、モノにあたるってことも滅多にない方なのに」


オリバーと共にフレッドも珍しいこともあるもんだと首を傾げる。

その隣で、


どうしたんだろう、何かお仕事で問題でも起きたのかな?


もちろん下っ端の自分がその理由を将軍であるギルバートに尋ねるなんてことは許されない。けれどあんな風に怒るギルバートは初めて見て、まだ心臓がばくばく高鳴っていた。



▼▼▼



「すごい!これが花祭り!お花がいっぱい!お店も!」


普段から賑やかな街が、今日はさらに石畳の通りに面した店はもちろん、軒先や二階の家も花々を飾りたて、薄い雲が流れる青空の下、色とりどりの花びらが風に舞う。

通りには祭りを楽しむ人々が溢れ、通りに面した屋台からはおいしそうなにおいが鼻をくすぐり店の店員が客を呼び込む。至る場所で大道芸が披露され人垣ができ、バイオリンに似た弦楽器や太鼓、笛を奏でるテンポのよい演奏が鳴り響く。


その通りをフードを顔をできるだけ見られないようフード付きのマントを被り、目に入るもの全てにアイカは声を上げて喜ぶ。

フレッドやオリバーたちが言っていた以上の大賑わいの祭りだった。寒い冬を乗り越え、到来する暖かな春を祝う花祭り。


すっごく賑やか!人がこんなにいっぱい!

何食べよう!?こんなにいっぱいあったら選べないわ!


並ぶ屋台で売られている食べ物は、どれもおいしそうで迷ってしまう。


そんなアイカの少し後ろから、同じデザインのフード付きマントを目深に被ったギルバートとグレンがついていく。ギルバートの足元には、同じくアイカを見守るように猫のココがぽてぽて歩いている。

とくに将軍であるギルバートの顔は王都アルバに住む市民に知れ渡っているため、昼間にも関わらずフードだけでなく目元から下も隠すマスク布もしているが、そんなギルバートを見かけても誰も不審がる者はいない。

花祭りは身分を問わず、春の訪れを喜ぶ祭りだ。高貴な血筋の貴族が、身分を隠して市民に混ざって騒ぐのも珍しくない。それに花祭りは若者にとって春を祝うだけではない別の意味もある。


若者にとって彼氏彼女と出会う絶好の機会だった。歳頃の娘たちは美しく身を着飾り素敵な男性に声をかけられるのを心待つ。男も身を整え、気になる女性に声をかけるチャンスを狙っている。


「これでよろしかったでしょうか?」


ギルバートの数歩後ろを従うグレンに、ギルバートは小さくすまないと謝る。

本来なら今日アイカは夕方まで仕事が入っていた。けれど、それをグレンの手伝いということにして昼過ぎに早上がりさせ、こっそりギルバートと共に街に繰り出すことにしたのだ。

職権乱用も甚だしいが、元々アイカはグレンの遠縁として騎士団に入団しているため全く不自然というわけではない。

それよりも、夕方前には上がれるだろう仕事ではなく、夜中までいつも仕事をしているグレンの手伝いに呼ばれたアイカを知らない同僚たちは哀れんでいた。


先週、騎士団長たちを集めた午前の会議が終わり運が良ければ食堂でアイカを見かけることができるかと思ってギルバートは食堂に行った。

そこに望んだアイカの姿を見つけたときは、どれだけ顔が緩まないよう必死に自制したことだろう。本音を言えばアイカの隣に座って一緒に食事を取りたかったが、会議が終わった騎士団長たちも自分について食堂にやってきた。

自分ひとり、それかグレンの2人ぐらいであれば、何気ないフリをしてアイカの近くに座れたのに大人数ではそれも出来なくなる。


しかもアイカの隣には同じ隊の男たちが座っている。

不自然に見てしまわないように注意したが、どうしても気になって仕方ない。

自分以外の男たちと何をアイカが話しているのか。騎士団長たちが他愛ない話をふって来る中、神経は常にアイカの方にむいてどうにか聞こえる声に耳を傾けていたら、とんでもない会話が耳に入った。


考えるより先に拳で食事をしているテーブルを叩き割っていた。


花祭りが春を祝うだけでなく、歳頃の者たちにとって貴重な出会いの場になっていることはギルバートも知っている。身分に関係のない男女の出会い。

しかしそこにアイカが行くとなると話は違っている。必ずアイカは男たちに取り囲まれるだろう。かといって、普段の街ですら喜ぶアイカに祭りに行くななど絶対にいえない。


ゆえに前もって花祭りの日にアイカに仕事を入れておくようにハロルドに頼み、それをグレンの一存でということにして昼過ぎに切り上げさせて、2人で花祭りに行けるよう仕組んだ。(結局はギルバートを1人で出歩かせられないと警護としてグレンがついてきて、ココも祭りに連れて行きたいとアイカが連れて2人っきりではなくなってしまったけれど)


「……グレン、お前がアイカを疑う気持ちは俺も理解できる。しかし、そう簡単に話せる内容ではない。あと少しだけ待ってくれないか?」


興味関心のままにあっち行ったりこっち行ったりするアイカを見失わないよう、ギルバートはアイカをずっと見やりながら背後のグレンに声をかけた。

突然のギルバートの譲歩と妥協案に、グレンはどう答えるべきか逡巡したものの、溜息をつき、心の中でやはり自分はギルバートに甘いと愚痴を零す。


「期日を言って下さいましたらもっと助かるのですが」

「そうだな、1年……」

「ギルバート様、私の認識では1年を少しとは言いません」


毅然と指摘されギルバートはうーんと唸り、


「では半年」

「待てて1ヶ月ですね」

「たった1カ月か?随分と短期だな。だが、……期日を決めたほうが踏ん切りもつきやすいか」


短気は損だぞ?と悔し紛れのような言葉を残して、急に立ち止まったアイカの元へギルバートは行ってしまった。残されたグレンの足にココの長い尻尾かするりと絡みつく。アイカの猫なのは知ってた。しかし離れの部屋にグレンが(ギルバートに)所用で行っても、まったく寄り付きもしなかったくせに、このタイミングで尻尾を摺り寄せてくる。


「なんだ、お前。俺を甘いとでもいいたげじゃないか」

「ナァー」

「一丁前に返事しやがって」


言いながらココの腹に手を回し、抱き上げる。決して人懐こいとは言えない猫だが、今日も大人しく自分達に付いてきたり、まるで人の言うことを理解しているかのような節が稀にある。しかも猫ならすぐに飛びつきそうなリボンや草花が道にあっても一切飛びつかない。おおよそ猫らしくない行動。


何を考えているんだ俺は。

これはただの猫だ。


猫が人間の言葉を理解できるはずがないと自嘲する。そして決して猫好きではないグレンが初めて抱き上げたというのに暴れず、静かに腕の中に収まっているのを見て、そのままギルバートたちの元へ行った。


「これを食べたいのか?」


背後からギルバートに声を駆けられていると分かっているけれど、アイカは目の前で揚げられていく丸いこぶし大の小麦粉菓子から目が離せられない。金色のキツネ色に揚がり、甘いにおいはそれが絶対美味しいであることを訴えてくる。


これは前世でいうところのドーナッツね!砂糖がたっぷりかかって美味しそう!


「これを3つくれ」

「はいよ!まいど!」


苦笑を押し殺した声でギルバートが差し出した金を店員が元気な声を上げてうけとり、手渡す前にもう一度砂糖をふりかけて数枚の古紙に包み渡してくれる。

花祭りは屋台も多く立ち並ぶため、屋台で買った食べ物をゆっくり食べられるよう街の各所に簡易的なテーブルや椅子が多く用意されている。


「あそこまで我慢できたら食べよう」


菓子を片手にギルバートが指差すのは、ここから少し開けた場所に用意された休憩スペースだ。あそこで食べようと言っているらしい。早く食べたい気持ちを抑えて足早に向い、空いているスペースを見つけて腰掛ける。


「ほら」

「ありがとう!」


手に油や砂糖が付かないよう古紙に包んで渡されたドーナッツをすぐさま一口ぱくり。

意外にもしっとり柔らかい生地。


「どうしよう!すごく美味しい!」


また一口。あっという間に食べ終わってしまった。美味しいものを食べると幸せになるというのは本当だと思う。


「アイカ、口に砂糖がついてるぞ?」

「えっ?」


どこ?と訊ね返す前に、マスク布をいつの間にか外し身を乗り出したギルバートの顔がすぐそこに近づいてきて口端を舐められた。お腹が幸せに満たされていた一瞬の出来事で、ガードする間もない。しかもここは祭りが行われている広場の真っ只中で周囲には沢山の人がいる。

バッと振り向いたグレンはワザとらしく遠くを見ながら残り一口のドーナッツを口に放り込み、ココも何故かグレンの膝の上から動こうとせず、急に毛づくろいをしはじめた。


「甘いな」

「こんな人前で見られちゃったらどうするの!?」

「見てみぬふりだ。花祭りは恋人のための祭りだもある。冷やかしたりそんな野暮な真似はしない」

「だ、だからってっ………。見直したのに損しちゃった……」

「見直した?」

「なんでもないっ」


プイとそっぽを向く。自分にとってはこれがギルバートだ。優しくて何でも自分の言うことを聞いてくれる。自分を求めてきてくれる。

そんなギルバートが真面目な顔で自分の上司である騎士団長たちに囲まれ、そして数多くの騎士たちの注目を集めている姿はとてもかっこよかったのに。


楽しい時間ほどあっという間に時間が過ぎるのは早い。あちらこちらの大道芸を見て、演奏を聞いているうちに、あれよあれよと陽は沈む。

けれど祭りは終わらない。むしろ花祭りは夜こそが本番なのだ。昼間は歳頃の者たちの、そして陽が落ちてからは大人のための時間になる。


落ちた陽の代わりに松明が焚かれ、酒を飲み交わしながら談笑する者たちと、2人抱き合いどこか建物の影に隠れてしまうものたち。今夜だけは身分に関係ない逢瀬だ。


「そろそろ飲むのはやめておいたほうがいい。身体がフラフラしている」

「このお酒美味しいねぇ、おかわりぐれん」

「………」


今日グレンが共にいるのはあくまで護衛だ。護衛が2人に口を挟むのはよくないことだとおもいつつ、顔が赤らめてきて口調が間延びしはじめたアイカにグレンはストップをかける。どうせアイカに激甘なギルバートには元から期待できない。初めてアイカをギルバートから紹介されたときに、自分のことはグレンと呼び捨てでいいと言っているので目くじらを立てることはない。

しかし注意されても言われていることを理解してない様子で、手に持った果実酒をアイカはこくこくとまた飲む。


「酔い潰れたら離れに1人で帰れませんよ?」

「その時は俺の家に連れて帰るさ」


全く悪びれないギルバートにそれが目的かとグレンは溜息をつく。

ふと、果実酒を飲んでいたカップをテーブルに置いたアイカが突然すくりと立ち上がった。


「アイカ?どこに」


少しフラついた足取りで向ったのは広場の中央で楽を奏でて、歌を歌っている者たちの前だった。近づいてきたアイカに気づいた楽団の1人が声をかける。


「お、一曲歌うかい?」

「歌ってもいい?わたし、今ね、とても楽しくて歌いたい気分なの」

「もちろんだお嬢さん!」


他の団員たちも飛び入りを歓迎し楽を奏でるのをやめ、小太鼓を叩いていた者が簡単なリードを叩く。

今夜は祭りだ。歌いたいものはどんどん歌っていい。




▼▼▼




そして奇跡は起こった。




どこの国の歌とも分からない。

歌われている言葉も分からない。

けれど、その高く高く細い歌声はどこまでも澄み切って美しい。

楽団の周りで談笑していたざわめきが段々と静まり、美しい歌声に引き寄せられていく。


誰も一度も聞いたことがない歌なのに、歌を聴いていた楽団の1人が自然と歌に合わせて楽を奏で始めた。

記憶はなくても体はその歌を、曲を知っているかのように楽器に音を響かせる。

それは1人、また1人と増えていく。奏でる楽器は弦楽器から笛、太鼓と様々だったが、まるで息を合わせたかのように音は歌声に合わさっていった。

ついには楽団だけでなく手で机を叩いて音を出す者たちも現れたが、即興である筈なのに完全に合わさったテンポは僅かもズレることはなく、リズミカルな音を重ねた。


店の前で揺れるランプの灯りと、中央に置かれた松明の炎。ゆらゆらと揺れるオレンジ色の明かりに照らされフードに顔を隠す歌姫の声が王都アルバの夜の街に響き渡る。


その歌が終わった瞬間、拍手喝采が広場に巻き起こった。

みなが立ち上がり美しい歌声を響かせた歌姫を祝福する。


その拍手を浴びていた歌姫の身体がフラと傾いた。しかし地面に倒れるより先にその身体を支える腕があり、抱きつこうとした歌姫の手が、同じマントを着た男のフードを下ろしてしまう。


さきほど歌姫が歌ったときとは別の、息を呑むような静寂が広がった。


「まさか…ギルバート様……?」

「ギルバート様だ……」


驚いて声を出してしまいそうになる口元を抑える女性、胸に手をあて恭しく膝を付き頭を垂れる者、それぞれが己が思うままに突然現れたギルバートに敬意を表す。


パチパチと火の粉をあげる松明の炎より赤い髪、宵闇を照らす紫雲の瞳。

王都に住む誰もが、数年前の凱旋で将軍に相応しい豪奢な衣装を身につけ、その先頭を行く英雄の姿をその目に焼き付けた。

その精悍で秀麗な顔つき、逞しい体躯、切れ長の瞳は静かなのに力強さが満ちている。


倒れようとした歌姫を助けようと伸ばした者は、突然のギルバートに身体が固まってしまい動けない。しかし集まる視線にそっと目を細め、落ちたフードをかぶりなおすとギルバートは足元がふらふらしている歌姫を無言で横抱きにして持ち上げた。

すると、腕の中の歌姫も無言でギルバートの胸に顔を摺り寄せる。酒がまわって気分が高揚しているのか、頬に影を落す瞼は閉ざされたままだが、被ったフードの陰からのぞく赤い唇はずっと微笑んでいる。


そのまま何も言わずギルバートは歌姫を抱きかかえ広場を抜けていく。その後ろにもう1つ、従者と思われる同じマントを着込んだ男が2人を警護するように従っていた。

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